城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

好き嫌い 22.9.10

2022-09-10 15:28:58 | 面白い本はないか
 昨日朝小雨の中、傘を差し城台山に出かけた。戻ってきて、2階で小田嶋隆「超・反知性主義入門」(昨日県図書館で借りてきたばかり)の本を読んでいたら、家内が深刻そうな顔をして、「お父さん、どこか怪我していない。キッチンの床に血らしいものが付いているよ」と。早速、見に行ったら、血痕がかなり残っている。よく見ると、赤い豆粒のようなものがあった。自分の足をチェックしたら、そこには出血の跡が残っていた。やられた!!明らかに山ヒルにやられた跡で、豆粒はヒルの亡骸だった。3600回、12年以上登っているけれど今までヒルにやられたことはなかった。付近には沢はないので、鹿かイノシシが運んできたものであろう。やはり雨の日には、ヒルはどこでもいると思って、注意したほうがよい。

 ところで誰でも好き嫌いはある。政治家の言動には基本的に無関心なことが多いが、安部さんについては、反安部の立場に立つ著者の本をここ10年以上にわたり読んできたこともあり、気になる人物であることは間違いない。安部さんについては、女性による戦犯法廷についてNHKの番組編集に介入したあたりから自民党の右派として知ることになった。もちろん個人的に嫌いであっても、安部さんが国や国民のために良いことをしてくれていたなら政治家として評価しないわけにはいかない。特に国葬ともなると政治家としての安部さんを勉強した方が良いと思って、今回アジア・パシフィック・イニシアティブ「検証 安倍政権ー保守とリアリズムの政治」(文春新書)を買って読んでみた。
この本は、中北浩爾一橋大学大学院教授を始めとした大学の先生によって書かれている。そして安部、菅、岸田さん等54人へのインタビューの結果が織り込まれている。この本の内容を思い切り要約すると意外なことに安倍政権を評価する論考が多いことがわかる。

 書評ではバランスが取れた本とあった

 長期政権になった理由として、中北教授は、①首相官邸を中心に政府与党を含む求心力が強いチームを構築した、②安部首相の政治的リアリズムー右派の政治家であり、それゆえ心情を同じくする政治家や言論人、団体、有権者の強固な支持を受けていた。同時に第一次政権の反省を踏まえて、理念よりもプラグマチックな政権運営に努めた。政権の性格として、政治姿勢は保守そのものでありながら、政策は多分にリベラルな色彩を帯びるケースもあり、評価を難しくしているとしている。安部政権の特徴は、何よりも戦略と統治のありようにある。国のあるべきビジョンを明確にし、積極的にアジェンダ(このアジェンダ、看板の書き換えが頻繁に行われたように思われる)を設定し、それを能動的に遂行しようとした。その過程では現実主義的かつ実務的な取り組みを旨とした。

 個別の政策ではまずアベノミックス。前例のない金融緩和と財政支出と規制緩和などであったが、途中の二回の消費税の引き上げなど必ずしもリフレ派の意向にそってはいなかったが、いまだに2%に物価上昇率は実現できていない。欧米ではコロナ後の反動(大幅な金融緩和と財政支出の反動)によりインフレが進んでいるが、日本の物価は2%まで上がっていない(欧米との金利差、日本の衰退?などにより円安が進んでいる。)。非正規労働者の雇用は増えているが、賃金はなかなか上昇せず、相変わらず消費は弱いままである。TPPではアメリカが離脱後も、アメリカ抜きの交渉を進め妥結した。結果日本のFTA(自由貿易協定)でカバーされる貿易量は増大した。

 海外では外交・安全保障政策に対する評価が高い。韓国では政権への批判が最後まで強かったが、中国では退陣に際し、中日関係は近年、正常な軌道に戻り、新たな発展を遂げた(おじさんには外交辞令にしか聞こえないが)。選択的夫婦別姓制度についてはアジェンダとして取り上げなかった(支持母体である右派が支持しない)一方で、女性活躍できる環境を整える(「ウーマノミックス」というらしい。人口が減る中で経済を回すためには女性の活躍が必要という少し功利的な政策?)ことに傾注した。また10%の消費税率の引き上げとバーターで幼保無償化を実現した。安部さんが最も実現したかった憲法改正(妥協の末「自衛隊の明記」という一点に絞った)だったが、2012年の野党時代に自民党がまとめた憲法改正案(おじさんには随分復古的、時代錯誤的な改正案にしか思えないが)を支持する党内外の勢力があり、実現できなかった。

 最後に反安部の論客を紹介する。今年急逝した小田嶋隆著「日本語を取り戻す」から引用する。この著者は、新型コロナ禍の中にあって安部さん、菅さんどちらも言葉を扱うはずの政治家が言葉を発しないことにあきれかえる。メルケル、ジョンソン、あのトランプさえテレビ演説を行い国民に対し理解を求めた。一方、日本の国の政府の人間は、テレビの画面に出ることを極力避けようとしている。記者会見では質問を打ち切るし、臨機応変な記者との受け答え自体をあらかじめ拒絶している。さらに安部氏の政治手法にいらだつ理由として、私の目から見て、政治家というより扇動家(アジテーター)に見えるからなのだと思っていると。「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」などを叫ぶのだが、その内容がはっきりしない。安部さんは保守を自認しているが、このスローガンから見ると保守ではない。これ故に安倍政権への支持率が若年層において高い理由となっている。安倍政権は外交と経済をしくじり、政治的に失敗しただけではない。より重要なのは、彼らがこの国の文化と社会を破壊したことだ。

 日本で反政府の立場で発言し続けることの徒労感はますます強くなるばかりである。この著者が急逝したのもこのせいかもしれない。
 政府べったりの主張をしているのは楽であることは間違いない。

 私は、小田嶋氏の言っていることに全て賛成するわけではないが、国会の委員会で首相でありながら低級なヤジを飛ばしたり、立ち会い演説会で反安部の聴衆を批判するような度量のない人間がするようなことをしたことに失望するのである。かなわないことであるが、多くの国民が尊敬できる(もちろん主張や考えが違っていたとしても)政治家であって欲しかったと思うのである。
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狼の義ー新犬養木堂伝を読む 22.9.4 

2022-09-04 19:52:18 | 面白い本はないか
 8月10日NHKBSプレミアムで再放送された昭和の選択「立憲政治を守れ!犬養毅"憲政の神様”の闘い」を見ていた時、出演者に堀川惠子さんが出ていた。「狼の義ー新犬養木堂伝」の作者という紹介だったが、検索すると数々のドキュメンタリー賞を受けていた。どの作品も読んでいない。そこでまずは、この木堂伝から読んでみることにした。県図書館で借りてみると、分厚く470ページもあった。読むのが遅いので、少々時間はかかったものの本日読み終わった。まずは、あとがきを読んでみた。この本は、林新と堀川惠子の共著となっているので、このような伝記物で共著というのはあまり見たことがなかったのだが、あとがきにそのわけが書かれていた。二人は夫婦であり、林氏が10年あまり資料を集めて書き始めたのだが、半ばで病に倒れ、その遺言で堀川氏が書き継ぐことになった。


 あとがきでこの本に込めた思いを書いているので引用する。本書の執筆は、犬養と古島(古島一雄 私も今回初めて知ることになったジャーナリストで、後に衆議院議員になった。犬養を支えた人物である。政界を引退してからも吉田総理の指南役として活躍した。)の二人を通して、近代日本における立憲政治の中で本当の保守とは何か、真のリベラルとは名何かという問いを突き詰める旅となった。昨今、政党政治は混迷の度をいよいよ深め、犬養が何より大切にした政治家の倫理も崩壊の危機に瀕している。私欲を排し、国家の行く末を真剣に考え、命を削る覚悟で政界を生きている政治家は、果たして何人いるでしょうか。

 この本は、とっつきにくいこの時代(明治から昭和)をよりわかりやすくするために、小説的な方法で書かれている。このおかげで大部であるにもかかわらず、読みやすい本となっている。この本は、昭和27年米寿となった古島を祝う席で犬養について思い出を語るという形式で始まる。犬養は、慶應義塾に通っていたのだが、実家が貧しく、郵便報知新聞に原稿を寄せて学費を稼いでいた。そのとき勃発した西南戦争に文章がうまいからということで、アルバイトながら戦地に放り込んだ。今なら従軍記者と呼ばれるのだが、当時は「戦地探偵人」、他の新聞社の記者は後方で記事を書いていたのに対し、犬養は泥んこになりながらも前戦から記事を送り続け、これが民衆の間で大評判となった。この戦場で出会った将軍たち、三浦梧楼(駐韓公使として閔妃暗殺に関わったくらいしか知らないのだが、山県ぎらいであり、なかなか骨太の人物)や谷干城について詳しく書かれている。西郷隆盛への思い断ちがたく、後年隆盛の墓を訪れている。

 明治23年(1890年)にいよいよ帝国議会が創設され、政党を中心とした政治が動き出す。大隈重信を代表とする改進党に犬養は加わる。一方の自由党は板垣退助。この民選がわの両党と政府との闘いは激しい。どちらにも議会政治というものが理解出来ていないから、政府による買収、院外団の壮士による暴力など日常であった。改進党は、進歩党、憲政本党、国民党、革新倶楽部と名前を変えていくが、ほとんどは万年野党の地位にあり、指導者の犬養の金銭に潔癖、信念に忠実ということが災いして所属する議員も少数。政友会との合同では、木堂が貧乏に耐えかねて変節した、あるいは政友会から金をもらい党(革新倶楽部)を売ったと批判された。この合同のあと犬養と古島は政友会を去るのだが、総裁の田中義一が亡くなったことから、犬養にお鉢が回ってくる。このとき犬養74歳。そして若槻内閣の後継として犬養に大命が下る。早速中華民国に密使を派遣する(亡命中の孫文と深く関わった)が、軍部及び軍部寄りの外務省に阻まれ、関係回復はできなかった。満州国の承認を認めず、軍と対立し、1932年5月15日5・15事件で暗殺された。この後、政党政治が復活することはなかった。

 犬養はいつも高利貸しに追われていた。自分のためではなく人のために使った金のためである。藩閥の中心にいた山県や伊藤などの門をくぐったことはない。犬養の天敵となった原敬とはこの点大きく違う。原は山県とうまくつきあいながら政友会を大きくした。こうした芸当を犬養はできなかった。借家生活から抜け出したのは、70歳に成り、勲一等旭日大綬章を受け、終身大臣待遇となり、740円の年金が支給されるようになり、初めて自分の家を建てた。最後に関わりのあった重要な人物として、井上毅(こわし)と植原悦二郎をあげよう。井上からは密偵を送られ、その行動が逐一井上に報告されていた。井上は帝国憲法、皇室典範、教育勅語、軍人勅諭にかかわった。しかし、頑迷な国家主義者ではなく、ドイツ式の立憲体制を志向した。植原は、明治大学教授などを経て、犬養に心服して、政界に入り、戦中は東条英樹に非戦論を説くなどして、冷や飯を食ったが戦後吉田内閣で日本国憲法の制定に深く関わった。

 以下はおまけ。戦前、国葬となった人物で皇族や旧藩主以外を列記してみる。さらに出身の藩、死亡理由等を括弧書きで示す。
 ◯大久保利通 (薩摩藩、暗殺)
 ◯岩倉具視  (公家)
 ◯三条実身  (公家)
 ◯伊藤博文  (長州藩、暗殺)
 ◯大山巌   (薩摩藩、陸軍大将)
 ◯山県有朋  (長州藩、元老)
 ◯松方正義  (薩摩藩、元老)
 ◯東郷平八郎 (薩摩藩、海軍大将)
 ◯西園寺公望 (公家、元老)
 ◯山本五十六 (長岡藩、海軍大将)
 そして戦後、吉田茂と安倍晋三(予定)である。吉田茂の国葬を決めたのは佐藤栄作、吉田は妻の父が牧野伸顕(その父が大久保利通)であるから長州と薩摩両方と関係が深い。阿部晋三はもちろん長州である。戦前、戦後を通して、藩閥政治は今も生きていると思ってしまうのである。ただし、国葬とはなっていないのだが、国費が支出されているものが意外と多い。

 戦後のことなどで犬養の他に現職中に暗殺された原敬、浜口雄幸はいない。藩閥政治の時代とはいえ、安部さんには悪いが、政治家の資質を考えた場合、随分不公平だと思わず思ってしまう。 

 

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池田山&二冊の本 22.7.24

2022-07-24 16:46:52 | 面白い本はないか
 久しぶりの夏空の天気となった。6時少し前頃から野菜の収穫を行い、朝食後池田山の大津谷登山口に向かった。31日と8月1日薬師岳に山ともと登る予定なので、その前に今の体力(足の不調で満足な登山ができていない)を知るためだった。登山口に着くと右手の草地ではキャンプをしている家族連れがいた。近くの大津谷公園では多くのキャンパーを見かけることはあったが、ここでは初めてだった。7時半に出発、とにかくゆっくり登っていた。涼しいと思ったのも始めだけで、汗が噴き出す。最初の急登、二番目のやや短い急登を登り切り、さあどこで休もうかとばかり考えて足を進めた。このコースの中間点(1.4km地点)の少し先で休憩。この後も急な登りは続くが、最初ほどでないので、少しペースができてくる。林道が出てくればあとは600mでこのコースは終了となる。パラボラアンテナが3基立っているが、その道にはさわやかな涼しい風が吹き通っている。

 帰りにパラグライダーの基地を覗いてみた。離陸のための準備をしている人がいた。その離陸を待ったがなかなか飛び出さないので、引き返したら、旧知のKさんにばったり会った。霞間ヶ谷を6時45分に出発し、山頂からの帰りということだった。登ってくる若い男女4人のメンバーと遭遇後、登りの休憩地点の少し下で2回目の休憩。10時46分登山口に着くと、キャンパーは子どもも含めて撤収の作業を行っていた。こうした作業を手伝わせるのは子どもにとって良い経験となることだろう。おじさんは山に登り、テントも使ったが、こうしたキャンプはついぞ行ったことがなかった。うちの子どもたちは虫が嫌いになってしまったのはこのせいかもしれない。

 登山口でのキャンプ

 今日の池田山 1人のときはここまでは行かない

 おなじみの能郷白山 前回(3月4日)は真っ白だった

 パラグライダー

 ここから話が変わり、二冊の本を紹介する。一冊目は、本郷和人「北条氏の時代」。読み始めたのは、もちろん大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ていて、北条氏について興味を持ったからだ。このドラマ、味方であったはずの者が何らかの陰謀を図ったとか(実際はないことが多いようだが)の理由により次々と殺される。北条時政、義時、泰時等々、敵対する、あるいは敵対しそうな相手を排除し、北条氏の権力、後に執権体制を確立していく。まさに血塗られた政権であったことがわかる。13人の中の梶原景時が最初の犠牲者、二番目が比企能員(ひきよしかず)、三番目が和田義盛(ドラマではひげのおじさん)、四番目が畠山重忠(時政の娘を妻としているのだが。ドラマでは美男子!)その後も延々と続く。この本では時政を、文章が書ける(この時代武士は字すら書けなかった、ドラマで上総広常が江戸時代の寺子屋のように習字をしている場面があった)交渉事や調整が得意だったが、頼朝には重用されなかった。しかし、頼朝が死ぬと陰謀家としての能力が解き放たれた。その息子である義時も面白い。ドラマではということであるが、頼朝が上総広常(当時最大の武士集団の頭)を殺すときもその策謀にまんまと知らずに荷担してしまう。頼朝に仕える過程で策謀家としての能力が父同様花開いたのかもしれない。著者は義時(ドラマでは少し頼りない、自己主張しない存在で三浦義村といつも相談している)について、御家人の声という世論を重視し、①敵対行動をためらう、②周りに促されて、逡巡の末に立ち上がる、③敵を討ったあとは厳しい処理を行うと記している。三浦義村も面白い。生き残った者が正義、周りに何と思われようとも勝つ側につく、むき出しのマキャベリストとしている。

 ドラマの先を一部書いてしまったが、この本を読んでおくと、一層ドラマが面白くなるかしれないかもしれない。著者は鎌倉時代を、日本史の大きな転換点であると同時にドラマチックな面白い時代であると書いている。関東のローカルな存在に過ぎなかった鎌倉幕府が承久の変、元寇などを経て全国的な政権へと成長、その過程で血なまぐさい、そして人間くさい戦いと陰謀の時代だと。北条氏はなぜ将軍にならなかったのか、執権というかたちで権力を行使したのかについて考えてみるのも面白い。著者は幕府が始まったのは、私たちが習ったイイクニ、1192年ではなく頼朝が鎌倉を本拠地とした1180年とするのが適当でないかと述べている。

 二冊目は、木村幹「韓国愛憎ー激変する隣国と私の30年」。この著者については、2019年8月22日付け「日韓共通の歴史認識は可能なのか?」で取り上げたし、それ以後もブログ上で韓国について話題としている。この本で学者、研究者としての最近の苦しい立場について吐露している。学者として、資料や証言に基づいて発言しようとすると、発言を求める側が求めるようなある意味断定的な、都合の良い結論とならないことが多い。資料等からは分らないことは発言できないし、ましてや事実と違うことを発言しては学者として失格となる。著者が韓国政府の行動や韓国人の考えをそれなりの理由があると説明すると、もう韓国の立場を代弁するのかという罵詈雑言が掲示板、SNSに溢れる。これでは視聴者が求めるもの、自らの感情を満足させる発言を求めることになる(SNSで起こりやすい現象として、フィルターバブルとかエコーチェンバーというのがある)。これでは両極に分かれた立場の者の満足な対話すら難しくなる。エンターテインメント化している情報番組は企画されたストーリーに沿って、話しを進めようとする結果、ステレオタイプ化してしまう。

 日韓関係は、アメリカやヨーロッパでは少し前には注目する人も少ない研究分野であった。それが、中国の台頭、米国の衰え等もあり、米国としては安全保障上ほおっておけない問題となった。また、ヨーロッパにすれば、中国との関係を強化し、韓国も同様に中国との関係を強化していた。一方、日本は中国を警戒していることがヨーロッパには理解できなかった。こうした理由から日韓関係は取り上げられることが多くなったという。韓国では、保守派と進歩派が明確に分かれているという。どちらに属しているか分らないと対話の相手は非常に不安になるそうで、それを外国人である著者にも適用するという。

 今や生活水準では横並び、民主化では先んじている部分も多い韓国、自信をつけた韓国、自信をなくしている日本、日本への関心を急速に失っている韓国、韓国のずっこけることを大いに期待している日本、これではまともな対話など実現は難しいという結論になりそうである。
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八甲田雪中行軍120年目の真実から 22.7.19

2022-07-19 13:59:38 | 面白い本はないか
 八甲田山は、青森県を岩木山と並んで代表する山で日本百名山の一つである。ただし、八甲田山という名前の山はなく、主峰の大岳(1584.5m)を中心とする山群の総称である。ちなみに「八」はたくさん(八ヶ岳も同様)、「甲」は盾、「田」は田代と呼ばれる湿原を表わしている。八甲田の冬は特に厳しく、巨大な雪のモンスターができることで有名である。日本海からは津軽平野を縦断し雪を含んだ南西風、そして陸奥湾からのシベリアおろしが強くふき、峰峰を互いに回り込んでぶつかり合うため乱気流が発生する。この八甲田において、明治時代の1902年1月、二つの連隊、青森歩兵第五連隊と弘前歩兵第三十一連隊によって雪中行軍が実施された。前者は強風と多量の降雪によってほとんどの将兵が死亡し、一方後者は全員が無事(凍傷にかかった者は多かった)帰還した。この事件、当時新聞紙等で大きく取り上げられた。私たちにこの事件を認識させたのは、新田次郎の書いた「八甲田死の彷徨」(1971年)であり、それを映画化した「八甲田山」(1977年)であろう。

 映画「八甲田山」から

 少し新田次郎について触れておく。もともと中央気象台ほかに勤務した気象学者であり、作家でもある。彼が得意としたものはいわゆる「山岳小説」で加藤文太郎を描いた「孤高の人」、駒ヶ岳での尋常高等小学校の生徒らの遭難を描いた「聖職の碑」、剱岳に三角点を設置する苦難を描いた「剱岳点の記」などなど山岳ものがたくさんある。おじさんが最初に読んだのは、孤高の人、そのあと八甲田死の彷徨、残りは実は読んでいない。その息子が数学者の藤原正彦でむしろこちらの方がよく読んでいる。彼は「国家の品格」でブレイクしたが、「遙かなるケンブリッジ」や「若き数学者のアメリカ」あたりが若々しさが表れていておじさんは好きだ。次郎の奥さんが作家の藤原ていで、「流れる星は生きている」は当時満州に務めていた次郎に伴って行った満州での生活が敗戦によって、激変し、ていが家族を連れて本土に無事帰還するさまを描いていて、涙なくして読み通すことはできない。

 さて、本題に戻ろう。映画「八甲田山」を見ると、青森の方は中隊長の神田大尉(実際は神成)を北大路欣也が演じており、弘前の方は中隊長の徳島大尉(実際は福島大尉)を高倉健が演じており、この2人の名演技ばかりが記憶に強く残ってしまっている。特に神田大尉は悲劇のヒーロー(本来は隊の責任者なのであるが、大隊長が加わり、指揮系統が乱れてしまっている。この大隊長は救助されるが、後に病院で死亡した。小説ではピストルでの自死としている。)と化してしまう。事件を簡単に説明しておく。もともとは日露の戦いを想定した冬の厳しい寒さの中での戦いの教訓を学ぶために考えられた。その中で青森と弘前の連隊が競うような形になってしまった。青森は山中一泊(三日とする記述もある)、これに対し青森隊に遭遇するために、弘前から十和田湖を反時計回りに回り、東から八甲田に達するもので全行程12日、参加する将兵は37名。この弘前隊の長い日程を知った青森隊がわでは、人数を210名とした。この人数の違いこそ、一方は無事に帰還し、他方は遭難という分かれ道だったと思われる。しかも、青森隊は輜重隊という弾薬や宿営に必要な食料、器具を運ぶそり隊を伴っていて、この隊が軟雪に埋まり動きが遅く、先発する隊はこれを待っている時間が長くなってしまった。弘前隊は基本は民家に泊り、食料も現地で調達をしていた。さらに弘前隊は岩木山での雪中行軍を経験していたし、夏ではあるが下見もしていた。さらに必要なところでは案内人を雇うなどしていた。

  雪中行軍概略図 困難さから言うと弘前隊の方が数倍難しいルートである

 タイトルの本を書いたのは、間山元喜と川嶋康男、間山は弘前隊でこの行軍に参加した間山仁助伍長の孫にあたる。この本では、その仁助の書いた日記及び隊長の福島大尉の書いた報告書(2012年に公開)をもとにして書かれている。しかし、青森隊の生存者は少ないために、実態は遭難してから書かれた報告書となるため、詳しくない。さらに、青森隊は時間が経つにつれ、組織としての動きをしていないこともわかりにくい原因となっている。著者の間山は、もと自衛隊を定年退職していることから、特定の個人や組織を捉えて、批判することは極力避けられているように思われる。だから小説や映画のようには面白く感じられないかもしれない。この両隊は青森隊の遭難現場で遭遇(すでに大部分は死亡)するのだが、福島大尉の報告書ではそれに触れてもいない(間山仁助の日記では控えめであるが触れられている)。

 八甲田雪中行軍120年目の真実

 厳冬期での戦い方について、現在でも通用する記述がある。体を動かすことで暖をとる。その温かさは、汗を伴うので、止まると体はすぐに冷える。体をおだやかに動かし続けることが大事。小刻みな休憩とすぐに取り出せる間食を用意し、エネルギーの補給に努める。おにぎりは凍らないように、各人腹巻き着用し、そこに入れておく。両隊とも凍ったおにぎり、餅などによって、十分な食事をとることができなかった。

 青森隊の遭難を見ると、おじさんは日本軍の南方作戦を思い起こす。すなわち、武器も不備、食料もなく、南方の島々に置き去られた将兵たちに襲いかかったのは米軍というよりも飢えと病気であった。現場のことを知らない参謀本部、経験もないジャングルでの戦いなどなど、そっくりではないか。もっとも同じ死ぬなら、雪の中で死ぬことがずっと楽であることは間違いない。


 



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木の話 22.6.17

2022-06-17 21:06:58 | 面白い本はないか
 山に登ったりしていると時々巨大な木に遭遇する。人間よりはるかに長い時を生きる木に対して、神々しさ、神聖さを感じることが多い。その近くにはときにお社があったりする。大きな木は神の依り代、霊ある存在として地元の信仰を集めていることが多い。

 これは先日登った福井県大野市の姥ヶ岳の登山口近くの大栃の木 そばにお社があった

 石徹白の大杉 2018年10月

 戸隠神社奥社の杉並木 2013年6月

 みなさんはレバノン杉というのをご存じだろうか。樹高が40m、径が1.5mに達し、古代船を作る材料として伐り出され、今や少数が残るだけとなっている。このレバノン杉の伐採は、ギルガメッシュの神話となっている。森の神であるフンババと青銅の武器を持つギルガメッシュが対決し、ギルガメッシュが勝ち、人類が森林破壊への文明の道を選択したという話でBC2600年頃とされる。この森林破壊により、たびたび大洪水が起こり、メソポタミア文明は崩壊したとも言われる。

 ここからは森林、その中にあった巨木と建築の歴史について紹介する。まずは、海野聡著「森と木と建築の日本史」(岩波新書)から。日本は古くから巨木を使った建築物の歴史を持っている。縄文時代中期の三内丸山遺跡では栗の巨木が登場する。時代が下って6世紀になると大陸から仏教が伝わってきて、飛鳥時代には法隆寺(607年創建)、奈良時代には東大寺(751年創建)、薬師寺、そして日本全国につくられた国分寺などの造営、さらには藤原京、平城京、平安京など都の建設に大量の木材が使われた。最初のうちは飛鳥周辺、そして畿内であったものが資源=巨木がなくなり、調達先として徐々に全国に広がっていったのである。中でも桧は大型の建築物の用材として最も需要が多かった。法隆寺の昭和の大修理(1934年~1954年)にはその修復に必要な桧の用材は日本国内にはなく、当時植民地であった台湾から調達しなければならなかった(薬師寺の大修理にも台湾桧が使われた。現在保護のため国外への持ち出しはされていない。)。

 用材の確保が全国に広がっていった 「森と木と建築の日本史」から

 建築物等の造営には日本では主に木が用いられた。木には針葉樹と広葉樹があり、前者は軽くて、柔らかいので加工がしやすい。桧、杉、栂、赤松などである。桧は日本、台湾のみに分布し、福島を北限に九州まで生育する。後者は固くて重く、加工しにくいが強靱である。ケヤキ、栗、楠、ミズナラ等である。「日本書紀」には樹種選定について面白い記述がある。素戔嗚尊(すさのおのみこと)がひげを抜いて放つと杉の木になり、胸の毛は桧になり、尻の毛はマキ、眉の毛は楠になったという。そして、杉と楠は舟に、桧は宮殿に、マキは棺にするようにと言ったという。桧は寺社、宮殿を作るのに最も適した用材として特に需要が高かったというわけである。

 木で作られた寺社などは戦乱などによる何回もの焼失の歴史を持っている。東大寺は1180年に焼失した。既に再建に必要な用材は機内にはなく、この事業の中心となった重源(ちょうげん)は周防の国(山口)で長さ21m~30m、太さ162cmの巨木の森をやっとのことで発見した。しかし、ここから奈良まで運ばなければならない。道を開き、橋を架け、そのための搬路を作ったのである。そして、現地に運び込む時に当時の政治指導者(この中には「鎌倉殿の13人」で悪役の後白河法皇もいた)ばかりでなく一般の民(伊勢神宮の式年遷宮と同じ)もその搬入に加わった。しかし、東大寺は1567年に再び焼失している。

 伊勢神宮は20年に一度式年遷宮が行われている。この時必要な桧は一万本、もともと内宮も外宮もそのための御杣山(おそまやま)をその背後に持っている。しかし、平安時代には既に良材は枯渇していたという。美濃地方、現在では木曽の用材が使われている。諏訪大社の御柱祭も有名である。こちらは、樅の巨木であり、1950年の記録によると径1.3m、長さ16.5mである。この祭りで特に注目を集めるのが「木落し」である。巨木の運搬がいかに大変かを教えてくれる祭りとなっている。

 海野聡氏の本を読んでいたら、急に書架にあった西岡常一・小原二朗「法隆寺を支えた木」(NHKブックス、1978年)を読みたくなった。1995年頃購入し、今回で読むのが3回目である。西岡常一という人物を知らない人もいると思うので、少し説明しておく。法隆寺の昭和の大修理、薬師寺の大修理にかかわった昭和の最後の宮大工である。おじさんがなぜこの人物に興味を持ったかは忘れてしまったが、弟子の小川三夫とともに書いた本「木のいのち木のこころ(天)、(地)、(人)}などもあわせて読んだ。今から考えるとこうした職人の世界にあこがれたのかもしれない(自分にはできないことを承知の上で)。

 随分話があちこちしてわかりにくいと思う(書きたい気持ちばかりが先行しているから)。書けていないことを最後に書いておく。桧の優れているところは、樹齢千年以上のものは、伐り出されてからさらにそれ以上の年を生きぬき、びくともしないことである。このような用材は桧以外にはない。縄文時代から建築物は掘立柱式(地中に埋める、当然地上より早く腐るので、様々な工夫が施される)であったが、法隆寺は礎石式(土台となる石の上に柱が乗る方式で、土台と柱を連結する方式が主流となる(この方式しか建築基準法では認められていない)前はこれが主流だった。ご承知の方も多いと思うが、式年遷宮のお宮は掘立柱方式である。

 他に興味深いこととして調達した用材を加工する道具の歴史である。伐り出された木材を加工するのはチョウナと呼ばれる道具でさらに仕上げはヤリガンナを使って行う。室町時代に縦挽き用の鋸と台鉋(だいかんな)が伝わってきた。それまで板をつくには楔を使った。一枚の板を作るのがいかに大変だったのか感じることができる。

 チョウナ これを使って木を加工する模様がユーチューブにあるのにはびっくりした

 最後に、雨宮国広著「ぼくは縄文大工ー石斧でつくる丸木舟と小屋」を昨日読んだ。世の中には随分変わったことをする人がいるということを知るにはベストな本だ。普通の大工→宮大工→縄文大工、研究熱心で体力と技術を持ち合わせていないとできない生活である。

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