城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

新緑は目の栄養・鳥木谷に登る ◯年◯月◯日

2020-05-08 20:04:25 | 山登り
 いつもEさんにはお世話になるばかりなので、たまには協力もしてみたいということで、旧徳山村村域の約40ばかりの三角点(三等以上)の制覇の一環として未踏の「鳥木谷(三等三角点(773.0m)」に同行することになった。知人が既に登っており、その人からヤブがないとの情報を仕入れていたし、標高も高くなく、おじさんでも足手まといにはならないであろうと思ったからである。
 地形図2万5千「美濃徳山」で「鳥木谷」を見ると、東、南、西三方が徳山湖となっており、北は能郷白山まで続く山と谷の連続となっている。このため磯谷にかかる磯谷ベロリ橋付近から尾根に取付き、東進し728mのピーク付近で北東方面に向かい、855mのピークで今度は北西に向きを変え、次のピークで北北東に向かい、100m下り、少し登ると目指す三角点がある。少し複雑なので、地図読みが中途半端だと難しいが、今はGPSがあるので難しくない。
 橋から取付き付近こそヤブだったが、10分もすると素晴らしいブナやナラを中心とする落葉高木の道となる。結構訪れる人も多いみたいで踏み跡まである。この新緑の時期に来た人は、きっと秋の紅葉時期にも来たいと思うであろう。


 歩き始めて40分落葉高木に囲まれた中を進む

 イカリソウ発見 赤花ばかりあちらこちらで咲いていた

 ミツバツツジ

 山頂の三角点

 山頂にて 木々の間から能郷白山が見える

 山頂付近は巨木が一杯

 下山途中 能郷白山がきれいに見えた

 今回登りはおじさんが担当したが、下りはEさんにお願いした。ヤブ山にも随分慣れてきたが、それでも下りは難しい。登るときは感じなかった尾根の広さ、尾根が二重になっているところ、方向が急にかわるところなどあり、時に道を間違う。

コースタイム 駐車地(トイレ付き)7:25→山頂三角点10:20~10:50→駐車地13:15

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岐阜県図書館休館中(2) 20.5.4

2020-05-04 20:43:11 | 面白い本はないか
  まずは、ビールのおつまみの話から始める。今が旬の自家製おつまみ。4月下旬に取ってきたタケノコの堅いところを使ったメンマ風タケノコ、ごま油と中華の辛みでご飯のおかずともなる。次に赤タマネギ、収穫前の柔らかいタマネギ、水にさらして鰹節とポン酢でいただく。どれだけでも食べれてしまう。最後にスナップエンドウの浅漬け、食感を楽しみながら少しピリ辛。今の時期、そして生産者でないと味わえない贅沢を披露した。

 前にも紹介したとおり岐阜県図書館は現在休館中。このため図書館の本は利用できないので、4月からは本棚の本のうち適当に選んで読み出した。今から10年前以上に出版された本が多い。当時は新書を中心に結構買っていたことがわかる。

 最初の本は、加藤陽子著「満州事変から日中戦争」(岩波新書・日本近現代史⑤)。簡単に読めると思ったものの意外と難しい。日本(政府なかでも当時の陸軍)の言う満州や中国における特殊権益は意外と列強が同意していない=認めていない権益であることが著者の詳細な追求により白日の下にさらされる。この積み重ねがアメリカとの戦いに結びついている(ハルノートではこうした特殊権益は否定された。このことをもっていわゆる「自衛戦争」なるものが開始された。)

 次は、吉野俊哉著「ポスト戦後社会」(岩波新書・日本近代史⑨)。おじさんの生きてきた年代を網羅しており、勉強になった。「夢」(見田宗介の戦後社会「理想・夢」の時代から「虚構」の時代へ)の象徴が1958年に完成した東京タワー、「虚構」の象徴が1983年に開演した東京ディズニーランド。日本社会にとって90年代は、その存立の根底が揺らぎ、同質性が失われていく未曾有の危機の時代であった(バブル崩壊、震災、オウム、産業の海外移転の進行等々)。この危機は現在も継続中であり、「日本」という歴史的主体が分裂・崩壊しつつある。この本が書かれてから10年経った。ますます日本の行き先は不透明化していると感じる次第。

 吉田裕著「アジア・太平洋戦争」(岩波新書⑥)。この著者については別の本で紹介しているので省略。自分の無知を披瀝するようだが、若いときに家永三郎著「太平洋戦争」を読んだ。アメリカと戦争したことは習っていた(高校の日本史の授業は第二次大戦まで届いていない!)が、その前史として中国等との宣戦布告のない戦争が続いていたこと、そしてその結果としてアメリカの戦いがあったことを知らなかった。

 一ノ瀬俊也著「皇軍兵士の日常生活」。この本を読んでいると子どもの頃見た戦争映画を思い出す。花菱アチャコだったか記憶が定かで無いが、古年兵による激しいいじめを娯楽映画にもかかわらず描写していた。少なくとも、このような映画を何本かは見た。アメリカ海兵隊=ブートキャンプの訓練の激しさは有名であるが、これらのいじめはそれとは違うと思うが。日本のいじめは陰湿、ルサンチマン?

 日暮吉延著「東京裁判」。ポイントとなると思われる箇所を引用する。「東京裁判は日本人みずからの過去に直面する機会となった。だが、そのことを踏まえたうえで、この判決の歴史とは国際政治の営みにほかならず、科学的歴史とは本質的に異なることを確認すべきだろう。だからといって「東京裁判は無意味だ」などと否定したいわけではない。しょせん「国際政治の結果」と割り切れば、より冷静に理解出来るはず(252ページ)」「戦犯が社会で軽蔑される者になったドイツと違って、日本人は戦犯を犯罪者ではなく犠牲者だと見た。日本人にとって、これらの裁判は勝者の復讐だった。(中略)国際政治の冷厳さを知るドイツの方が戦犯問題で日本より巧みに対応してきたのは間違いない}。安部さんは戦後レジームの精算と言っているが、憲法とともにこの裁判を否定したいのだろう。しかし、この裁判を日本はサンフランシスコ講話条約で認めているので、公言(特にアメリカに対して)は出来ない。

 最後に保阪正康著「「特攻」と日本人」。明確な目的さらには終戦計画もなしに始めてしまった大戦争の行き着く先といった感じがする。かつてこの著者の本を沢山読んできた。それに触発されたように多くの本へと導かれた。著者の思いが込められた箇所を引用する。「少なくとも、もし自分があの世代に生きていて、あのような環境に置かれていたら、どういう生き方をしただろうかという自問は必要である。」「彼らは英雄でも、まして犬死にでもない。戦争指導など行う資格のなかった軍事指導者によって進められたあの戦争の犠牲者なのである。」「特攻隊を特殊なものとすれば、そこに美化が始まる。」この本を読んで、吉田満著「戦艦大和ノ最期」に出てくる臼淵大尉の言葉を思い出した。「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩と言うことを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか。」 

 ジローズの「戦争を知らない子どもたち」という歌を若い頃よく歌ったが、ただの団塊世代の年寄りとなった今、東京裁判ではないが、日本兵や国民に対して容認できない罪をおかした軍事指導者が多くいる。その代表は特攻作戦を開始した軍令部(大西瀧次郎は自裁したが、本当は軍令部という組織。特攻隊員を見送りながら自分も後から行くといった上司たち)、インパール作戦で白骨街道をもたらした牟田口廉也。もちろん当時の国民も無罪とは言えない。そうすると誰にも責任は問えないことになってしまう「一億総懺悔」。

 


 
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庭の花(1) 20.5.3

2020-05-03 19:13:59 | バラ、クレマチス等
 畑の状況が気になって、起床するのが早くなった。6時に城台山中腹にある一心寺の鐘がなるのを聞きながら起きる。畑に行き、蒔いたレタスの水やりから始める。4月に草刈りした畦のまわりなどの草が生長してきた。明日は今年2回目の草刈りをしよう。スナップエンドウの収穫がピークを迎えつつある。少し収穫前に枯れてしまったところもある(意外と難しい)。水やりを少し怠ったので、スイカの苗を1本枯らかしてしまった。

 朝食、城台山散歩の後、庭の花、コンテナのイチゴ、ブルーベリー、ポットに種まきした枝豆、カボチャに水をやる。バラが咲き出した。ここでは何回かに分けて、庭の花たちを紹介したい。

 4月30日ボタン

 5月2日ボタン
ボタンは4本(1本枯れた)だが、花期が短いので、増やすつもりはない。


 4月30日シラー 随分増えた

 5月2日シラー 上のシラーより大きい


 5月3日ベルエポック(フロリパンダ)

 5月3日ボンヌイ(フロリパンダ)

 5月3日ピンクパーフェイト(ハイブリッドティ)
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東濃の最難関の山・井出ノ小路山に登る ◯年◯月◯日

2020-05-01 20:48:08 | 山登り
 井出ノ小路山(1840m、現中津川市、旧加子母村)を知っている人はおそらく少数であろう。そして、この山に登ったことがある人はさらに少数と思われる。この山のことは、昭和50年発行の「ぎふ百山」に詳しい。その本の興味あるところを抜粋する。「付知川源流一帯は今でも国有林として保護されているが、その功は尾張藩に負うところが多い。」「尾張藩の厳しい山林政策(いわゆる「ヒノキ一本、首一つ」と恐れられた)の名残は、今はわずかに井出小路林道をさかのぼった美林橋の上流に見ることができる(林道を歩くと「大ヒノキ」と書かれた案内板が見かけられる)。」「林道を歩いていると、カモシカに出会うことも珍しくない(実は林道の前に道路でカモシカに遭遇。交通ルールをわきまえているのかちゃんと道の端に寄ってくれた!!!)。

 2年前に誘われて、同じく「ぎふ百山」にある高樽山に出かけた。林道を3時間歩いて真弓峠を少し下りたとところから登れるはずであったが、ルートを少し間違え敗退したことがある。その林道が途中で分かれ、右に進むと井出ノ小路山だとその時聞いた。それ以来いつか登ってみたいと思っていた。今回、いつものEさん、さらにOさんの助力を得て、難関のこの山に挑むこととなった。かつて、大垣山協は悪天候ということもあって10時間を費やして登った。Eさんは8時間で登ったらしい。となると鈍足のおじさんが加わったグループでは9時間は覚悟しないといけない。大垣を5時に出発すればなんとか明るいうちに駐車地まで帰ることができるだろうと思った。

 2年前に見たゲートの前に車を停める。

 ゲート
高樽山分岐を過ぎると伐採した何本かの木が道をふさいでいた。林道周辺には大径木のヒノキも見られる一方、切り出された材木が林道の脇に並んでいる。林道も登りとなると意外と苦しい。マッハOさんと名付けられた女韋駄天の足取りは速く、男どもを後においていく。

 単調な林道歩き

2時間弱で涸れ谷の入口に到着。いよいよこれから涸れ谷が始まる。

 林道から涸れ谷へ

時に大きな石もあるので、適切なルート選択のうえ、石をよじ登る。沢が二つに分かれた地点に到着、右の沢を選ぶ。

すぐに水が出てくる。そして、沢しんを離れ、右の細い沢を登っていく。残雪も残り、滑りやすい。鞍部へは最後は笹をつかみながら到達する。

 鞍部からは踏み跡があると聞いていたが、確かにかすかな踏み跡はあるものの、かなりの激ヤブ。30分で山頂に到着と聞いていたが、1時間弱もかかってしまった。お昼少し前に山頂に到着。山頂の刈り払いはあるが、展望は全くない(最初から期待していない)。

 山頂に到着

 お昼タイム

30分あまりお昼休みの後、下りを開始。鞍部までは20分ばかりで到達、鞍部下の笹ヤブも難なく通過。そして涸れ谷、ここで登り同様おじさんが大ブレーキ。バランスが悪く、危なくて早く下りられない。それでも14時過ぎに林道地点に到着。ここまで来れば一安心、あとは2時間弱の退屈な林道歩き。何回か登っているEさん、Oさんもこの山には二度と来ないと言っていた。悲しいかな、すぐ近くの小秀山、奥三界山と違い訪れる人は少ない。しかしながら、こういう山が好きだという方も世の中にはきっとおられると思う。


 右寄りの中央部分が井出ノ小路山

コースタイム ゲート前6:50→涸れ谷8:45→沢の分岐10:02→鞍部11:00→山頂11:50~12:20→林道14:07→ゲート前15:45



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