醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 128号  聖海

2015-03-22 10:04:28 | 随筆・小説

    人生訓となった。諺になった俳句。

       おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉  芭蕉(貞享五年夏)

句郎 「おもしろうてやがてかなしき」とは、なにか人生を表現しているような言葉だね。
華女 そうね。私も小学校の先生になった当初は学校が面白かったわ。子供がとても可愛いくてね。それがだんだんうるさくなってくるのよ。四十数人の子供たちがおしゃべりしている中で授業する辛さが身に沁みてくるわよ。そのうち、こんなウルサイ子供たちに囲まれて私の青春は終わってしまうのかと思うと悲しくなっなったわ。
句郎 大学に入り、麻雀を覚えた仲間がいた。そいつは徐々に学校に来なくなっちゃったんだよ。そのうち全然学校に来なくなっちゃったんだ。仕送りされてきた授業料まで使い込んじゃって、大学を除籍されちゃった奴がいたな。そいつと偶然、高田馬場駅前であった時、ションボリしていたのを覚えているな。「おもしろうてやがてかなしき」人生を歩んだんだと思うな。
華女 人生には危険なことがたくさんあるから気を付けないとね。
句郎 そうだね。子供が大人になるのって、何でもないことのように思うけれども大変なことなんだよね。
華女 そうよ。芭蕉は鵜飼を見て、この句を詠んだんでしよう。
句郎 「おくのほそ道」の旅に出る前の年、芭蕉は岐阜の長良川に遊んだときに詠んだ句のようだよ。
華女 鵜舟になぜ芭蕉は面白さと悲しさを感じたのかしら。
句郎 鵜飼をする鵜匠さんは川魚の王様・鮎を鵜に取らせる。鵜の首を縄で縛り、飲み下すのを阻止する。見方によれば残酷に漁法なんじゃないかな。そんな残酷な見世物をする鵜匠さんにとって鵜飼は面白くも悲しさに満ちた見世物だと芭蕉は感じたんじゃないかな。
華女 鮎は本当に美味しいお魚よね。鮎の口に串を刺し、囲炉裏の炭火で焼いた鮎は絶品よね。
句郎 確かに、カラッと焼き上がった鮎の塩焼きで日本酒を飲む。最高の美味しさであることは間違いないね。
華女 鵜飼は夜するのでしょ。
句郎 カンテラの明かりに集まってくる鮎を鵜が捕まえる漁法だからね。それがショーにもなっている。
華女 川原の夜のショーだから、汚いものが見えないから夏の夜の幻想的な風景が展開するのかもよ。
句郎 娯楽としてのショーに潜む悲しみのようなものを芭蕉は感じたたんじゃないかと思うんだ。
華女 「おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉」。芭蕉の俳句の中で最高傑作の一つと言っていいんじゃないかしらね。
句郎 うん、僕もそう思うよ。『「奥の細道」をよむ』と言う本の中で長谷川櫂氏が次のようなことを言っている。芭蕉は『おくのほそ道』の旅を通して「かるみ」という人生観というか、文学観を得た。「かるみ」とは「かなしゅうてやがておもしろき鵜舟哉」というようなものだと、言っている。
華女 「おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉」を逆にしたのね。逆もまた真と言うことなの。
句郎 我々の目の前の現実はいつも無慈悲で残酷な悲しみに満ちたものだけれども、この悲しみに満ちた現実もそう捨てた物じゃないぞ。この現実の中には面白い現実もたくさんあるんだ。この喧しくウルサイ子供たちの中にもじっくり心を籠めて付き合えば面白いぞということじゃないかな。
華女 悲しみを軽く受け入れるということなのかしら。
句郎 そうなんじゃないかな。正岡子規という人は痛くて辛い病の中を平気に生きていくと言った。死を前にして平気で生きていく。これが「かるみ」ということなんじゃないかと思っているんだけれどね。

醸楽庵だより 127号  聖海

2015-03-21 10:38:06 | 随筆・小説

   『おくのほそ道』最後の句

         蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行秋ぞ   芭蕉 大垣

句郎 『おくのほそ道』の最期の文章を読むと師匠と弟子の人情の篤さが伝わってくるね。
華女 そうね。露通さんはわざわざ敦賀まで師匠芭蕉を迎えに行っているんでしょ。
句郎 露通さんは漂白の乞食生活していたところ、芭蕉と出会い、蕉門に入った人のようだ。乞食生活をして敦賀まで出迎えたとは驚くよね。
華女 芭蕉を出迎えたのは露通さんだけじゃなかったんでしょ。
句郎 そうなんだ。闘病していた曾良が伊勢から大垣まで来て芭蕉を出迎えた。
華女 凄いわね。芭蕉は門人から好かれていたのね。
句郎 うん。人気があったんだ。越人(えつじん)さんは名古屋から大垣まで馬をとばして芭蕉を出迎えたんだからね。
華女 昔の人はホントに人情が篤かったのね。
句郎 元大垣藩士だった如行(じょこう)さんの家に集まった。
華女 その他にもいたんでしょ。
句郎 「前川子(ぜんぜんし)、荊口(けいこう)父子、その外したしき人々、日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のものにあふがごとく」と『おくのほそ道』に書いてあるから十人弱の人々が如行さんの家に集まり、芭蕉が帰って来たことを喜び合ったんだろうね。
華女 御無事でなによりでしたと、でも言い合ったのかしらね。「師匠、是非紀行の俳文を書いて下さい」と弟子たちは皆、お願いしたんじゃないかな。
句郎 そうかもしれない。それで生れたのが「おくのほそ道」なのかな。
華女 そうなんじないの、きっとそうよ。
句郎 師匠である芭蕉は弟子たちと共に二・三日、大垣で過ごすと「長月の六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて」と書いて「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行秋ぞ」と別れの挨拶句を残して伊勢へ旅立つ。
華女「伊勢の遷宮」とは何なの
句郎 内宮、外宮の社殿をすべて新しく作り替えて神霊が坐する場所・神座を遷すお祭りを言うらしい。
華女 そういえば、2013年伊勢の遷宮があるから伊勢神宮に行かないと誘われたわ。
句郎 そう、21年ごとに遷宮は行われてきたそうだよ。元禄時代にも伊勢の遷宮があったんだね。
華女 神道への信仰は無いようで確実に日本社会に根付いているのね。
句郎 芭蕉は禅宗の教養を持ち、神道への信仰もあった。おおよそ今の日本人とかわらない宗教観を持っていたのじゃないかな。
華女 そうね。伊勢は蛤の名所じゃない。
句郎 「蛤の」と上五に始まるのは「伊勢の遷宮おがまんと」とから思いついたんじゃないかな。
華女 「ふたみ」は蛤の蓋(ふた)と身(み)のことかしらね。
句郎 そうなんじゃないかな。それと伊勢には名所・二見が浦があるじゃない。「ふたみ」は掛詞になっているのかもしれない。
華女 あっ、そうなの。
句郎 どうも、そのようだよ。「ふたみにわかれ行」とは蛤が蓋と身が離れ離れになるように私も弟子の皆さんとわかれ行きます。行秋と共に。こんな意味なのかな。
華女 この句はなかなか技巧的な言葉遊びの句になっているのね。
句郎 だから談林派の俳句のようだと指摘する人がいるんだ。「おくのほそ道」の終わりに載せる句として適当ではないのではないかと主張がある。
華女 なるほどね。「風雅の誠」の世界とちょっと違うというわけね。
句郎 それから、「行秋」で終わっているのは「行春や鳥啼魚の目は泪」で始まっている句に対応していると言われているようだ。
華女 そうよね。「行春」で始まり、「行秋」で「おくのほそ道」は終わっているのね。

醸楽庵だより 126号  聖海

2015-03-20 09:38:44 | 随筆・小説

   歌に酒に  若山牧水の歌を味わう

 肝硬変を病み、死の床にあった若山牧水は朝食として日本酒を100cc飲んだ。その一時間半に牧水は永眠した。享年44歳、昭和三年のことである。
 牧水もまた旅に生き、旅に死んだ詩人だった。牧水は酔いを楽しみ、酒に病み、死んだ。死に急いだ詩人だった。牧水は旅をせざるを得なかった。酒を飲まずにはいられなかった。牧水24歳の時に最初の歌集『海の声』刊行する。この歌集の中に酒を詠んだ歌がある。
 津の国は酒の国なり
 三夜二夜(みよふたよ)
 飲みて更なる
 旅つづけなむ
「津の国」とは、摂津。神戸市灘のことである。灘には銘醸蔵が並んでいる。若者は独り酒を飲んでは旅を続けた。
 浪速女(なにわめ)に
 恋すまじいと旅人よ
 ただ見て通れ
 そのながしめを
 『津の国』の歌の次にこの歌が詠われている。若者は色街に興味をそそられた。が一方怖かった。酒を女に興味をもつ平凡な若者がここにいる。
 ちんちろり男ばかりの
 酒の夜をあれちんちろり
 鳴きいづるかな
 「紀の国青岸にて」と注記がある。和歌山県那智町にある青岸渡寺に牧水は参拝した。そこでこの歌を詠んだ。青岸渡寺は西国33ヶ所巡りの第一札所である。牧水は一人遍路宿に泊まった。夜、遍路たちが集まり、酒を酌み交わした。その仲間に牧水は加わった。鈴虫の鳴き声が牧水の心の底に落ちていく。酒は若者の心に孤独と哀愁をそそう。
 とろとろと琥珀の清水
 津の国の銘醸白鶴(はくかく)
 瓶(へい)あふれ出(づ)る
 灘の生一本、溢れ出て来る酒に牧水の心はわくわくしている。
 女ども手うちはやして
 泣き上戸泣き上戸とぞ
 われをめぐれる
 酒を飲むと牧水は女々しく泣いた。哀しみがあふれ出た牧水は女たちからからかわれる自分をじっと見ている。
 ああ酔ひぬ
 月が嬰子(やや)生む
 子守唄うたひくずれや
 この膝にねむ
 酒場の女と楽しく飲んだ。ああ酔った。童謡を唄い続けて居眠りを始めた歌姫よ。私の膝で眠るがよい。陽気に楽しむ牧水がここにいる。
 歌集『海の声』にみる牧水の酒は朗々と楽しさを詠っている。
 第二歌集『独り歌える』は明治四十三年、牧水、二十六歳の時にだされたものである。
 いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見む
このさびしさに君は耐ふるや
 朗々と声を出して読んでみたい。牧水の気持ちが伝わってくる。女を恋う気持ちを詠っているのだろう。この朗々としたところが牧水なのだ。
 あなさびし
 白昼(まひる)を酒に
 酔い痴(し)れて
 皐月大野の麦畑をゆく
 歌集『独り歌へる』にでてくる初めての酒の歌である。五月、青空の下、麦畑の中を赤い顔をした若者が一人歩いて行く。懐かしい時代が偲ばれる。長閑にみえる風景の中の若者の心は寂しさに満ちている。
 朗々としてはいても、その中には哀愁がある。どうも酒を詠った歌は哀しいものが多い。陽気に詠ってはいてもその底には哀しみがある。哀しみを被う壁を酒は取り除き、心の襞を剥きだしにするようだ。

醸楽庵だより 125号  聖海

2015-03-19 11:12:39 | 随筆・小説

  
  「萩の塵」は本当に塵だ    
          波の間や小貝にまじる萩の塵  芭蕉『おくのほそ道・種(いろ)の浜』

句郎 華女さん、萩を詠んだ芭蕉の句の中で一番好きな句は何かな。
華女 すべて知っているわけではありませんよ、「白露もこぼさぬ萩のうねり哉」と言う句がありますでしょ、この句がいいかなと思っているわ。
句郎 そうだね。この句は萩をリアルに表現していると僕も思うな。
華女 そう思ってくれる。
句郎 萩は道野辺にたわわに垂れて咲くんだ。細い木が人の背丈ほども伸び、たわわな葉と細い枝に小さな花が幾つもつく。朝の秋、萩の小さな葉に玉となった露がころんでいるんだ。萩の枝が頭を垂れてそよ風にも木が震える。
華女 朝の秋の萩の風情が見える句が「白露もこぼさぬ萩のうねり哉」なのね。
句郎 「白露もこぼさぬ萩のうねり哉」。この句は満開の萩の花を詠んでいるが「波の間や小貝にまじる萩の塵」、この句は花が散った後の萩を詠んでいる。
華女 「萩の塵」ですものね。
句郎 晩秋の萩かな。散った後の萩の花はまるで塵のような存在になるんだ。泥と区別がつかないような塵そのものになってしまうんだ。
華女 句郎君、詳しいじゃないの。
句郎 うん、奈良の唐招提寺にいたことがあるんだ。秋になると伽藍にたくさん萩の花が咲いてね、とても綺麗だった。萩の花が散ると伽藍の砂に混じってしまい、掃除が大変だったことを覚えているよ。
華女 「小貝に混じる萩の塵」という言葉には分かるような気がするのね。
句郎 そうだね。実際、種(いろ)の浜から見える波間には赤い小貝が漂っていたんだと思う。だから萩の散った花の残骸も波間に漂っていたんじゃないかと思うけどね。
華女 芭蕉は西行の歌に誘われて種の浜に行ったんでしょ。
句郎 「潮染むるますほの小貝ひろふとて色の浜とはいふにやあるらむ」(西行・『山家集』)かな。赤い小貝が波間に漂うと海が赤く見えたから「種(色)の浜」と言われるようになったらしい。西行の歌の通りだ。
華女 「小貝に混じる萩の塵」は見えたまま絵のように描きとっているのね。
句郎 僕はそうなんじゃないかと思っているんだ。長谷川櫂氏が『「奥の細道」をよむ』の中で「萩の塵」は芭蕉の幻想だろうということを言っているけれども、この指摘は違っているんじゃないかなと思っている。
華女 「潮染むるますほの小貝」と西行が詠んだように潮が赤く染まることがあるのかしら。秋、「種の浜」に今でも行くと海は赤く見えるのかしらね。
句郎 ネットで「種の浜」の写真を見ると海が赤く見える写真は一枚もなかったよ。しかし見方によっては赤くはないが赤っぽく見ようと思えば、わずかながら赤くも見えるかなァーという写真があった。
華女 波間が赤く見えるのはホンの一瞬のことなのかもしれないわよ。
句郎 芭蕉の句はリアルな所に特徴があると思っているんだ。
華女 「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店」だったかしら。
句郎 そうだよ。クールベの絵のようなリアルさが芭蕉の句の凄さだと思っているんだ。

醸楽庵だより 124号  聖海

2015-03-18 10:15:29 | 随筆・小説

 
  上五に主観、これが蕉風なのか!  
             寂しさや須磨にかちたる浜の秋  芭蕉『おくのほそ道・種(いろ)の浜)』

 寂しいなぁー、種の浜の秋は。寂しさを古歌が詠んだ須磨より種の浜の秋は寂しいなぁー。芭蕉は百人一首を知っていた。「わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ」。(たまたまでも私を尋ねる人がいたら、須磨の浦で藻塩にかける潮水を垂らしながら侘びしく暮らしていると言って下さい)。須磨の寂しさと比べて芭蕉はこの句を詠んだ。寂しい印象が強かった。その印象を述べる。寂しさを強調したい。その気持ちを上五にもってくる。「寂しさや」と思いが流れ出て、「浜の秋」と体言で思いを止める。この俳句の型はオーソドックスな型として現代俳句に定着している。『おくのほそ道』にはこの句の他にも同じ型の句がある。
「あらとうと青葉若葉の日の光」 あぁー貴いなぁー、青葉若葉に朝日が光る日光には厳粛な貴さがあるなぁー。
何と貴いのかという気持ちが表現されている。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」 蝉の鳴き声が岩に沁み込んでしまうような静かさがあるなぁー。森の中の静かさが何と厳粛なのだろう。厳粛に静かさが表現されている。
 有難や雪をかほらす南谷  あぁー有難いなァー、南谷には雪を香らす風が吹いてくる。有難いなァー。汗かいた体に吹く風の有難さが表現されている。
 涼しさやほの三か月の羽黒山  あぁー涼しいなァー、三日月のかかった羽黒山を眺めていると涼しいなぁー。
このような解釈の他に羽黒山から眺める三日月の涼しさを詠んだという解釈もある。
 秋涼し手毎にむけや瓜茄子  これが秋の涼しさだなぁー。楽しそうに手毎に瓜茄子を剥いているなんて。この句は「秋涼し」で切れている。
 むざんやな甲の下のきりぎりす  甲の下で鳴くキリギリスの鳴き声を聞いているこの甲を被って戦った実
盛の無惨さが偲ばれてならないなぁー。
芭蕉の俳句は気持ちを詠む。古歌に詠まれた名所で刺激された感情や主観を詠む。歴史的遺物を見て引き起こされた気持ちを詠む。殷賑とした蝉の鳴き声を森の中で聞き、心に起きた変化を詠む。キリギリスの鳴き声を聞き、悲劇の武士の心意気を偲び、句を詠む。
 夏草や兵どもの夢の跡  今や夏草が繁茂している。ここで義経は戦ったんだなァー。繁茂している夏草、自然を見て、芭蕉は義経を偲ぶ。
 荒海や佐渡によこたふ天河  この荒海の向こうに流人の島、佐渡があるんだなぁー。天河を見て島流しにあった人々は本土の事を偲んだにちがいないだろうなぁー。越後路から佐渡を眺めて昔を偲んだことを詠む。
 野を横に馬牽むけよほととぎす  時鳥が鳴いたぞ、どっちだ。馬の首を時鳥が鳴いた方に牽き向けよう。
 鳥の鳴き声に反応したことを詠む。
 このように見てくると芭蕉の句は自然の風景や自然の音、その土地にまつわる歴史、西行が歌を詠んだ場所、そのようなものによって刺激された主観を詠んでいる。ここに特徴があるようだ。しかしそうではない句もある。例えば、「五月雨をあつめて早し最上川」。梅雨の後、水量の増えた最上川の河の流れの速さを詠んでいる。これは客観写生の句のように思う。「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」。「尿(しと)する」と読む人もいる。この句も客観写生の句のようだ。芭蕉における主観と客観という問題をいつか考えてみたいと思っている。今のところ私の結論は主観的な句も客観的な句も同じ客観的な句なのであろう。このよう仮説を持っている。


醸楽庵だより 123号  聖海

2015-03-17 10:03:42 | 随筆・小説

   月見に想いを  名月や北国(ほくこく)日和定なき  芭蕉(おくのほそ道・敦賀)

華女 お月見に芭蕉は格別の想いがあったみたいね。
句郎 どうも、そのようだ。
華女 「十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ」と、わざわざ「おくのほそ道」に書いているところを見ると敦賀でお月見をしようという意志のようなものが芭蕉にあったということよね。
句郎 そうなんだ。十四日は中秋の名月の前夜だものね。
華女 「その夜、月殊晴(つきことにはれ)たり。『あすの夜もかくあるべきにゃ』といへば『越路の習ひ、猶明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし』」と「おくのほそ道」に書いているわ。
句郎 今日と同じように明日の夜も晴れるでしょうかねと芭蕉は宿の主人に尋ねているんだものね。
華女 「十五日、亭主の詞(ことば)にたがわず雨降」と前書きして「名月や北国日和定なき」と残念な気持ちを表現しているわけよ。
句郎 「名月や」と心に描いたお月見をしたんだろうね。
華女 雨夜のお月見に俳句の味が出ているのかもしれないわ。
句郎 今夜は雨夜の月見だよと、自分を笑っているということかな。
華女 お月見というのは年中行事の一つでしょ、こうした年中行事に想いを寄せる気持ちが芭蕉は強かったのかしら。
句郎 芭蕉だけでなく、当時の人々一般が年中行事を待ち焦がれる気持ちが強かったんじゃないかと思う。
華女 お月見という行事が庶民にまで広がったのはいつごろからだったのかしらね。
句郎 お月見という行事が広く農民や町人にまで広がったのは元禄時代だったのじゃないかな。
華女 お月見という行事は古くからあるんでしょ。
句郎 中国にあった行事を日本が真似たんだろうね。奈良時代の遣唐使が伝えたのじゃないかと思う。
華女 唐時代の詩人、李白に月を詠んだ詩があるじゃない。
句郎 李白の「静夜思」とか「月下独酌」かな。
華女 「牀前 月光を看る 疑ふらくは是れ地上の霜かと 頭を挙げては山月を望み 頭を低れては故郷を思ふ」
こうした月を詠んだ詩が広まることによってお月見という行事が生まれ、広がっていったのじゃないかと思うわ。
句郎 唐時代の詩人が月を詠むことがお月見という行事を普及させたということはあるんじゃないかな。
華女 文学は社会に大きな影響を与えるのよね。
句郎 そうなんだろうね。
華女 中秋の名月というのは満月のことなんでしょ。
句郎 初秋、秋、晩秋と三分すると秋の満月のことを中秋の名月というらしい。
華女 中秋の名月を静かに愛でたお月見がいつかお酒を楽しむ行事になっていったわけよね。
句郎 きっと元禄時代の頃にお月見が町人の行事になった頃にはお酒を楽しむ娯楽になったんだろうね。
華女 「あるじに酒すすめられて」と「おくのほそ道」に芭蕉は書いているわ。
句郎 農民や町人にとって今のように娯楽が満ち溢れていたわけではなかったから、お酒が呑めるというだけでお月見を待ち焦がれた人々が大勢いたのかもしれないなぁー。
華女 男はそうだったんじゃない。女の人がお酒を楽しむなんて当時は遊女でもなければいなかったでしょうからね。
句郎 そうか、お月見を待ち焦がれたのは男だけだったのかもしれないな。でも子どもたちは団子が食べられると待ち焦がれたかもしれないよ。
華女 そうかもしれないわね。

醸楽庵だより 122号  聖海

2015-03-16 09:36:12 | 随筆・小説

    カラオケや酔いを楽しむ春の宵  聖海

 「北の漁場はよぉー╍╍」トンちゃんが北島三郎の歌を唄い始めた。隣りで話をして、トンちゃんの唄を聞かないでいると「黙って聞け」と怒る。話を止めて聞いているふりをしているとトンちゃんは気持ちよくいつまでも唄い続ける。
「トンちゃん、うまくなったね」
「これ、かけてっからよ」
 トンちゃんは人差し指の先と親指の先を結び、円を作る。トンちゃんとセイちゃんがこの居酒屋でカラオケ好きの双璧をなしている。どんな唄でも唄う。どの唄を唄っても同じ節である。歌詞が違うだけである。
 トンちゃんが居酒屋に入ってくるなり、ママにお土産を渡す。畑でとれたナスであったり、トマトであったり、枝豆であったりする。
「いつも悪いわね」
 ママは感謝の言葉を返す。
「いや、いいんだよ。どうせ、余ったものは腐っちゃうんだから。食べてもらった方がいいんだよ。オヤジも悦んでいるんだから」
「もう、ご主人さんは定年になってどのくらいになるの」
「三年だよ。何の趣味もない人、唯一の楽しみが野菜作りなんだから。息子も娘も家じゃ、ほとんどご飯食べないんだから、私とオヤジの二人じゃ、余っちゃうんだよ」
「いいご主人じゃないの」
「酒も飲まない堅物でね、面白味が何もない人なんだから」
 トンちゃんはママと話をしている。カラオケの厚い本のページを繰りながら、また新しい唄を唄い始める。トンちゃんはコンビニに卸すおにぎりや惣菜を作っている会社で働いている。深夜の勤務も若い頃はしていたが今は午後四時には仕事を終える。
「主婦だからよ、オヤジのご飯作らなくちゃなんねーからよ、買い物してきたんだ」
 一時間半ぐらい、慌ただしく大ジョッキでビールを飲み、ウーロンハイを飲む。ツマミにお刺身を一皿食べる。その間にカラオケをする。三・四曲を唄う。
 化粧っ気が何もないトンちゃんの顔を見ると眉毛が美しい。
「トンちゃん、眉毛、綺麗だね」と言うと、トンちゃんは顔を隠してしまった。
「オレ、恥ずかしってよ」ときまり悪そうな笑い声をあげた。
「何が恥ずかしいのよ、もう、眉毛、描かなくっていいんだから、良かったじゃないの」。ママが声をかけた。
 ママが生真面目な顔をする。
「眉毛を彫ってもらったんだよ、ママが行くべ、と言うからサァー、オレもいいかなと思ってママと一緒に昨日、行って来たんだよ」
「良い形に彫れているでしょ、トンちゃん、ほとんど眉毛無かったんだから、ちょうど良かったじゃない」
 何が良かったのか、サッパリ分からないような顔をトンちゃんはしたが頷いていた。トンちゃんは唄い、食べ、飲むと慌ただしく夕餉の材料を抱え、帰っていく。後姿を見るとズボンがパンパンに膨れている。コンクリートの床の上を絶えず冷たい水が流れている処で作業をしている。「股引は二枚穿かないと冷えちゃうんだよ」と言っていたトンちゃんを思い出した。
 禿げ上がった頭にいつも手拭を巻いているカシラと一緒になるとトンちゃんのメートルは上がる。いつも一時間半を超えることないトンちゃんがカシラと一緒だと時間を忘れてしまう。カシラは焼酎一本を空ける。裕次郎の唄を情緒一杯、想いをこめて唄う。飲み仲間からアンコールの声がかかる。トンちゃんは一所懸命手を叩き、カシラと一緒に酔いを楽しむ。

醸楽庵だより 121号  聖海

2015-03-15 12:17:37 | 随筆・小説

 芭蕉は古人を慕う  月清し遊行のもてる砂の上  芭蕉『おくのほそ道・敦賀』

句郎 旧暦の八月十日前後(新暦9/23ごろ)に芭蕉は敦賀の宿でお酒を頂き、夜風に吹かれながら気比(けひ)の明神に参拝した。
華女 今の気比神宮と言われている所ね。
句郎 福井県敦賀市にある神社だ。越前一の宮といわれ、戦前官幣大社といわれた神社のようだ。
華女 大変な権威ある神社だったのね。
句郎 芭蕉は「仲哀(ちゅうあい)天皇の御廟也」と書いている。神社の門前に立つと神々しい雰囲気に包まれる。松の木の間から月光がもれている。神社に敷き詰められている白砂が一面の霜のように見える。このような神社に夜、お参りした。その時の句が「月清し遊行のもてる砂の上」だった。
華女 「遊行のもてる砂の上」とは何なかしらね。
句郎 「田一枚植て立去る柳かな」と芭蕉が蘆野の里で詠んだ柳を「遊行柳」と言っている。これは謡曲『遊行柳』からきているが、「月清し遊行のもてる砂の上」。この句の「遊行」は遊行上人のことのようだ。
華女 「遊行上人」とはどんな人かしら。
句郎 僧侶が布教や修行のため各地を巡り歩くことを「遊行」と言った。
華女 昔のお坊さんは、みんな日本各地を巡り歩いて布教して歩いたんじゃないの。
句郎 うん、でも特に布教や修行のために日本各地を巡り歩いたお坊さんというと奈良時代では東大寺を建立に大きな力を発揮した行基がいる。平安時代の終わりごろになると弘法大師・空海が四国各地を巡り歩き、布教すると同時に修行した。それが現在のお遍路さんとなって残っている。鎌倉時代の中ごろになると空也上人、時宗を起こした一遍上人が有名だ。江戸時代、芭蕉と同じころ生きたお坊さんに円空がいる。円空仏で有名なお坊さんだ。また『チベット旅行記』を残した河口慧海も遊行僧と言えると思う。
華女 観光旅行の旅ではなく、僧侶の遊行、旅は修行・布教・学びが一体化したものだったようね。
句郎 芭蕉の旅もまた、人間の真実を追求する旅だったように思う。
華女 人間の真実を芭蕉は追求したから芭蕉の句は文学になったのかもしれないわね。
句郎 そうかもしれない。「遊行のもてる砂の上」の「遊行」とは一遍上人が唱えた念仏をして日本各地を巡る僧侶を「遊行僧」と言ったようだ。念仏を唱えることが楽しかったんだろうね。きっと。一遍のことを「遊行上人」ともいうようだ。
華女 巡り歩くことを楽しんだのよね。
句郎 修行を楽しんだんだと思う。芭蕉もまた句を詠む楽しさを満喫してた。
華女 楽しくなかったら、こんな厳しい旅をしなかったと思うわ。
句郎 江戸時代は神仏習合だったから、一遍の教えを受けた「遊行二世の上人」、他阿上人が大願を発起し、参道がぬかるみ、雑草が繁茂したのを刈り、土石を運び入れ、砂を撒いた。こうして参道が立派になったので参拝者が足元に苦しむことがなくなった。このことを「遊行の砂持」と言ったようだ。
華女 神々しい月光が遊行上人によって盛り土された上に撒かれた白砂に降り注いでいる。そういうことを詠んだ句が「月清し遊行のもてる砂の上」という句だったね。

醸楽庵だより 120号   聖海

2015-03-14 12:47:55 | 随筆・小説

 「ロシアの声」からのコピー
 元首相・鳩山由紀夫氏のクリミヤ訪問での発言 
 
 モスクワで3.13日、クリミアを訪問した日ロ協会の指導者である鳩山由紀夫元首相のブリーフィングが開かれた。鳩山氏が率いる5人からなる代表団は13日、ロシアを出国する。鳩山氏はMIA「ロシア・セヴォードニャ」で開かれたブリーフィングで、ロシアのジャーナリストたちを前に、残念ながら日本のマスメディアはクリミアの状況を欧米の立場から伝えていると指摘した。
鳩山氏はクリミアで、地元の人々や、クリミアで暮らす日本人、モスクワ大学セヴァストーポリ分校の学生と会い、クリミアの住民が自発的に実施した住民投票の結果、クリミアがロシアに加わったことを個人的に確信した。
ブリーフィングには、ロシア側からクリミア共和国のゲオルギー・ムラドフ副首相が出席した。ムラドフ氏は、鳩山氏一家が露日関係の発展に大きく貢献し、鳩山由紀夫氏が、自国・日本の愛国者としてクリミアで露日の友好関係を確立するために膨大な活動を行ったと指摘した。なぜならムラドフ氏によると、ロシアとの友好関係を「望んでいないのは、ロシアを敵で囲もうとしている人々だけ」だからだ。
 鳩山氏は日本に帰国した後、国民やマスコミ代表者にクリミアの真の状況に関する情報を伝える予定。また鳩山氏が、クリミア訪問について書籍を執筆する可能性もある。
 ラジオ「スプートニク」が、露日関係発展にあらゆる可能性を与える鳩山氏のブリーフィングの様子をお届けする。

 鳩山氏は冒頭、次のように挨拶を述べられた。

‐ありがとうございます。こちらにお招きをいただいて感謝を申し上げます。私どもは日本から5名の団体でクリミアを訪問してまいりました。私たちは西側、とくに米国中心の情報によって日本の多くの報道がなされています。そのことが必ずしも日本の国民に正しい報道がなされていないのではないかと大変心配しておりました。私がクリミアに参りましたのはいくつかの理由がございますが一番の理由は、正しい歴史的な事実をこの目で見て、そして、クリミアの皆さん方がどのように暮らしておられて、どのような未来を持とうとしておられるかを直接拝見することでございました。しばしば日本では、米国と西側諸国にならいまして、経済制裁というものをロシアに加えております関係で、残念ながらこの経済制裁によって日本とロシアの関係も必ずしも正常な状況ではなくなってしまいました。日本の政府が制裁を加えるということに関しては、それは日本政府の立場でありますが、それが正しいものであるかどうかということを私たちは判断する必要があろうかと思っています。ロシアの軍事的なパワーによって住民投票がなされたのではないかと、そのような報道も日本ではなされております。従って、住民投票も正当なものではなかったから、制裁を加えるという論理が成り立っております。それが果たして真実かどうかということを知りたくて、クリミアを訪れました。多くのリーダーの皆さん、ベレヴェンツェフ大統領全権代表をはじめ、多くのリーダーの皆さんにお目にかかってまいりましたし、クリミア連邦大学と、また、モスクワ大学のセヴァストーポリ分校において、多くの学生さんたちとディスカッションをしてまいりました。そして分かったことは、住民投票が決してロシアの圧力でなく、自分たちクリミアの住民の皆さん方の自発的な行動の中から正当に行われたものである、結果として、民主主義に基づいて、ロシアへの編入というものを、自ら求めたものであるということがわかりました。国際法違反とか、ウクライナ憲法違反である、などといった批判もなされておりましたが、決してそうではなく、ウクライナ憲法も忠実に守りながら、国際法を違反することなく、住民投票がなされたことも、様々な方々の意見を伺いながら、事実として知った次第でございます。このような中で日露の関係が、たとえば領土問題を含めて、いまだに解決がされていない状況の中で、果たして日本がロシアに制裁をこれからも続ける意味というものがあるのかどうか、大変、私は、疑わしく思っています。早く正常な日露関係に戻して、そしてプーチン大統領閣下の日本への訪問を早期に実現して、日本とロシアの交流がもっともっと盛んになることを期待しております。

質疑応答:

―日本が対ロ制裁を解除する可能性はあるでしょうか?もしあるとすれば、いつ行われるでしょうか?もう一つの質問があります。鳩山氏は、日本での情報封鎖を打ち破ることができると述べられましたが、それをいつ、どのような方法で行うことができるでしょうか?

「私として、出来る限りのことをしてまいりたいと思います。まず、私は東アジア共同体研究所という研究所の理事長をしています。その立場から、たとえばインターネットなどの報道によって、国民の皆様方に正確な情報をお伝えしてまいりたいと思いますし、また、ウクライナ問題、クリミア問題に対して、ブックレット、本などを書き著すことなどを行いながら、国民の皆様に正確に情報をお伝えしてまいりたいと思っています。できれば政府関係の方々にもお伝えする努力をしたいと思っています。」

―鳩山氏は、クリミアと日本は経済面で協力が可能だと述べられていますが、具体的にはどの経済分野での協力が可能でしょうか?

「クリミアの皆様方、特に指導者の方々と意見交換をして、日本の技術力に対して高い評価(をいただき、)協力の可能性というものを検討しております。さきほどお話がありましたように、水の供給問題、あるいは電力の問題、さらには、これはアファナシエフ駐日ロシア大使から発言をいただきましたが、ケルチ海にかかる橋の建設というものをいま進めているという話がございました。本来ならば、すなわち、制裁というものが無い状況であれば、このような技術というものを、すぐにでも協力させていただきたいと思っています。ただ、現在、政府がロシアに制裁を課しているという状況の中で、必ずしもそれぞれのプロジェクトがすぐに役に立つかどうか、採用されるかどうかは疑問であります。極力、民間の力で、そのような技術協力を行うことを求めてまいりたいと思っていますし、先端技術の、民間の技術力をクリミアの皆様方のために協力させていただくと。民間企業の進出というものを考えられないか。これから日本に戻ってから検討してまいりたいと思っております。」

―ポクロンスカヤさん(クリミア検事総長)のファンだというのは本当ですか?

「正直に申し上げますと、ポクロンスカヤ女史には、今回はじめてお会いいたしましたが、それまで必ずしも情報を存じ上げておりませんでした。魅力的な方だとは思っておりますし、ウクライナにおられながら、大変正しい判断をされた女性だと伺っております。しかし、何か特別な感情を持っていたとか、そういう話は噂の段階で、事実ではございません。」

―ウクライナ南部・東部を視察される計画はありますか?例えば、ドネツク視察などはいかがでしょうか?

「日本からの制裁を解除するという方向は、望ましいとは思いますが、現在、米国に追随する外交しか持ち合わせていない日本の政府は、なかなかその判断をしづらいと思っています。それだけに、少なくとも、「日本の皆様方には事実を知っていただきたい」という願いでクリミアを訪れました。私がこれから行動していくことによってクリミアの事情というものをより、日本の国民の皆さん方が知っていただくことによって、政府を動かしていくことは不可能ではないと思っておりますので、そのような草の根の活動をしてまいりたいと思います。また、現在のところ、やはり、ウクライナの東部に関しては、様々な悲劇が生じておりますが、その地域に直接伺うということを今は考えてはおりません。」

―自民党は鳩山氏のクリミア訪問を非難したそうですが、野党側、例えば民主党は鳩山氏のクリミア訪問に支持を表明していますか?

「残念ながら、民主党の方々からも、必ずしも好意的な反響が来ているわけではありません。「できれば行かないでほしかった」というような言葉が返ってきております。ただ、私は民主党を設立した人間ではありますが、残念ながら現在の民主党は、2009年の政権交代のときの民主党とは大変に変わってきてしまっておりますので、また、私も民主党の党員ではなくなっておりますので、民主党だから賛成してくれるだろうという期待は持ってはおりません。」

―鳩山氏のクリミア訪問の後、西側のプロパガンダの正当性を確かめるために日本から誰かがクリミアを訪れる予定はありますか?

「私は、その可能性はあると思っています。日本の外務省は私が訪問することに関して否定的、批判的でありましたけれども、しかし、制裁を課すということと、ではその地域に行ってはいけないかということは、全く別の次元の話だと思っています。むしろ、多くの日本の国民の皆さんがたに、クリミアの真実を見ていただくことが大切だと思っておりますので、色々と疑いを持っておられる、特にジャーナリストの方々に率先してクリミアに入っていただき、クリミアの事実を知ってもらいたいと思っています。そのような努力をしてまいりたいと思います。」

―日本に帰国してパスポートが取り上げられた場合、クリミアに住まわれるご予定はありますか?

「私は、日本政府は、賢明な判断をすると思います。一部では、過激な方から、そのような言動が見えておると思いますが、私は、パスポートを取り上げるなどということが行われるべきだとは思っておりません。これは、かつて駐日大使を務められたパノフさんの話ですが、ロシアでも、制裁は制裁として、誰がどこへ行ってはならないなどと政府が制限をつけるということは適当な判断ではない、と申しておられます。私もそのように思っております。」

―クリミア半島はとても美しいところで日本の伊豆半島に似たところがありますが、今回のご視察の印象について教えてください。

「伊豆半島と似ている部分もあるいはあるかと思いますが伊豆半島以上にクリミア半島はスケールが大きな地域だと思っています。黒海の海がたいへんきれいでありましたし、桃の木でしょうか、満開で、たいへん、木々は美しかったと思っております。さらに、急峻な山肌も見せていただきました。このような自然は、みどりの多い伊豆半島と似ているとも言えますが、しかし、よりスケールの大きな、地球というものを感じさせる地域であったと思っております。」

―ロシア訪問の枠内でロシア人の政治家の誰と会談しましたか?

「モスクワ滞在中には、ナルィシュキン国家院議長閣下にお目にかかりました。お会いした国会議員は、あと、スリペンチュク露日議員連盟会長が、そのナルィシュキン国家院議長との会談に同席されておりました。」

―今日の時点で、日本の企業からクリミア発展のために何らかの前提的な合意は出されていますか?

「基本的にはゼロからのスタートということになりますが、私どもの同行者の中に、LEDの技術を開発した企業に属している者も含まれております。たとえば、彼も、大変意欲的に、日本の先端技術を、クリミアで大きな花を咲かせることが出来るのではないかと、そのように考えております。具体的には、これからのスタートでございますが、大きな希望をもって臨んでまいりたいと思っています。」

おしまいに鳩山氏は、次のように述べられた。

「一言、最後に付け加えさせていただきたいと思います。日本のメディアなどでは、鳩山さんはどうやってクリミアの皆様方が住民投票を正しく実行したかということに対して、実際にそのことを見てきたのですかと、そういうふうに、批判的に質問をされています。それに対しては、まさに、さまざまな指導者の方々から、そして学生さんたちから、その事実を事実として受けとめさせていただきました。と、同時に、一年経って、皆様方が、ウクライナからロシアへ編入をクリミアの皆様が決めたという政治判断、住民投票、民主的な行動が、正しかったと、みなさんが幸せを享受しておられるということが何よりの証拠だと、そのように考えております。ある意味で、クリミアの皆さん方が、ロシア人、ウクライナ人、クリミアタタール人の皆さん方が、多くの民族が協力をしながら、それぞれ人権というものを守られながら、正しく生活をされている姿は、世界のモデルにもなるくらいではないか、そのように考えています。」


http://japanese.ruvr.ru/2015_03_13/283321900/

醸楽庵だより 119号  聖海

2015-03-14 10:13:51 | 随筆・小説

   存在責任。難しい言葉だ。存在責任は人にも、商店にも、企業にもあるとFさんは主張する

 東京下町の床屋さんは街の男たちがおだをあげる所だった。床屋さんには街の情報が集まった。そんな伝統があった床屋さんでFさんは育った。昭和四十年、Fさんは東京都立両国高校を卒業した。当時の両国高校は下町の名門高校だった。東大合格者数が日本全国の高校の中で十番以内に入る名門高校の中の名門高校だった。Fさんは高校を卒業すると床屋さんになった。大学には進学しなかった。彼には弟がいた。父親の死がFさんを床屋さんへの道を選ばせた。人は与えられた条件の中でしか生きることができない。
私にも思い出がある。高校三年の国語の授業であった。教師がクラスメートの兄の話を始めた。彼は我々と同じ高校を卒業し、早稲田大学に進学した。彼は大学を卒業すると家業の畳屋を継いだ。教師は家業を継いだクラスメートの兄を称えた。家業を継ぐという話を担任した卒業生から聞いたとき、担任であった国語のその教師は我々に話したように黙って彼を称えたようだ。この思い出がFさんと重なった。
 Fさんは家業を嫌がるのではなく、自分の存在責任として肯定的に引き受けた。単なる生活手段としての床屋さんではなく、自分が生活する地域の床屋さんとしての責任を果たす。地域に生きる。ここに床屋さんとして存在する責任がある。地域をつくる。ここに商店として床屋さんとしての責任があると自覚した。
 東京、墨田区鐘ヶ淵にFさんの床屋さんはあった。お店を改築し、昔通りに繁盛した。千葉県に住いを移し、鐘ヶ淵に通った。昭和五十年を過ぎると古い町並みを壊し、再開発が進むと地域の家々は歯が欠けるように少なくなっていった。東京の床屋さんを弟に任せ、自分は千葉県に床屋さんを開いた。
夫婦二人で一日中仲良く仕事する秘訣はなんですかと、訊ねると「真面目に仕事をしないことでしようか」と答えた。「仲が良いですね」「そうじゃないですよ」「細かいことを言わないことですよ」「気に入らないことがあっても奥さんを受け入れるということですか」「まぁー、完璧を求めるのではなく、八割がたで満足するということですよ」「良い加減ということですか」「自分の責任だと認識することです」
 家にあって自分の存在責任を自覚することが夫婦仲良く仕事ができる秘訣のようだ。
 商店会でイベントしようと提案すると「それでどのくらい売り上げがあがるんだ」という意見がよくでます。商店街のイベントは販売促進事業ではありません。地域社会における商店の存在責任を果たすということです。商店経営者は一日中ずっと地域の中で生活しています。ちょっと大袈裟に言うと商店は地域と運命を伴にしていますよ。地域の自治会と商店会が交流する。それがイベントですよ。朝、商店を開けた時、通学、通勤を急ぐ地域住民の方々と挨拶を交わす。この挨拶ができるようになることが地域に生きる商店の存在責任じゃないかと私は思っているんです。
 地域と共に商店は育っていくもの。商店会の販売促進は第一義的なことではない。地域をつくることが商店会の第一義的な存在責任だとFさんは述べる。地域が活力を持つことが商店の命を育む。シャッター街が広がり、地域が壊されるとそこに住む住民の心も壊されてしまうということなのだろう。
 販売促進事業は人間の心を破壊するのかもしれない。