城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

国籍とは何か 23.9.17

2023-09-14 19:42:10 | 面白い本はないか
 ラグビーを見ていると世界は今後このようになるのが良いのではないかと考えさせる。そこでは日本人に混じり明らかに日本国籍でないと思われるラガーマンたちが日の丸のもとで闘っている。そしてそのチームに多大な応援を送る私たちがいる。バスケットボールでもアメリカ人が日本国籍を取得してポイントゲッターになっている。スポーツ以外の分野でも日本で生活し、文化を愛してくれる人ならば国籍や外見に関わらず、共に暮らしていけるような日本になる必要があるのではないか。

 話は変わるが、先日相続のために亡くなった母親の生まれた時からの戸籍謄本を取った(貯金を引き出すために必要な書類だが、ここまで詳細なものが本当に必要なのだろうか大いに疑問がある)。生前母親からある程度父母(私からいうと祖父母)、祖父母(同曾祖父母)の名前は聞いていたが、戸籍を見ると、名前が少しずつ違っているのと、曾祖父の小八は養子(確か隣の家が本家でそこから迎えていた)であることが戸籍で確認できた。父母とも早い時期に亡くなっていたので、私は母方の祖父母を全く知らない。

 この戸籍にある小八は安政5年4月の生まれである

 この戸籍制度があるのは、中国、台湾と日本だけで、かつて韓国にもあったが2007年に廃止された。もともと戸籍制度は中国由来のもので、社会構造の最小単位「戸」に着目している。戸籍は人の出生から死亡に至るまでの親族関係を登録、公証するものであり、日本国民について編成され、日本国籍を公証する唯一の制度であると法務省の説明にある。戸籍が最も身近になるのは、おそらくパスポートの取得の時であろう。日本人と外国人が結婚すると日本人には新たな戸籍が作られるが、もちろん配偶者の戸籍は作られない。日本の国籍を取得する(帰化という)と新たな戸籍が作られるのである。

 ここまで戸籍の話をしてきたのは、安田菜津紀著「国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に」を紹介したかったからである。著者は高校生の時にカンボジアへ渡航するために戸籍が必要となり、戸籍に見慣れない「韓国籍」という文字を見つけた。父親は著者が生まれたとき韓国籍で後に日本国籍を取得した。その父親と母親は小学3年生の時に離婚し、著者は日本国籍の母親に育てられた。その父は中学3年生の時に亡くなり(自死)、異母兄(離婚まで一緒に暮らした)も続いてなくなった(過労死)。 

 表紙に父に抱かれる著者がいる 本の中には兄に抱かれる著者の姿もある

 ※著者の紹介(プロローグから)
  今私は、フォトジャーナリストとして、貧困や災害、紛争下で生きる人々の取材を続けている。シャッターを切る軸となってきたのは、「家族とは何か」という問いだった。私は「家族は仲良くすべき」「家族の絆を大切に」といった「血」にこだわる圧が好きになれない。誰かに強制される人  との距離感にも抵抗がある。けれども同時に、戦争など理不尽な出来事によって、家族が意思に反して引き裂かれていくことに激しい憤りを感じてきた。
  

 日本に1年以上滞在する外国人は、居住する市町村、特別区に登録する必要があった(2012年に廃止され、現在はカードが発行されている。この制度の最大の争点となったのは指紋押捺を新規、更新時に必要としたことであった)。この外国人登録原票の開示を遺族等はできることを著者は知り、それにより父親、その父母をたどる旅が日本や韓国において始まるのである。同時に父親と兄の関係があまりにもよそよそしかったことに気づいた著者によるその理由探しも始まる。そして、その理由を知ることになる。兄の母は日本国籍を持つが、父は兄の出生時韓国籍であったことから、兄の国籍は韓国(1984年まで日本は父系主義をとっていたが、以降母親の国籍も選択できることになった)となるはずだった。韓国製となることは兄にとって不利になると考えた父は、母親の私生児(認知をすると韓国籍となってしまう)という選択をした。

 朝鮮半島(現在の北朝鮮、韓国)がかつて日本の植民地(1910年~45年)だった頃に、日本には多くの朝鮮人が任意あるいは半強制により就業等のために日本に渡ってきた。その数は戦後直後には200余万人であったが、46年3月末までに約130万人の者が本国に帰還した。しかし、60万人が生活への不安や母国の現状を理由に日本に残留した。現在の在日韓国・朝鮮人は437千人となっている。これとは別に韓国・朝鮮系日本人というカテゴリーがあり、両親の一方もしくは両方が朝鮮・韓国にルーツを持つ日本国籍者もしくは日本に帰化した人とされている。

 ※ここで同じ時に読んだ緒方義広著「韓国という鏡 新しい日韓関係の座標軸を求めて」を紹介する。
  韓国は多くの移民を送り出してきた。在米同胞が263万人、在中同胞が235万人、これに次ぐのが在日コリアン約82万人(うち日本国籍者が約 38万人)。日本の植民地支配により移住を余儀なくされたという歴史性は、在中同胞である中国朝鮮属や高麗人と呼ばれる旧ソ連地域出身の同胞そして在日コリアンに共通する。しかし、在日コリアンは植民地支配の「宗主国」であった日本に住む同胞(日本国籍であった)であるという点が異なっており、さらに法的地位に関して、朝鮮半島の南北分断と植民地からの解放後に構築された日韓関係に由来するという点から複雑である。
 在日コリアンの場合、日本国籍を取得した者を除けば約44万人が韓国籍あるいは朝鮮籍(これは北朝鮮国籍ということではない。分断される前の国籍で事実上は無国籍状態である。)を持ち、二世、三世、四世と代を重ねながらも日本国籍を取得していない。韓国系の外国人(日本人)という単純な在外同胞イメージとは異なった現実がある。
 日本や韓国では国籍とアイデンティティが常に一致するという先入観がいまだに強い。大坂なおみ、カズオ・イシグロ、ノーベル物理学賞を受賞したプリンストン大学の眞鍋淑郎などなど。

 安田の本について、今回戸籍や国籍という側面からのみ紹介した。この本には在特会による差別など日本が抱える様々な問題が書かれているので一読をお勧めしたい。家族の写真や著者によるワンショットが素晴らしい。

 最後に「反日」ということについて、※での紹介した「韓国という鏡」から。日本を基準にすれば、外国である韓国の文化に違和感を覚えることは当然のことだ。しかし、それらをすべて「反日」の一言で片付けてしまうのは正しい理解とは言えない。少なくとも韓国社会を一括りにして「反日」と捉えてしまうことは、単なる異文化理解の放棄ではないだろうか。いまの日本社会には。「嫌韓」ではないという対面を保ちながら、韓国社会の問題点を「反日」と決めつけ批判し、さげすむような言説が容認されている。そもそも韓国社会が「反日」に支配されているという問題意識自体が、偏った情報に基づく間違った解釈であると、私は考える。

 なんかおじさんにも当てはまるような気がする。韓国が失敗したりすることを喜ぶ。これが一部だけならともかく大勢の国民が勝手に溜飲を下げているのである(ネットで特に激しい)。なんとかならないものかと考えてしまう。

 これまで何回か韓国問題に触れてきた。首尾一貫しない点が多多あるかもしれないので、お許しいただきたい。
 19.8.22 日韓共通の歴史認識は可能なのか
 20.12.6 複雑な世の中
 21.2.8  韓国と日本の新しい関係に期待
 21.8.14 明日は76回目の終戦記念日
 21.8.22 貴方は嫌韓それとも好韓?
 22.7.24 池田山&二冊の本
 23.2.2  姜さんの本を読む
 
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夏の読書・藤沢周平、葉室麟、吉村昭 23.7.27

2023-07-27 19:46:30 | 面白い本はないか
 今回のテーマにふさわしい写真は全くないので、かわりに昨日収穫したスイカの写真を載せておく。

 今年2株中玉のスイカを植えたが、一つは玉が大きくなる前に枯れてしまった
 もう一つは「新世界」という種類で今年初めて育て、幸い4つの玉が収穫できそうである
 写真はそのうちの最も大きいもので5.7kg、今晩食べたが十分甘かった

 
 さて、夏の読書であるが、前にも書いた様になかなか集中して読むことができない。特に難しいのはすぐに眠くなってしまうので、いけない。ほとんどの本は、易しめの本は揖斐川図書館、それ以外は県図書館で借りる。今借りている本は次のとおりである。
◯揖斐川図書館
 葉室麟「柚子の花咲く」、吉村昭「彰義隊」、西村祐子「皮革とブランドー変化するファッション倫理」(岩波新書)、高階秀爾「名画を見る眼Ⅱー印象派からピカソまで」(岩波新書)

 葉室麟は図書館にたくさんあるので、ここのところ一冊ずつ読んでいる ほとんどの作品が主人公及び主人公が助ける女性がとても魅力的
 吉村昭 彼の小説はどれも相当長編でなかなか手が出ないが、彰義隊はその中では比較的短い(それでも400ページを超える)
 この図書館は岩波新書は全てそろえているので、読みやすいものがあれば借りてくる


◯岐阜県図書館
 2~3週間毎に県図書館には出かける。ネットで5冊まで予約ができるので、残りの5冊を選ぶ。滞在時間は30分~1時間程度。予約以外に新規購入の本はチェックしている。購入したばかりの本は割と既に貸出中であることが多いので、とりあえずメモをしておいて、貸出可能となれば予約を入れる。
 今借りているのは、
 田中圭太郎「ルポ大学崩壊」(ちくま新書)、橋爪大三郎「日本のカルトと自民党ー政教分離を問い直す」(集英社新書)、山形辰史「入門 開発経済学」(中公新書)、島薗進「なぜ「救い」を求めるのか」、スティーブン・レビツキー他「民主主義の死に方」、中村政則「昭和の記憶を掘り起こす」、同「「坂の上の雲」と司馬史観」、内田樹・寺脇研・前川喜平「教育鼎談」、宮永健太郎「持続可能な発展の話」(岩波新書)、藤沢周平「刺客 用心棒日月抄」以上10冊。

 新書が多いことに気づかれるだろう。日本独特のものであるようで、学術的レベルをある程度保ちながら、一般の人にわかりやすく書いた本ということになる。比較的簡単に読めるので、難しい本はどうもというおじさんでも読むことができる。それでも今回借りた本の中には最後まで読み進めないかもしれない(途中で投げ出す)本、「民主主義の死に方」などがあるかもしれない。
 最後の「用心棒日月抄」は同シリーズ三冊目(人気があるせいか最後の「凶刃」を除くと閲覧室の棚に揃っている)、主人公の青江又八郎、とにかく強い。このシリーズで一体何人の敵(敵といっても藩の要人からの命令に基づくもので憎たらしい敵ではない)を殺すことか。でも主人公と佐知の交情は魅力的。


 「「坂の上の雲」と司馬史観」を読んでいたら「司馬遼太郎と吉村昭」というページ(47ページ)があった。とても面白いので紹介する。
 吉村昭(「桜田門外の変」、「破獄」などの著者、おじさんはいずれも読んでいない)対して、司馬遼太郎記念財団は、司馬遼太郎賞を授与しようとしたが、吉村は断った・その理由を、吉村の妻である津村節子(芥川賞作家)は、「吉村は司馬さんのものは何も読んでいないので、お受けするするわけにはいかない」と答えた。著者の中村は、すでに一家をなしている吉村にいまさら受賞という気もなかったろうし、史実と創作を曖昧にする司馬の作風に、吉村は好感をいだかなかったのではないかと書いている。
※どこで読んだか忘れたが、小説家の中で最も史実に忠実に書いている作家をあげよといわれた時、吉村昭だと述べたという。

 吉村の作品で過去に読んだものは、「ポーツマスの旗」とあとはほとんどがエッセイ。今回「彰義隊」を読んでみて、彰義隊がたてこもった寛永寺の山主輪王寺宮能久親王(明治天皇の伯父にあたるのだが、図らずも朝敵となってしまった)が寺から脱出して行く様を克明に追いかけたもので、最初読んでいると少々退屈になってしまうが、それでも読み続けてしまう不思議な魅力がある。吉村はエッセイで「書く価値のある題材を書いている」と述べているが、生の史実はやはり面白いのだと感じさせてくれるような気がする。「戦艦武蔵」など他の作品も読んでみたいと思っている。
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九七式中戦車からレオパルト2戦車へ 23.7.12

2023-07-11 19:54:13 | 面白い本はないか
 レオパルト戦車と聞いてすぐわかる人はどれくらいいるのだろうか。おじさんもロシアがウクライナとの戦争を始めるまでは全く知らなかった。この戦車はドイツが製作したもので、ウクライナが反攻作戦のために是非とも必要だと言って、やっとのことで西側諸国すなわちNATO諸国から提供されたものである。ウクライナは提供される前は、ほとんどロシアと同じ戦車を使って、ロシアと闘っていたのである。6月からのウクライナによる反攻作戦に投入されたが、残念ながら何台かのレオパルド戦車が破壊されてしまった。ウクライナから奪取した占領地に築いた防衛線を突破することが容易ではなく、さらに対戦車ヘリによる攻撃を受けたせいだと言われている。

 レオパルト2A5

 ロシアの旧式の戦車は、戦車内にある砲弾と乗員を分ける壁がなく、戦車が攻撃を受けるとその砲弾が爆発し、乗員の命が奪われる。これに対し、西側の戦車は砲弾と乗員との間に壁があり、攻撃を受けても砲弾が爆発する可能性は少なくなるよう設計されている。こうした人命重視かどうかは、太平洋戦争の時の日米の戦闘機の設計の差に現れている。日本の代表的戦闘機であるゼロ戦は、軽量化し、スピード、操作性のために、乗員を守るための装置(座席の隔壁や燃料タンク等)を軍の命令で設置していない。結果日本軍は優秀なパイロットが失われる結果となった。(もちろん、その設計のもとには日米の経済力、技術力の差があったことは言うまでもない。)

 日本軍が使った九七式戦車は、大戦中の主力戦車である。ただし、日本の戦車は戦車同士の闘いでほとんど戦果があげることができないどころか全滅しているケースも多い。1939年にノモンハン事件が起きているが、この時日本の戦車はソ連軍の戦車に砲弾が命中しても貫通できない一方で、薄い装甲は相手の攻撃を受ければその砲弾が戦車内で渦を巻き、乗員(4名)は切り刻まれた状態となった。

 日本の戦車 九七式中線車

 ソ連の戦車 第二次大戦中に使われた
 ドイツは自軍の戦車がソ連の戦車よりも優れていると思っていたが、これが現れて驚いた

 ここまで読んできた方は、戦車の話かと思うかもしれないが、実は福間良明著「司馬遼太郎の時代」の前段となる話である。司馬は、旧制高校の受験に失敗し、大阪外国語学校に進み、在学中に学徒出陣で徴兵され、満州・四平陸軍戦車学校を経て。戦車第一連隊に配属された。このため、テクノロジーやロジスティクス(兵站)、合理性への関心は高かった。敵砲を防御しうるだけの鋼板の強度や燃料の補給が戦車隊には不可欠だったが、司馬が目にしたのは日本軍は、精神主義は語っても、技術合理性やロジスティクスはさして顧みなかった。この軍隊での経験は、「異胎の時代・昭和」、「暗い昭和」という形で、司馬の作品に反映している。

 復員した司馬は、新聞記者(産業経済新聞(後の産経新聞)に48年に入社し、文化部長、出版局次長を経て61年に退社。を経て、歴史作家となった。司馬がたどってきた経歴は、本人に言わせると「傍系」「二流」(旧制高校、帝大というコースに失敗し、就職も二流紙。作家となってからも文壇とはつきあわない)ということであった。(しかし、後に司馬は文化勲章を受け、皮肉にも超一流の文化人となった。)


 司馬遼太郎作品ベスト20(22年6月現在)「司馬遼太郎の時代」から孫引き

 司馬の作品は60年代のものが多いが、刊行時の単行本が売れたわけではなく、70年代から新たに文庫本市場に参入した講談社文庫、文春文庫、集英社文庫などに司馬作品が登場したことによって、ビジネスマンを中心に読まれた。彼らは、実用としてではなく、教養として司馬の作品を支持した。また、通勤電車の中で読むことができたということも大きかった。

 ※司馬の歴史小説は、純粋な歴史学でもなければ純粋な文学でもなかった。作品の途中で出てくる「余談」は多くの読者を惹きつけた。元プレジデント社長の作家・諸井薫は「司馬作品は小説ではなく、傑れた歴史読み物として読まれたからこそ、これだけの幅広いビジネス層の強い支持を得られた」と語っている。文学、思想、歴史方面の読書を通じて人格を陶冶するという教養主義は、60年代末に衰退した。高度成長期以降かわってでてきたのは、大衆教養主義とでも言うべきものであった。司馬作品はこうした中で歓迎されてきたのだった。

 司馬の作品について、歴史の専門家がとやかく言うことは80年代までは少なかった(もちろん、英雄が活躍するばかりの物語に民衆史観の学者が苦言を呈することはあった)。司馬が歴史学者の注目を特に惹いたのが、「坂の上の雲」(1969年)について、「自由主義史観」にたつ藤岡信勝がこの作品を激賞したことから火が付いた。自由主義史観とは戦後教育における歴史認識は日本の過去を一方的に断罪する「自虐史観」であり、それはアメリカ占領軍が押しつけた歴史観、共産主義勢力の歴史観に基づくものであると批判した。司馬の作品をこのように評価した藤岡等の自由主義史観者に対して中村政則は、「近現代史をどう見るかー司馬史観を問う」岩波ブックレット(1997年)を出版し、司馬の作品には、攻められた側、侵略された側」の視点を忘れており、とかく独善的な戦争観が成立すると。そして日露戦争が朝鮮支配と重合して進んだことに注意しなければならないと。

 司馬の作品の意図は「昭和の暗さ」を際立たせるために「明治の明るさ」を対局に示した。しかし、その意図は明るさばかりが目立ち、昭和の暗さがばんやりしてしまうことにつながった。日露戦争における様々な問題が批判的に顧みられることなく、昭和の戦争につながったのなら、その明るい明治は、暗い昭和を産んだことになるなら、こうした対比は適切でないことになる。

 約2年前(21年10月16日)にこのブログで「司馬史観」とはを書いた。このブログで取り上げた「司馬遼太郎の時代」はなぜ司馬がこのような作品を書き、それを国民が支持したかを当時の社会状況を踏まえながら様々な論点から書いており、また違った司馬が著わされている。是非一読を
お薦めする次第である。




 
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少子化・国会議員に読んで欲しい本 23.3.6

2023-03-06 17:30:44 | 面白い本はないか
 日曜日の中日新聞に土日行われる「美濃国山城トレイル」の記事が載っていた。揖斐川町の小島公民館を出発し、翌日は坂祝のJR坂祝駅まで、山城や山頂を繋いで走るとあった。揖斐川町は、城台山や城ヶ峰を走っていく。知り合いの女性が牛洞峠でエイドステーションのボランティアをすると聞いている。おじさんには歩くだけでも大変なのにそこを走っていくというのだ。とても若くないとできないスポーツだと感じる次第。

 3月5日中日新聞西濃版

 日曜日おじさんも頑張って城ヶ峰まで登る 家から50分(結構速い) 揖斐川山岳会の3人、軽装の2人、犬連れた女性、少し年配者 
 珍しく沢山の人に会った

 さて、今日の話題は少子化で、今政府は「異次元の少子化対策」と称する施策を行うようである。しかし、少子化対策なるものは既に2000年以前からエンゼルプランを端緒として行われてきたが、残念ながら一向に効果は現れていない。それどころか、コロナのせいもあるのかよく分からないが、出生者は80万人を切り、想定より11年早い少子化だそうである。日本の育児休業制度は今や北欧諸国をもしのぐ期間であったり、手当であったりする。保育所の整備も進みつつある。制度的にはアメリカをはるかに上回る(産前産後、育児休業も有給な制度としては存在しない。支援するかどうかは全て企業次第ということになる)育児支援策があるのに、出生率ではアメリカにはるかに及ばない。普通であれば、ここで日本はどこに問題があって、少子化が進んでいるのかを考える必要があるはずである。中身を精査せずに少子化予算倍増(国防予算と同じ)するだけでは今までどおり失敗を繰り返すことになる。

 日本におけるジェンダー平等度は先進国はいうまでもなく世界の国々の中でかなり低い。
◯女性の給与は男性の60~70%
◯女性の国会議員、地方議員、企業の管理職の割合が絶望的なくらい低い
◯男性は主たる稼ぎ手、女性は育児、家事、介護等無償労働の担い手であるべきという社会規範が強い
このジェンダー平等度が低いことが、出生率が低いことと関連している。東京医科大学などで入試で男性を優遇していることが明らかになった。女性の医師は長時間労働できないというのがその理由であった。しかし、この働き方自体がおかしいと考えるべきなのではないか。

 少子化の理由として、若者の未婚化、低所得化がよくあげられる。所得が低くて、未来に対する経済的不安があれば結婚や子どもを持ちたいという希望すら持てないだろう。日本の経済は停滞しており、賃金水準は今や韓国にも抜かれてしまった。これを解決するためには、経済成長がプラスになるようにしなければいけないが、これも多くを期待することはできない。ではどうすれば良いのだろうか。メアリー・ブリントン著「縛られる日本人ー人口減少をもたらす「規範」を打ち破れるか」(中公新書2022年)、この本こそ国会議員に是非読んでもらいたい本である。ただし、筒井淳也著「仕事と家族ー日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか」(中公新書、2015年)で指摘されたこととかなり一致する。

◯男性の長時間労働に問題がある
 二人の著者は、日本人の男性の働き方に大いに問題があると言う。日本では就職しても、その仕事内容は事前にきちんと決められていない。欧米ではジョブ型(仕事の内容が書類で明確化されている)というのに対し、日本はメンバーシップ型と言われている。これだと自分の仕事が終わっても、周りの仕事が終わっていない場合、退社できない(つきあい残業などとも言われる)。上司から仕事を命令されれば拒むことは難しくなるので帰れなくなる。こうして日本の働く人たちは長時間労働となる。男性が主たる稼ぎ手モデルであり、家事、育児分担をすることは想定されていない(事実上できない)。しかし、長時間働いているにもかかわらず、日本の労働生産性は極めて低い。働き方改革、残業時間の規制などにより、職場外すなわち家での労働は増えているとも言われている。

◯女性(特に育児中の女性)は無償労働(家事、育児)が多く、働く時間を制限してもトータルの時間は男性と同じ
 人口減少なかでも生産人口の減は進むばかりで、女性が男性同様に働いて欲しいというので「女性活躍社会」を掲げている。しかし、これは女性を男性に近づける方向で進んでしまう怖れが大いにある。これでは子どもを持つことに躊躇せざるをえなくなる。また、男性は遠方への転勤があり、小さな子どもがいること、妻が働いていることを理由にこれを拒否することはできない。事実上シングルマザーということになり、全ての無償労働が妻の負担となる。意欲のある女性でも育児のため働く時間を制限する必要があり、フルタイムで働きたいと思ってもできない。これを放置して、医学部の入試で女性を差別するのはフェアではないと考えなければならない。

◯アメリカでは育児を支援する制度が整っていないにもかかわらず、出生率(1.71、日本1.30)が高い
 著者(ブリントン)は日本とアメリカの家族概念の違いを言う。日本では男女のカップルと少なくとも一人の子どもであるのに対し、アメリカではそれらに加えて夫婦の友人、親戚、近所の人なども含めたネットワークの中に夫婦がいるという捉え方をしている。これらの人々が結婚して子どもを持つことを後押しする。また、アメリカはジェンダーによる役割分担の考え方が日本より弱い。カップルは共働き・共育てモデルを柔軟に実践しやすい。労働市場の流動性が高く、教育レベルの高い層では、家庭生活とのバランスのとれた働き方を雇用主と交渉しやすい。日本では育児について一人で悩むことが多い。結果自国で子育てをしやすいと思う人が子育てをしにくいと思う人の割合を大きく上回る(アメリカのデータはないが、スウェーデン97.1%、フランス82%、ドイツ77%、日本38.3%)。ベビーカーで混雑した電車に乗ることに勇気がいったり、幼稚園の子どもの声がやかましいという子どもに非寛容な日本であり続ける限り、子育てしやすいあるいは子育てを楽しむことは難しくなる。

◯男性の家事分担割合が日本は極端に低い
 アメリカの家事分担割合40%弱、北欧40%以上、日本15%。長時間労働している日本の男性はその気持ちがあっても分担できない。日本の女性は男性の5倍もの無償労働をしなければならない(アメリカでは1.4倍、北欧男女でほぼ同じ)

◯日本の男性の育児休業取得率は低い(12.7%)し、かつ期間も短い
 法律上、日本の男性は、満額支給換算で30週間の育児休業を取得することができる(67~50%の支給で14ヶ月取得可能)のだが、仕事の繁忙、上司の許可、昇進への影響などの理由から取得に消極的となっている。国では取得状況について報告を義務づけしようとしている。これでは短期の取得は増えても、長期の取得は増えないだろう。若者は、育児や家事をすることに年配の者に比べると抵抗感はない。これを少しでも支援するような施策は有効であろう。

 悲観的な見方をすると、これらの社会規範ともいうべき状況はなかなか改善されることはないであろう。ジェンダーの平等が進み、真の意味での女性活躍が起こらなければ、やはりこの国の未来は暗い。
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姜(尚中)さんの本を読む 23.2.2

2023-02-02 20:00:04 | 面白い本はないか
 
 今日はブログを開設してまる4年になる記念の日である。その前2年以上にわたって、かつて所属していたO山岳会のブログも書いていたので、あわせると6年以上書いていることになる。前は山の報告の記事ばかりであったが、自分のブログを書くようになってからは、山ばかりでなく今や自分の生活の一部ともなっている読書や野菜づくりや庭の花について、日記風に綴ってきた。野菜や花は、ほとんど同じことを繰り返していることになるが、それでも時には大成功したり、思わぬ失敗があったり、新たな発見があったりと決して飽きることはないのである。いよいよ5年目となる今年も何かしらの発見があったりしたら、皆さんとともにそれを楽しんでいきたいと考えている。

姜さん、著名な政治学者であり、エッセイストであり、時には小説家である。一月彼の本を5冊読んだ、五木寛之との対談本「漂流者の生き方」(対談本が極めて多いのも姜さんの特徴か?)、「母の教えー10年後の悩む力」、「維新の影ー近代150年、思索の旅」、そして実話なのかフィクションなのか見分けが付かない「母ーオモニ」、「心」。


 「母の教え」には著者が読み書きできなかった母から受けた生きていく上での教訓とも言うべき教えが自分の血肉ともなっていく様を書く。母、長男の死を経て、長野県追分に住まいを定めた。執筆のかたわら、小さな野菜畑を作り、失敗しつつもその収穫を楽しむ。さらに関心はバラやクレマチスに向かう。ここまで来るともっと他の本も読んでみたくなるのは当然である。少しだけ文中から引用する。「母の言葉には、一抹の寂しさとともに、ここまで歩んできた道のりへの、限りない矜持の年が宿っていた。自分は生きた、生き抜いたという自負が、母の表情に溢れていたのである。」「私たちは、今「終活」に向けて、その準備の季節を迎えつつある。今にして思えば、「山」に棲もうと思ったのも、孤独が際立つ都会ではなく、孤独を楽しみながら、生きることを分かち合い、そして、別々の最期を迎えるための、絶妙な距離感を求めていたからだ。」

 2018年は明治維新(1868年)から150年の節目に当たる年だった。政府によると「明治以降の日本の歩みを改めて整理し、未来に遺すことによって、次世代を担う若者に、これからの日本のあり方を考えてもらう契機とする」との趣旨だった(ただ、庶民の間でその節目を祝おうという雰囲気はあまりなかったように感じているのだが。)。果たして、私たちはこの150年を振り返り、輝かしい未来を手に入れることができるだろうかというのが姜さんの疑問だった。この疑問について考えるため、日本全国の様々な正負の遺産を訪れ、思索を深め、それを「維新の影」として発表した。軍艦島、足尾銅山、水俣病、変わったところでは共産党本部というのもある。訪れた場所が多く、残念ながら深い探求とはなっていない気がする。特に気に入らないのは「苦海浄土」の石牟礼道子さん(随分年をとってしまわれていた)とのツーショットだった。「川崎コリアタウン」を訪れたときの記事を紹介する。80年代半ば、居住する埼玉県で、「在日韓国・朝鮮人」に強要されていた指紋押捺拒否の第一号になってしまった私の中に揺らめいていたのは、地域への、社会への、そして国への共生のラブコールだった。「ともに生きたい}、だから地域に生きる仲間として遇して欲しい、その思いだった。また、こうも言っている。懶惰(らんだ)、不逞、猜疑、貧困、無知など否定的な表象を一身に背負った「一世」は、同時に「二世」(著者を含む)にとって圧倒的な存在感を持った、自らのルーツそのものであり、こうした否定と肯定の愛憎併存こそ、実際には、多くの「在日二世」たちの宙ぶらりんなアイデンティティを支えていたのである。

 次に読んだのが、「母」。姜さんの自伝的小説である。彼の父親は第二次大戦前に日本に渡り、軍需工場で働いていた(この当時、日本の男どもは兵隊にとられ、労働力が大いに不足していた。一方で朝鮮には仕事口がなかった。戦争が進むにつれ、半ば強制的に労働力を集めるようになっていった)。その父親の妻となるべく、母親もまた日本にやってきた。東京から名古屋そして熊本(父の弟が憲兵を当地でしていたー弟は大学卒、この経歴がどのような結果を招いたかは語られていないが、韓国で著名な弁護士として活躍したあと、事業に失敗し、不幸な結末となる)に移った。戦争中から戦後にかけて、生きていくのは日本人にとっても過酷なことであった。まして、何の資産や頼れる係累もない朝鮮からの移住者(朝鮮半島の混乱で帰りたくても帰れない、そして続いて起こった朝鮮戦争、軍事政権の樹立などによって心ならずも日本で生きていくしかなかった人々)たちにとっては厳しいものであった。著者のオモニは、商売上手で廃品回収で才覚を発揮し、永野商店として発展させていった。著者はそのオモニの3番目の男子(戦時中に生まれた最初の男子は乳児の時に栄養不足で亡くなっている)として生まれたが、長ずるにつれ、「ちょうせん」と呼ばれることやその習俗(オモニの行う祭祀など)を忌避していた。しかし、叔父との交流、父母の地の訪問などにより、通名の「永野鉄男」から「姜尚中」と名乗ることを決意するのだった。オモニは姜さんを「センセイ」と呼んだ。オモニは感情表現豊かで、困っている人にはすぐに手をさしのべるような人だった。「もうよかよ、たくさん生きたけんね。そっとしておきなっせ」とでも言いたげに永遠の眠りについた。

 この本を読んでいて思い浮かぶことがある。廃品回収業、昔屑屋さんと言われた。おじさんの子どもの頃、忘れられない顔が思い出される。なぜだかわからない、いやに鮮明に覚えているのである。とても低姿勢で誰にでも挨拶するお祖父さん、いつもリヤカーを引いていた。おじさんは、缶などの鉄製品を川などから拾い集めて、それをそのお祖父さんのところで買ってもらった。それで仲間とお好み焼きや焼きそばを食べた(その商店の目の前にそのお好み屋はあった)懐かしい思い出がある。今や清掃事業として、お祖父さんの孫の世代に引き継がれている。

 閑話休題。
 最後に「心」を紹介する。著者と(西山)直広という20歳の青年とのメールの交換で話は進んで行く。この青年、彼の親友、そして二人が密かに思いを寄せる女性、そして親友が亡くなり、彼から託された女性への愛の告白の手紙。まさしく夏目漱石の「こころ」の構図(ずっと前に読んだのでしっかり覚えてないが、直接関係あるわけでないからよいだろう。)だ。ここで問われ続けるのは、死、私とは何なのか答えの容易に出ない重い課題。さらに西山青年が東日本大震災で経験した級友一家の死とボランティアでの海からの死体の引き上げによりたくさんの普通でない死に直面し、その疑問はさらに深くなっていく。直広くんはなんとかそれらの困難を乗り越えていく。そしてこの直広くんは自殺した息子とは全く違うものの、その息子と思わず重ねてしまう著者なのである。

 姜さんは在日二世であるが、これは彼が選択したわけではない。愛知県に多い在日ブラジル人(彼らは日系人であることから就労についての制限はない。これは人手不足という資本側からの要請で来日したのだが、当然日本で生まれたブラジル人も多い。今や在留外国人は270万人にも達している。私たちは彼らを労働力(日本の賃金は今や彼らにとって魅力があるものでなくなりつつある)としてだけ考えるのでなく、生活を共にする仲間、隣人として考える必要がある。人口が減少する中で私たちは出自を異にする人々と共生する道を探っていかなければならない。











 
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