城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

トイレ事情今昔 22.5.29

2022-05-29 17:24:41 | 面白い本はないか
 今日の話は、ずばりウンコにまつわるものだ。「ウンコ」と聞いただけで、ブログを読むのを止めないで欲しい。元ネタは、湯澤規子著「ウンコはどこから来て、どこへ行くのかー人糞地理学ことはじめ」(ちくま新書)。誰でも人文地理学なら聞いたことあるけれど、人糞地理学なんて聞いたことないこと請け合いだ。ウンコとは幼児語でウンチとも言う。食料を口から食べた残り滓がお尻からウンコ(大便というと余計に汚くなる気がする。)として排出される。そしてウンコやオシッコは、今は処理場や浄化槽で処理され、川や海に流される。しかし、昔といってもつい最近までポットン式の汲取り用のトイレだったはずだ(もちろん都市ではかなり早く水洗便所が普及していた。大学生の時、自宅はポットン式、下宿先は水洗便所(和式)だった。この時代までは自分の身体から出たウンコを眺めることができたが、今や眺めることが出来るのは人間ドックの時の検便時だけとなった。

 うんこドリルに人気がある 子どもにとってウンコは案外人気がある

 子どもの頃母親の実家によく遊びに行った。いとこたちとの遊びは楽しかったが、実家のトイレは子どもには怖かった。小屋の一角にあったトイレは暗く、板の間に穴と◯隠しがあっただけだった。暗くて自分のウンコを見るはできなかった。もちろん尻は灰色のちり紙だった。自宅に浄化槽が設置され、水洗となったのはいつ頃か記憶がないが、20年前くらいに増改築した時に町役場の指導(もうこの頃は単独槽は認められていなかった)により合併槽を補助金をいもらって設置した。この際、公共下水処理場ができたら、そちらに繋ぎますという念書を入れた。そして、最近その下水処理場が完成し、家の前に下水管が通った。しかし、なぜか繋ぐことは求められなかった。現在の合併槽を壊れるまで使って良いということだった。

 山登りを趣味とするおじさんには、山のトイレ事情も大きく変わったところとやむを得ない事情により相変わらず変わらないところがある。変わらないところは、大部分の山小屋は処理後地中浸透か沢等に放出していること。一部ヘリで空輸している山小屋もある。ただし、かつては処理せずに放出していたが、現在はバイオとかで科学的方法で処理したあとで放出している。3年前に南アルプス北沢峠近くの仙水小屋で見たトイレは下に流水が勢いよく流れているものだった!

 昨年11月に泊ったえん燕山荘のトイレ 臭いが全くしない快適なトイレだ

 富士山に設置された新しいタイプのトイレ 屎と尿を分けるのだそうだ
 かつて富士山は登山客がいなくなった頃合いを見計らって屎尿を周辺にぶちまけていた。後に白い紙の残骸が残り、これが問題となった。
 お尻を拭いた紙を便槽に入れないようにしている山小屋が多い。集めた紙は焼却、屎尿は沢等に放出するからなのか?

 やっと本の紹介にたどり着いた。日本で人間の糞尿が肥料に用いられたのは、二毛作(米を作った後に麦等を作る)が普及した鎌倉時代。百姓たちにとって、購入しなければならない肥料を金肥(魚肥、油かす)と言い、安価あるいは自給できる肥料として下肥(しもごえ)があった。江戸時代は究極のリサイクル社会だと言われているが、18世紀中頃江戸の人口は100万人で、一年間に総額2万両(今のお金で8~12億円)の下肥が取引されていた。もちろん、お金を払っていたのは百姓でその下肥を作物の肥料として使用していた。幕末に日本は訪れた西欧人はこの臭いと光景にびっくりしたそうである。西欧では家畜の糞尿を肥料とし、人間のそれを資源とする発想がない(一部イギリスなどで使われたと書いているが。もちろんアジアには多くの使用例がある。)。

 下肥の歴史は戦後もなお続いたが、大都市に人間が集中し、そこから発生する屎尿はリサイクルすることができなくなった。処理方法が完成する前にはかなりの量が海洋投棄されていた。おじさんの記憶ではリヤカーを使って屎尿の汲取り、運搬が行われていた。この際出る臭いは相当なものであった。おじさんの父親も自宅のトイレの汲取りを行っていた。汲み取った屎尿は、田んぼや畑の一角にある大きな坪等に入れられ、そこで発酵するのを待って、肥料とされたのである。このためか、小学校時代には寄生虫の駆除のため薬を飲まなければならなかった。そのうち、バキュームカーなるものが登場(1950年に川崎市で初登場)、著者はこれがあったからこそ都市への人口集中、そして高度成長が可能になったと書いている。また、東京オリンピック(1964年)に向けて下水道の普及が進んだ。

 お尻を拭くということもかつてはその場所で利用できる物が使われた。日本では蕗の葉なんかは最高で藁とか色々なものが使われた。江戸時代には浅草紙という再生紙(紙くずを集める人がいた。ごわごわで灰色の紙だそうだ。)が使われた。木べらというのもあった。砂漠地帯では砂だそうだ。左手で砂を使う(想像するのが大変難しい)。それが段々とロール式のペーパー(アメリカでは1930年代から普及、日本では明治30年に輸入されたという。日本のメーカーが作り出すのは戦後)が主流となった。これに関連して米原万里著「パンツの面目ふんどしの沽券」という抱腹絶倒なエッセイがある。戦争に負け、シベリヤ送りとなった日本軍の兵士たちにとって、乏しい食料等とならぶ困りごとにトイレにお尻を拭く紙が置いていないという話が出てくる。著者が調べたところ、ソ連軍の兵士たちはお尻を拭かないという事実だった。だから、その必要性など理解できなかったということだった。

 ウォシュレットのキャッチコピー「お尻だって洗って欲しい」が出たのは1981年、今やかなりの家庭が椅子式の水洗であろう。このため、子どもたちはポットン式のトイレなどあろうものなら排出もできないと聞く。しかし、我が町にはいまだバキュームカーが厳然と存在し、控えめであるが周辺に「いなかの香水」を漂わせてくれるのである。

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様々な慣習(葬式) 22.5.19

2022-05-19 11:10:47 | 面白い本はないか
 岐阜県図書館に5月6日に行ったとき、エッセイの棚でとても面白い本と出会った。もちろんその時中味は読んでいないので、その面白さはわからなくて、本のタイトルと表紙のマンガに惹かれただけだが。その本とは、上野誠著「万葉学者、墓をしまい母を送る」。何が面白いと思ったのかというと、おじさんが経験してきた葬式と比較することができたからだ。そして、これから経験することになる肉親の送り(もちろんおじさんが先に「行く」こともあり得るが)を考えるからだ。


 少し、脱線すると、ラジオ英語会話で火曜日「We all have to go sometime」という慣用句があることを学んだ。これは「みんないつかは亡くなります」という意味で、「go」は自分のいるところから離れていくときの表現である。日本語では丁寧表現として「逝く」というのがある。両者ともいなくなるということだろう。

 おじさんはかねて、冠婚葬祭はその地域の伝統や慣習によって大きく違っているのを感じていた。妹の嫁ぎ先の葬儀に出たとき、式場の前面に飾られていたのは造花の花輪(かつてパチンコ屋の開店時によく見た)だった。おじさんの地元では生花が用いられていた。これは小さな違いに過ぎないのだが、紹介した本を読むと共通点と大きく違う点の双方がある。ここから本の内容に立ち入りながら紹介する。著者(1960年生まれ)は福岡県甘木市(現在朝倉市甘木、私の山ともEさんの出身地)の出身で、13歳のときに祖父の葬儀に立ち会っている。個人病院に入院していた祖父は、最期は病院から追い出され(当時はこれが普通。家族が家での看取りを強く求めていたのかもしれない。)、自宅に帰ってきた。著者は祖父が亡くなる4週間ばかりを両親(福岡市在住)とともに過ごすことになった。祖父が亡くなると、医師が死亡を確認し、その後親類や隣家の男衆が次々とやってくる。そして、夕方になると今度は女衆が集まってきて、買物をし、集まった者たちの食事を作る。この時女衆は白い割烹着を着てくることがならわしなのだが、そのことを知らない若い住民がエプロンで来て、ひんしゅくをかったと書かれている。その住民は新しく割烹着を買い求めかければならなかった。女衆の中で采配をふるうのは年長者か慣習に詳しい者ということになる(近所の集まりではこのような人が出てくるし、また必要である。しかし、時に厄介な存在であることは言うまでもない。)

 男衆はというと、葬儀の予算、香典の額等をめぐり、話し合いを延々と続けるのである。その家の家格(こんなものは勝手に作っているだけなのだが、親類や近所などと比べて決める)に応じた葬儀が良いとされているからである。延々と続く話し合いを著者は、「寄り合いの民主主義」と言っているが、これは民俗学者の宮本常一が描く話し合いそのものである(九州のある地域で宮本が地域の古文書を借りたいと申し入れたことに対して、地域住民の話し合いが何日にもわたり行われた)。長くなる理由は、勝者も敗者も作らない、皆がしぶしぶ同意したという形を必ずとらなければならない、こうすれば失敗しても誰も責任をとらずに済むからである。また、焼香の順も極めて神経を使うところである。自分の方が先だと思っている人にとって、後になるということはとても腹立たしく、親戚の集まりの機会などに蒸し返される(「取り込んでいて」という言い訳は通用しない。)。

 この本のハイライトは「湯灌」の場面である。この地域では湯灌は女たちの仕事で妻と娘が行う。著者は男だがまだ13歳であったためにこの湯灌を手伝うことになったのである。この少年が祖母と母親(実の娘)の助けで祖父を背負い、風呂まで往復した。さらに祖父の着ていた寝間着を水洗いし、バケツに入れ、水を注ぎ込む。それは四十九日の法事が済むまでそのままの状態にされる。その理由はあの世に行くとき熱い熱い火焰地獄を通るからだそうだ。そして、男衆がなぜ湯灌をしないのかの理由が実に興味深い。男は怖がるから(女だって怖い)というのは嘘で、女たちはまるで赤ん坊をあやすかのように、祖父に声をかけていた、女たち特に妻にとって愛する人の身体を愛おしむ最期の時間であり、そういう愛の行為を他の男に見られたくないと心の奥で思っていたのではないかとと推測している。

 ここでおじさんの経験を話す。おじさんの地域(?)では甥っ子(男)が行うことになっていた。おじさんの父親は自宅で看取ったので、家族以外の男たち(甥っ子プラスアルファ)が湯灌(風呂には行ってない)をした。その際、彼らは浴衣に着替え、お湯をガーゼに浸して、身体を拭いた。その後、浴衣を脱ぎ、お風呂に入った。その浴衣は故人が使っていた布団なんかと同様に焼却された。伯父、叔父さんのときには形だけガーゼで拭いた。会うといつも亡くなったたら甥である私に湯灌をしてもらうと言っていた叔母さんだったが、時の流れか死去ぶれもなく旅立った(後日亡くなったという連絡があり、お参りはした。)この時我が町には財産区所有の火葬場しかなく、それを行うのは近所の人という体制だったので、大垣市の火葬場へ運んだ。

 本に戻ると、著者の祖父は商売で成功し、1930年に二階建ての墓を作った。一階が5、6人が入れるような納骨堂、二階へは階段をあがり、そこに墓標が建てられていた。著者はいつもうちの墓はどうしてこんなに大きいのかと思っていたそうである。それに対する祖母の答えがまた面白い。昔は家と家との縁組みをしたり、嫁をとったり、養子をとったりするときには、相手の家の墓を見に行ったもんばいと。この墓も著者により、福岡市内の墓の団地に移された。

 いいかげん話が長くなっているのでそろそろ終わらなければいけない。著者は、著者の兄がなくなったので、福岡にいた母親を引き取ることになった。いやがる母親を奈良市まで連れてきたのだが、誤嚥性肺炎やら大腿骨骨折などで入退院、転院を繰り返した。母親が亡くなって、再び湯灌の話が出てくる。最初は著者自身で行うことも考えていたのだが、かつての記憶が蘇り、結局葬儀社に任せることになった。ゴム手袋をしたプロのチームによる湯灌(部屋に湯船をつくり、そこで行った)が行われ、最後に著者が湯をかける真似をして終了となった。もちろん、葬式は家族葬で行われた。

 葬儀は地域によって大きく違っていたのだが、今や葬儀社による葬儀、さらには家族葬が主流となったことにより、全国均一化しているのかもしれない。おじさんの母は、この3月特別養護老親ホームに入居した。その際看取りもお願いし、「エンゼルケア」(かつての湯灌に相当?)もお願いした。かつてのような湯灌はもう見ることもないし、葬儀自体が大きく変わってしまったと思う。

 
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他者の靴を履く 22.2.18 

2022-02-18 16:47:30 | 面白い本はないか
 最近ケア労働という言葉をよく見かける。特にコロナ禍でケア労働に携わる人たちは大変な重圧のもとで働いている。コロナ病床で働く医師や看護師、特養やデイサービスで働く介護士等は典型的なケア労働者ということになる。こうしたケア労働者にとって必要な素質は、医学的な知識や介護技術ばかりでなく、相手の身になって考えることであると思う。患者の顔をほとんど見ることもなく、ただただパソコンの画面を見ている、患者の話をほとんど聞かない医師や病棟を回ってきても忙しそうにしているだけの看護師はこうした素質をあまり持っていないように思われる。日本語だと「共感力」、英語なら「empathy(エンパシー)」、「put yourself in someones shoes(他者の靴を履く)」ということになる。

 このエンパシーについて様々な事例や文献を探りながら書いた本が今日紹介するブレイディみかこ著「他者の靴を履くーアナーキック・エンパシー」である。

県図書館にもあるのだが、貸し出し中ばかりで容易に読むことができなかった。水曜日に揖斐川図書館に行ったら、偶然にもこの本に出会うことができ、早速読むことができた(ここの選書を誰がやっているかしらないけれど、少ない予算の中でなかなか良い選書している)。この著者は英国在住で元保母さん、典型的なケア労働者ということになる。彼女の書く本は、日本と英国の良い点、悪い点を肌で感じながら書いているので、大変参考になる。

 さて、この本によりながら「エンパシー」とは何かを書いてみよう。まず、「エモーショナル・エンパシー」と「コグニティブ・エンパシー」とに大別される。前者は幸福そうな人を見ると自分も幸福に感じることだが、本当にその人が幸福なのかは考えていない。後者はたとえ賛成できない、好感を持てない相手でも、心の中で相手が何を考えているのかを想像することである。瞬時に他者の感情が伝染するような類い(前者)のものではなく、相手が感情を抱くようになった理由を深く論理的に探求するための学習と訓練の果実である。後者こそ「他者の靴を履く」ということになる。ただし、エンパシーが全面的に望ましいかとばかり言えないとも言う。すなわち相手に全面的に感情移入してしまえば、自分、あるいは自己がなくなってしまう。聞いた話だが、患者のことを親身になって世話することに疲れ、辞めることになった看護師の例である。

 ここからは著者があげる事例について紹介する。まずは、刑務所の例で、坂上香監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」の舞台となった「島根あさひ社会復帰促進センター」でのTC(回復共同体)というプログラムの実践の模様から。このTCはアメリカなどで既に実践されているのだが、監督自身日本では実施が難しいだろうと思っていたプログラムだ。既にアルコール依存症とか薬物依存症の患者の会ではおなじみのものではある。受刑者は円(サークル)になって、順番に自分の個人的体験を語っていく。他の受刑者もその語りに反応、参加していく。そうすると家族や友人などにも語らなかった事柄を次第に受刑者が語るようになる。そして被害者がどんな思いにあるのかも推し量る訓練を受ける(この自分の考えや感情を言葉にして語り合いという訓練を日本の家庭や学校ではあまり行っていない。これでは相手の感情など読み取ることは難しくなるばかりである。)なぜ監督は日本にはなじまないかと考えたかだが、日本は自分の感情を赤裸々に語ることをしない文化、沈黙の文化であると考えたからだった。しかし、受刑者はたちは次第にではあるが、語ったのである。そもそも相手のことを推し量れるような人間であれば、犯罪を犯すことは少なくなる。オレオレ詐欺を例にとっても、騙す相手を単なる「金持ちの高齢者」と考えているからである。その高齢者が爪に火をともすような苦労をして貯めた虎の子の貯金であったかもしれないとか貯金を盗まれた高齢者は苦労するだろうかとか想像することはない。

 さすが英国と思うような事例もある。著者の中学生の息子が通う学校での授業から。有名なロミオとジュリエットを取り上げて、一回目は全員がロミオになってジュリエットに恋文を慣用表現あるいはオリジナルな表現で書く。二回目は全員がジュリエットになりきって、ロミオに恋文を書く。日本では読書感想文という形で読んだ本の感想を書く授業が多い。また、英国では演劇が授業に取り入れられている。これなどは他者を演じる、すなわち他者の靴を履くということになる。マーガレット・サッチャーの事例も面白い。身近にいた人の彼女に対する評価で、「彼女はシンパシーのある人ではあったが、エンパシーのある人ではなかった。」「「鉄の女」と呼ばれたが、実は官邸のお抱え運転手や自分に身の回りで働く人々にはとても優しく、思いやりのある人であった」。ところが教育大臣だった頃、それまで学校で無償とされていた牛乳を7歳以上の児童には提供停止とした。「英国で最も嫌われた女性」とタブロイド紙で批判されたが、彼女は、「幸運なことに、多くの人々、きわめてふつうの多くの親たちが、給食費を払うことができますし、牛乳代も払うことができます。」と述べた。彼女は街の雑貨・食料店の娘として、公立校にも通った。庶民の暮らしが豊かでないこと、子どもの貧困を知っていたはずなのに。

 エンパシーが出現しやすい例として、災害時がある。これはレベッカ・ソルニットが「災害ユートピア」で書いている(読んでいないので孫引きということになる。今回県図書館から借りてきたので、読むつもりだが、分厚いので時間がかかりそう)。政府や官僚たちは大規模災害の時、これまでの秩序が機能しなくなって、パニックを起すと考えていた。しかし、実際には人々が互いに救助して気に掛け合い、食料は無料で与えられ、生活のほとんどは戸外のしかも公共の場で営まれ、人々の間にあった格差や分列は消え去りといった「ユートピア」とでも呼べる共感の場が広がる。これはもともと人間には他者を慮るということが備わっているかもしれないという考えが沸いてくる。ところが、平常時となると難しい。災害時には目の前にいる人を助けるということが何よりも優先するからである。著者は、政府が緊縮財政のなか福祉や医療、教育などのサービスを削る口実として、「この国はこのままで破産します」「未来の世代のためにみんなで我慢して借金を減らしましょう」という。なぜか当の苦しんでいる庶民の方が「じゃあみんなで我慢しよう」と政府を支持してしまう。しかし、支配者たちは庶民の苦しさなどは考えていなくて、財政規律を守ったという数字の実績を残して出世したいだけなのだと述べている。

 日本では自助、共助、公助と言われ、最近特に自助、共助を強調しだした。よく考えれば公助のお金を増やしたくない政府の事情を垣間見ることができる。私たちはこうした政府の発言にやすやすとエンパシーする必要はないのである。そして日本人は「人に迷惑をかけたくない」と口癖のように言う。それは他者を慮っているようでそうでもなくて、人にも煩わされたくないという心の裏返しでもある。そうした考えを私たちは少し修正しても良いのではないか。すなわち、お互い様で、お互いに迷惑をかけたり、かけられたりしてもそれが普通であると考えられるの社会になるように各自が努力してはいかがか。

☆今日は久しぶりの青空と降ったばかりの雪 何回目かの雪の城台山散歩 
 この時期の雪としては珍しい軽い雪だ。

 揖斐小から城台山

 思い出語るムクノキの奥に城ヶ峰

 お地蔵様と城台山

 伊吹北尾根の山(中央)

今年は雪が降りすぎて、思うように登れない。日曜日登るつもりであった湧谷山も強風と雪のため中止とした。

 
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お寺問題 22.2.2

2022-02-02 19:48:17 | 面白い本はないか
 我が家では大晦日の夕食前に仏壇の前に一家が集合し、お念仏を唱えるのが慣わしとなっている。今回は息子夫婦も帰省中であったので、私たち夫婦と4人が仏壇の前に並んだ。おじさんが導師の役で正信偈を唱えたのだが、最近御取越(おとりこし、親鸞の忌日である11月28日に行われる親鸞忌を繰り上げ、陰暦10月に各自の家で行う報恩講で「ごえんさん(住職)」が檀家の家をめぐる)とこの年末の行事くらいしか、正信偈を唱えることがないため、もともと上手でなかったお経がつまりつまりの少し調子外れとなってしまった。かつては随分前になくなった伯父さんの唱える正信偈を録音し、それをお手本に少し練習したこともあったが、今や家内から「下手になったね」と言われる始末である。そしてここのところの葬式さらには法事などの簡素化による激減によって、ますますお経を読む機会は減ってきているのである。

 今月12日に父親の27回忌の法事を予定している。我が家は、二つのお寺の檀家となっており、男と女でお寺が違うのである。おまけにお墓は宗旨の違う別のお寺にある。記録を見ると、祖父は50回忌(取り上げ)、祖母は37回忌で最後とした。親戚の誰かがなくなっても、死去ぶれそのものが来ずに、後から知ることが多くなり、当然葬儀にも出席しないし、まして法事に出ることはない。かつて、葬式や法事では知らない顔が多くあったことを思い出す(遠い親戚でも死去ぶれが来た)。そこは祭りとともに親族交流の場であったわけである。話がそれたが、我が家の課題はこの二つのお寺をどうするかである。子どもたちが東京に住み続けるならば、現在の関係を続けることは物理的に難しいが、お墓が別の寺にあることは、檀家を辞めるうえで有利に働くかもしれない(お墓があると担保をとられている感じがする)。

 揖斐の街の中に国道303号線に沿って3つのお寺が近接している 一つは浄土真宗本願寺派、残りは浄土真宗大谷派、揖斐は古い町のせいかお寺が多い

 ながながと家の事情を書いたが、我が家に限らずお寺と今までどおりの関係を続けていくことは困難となってきている。橋本秀樹著「お坊さんが明かすあなたの町からお寺が消える理由」をここで紹介する。著者は曹洞宗の現役の住職で、檀家が400軒ばかりあったと書いてある。檀家制度は江戸時代に徳川幕府が始めた宗旨人別帳(これは現在で言えば戸籍でお寺は支配制度の末端となっていた)制度に基づくもので、これにより各家はいずれかのお寺の檀家となる必要があった。そしてここから信心を持った庶民等がお寺の信徒となっていた形から、葬式等を行うお寺という関係に変わっていった。いわゆる葬式仏教の成立である。そして、明治時代となって妻帯を許されていなかった浄土真宗以外の宗派も妻帯を許され、お寺は家業となったのである。さらに、戦前までのお寺は農地などの地主でもあり、そこから上がる地代はお寺の重要な収入源となっていた。これが農地解放により、所有していた農地は小作人に解放され、収入源は今や葬式関係のみとなってきたのである。

 かつてお寺は地域やコミュニティの中心でもあり、お寺が催す行事に年寄りを中心に参加してきた。お寺を重要だと考える信心深い人たちが多くいたし、お寺への寄付も喜んでしてきたのである(ある意味家よりもお寺を重視した)。しかし、時代は変わり、お寺への気持ちも醒めたものに変わってきている。そこで橋本住職は、まずこの檀家制度(毎年定額を納めるほかに行事の際の寄付を求められる。特に高額になるのはお寺の新築、大規模修繕)をやめることを決断し、各個人との間で自由な信徒関係を結んだ。また、檀家に限定していた墓地や新しく作った永代供養墓に違う宗旨の人も受け入れた。また、葬祭業者に任されていた葬式を寺自ら行い、本堂を使った葬儀を行うようにした。不明瞭であった住職への金銭的支払い(戒名、お布施等)も明示、定額化した。

 檀家制度ををやめた結果、新しく信徒となったのは約900軒。個人が信仰を通じてお寺と自由につながる関係、本来の関係に立ち戻った。檀家制度に伴う寄付や維持会費、お墓の管理料を徴収することをやめ、さらに葬儀のお布施(通夜、葬儀、初七日、火葬、戒名授与)を従来の50万円から20万円に値下げし、法事のお布施も3万円とした結果、お寺の収入は激減した。しかし、信徒の数の大幅増加(=頼まれる葬儀の数の増加)、葬祭の直接運営、お墓の新規増設などにより収支は改善した。宗教上の行事の他に週二回の座禅会、月二回のそばうち教室、写経、週一回の詠讃歌教室なども定例化した。非常に面白いと思ったのは「ゆうパック」を利用した「送骨サービス」、永代供養墓の入居申込みをネットでも受付ける(これがほとんどだそうだ)。合同納骨なら3万円、個別納骨なら10万円(ただし、10年間のみでその後は合同納骨となる)、供養墓の地下に1000骨、個別に130骨が納められている。奥さんが旦那の家の墓に入りたくないという話を良く聞く。この送骨サービスなどはこうした人にまさにぴったりのしくみではないか。「僧侶の心得十箇条」も面白い。中でも高級車に乗らないというのは思わず笑ってしまう。

 我が家の様に高齢者のみの世帯、単身世帯の増加、そして人口減は大部分のお寺が檀家制度を維持できなくなることは確実である。しかし、人間に特有な死者を弔うという行為がなくなることはない。しかし、その行為をお寺や僧侶が行わなければならないかというと必ずしもそうではないだろう。寺や僧侶を介在させない弔いもあっても不思議でない。やはり葬式ばかりを偏重するお寺のあり方の再考を促す必要がある。



 
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日本の戦争指導者 22.1.16

2022-01-16 19:39:59 | 面白い本はないか
 それぞれの組織、グループにおいて指導者(リーダー)の果たす役割が大きいことは言うまでもない。例えば山行でのリーダーが優秀であれば、難しい山でも安全に登ることができる。もっと大きな組織、例えば会社であればいくら従業員が優秀であっても経営陣がぼんくらであれば経営はじり貧となる。まして、戦争指導者がぼんくらであれば多くの兵士が命を失い、戦いには負けてしまう。この傾向は、アジア太平洋戦争において顕著であり、ムダに多くの兵士が命をなくし、国民も塗炭の苦しみを味わった。

 年末に読んでいた「東条英機」などはその最たる例である。天皇に仕える優秀な官僚的軍人であったかもしれないが、「死して虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)」「高射砲でB29を落とせないのは落とそうという気合いが足りないからだ(実は弾が届かない、合理性よりも精神性を強調)」などは最悪の実例だ。最近読んだ佐高信著「石原莞爾 その虚飾」では、石原は東条を無能と呼ぶくらい異才の軍人だが満州事変(彼は満州を得ることによって日米の戦いに備えるという計画だった)を引き起こし(彼は満州以外の中国とは戦わないという考えだったが、満州での彼の真似をする武藤章などの軍人を生むことになった)日本が泥沼の戦争に至る端緒となった。しかし、今日の主人公はこの二人ではない。鴻上尚史著「不死身の特攻兵ー軍神はなぜ上官に反抗したのか」に登場する一兵士だ。


 特攻作戦を少し説明しておくと、その作戦が大々的に行われるようになったのは、もう敗色濃厚な44年(昭和19年)10月から海軍、半月後に陸軍が始めた。海軍の第一回の特攻隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」でゼロ戦に250kg爆弾を装備してアメリカ軍の艦艇に体当たりした。陸軍のは「万朶隊」で主人公の佐々木友次伍長は、この隊の名で9回も出撃し、そのたびに無事に帰還してきた。特攻機は、機銃装置が外され、さらに爆弾が機体に固定されていた。このため爆弾だけを落として、帰還することはできなかった。さらに見落としてならないのは、最初フィリピンにおける作戦では比較的優秀なパイロットが選ばれた。ところが沖縄戦ともなると数少なくなった優秀なパイロットではなく、飛行時間の短い学徒兵を中心に行われた。もともと艦艇に体当たりする作戦の効果に疑問があったうえに、飛行技術の未熟なこともあって、特攻作戦への対策を行うようになったアメリカ軍に対して、有効な攻撃とならなかった。最後は通称赤とんぼと言われる二葉の練習機まで動員された。

 では、佐々木伍長はなぜ帰還することができたのであろうか。これは万朶隊の岩本隊長が工夫して爆弾を投下できるようにしたからであった。ところがこの岩本隊長等の将校は、第一回目の作戦に出撃することはできなかった。その理由は愚かな司令官がいたからである。その名を冨永恭次(前職は陸軍次官、この時東条は首相で陸軍大臣を兼ねていた。陸戦の経験もほとんどなく、航空機に関して全く無知)といい反東条派がフィリピン第4航空軍司令官に彼を送り込んだ(その主役は小磯国昭内閣の杉山元陸軍大臣で、厄介払いできたという意味で「うまい人事だろう」と語ったとか)。戦争では何が必要かを考えたら、適材適所と信賞必罰しかない。これが日本の軍隊で最も欠けていて、そのくせ精神論ばかりを振り回す。これでは命がいくつあっても足りないと思うだろう。冨永司令官は無類の儀式好きで万朶隊のいた基地から400kmも離れたマニラに来い(目的は出撃前の宴会を開くこと)という命令を出した。そこに行く途中岩本隊長等を乗せた九九式双軽(4人乗り、特攻機のため機銃は外されていた。代わりに特攻の際には800kgの爆弾を付けていた。)はアメリカのグラマンに撃墜された。

 隊長等を失いながら、11月12日5人の佐々木伍長を含む5人の万朶隊は出撃した。佐々木ともう一人が基地に戻ってきた。万朶隊の戦果は大本営から戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈と発表された。このうち戦艦は佐々木の戦果であるとされたが、実際は揚陸船艇であった。このあとも生き残った者たちは何回も出撃させられた。生きて帰るたびに、司令部の猿渡参謀長から出頭の命令が来た。参謀長はこう言い放った。「この臆病者!よく、のめのめと帰ってきたな。」「レイテ湾には、敵戦艦はたくさんいたんだ。弾を落としたら、すぐに体当たりしろ。出発前に言ったはずだ。貴様は名誉ある特攻隊だ。弾を落として帰るだけなら、特攻隊でなくてもいいんだ。貴様は特攻隊なのに、ふらふら帰ってくる。貴様は、なぜ死なんのだ。」。彼の廻りの特攻隊の隊員はこうした叱責、冷たい目に耐えきれず特攻死を選んでいくのだが、彼は父親の残した言葉「絶対に死んではいけない」を固く守り、生き残った。

 特攻作戦の生みの親と言われる大西瀧治郎中将(実際は軍令部が考えた作戦のようだが)は戦後自刃した。あとから続くと言っていた多くの指導者は死ななかった。生き残った指導者たちは、特攻作戦を希望者によるものと強弁したのだが、指名ないしは拒めない雰囲気のなかでの申し出であったことは明白だ。佐々木伍長は、フィリピンで終戦を迎え、捕虜収容者に入った後、日本に帰ってきた。復員部隊の一員となって行進を続けていると、その軍人たちに向かって石を投げ始めた。そして叫んだ。「日本が負けたのは貴様らのせいだぞ!」「いくさに負けて、よく帰ってきたな。恥知らず!」「捕虜になるなら、なぜ死なないのか!」。彼は92歳まで生きて、その死の間際に本の著者はインタビューすることができた。特攻兵で終戦を迎えた人たちは、他人に自分の経験を語ることは稀だった。特攻についてもっぱら語るのは、特攻兵ではなくその廻りにいた人々であった。この人たちによって特攻兵は英雄視され、美化されてきたのである。

 こうした指導者に率いられた日本は、300万人という尊い命を犠牲にした。そして、戦没者のかなりの部分が病没によるものであり、余計に愚かな指導者による作戦の犠牲となったことは明白だった。そのことを日本人は忘れてはいけないと思う。

☆おまけー今日の城ヶ峰
 金曜日のブログで予告したが、残念ながら誰とも出会うことはなかった(8時40分~10時30分)。日曜日でしかも天気が良いにもかかわらずである。しかし、一つ収穫があった。天狗山(1149m)の東半分が山頂から見えることを発見した。これで見えたのは、小津権現山、飯盛山、西津汲に続いて天狗山となった。

 今日の城ヶ峰

 新たに見つけた天狗山

 飯盛山(右)、西津汲(左)

 小津権現山

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