久しぶりに司馬遼太郎の本を読んだ。「「明治」という国家」、本棚に旧版があるが、新装版で昨年1月に出版されている。ここのところ明治あたりについて書かれた本を読むことが多いが、司馬節とでもいうような語り口がやっぱり面白い。特に、歴史の主役ではない脇役の人物評が興味を引いた。1858年の日米修好条約の批准のため。アメリカ入りした日本の使節に咸臨丸で随行した木村摂津守嘉毅(艦長は勝海舟で、その上司で軍艦奉行)。明治後、「芥舟(かいしゅう)」という号を付けて隠遁.勝より自分が劣っていることを自覚したうえで、武士らしく隠棲する。立身出世に奔走する人が多い中で、何という潔さ、これが江戸時代に育まれてきた文化なのか。
しかし、今日の主題は歴史ではない。けれども、この本の最後の方に出てくる結構有名な下りがある。板垣退助を隊長とする新政府軍が会津藩を攻めたときに、そこの領民(農民、商人)が武士と一緒に戦おうとしなかったことに板垣はショックを覚えた。これをもう少し維新前の日本に敷衍して考えると、外国から攻められた時、まだ国民でなかった農民、商人はどうしただろうか(無関心だったろうという推測は容易にできる)。明治国家がまず国民というものを作ろうとした理由がわかる。(日本は外国から攻められた時、戦うという人が少ない国だそうだ)
話は変わる。県会議員の選挙が公示されたが、揖斐郡は2人の定数に対して立候補が2人ということで無投票となった。最近、小さな町村では議会議員に立候補するする人が減っている。トクヴィルは、「地方自治はデモクラシーの最良の学校である」と言った。しかし、この現状である。
竹井隆人著「デモクラシーをまちづくりから始める」を読んだ。最初、まちづくりの本だと思って借りたが、内容はデモクラシーをどう作っていくのかという本だった。代議制は、国政は言うに及ばず、地方自治でも機能していない。コミュニティにおいても、仲良くなることばかり強調されて、同調圧力のみ高まる。ここには、お互いの違いを認めて、その中で合意を得るという「政治」はないという。その通りだと思うが、今自治会の役員をやっている立場から考えるとそのような機能は求められていないし、たった120世帯あまりでも合意をとることは容易ではない。著者はマンション管理組合がいわば直接民主主義実践の場となりうるとしている(しかし、実態は参加する住民は少ない)。これを例えば小学校区あたりまで拡大することはさらに困難である。
まちづくりについて数多くの本を読んできた。結論として言えることは、そこに住む住民がその気にならなければ何もできないということである。行政がよく行う「タウンミーティング」、実際は行政の説明会と化している。今まで、お百姓や自治会が行ってきた草刈り、川掃除など住民の高齢化に伴い実施するのが難しくなってきている。さらに空き家、一人暮らし高齢者の増加である。加えて、税収の減による行政の縮小である。トクヴィルが見たアメリカ、そこで行われていたタウンミーティング(地域の様々な問題、課題について多数の住民が参加し、政策を決め、実施する)を再現しなけばならない時代が訪れるかもしれない。お上を頼ってきた日本(一方でお上への信頼はない、公務員バッシングを思えばよい)、自立は可能であろうか。
竹井隆人緒「社会をつくる自由」(ちくま新書)の方が読みやすい。
しかし、今日の主題は歴史ではない。けれども、この本の最後の方に出てくる結構有名な下りがある。板垣退助を隊長とする新政府軍が会津藩を攻めたときに、そこの領民(農民、商人)が武士と一緒に戦おうとしなかったことに板垣はショックを覚えた。これをもう少し維新前の日本に敷衍して考えると、外国から攻められた時、まだ国民でなかった農民、商人はどうしただろうか(無関心だったろうという推測は容易にできる)。明治国家がまず国民というものを作ろうとした理由がわかる。(日本は外国から攻められた時、戦うという人が少ない国だそうだ)
話は変わる。県会議員の選挙が公示されたが、揖斐郡は2人の定数に対して立候補が2人ということで無投票となった。最近、小さな町村では議会議員に立候補するする人が減っている。トクヴィルは、「地方自治はデモクラシーの最良の学校である」と言った。しかし、この現状である。
竹井隆人著「デモクラシーをまちづくりから始める」を読んだ。最初、まちづくりの本だと思って借りたが、内容はデモクラシーをどう作っていくのかという本だった。代議制は、国政は言うに及ばず、地方自治でも機能していない。コミュニティにおいても、仲良くなることばかり強調されて、同調圧力のみ高まる。ここには、お互いの違いを認めて、その中で合意を得るという「政治」はないという。その通りだと思うが、今自治会の役員をやっている立場から考えるとそのような機能は求められていないし、たった120世帯あまりでも合意をとることは容易ではない。著者はマンション管理組合がいわば直接民主主義実践の場となりうるとしている(しかし、実態は参加する住民は少ない)。これを例えば小学校区あたりまで拡大することはさらに困難である。
まちづくりについて数多くの本を読んできた。結論として言えることは、そこに住む住民がその気にならなければ何もできないということである。行政がよく行う「タウンミーティング」、実際は行政の説明会と化している。今まで、お百姓や自治会が行ってきた草刈り、川掃除など住民の高齢化に伴い実施するのが難しくなってきている。さらに空き家、一人暮らし高齢者の増加である。加えて、税収の減による行政の縮小である。トクヴィルが見たアメリカ、そこで行われていたタウンミーティング(地域の様々な問題、課題について多数の住民が参加し、政策を決め、実施する)を再現しなけばならない時代が訪れるかもしれない。お上を頼ってきた日本(一方でお上への信頼はない、公務員バッシングを思えばよい)、自立は可能であろうか。
竹井隆人緒「社会をつくる自由」(ちくま新書)の方が読みやすい。