醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 118号  聖海

2015-03-13 11:19:17 | 随筆・小説

  酒宴は無礼講。無礼講だから楽しめる。
       無礼講だからそこに新しい文芸が生まれた。
             芭蕉の俳諧は無礼講から生まれた。

「明日はかたきに首送りせん」        重五
「小三太(こそうだ)に盃とらせひとつうたひ」芭蕉
「月は遅かれ牡丹ぬす人」         杜國

 41歳の秋、芭蕉は門人の千里を伴い『野ざらし紀行』に結実する旅をしている。その途上、名古屋に立ち寄り、この地の俳人たちと俳諧・歌仙を捲いた。
 江戸・大坂という大都市の出現は同時に大消費地の出現だった。商品・貨幣経済が隆盛していく時代が元禄時代へと向かう時代である。商人の経済力が大きくなるにしたがって町人の文化が花開いていく。その一つが古今集誹諧歌(はいかいか)に起源をもつ俳諧であった。俳諧の宗匠がやってくるとその地の風流人たちが宗匠を取り巻き、俳諧を捲いた。日本各地を旅して歩く宗匠を囲み俳諧を捲くことは商人たちにとって情報を得る場でもあったし、人脈を築く機会でもある。商人にとって情報はお金である。商人が風流を求めて俳諧の席に連なることは日本各地の情報を得、人脈を築く席でもあった。
 負け戦だ。明日には討死だろう。その時は、わが首を敵に送ってやろうじゃないか。名古屋の風流人、重五は野水が詠んだ五七五の長句に勇士の無念の思いを七七の短句に詠んだ。この句に対して芭蕉は近習の小姓を呼び、杯を取らせ、勇士の無念の思いを主従睦あって詠おうではないかと詠んだ。酒宴での謡とは風流ですな。月が煌々と照るのはまだ早い。今、牡丹が満開じゃないか、なんと豪華で華やかなことか。月の出る前、この牡丹を盗みたい思う人の気持ちが分かるなぁー。
 厳しい身分差別があった江戸時代にあって、主が近習の小姓を同じ座敷に招き入れ、盃を伴にすることがあったのであろうか。芭蕉は伊賀上野藤堂藩に仕えた農民出身の無足人であった。芭蕉に与えられた仕事は台所で調理する職務であった。一切の手当のない賤しいものと蔑まれた者が主の座敷に連なることなんて絶対にない。
 しかし、不思議なことに俳諧の席は別であった。武士と農民、町人が同じ座敷に席を共にするのだ。俳諧という芸能の世界にあっては別なのだ。句の上手な人を認める。能力が身分の差別を乗り越えるのだ。芭蕉は俳諧に生きる希望を見出した。句を上手に詠むことが武士身分の者から敬われることを実感した。芭蕉は古い因習に縛られている京・大坂ではなく、新開地江戸に望みを託した。身分ではなく、能力が意味を持つ俳諧に生きる力が満ちることを実感していた。
 武家社会にあっては主君と臣下の者が座敷を同じくし、睦み合って酒を楽しむことはないが、町人の世界にはあり得る。この町人の世界が武家社会の俳諧の世界に笑いとして実現した。「小三太(こそうだ)に盃とらせひとつうたひ」と芭蕉は詠んだ。ここに今までにない感覚がある。これは笑いである。笑いだからこそ受け入れられた。新しい世界が俳諧、笑いとして出現した。
 元禄時代の町人の文化を表現したのが芭蕉の俳諧であった。

醸楽庵だより 117号  聖海

2015-03-12 11:15:02 | 随筆・小説

 良い仲間だ、スポーツだ、 カルタ競技は!

 小倉百人一首の競技カルタは記憶力、精神の集中力、全身の力で行うスポーツである。競技カルタをする者たちは良い仲間・グッド・フェロー、スポーツマン・スポーツウィーメンである。カルタはスポーツであると同時に良い仲間をつくる。知的な遊びだから老化を防ぐ。このように述べるのは全日本カルタ教会元K支部長のTさんである。
 百人一首に「久方の光のどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ」という歌があるでしょ。詠み人が「ひさかたの……」というのを聞くのと同時に取札の「しづこころ……」が「ひさかたの……」と一瞬見えるんです。「ひ」で始まる取札は三枚あります。カルタには「決まり字」というのがあります。「ひさ」でこの取札は「しつ」と決まります。競技カルタはスポーツですからね。神経を集中し、体全体で勝負する競技なんです。
 鎌倉時代の初め頃に活躍した歌人に藤原定家がおりましょ。その方の山荘が京都小倉山にあったそうです。嵯峨野の方です。そこで定家が編んだ和歌百首がカルタの起源になっているんです。だから小倉百人一首と言われているわけです。「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」。この歌は定家の有名な歌の一つでしよう。自分が編んだ百人一首に自分の歌の代表作として選んでいるわけですから自信作だったのでしよう。新古今和歌集というものがあるでしょ。その歌集を編んだ人の一人が藤原定家です。新古今和歌集を代表する歌人のようです。「余情妖艶の体」と言われている歌を詠んだ人です。「しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」とか、「なまめかしくあでやかなこと」。このような歌を詠んだ人です。
 その定家がいつごろ百人一首を編んだのかを巡っていろいろな説があります。私は1236年という説を信じています。なぜかといいますとね。私は1936年に生まれているんです。私が生まれれるちょうど700年前に小倉百人一首は編まれた。そう信じたいわけです。なかなか面白い理由でしょ。
 現在あるような競技カルタが出来てくるのは明治になってからなんですよ。「熱海の海岸散歩する貫一・お宮の『金色夜叉』」という小説がありましょ。その小説の初めの方にカルタに夢中になる若い女性の話がでてきます。また別の著名な小説家の作家の小説の中では、次のような描写があったことを覚えていますよ。昔のことだから女性は今のような下穿きを身に着けていない。カルタを取るのに夢中になって着物がはだけ、下半身が露わになってもカルタを抱えていたというような話です。娯楽が今のようにあった訳じゃなかったのでカルタは若者の数少ない娯楽の一つだったのでしよう。明治の頃の若者の間でカルタは流行していたのでしよう。
 カルタの取り合いで揉め事になるようなこともあったそうです。そこで黒岩涙香がカルタのルールを作りましたね。それが現在の競技カルタの原型になっているんです。カルタにルールができ、遊びとしてのカルタが若者の間に定着しました。当時、カルタはお見合いの場でもあったそうですよ。今のように男女が自由に付き合う事が難しかった時代てすから。今でも男女が仲良く遊べる面白い競技がカルタだと思いますよ。
 二十歳の頃、私はカルタに興味を持ちましてね。やっていたわけですが、仕事が忙しくなると中々カルタをする機会が持てなくなりました。いつのまにか遠ざかってしまったんです。
 定年退職、近所にカルタをする方がいるのを知りましたね。また始めたようなわけなんです。カルタは老化防止に良いかなと思って楽しんできたんですがね。そのカルタもそろそろ卒業の時期が来ているように感じる年になりました。

醸楽庵だより 116号  聖海

2015-03-11 11:23:54 | 随筆・小説

 
 今生の暇乞いを詠む芭蕉  
       物書て扇引さく余波(なごり)哉  芭蕉(おくのほそ道、天龍寺・永平寺)

華女 「物書て扇引さく余波(なごり)哉」。芭蕉は何を詠んでいるのかしら。
句郎 そうだよね。この句だけを読んでも分からないよね。
華女 それとも元禄時代の人にとっては分かったのかしらね。
句郎 どうなんだろう。現代の我々と同じように分からなかったのではないかと思う。
華女 そうよね。句を読んで伝わらないのは句としてどうなんだろうと思うわ。
句郎 そうだよね。他人様に伝わって初めて句だよね。
華女 私もそう思うわ。芭蕉の句にも何の注釈なしに伝わってくる名句があるけれども、伝わらない句もあるということよね。
句郎 そうだね。この句は『おくのほそ道』の本文を読むと分かってくる部分もあるよ。
華女 『おくのほそ道』の本文に芭蕉は何と書いているの。
句郎 「金沢の北枝(ほくし)といふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつヾけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別に望みて」て書いている。
華女 金沢の北枝(ほくし)はどこまで見送ったの。
句郎 今でいうと金沢から福井県丸岡の天龍寺までほぼ一日、北枝は芭蕉の伴をした。
華女 今では考えられない見送りね。
句郎 江戸時代の人にとって遠くの人との別れは今生の別れだったんだろうね。
華女 日本人がアフリカの小さな町を旅して仲良くなった現地人との別れのようなものだったのかも。
句郎 そうだったんだろうな。
華女 句郎君、この句の季語はどれなの。
句郎 扇じゃないかな。
華女 「扇」は夏よね。でも夏じゃ、おかしいんじゃないの。
句郎 「扇引裂く」と詠んでいるから、いらなくなった扇、「秋扇」のことを言っているんじゃないかな。
華女 「秋扇」ね。天皇の寵愛を失った女ね。
句郎 「秋扇」には、そんな意味があるんだ。
華女 そうよ。季語「秋扇」には人生の哀しみが色濃くあるんじゃないの。
句郎 そうか。生きる哀しみかな。
華女 そうよ。独り秋の景色を眺める哀しみよ。
句郎 芭蕉のこの句の意味が分かってきたような気がしない。
華女 そうね。いらなくなった扇を引裂き、引き裂いた紙に何を書いたのかしら。
句郎 「物書て扇引さく余波(なごり)哉」と書いたんじゃないの。
華女 そうか。この句は北枝との別れに詠んだ挨拶句だったのね。
句郎 そうなんじゃないかな。北枝はこの挨拶句に何と応えたのか、分からないけれども七七の句を書いて芭蕉に渡したのかもしれない。
華女 互いに別れの挨拶句を書き合い、渡しあったということなのね。
句郎 そんなことを想像したんだけれどね。
華女 芭蕉は北枝さん、本当にお名残りおしゅうございますが、此処まで見送っていただきありがとうございました。こんな気持ちを込めた句なのよね。
句郎 多分。そうだよ。

醸楽庵だより 115号  聖海

2015-03-10 09:39:14 | 随筆・小説

 
 柳は落葉樹なんだ  庭掃きて出(いで)ばや寺に散柳  芭蕉(おくのほそ道・全昌寺・汐越の松)

句郎 この句は中七の句中で切れている句だね。
華女 そうね。小松で詠んだ句が中七の句中で切れていたわね。
句郎 「しほらしき名や / 小松吹萩すすき」だったかな。中村草田男の「万緑の中や / 吾子の歯生え初むる」。同じ形の句だ。
華女 中村草田男は芭蕉の句から句の構成を学んだのかしら。
句郎 そんなことはないんじゃないかな。「や」で句を切り、名詞で止める形の句は俳句の基本形のようなものだもの。
華女 そういえば芥川龍之介の句に中七の句中で切れている句ではないけれども「木がらしや目刺にのこる海のいろ」。この句、とても気に入っている句なのよ。
句郎 芥川には「木がらしや東京の日のありどころ」という句もあったな。
華女 「や」と切り、名詞で止める句は俳句のオーソドックスな形なのね。
句郎 芭蕉の句に戻りたいんだ。「庭掃きて出(いで)ばや」と「寺に散柳」とは時間的に言うと逆になっているよね。寺の庭に柳が散っている。この柳を掃いて寺にお礼の気持ちを表し、出発する。「庭掃きて」が初めにあるということは実際とは違ったということなのかな。
華女 あっ、そうね。確かに順序が逆になっているわ。
句郎 『おくのほそ道』にはこの句の後に「とりあへぬさまして、草鞋(わらじ)ながら書捨つ」と書いている。芭蕉は出で立ちの装いをして玄関を出ようとしたら庭には柳の葉が散り積もっていた。こりゃ、申し訳ないことをしてしまいました。お許し下さいと懐紙にこの句を立ったまま書いて和尚さんに受け取って下さいと頭を下げたのかもしれない。
華女 「庭掃きて出(いで)ばや」とは芭蕉の気持ちだったのかしら。
句郎 うん。柳の葉が散り積もった庭を掃き清めて出で立ちたいと思っておりましたが、つい気を抜いて寝てしまいました。寝心地の良い畳の上でゆっくり体を休めることができました。本当にありがとうございました。そんな御礼の気持ちを詠んだ即興の句がこの句なのだろう。
華女 この句は出で立ちの挨拶句なのかしら。
句郎 挨拶句なんじゃないかな。
華女 俳句は挨拶なのね。
句郎 俳句は即興でもあるね。
華女 そうね。挨拶、即興。この句はまさに俳句ね。
句郎 庭掃きをしようという気持ちを持ちながら成し得なかった後ろめたさを笑う自分を芭蕉は見ていたのかもしれないなァー。卑屈になるのではなく、ズボラな自分を笑う。ここに許しを願う庶民の姿があるんじゃないかな。
華女 そうよ。笑うのよ。ごまかすのではなく、率直に詫びるのよ。そこに笑いがあるのよ。
句郎 そう。諧謔かな。
華女 山本健吉がそんなことを言っているんでしょ。
句郎 そうなんだ。俳句は挨拶、即興、諧謔とね。ここに江戸庶民の日常生活があった。この庶民の日常生活を詠む文芸が俳諧だったんだろうね。
華女 和歌が公家や武士の文芸だとするなら俳句は平民、農民や町人の気持ちを表現したものなのなのね。
句郎 そうだと思う。そこに芭蕉の近代性があると思っているんだ。近代文学とは封建的な身分制が廃止された平民の文学の事をいうのでしよう。だから芭蕉は江戸時代の平民文学・俳諧を通して農民や町人の気持ちを表現したんだ。

  読んでいただきありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。


醸楽庵だより 114号  聖海

2015-03-09 11:25:01 | 随筆・小説

   クロちゃんの昭和三十年代の思い出

侘助 クロちゃん、渥見清や関啓六と一緒に仕事したの。
クロ 俺は照明係だったから、話をしたことはないよ。
侘助 昭和三十年代、浅草フランス座にいたんでしょ。
クロ そうだよ。俺が二十代の頃だ。お客さんは、女の子の裸を見に来ているんだから、楽屋じゃ女の子が大事にされていたよ。男の芸人さんは皆、女の子に親切だったよ。俺らだって女の子が嫌がるようなライトを当てたら、いられなくなっちゃうから。えらく気を使っていたヨ。
侘助 女の子が嫌がるライトとは
クロ いろいろあるんだヨ。左向きの顔が気に入っている女の子には客に向って左を向いた時にライトを当てるようにするんだ。気に入ってもらえるとおこぼれが貰えるんだ。
侘助 「おこぼれ」って、何なの。
クロ 人気の女の子には客からプレゼントがあるんだ。果物なんかの場合にネ。
侘助 照明係は大変だね。
クロ N大の学生が照明係のアルバイトに来たことがあったナ。そいつは自分が舞台に夢中になっちゃってね。照明をじゃんじゃん回しちゃったんだ。女の子が凄い剣幕でそいつを引っ叩いた。そんなことがあったナ。
侘助 今じゃ、ストリップはほとんどなくなっちゃったネ。
クロ 当時は楽団さんがいたんだ。五・六人のネ。バンドに合わせて服を一枚一枚脱いでいくわけヨ。最後はバタフライ一枚になる。女の子のデルタにスポットライトを当て小さく絞っていって真っ暗にする。今から考えれば子供の遊びのようなもんだったナ。
侘助 それでもカブリツキの客がいたっていうじゃない。
クロ そうだネ。楽団さんも四、五十分も演奏すると草臥れるから十五分くらい休憩する。その時に男の芸人さんのお笑い芝居がはいる。その時が俺たち照明係も休憩だ。舞台は電気をつけっぱなしにして芝居をするからネ。
 渥見清らの芸人さんが出てくる。その後から女の匂いムンムンの踊り子さんが登場する。男の芸人の一人がパンティーを手に持って、あの子のものだよと、「お客さん、今日は特別奉仕、どうだい」。お客に売りつける。本当だよ。「オイ、マリア、スカートをめくつてくれ」。踊り子さんが恥ずかしそうに少しずつスカートを持ち上げる。すると真っ白なパンティーが見えてくる。突然、劇場全体が真っ暗になる。真っ暗な中でテナーサックスが甘く響く。孔雀の羽を背負い、高いヒールを履いた踊り子さんがスポットライトを浴びてご登場。
侘助 クロちゃんの話には臨場感があるネ。
クロ そうかい。踊り子さんたちは楽団さん側のお客さんにはサービスしない。恥ずかしがってネ。
侘助 サービスって、何なの。
クロ 扇で隠したバタフライを見せるだけヨ。
侘助 ヘェー、そんなことで当時のお客さんは喜んだんだ。
クロ 昭和三十年代というのはそんなことで男たちが喜んだ時代だったんだ。戦争中、抑圧された青春を送った者たちにとってストリップは心を開放するひと時だったんじゃないかな。常連のお客さんは楽団側の席には座らなかったネ。
侘助 プロのお客がいたんだね。
クロ スタイルが良く、踊りの上手な踊り子さんが何人もの踊り子を従えて舞台いっぱい華やかに踊る。その他大勢の踊り子さんも踊りながら脱いでいく。二、三枚脱ぐとバタフライになってしまう。裸になった五、六人の踊り子さんを後ろに従えてソロの踊り子さんが脱いでいく。胸を震わせ、腰を振り、最後は両足をつけ、右手を高く上げる。スポットライトがバタフライに当たり、絞られていく。
侘助 古き良き時代という感じがするヨ。
クロ 今や、ヌード劇場もなくなっちゃったけど、当時のストリップにはレビューの伝統が息づいていたように思うネ。陰毛を当時は絶対見せちゃいけなったからネ。それじゃお客が入らなくなったから徐々に法律に違反するようなストリップが流行ったけれども、それも今や、なくなっちゃったネ。俺が浅草・フランス座で照明係をしていた頃は合法的な人情味があったものだったヨ。

 

醸楽庵だより 113号  聖海

2015-03-08 12:00:13 | 随筆・小説

 「や」は切字じゃないの
      今日よりや書付消さん傘の露  芭蕉(おくのほそ道・山中)

句郎 これは俳句だというためには三つの条件があると山本健吉は言っている。華女さん、知っている?
華女 私に知っているとは、失礼じゃないの。
句郎 そうだったね。まず第一には季語だよね。
華女 俳句は季語ね。俳句を楽しむには季語の知識が必要だと思うわ。
句郎 二つ目は「切れ」だね。「切れ」があると韻文としての余韻が出て来るように感じるからね。
華女 そうね。「古池や蛙飛込む水のをと」を「古池に蛙飛こむ水のをと」じゃ、俳句にならないわね。
句郎 三つ目は何だったったけ。
華女 何なの。私、知らないわ。
句郎 うん。思い出したよ。「諧謔」じゃなかったかな。
華女 「笑い」ということなの。
句郎 そうなんじゃないかな。俳句は江戸庶民の文芸として生まれてきたものだからね。庶民の生活には「笑い」がないとやってられないなと、生きる辛さみたいなものが庶民にはあるからそれらのことを笑いたいということなんじゃないかと思うんだけれど。
華女 句郎君が今日、問題にしているのは「切れ」でしよう。「今日よりや書付消さん傘の露」。この句の「切れ」について句郎君は何か、問題でもあると思うの。
句郎 「や・かな・けり」という言葉は代表的な切字だよね。「や」の字のところで「切れ」ていると鑑賞するのが普通だよね。「今日よりや /書付消さん傘の露」と解釈していいと思う。
華女 そうよね。それでいいじゃないの。そう解釈したら問題なの。
句郎 長谷川櫂氏がね、『「奥の細道」をよむ』という本の中で「今日よりや」の「や」より「書付消さん」と「笠の露」の間の「切れ」が深いと述べている。
華女 じゃぁー、この句は「今日よりや書付消さん」と「笠の露」との間で切れていると主張しているのかしら。
句郎 その通り。でも「今日よりや」と「書付消さん傘の露」との間でも浅い「切れ」があるとも言っている。
華女 この句は三句「切れ」の句なの。
句郎 そうではなく、「今日よりや書付消さん」と「笠の露」との取り合わせの句だと主張している。
華女 そうなのかしら。今日より「笠の露」が笠に書付た文字を消してしまうだろうという句じゃないの。
句郎 華女さんは芭蕉が「金を打延たる如く」と言った一物仕立ての句ではないかということかな。
華女 違うのかしら。
句郎 俳句は読者のものだよ。読者が自由に読んでいいのだから。それが俳句の良さだと思うから華女さんの解釈が間違っているということはないと思う。
華女 そうでしょ。私はそれでいいのじゃないかしら。
句郎 問題は笠に書付た文字が何だったかということだよ。
華女 何も書いてないじゃないの。それはどうしたら分かるの。
句郎 岩波文庫の『おくのほそ道』の注には「同行二人」という言葉だと注釈している。
華女 どうして、そんなことが分かるのかしらね。
句郎 「同行二人」(どうぎょうににん)と読む。この言葉はお遍路さんが笠に書いた。四国八十八か所の霊場を巡って弘法大師は修行した。弘法大師様、と慕う信者たちは大師様と一緒、同行二人と笠に書付け、四国八十八か所の霊場を巡った。これが「同行二人」と笠に書きつける始まりのようだよ。
華女 芭蕉と曾良は陸奥の旅を一種の霊場巡りにあやかった旅だと自覚していたのかしらね。
句郎 芭蕉たちは白装束ではなかったようだけれども、死を懸けた旅であったのは間違いない。
華女 確かにね。
句郎 山中温泉で体を壊した曾良と芭蕉は別れることになった。だから今まで半年近く一緒だった曾良との別れの哀しみを詠んだ句がこの句じゃないかと思う。
華女 分かるわ。曾良との別れ、「同行二人」が「笠の露」、雨だれで消えていくと表現したのね。
句郎 「今日よりや書付消さん」というのは具台的なことではなく、芭蕉の気持ちを表現している。「笠の露」を見た芭蕉はそこに曾良との別れを見たのじゃないかと思う。

  読んでいただきあのがとうございました。
 

醸楽庵だより 112号 聖海

2015-03-07 09:38:46 | 随筆・小説

   色即是空空即是色
          芭蕉と般若心経  

 芭蕉は禅と老荘の思想に強い影響を受けている。芭蕉最初の紀行文「野ざらし紀行」の初めの方に次のような文章がある。
「冨士川のほとりを行(ゆく)に、三つ計(ばかり)なる捨子の、哀氣(あはれげ)に泣(なく)有(あり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたへず。露計(つゆばかり)の命待まと、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとほるに、
 猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる欤(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあ
らじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」。
 この文章に芭蕉の仏教観が反映している。仏教は世界を苦の世界とみる。生きることが苦、老いることが苦、病を持つことが苦、死ぬことが苦である。これを四苦八苦の四苦である。この苦を受け入れることなしに人間は生きることができない。
「三つばかりなる捨子」にさえ、「汝の性(さが)のつたなきをなけ」と、芭蕉は自分を、苦を受け入れろと言っている。
 問題はどうしたら現実の苦の世界を受け入れることができるか、ということにある。その苦の世界を嫌だと否定的にではなく喜んで肯定的に受け入れろ、というのが仏教の教えである。
 大乗仏教のたくさんある経典の中で仏教の教えの本質を述べた経典が般若心経である。この中の有名な言葉が「色即是空、空即是色」である。色とはこの世の目に見えるも、空とは無いということである。この言葉の意味することは見えるもの、この苦の世界は空だというのだ。無いと言っている。飢えて泣く捨子の苦は無い。この「無い」ということはこの世の真実ではない。真実の世界が飢えて泣く捨子がいるような世界であるはずがない。今、目の前にいる捨子の存在は真実の世界の存在ではない。このようなことを言っている。
 この真実の世界にワープすることは現実にはできない。この真実の世界にワープする方法の一つが座禅することであり、念仏を唱えることである。大乗仏教では座禅することも念仏を唱えることも同じ修行である。
 人間の心の世界には意識下にある世界と無意識の世界がある。この無意識の世界を経験することを西田幾多郎は純粋経験といった。この純粋経験の中で「色即是空、空即是色」と認識する。このような認識を得たときに現実の苦の世界を肯定的に受け入れることができると仏教は教えている。念仏を唱え、座禅を組み、純粋経験によって真実の世界を認識する。
 真実の世界は「色即是空、空即是色」である。これは西田幾多郎が言うように「絶対矛盾の自己同一」なのだ。「色」は「空」、」空」は「色」なのだ、と言っているのだから。
 「色即是空、空即是色」を実感することは座禅を組み、念仏を唱え、現実世界からワープすることでもある。ワープした世界が西方極楽浄土、阿弥陀様のいる真実の世界なのだ。信仰を持つということ、阿弥陀さまの存在を信じるということは苦を喜んで受け入れることでもある。







醸楽庵だより 111号  聖海

2015-03-06 10:36:02 | 随筆・小説

 菊水は不老長生の霊薬なり   山中や菊はたおらぬ湯の匂

 俳句は省略の文芸だ。「山中」という言葉が「山の中」という意味ではなく、「山中温泉」という意味であることが分からなければこの句を味わうことができない。さらに「其功有明に次と云」という芭蕉の言葉が「山中や」という言葉の意味を豊かにしている。「有明」という言葉が「有馬温泉」の間違いだという注釈があってなるほどと合点がいく。芭蕉の言葉とその言葉の間違いを正す注釈があって初めて「山中や」という言葉が表現している内容が明らかになる。すなわち「枕草子」の三名泉にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた有馬温泉の効能に山中温泉の効能は次ぐ。山中温泉はこのような名湯なのだ。「山中や」という言葉についてこのような理解があって初めてこの句を味わうことができる。実に厄介なことだ。
 「菊はたお(を)らぬ」。この言葉もまた厄介である。「菊はたお(を)らぬ」という言葉は「菊を温泉にたお(を)らぬ。菊を手折って温泉に入れない」という意味である。この言葉は菊を温泉にいれなくとも温泉の霊効はある。このようなことを意味している。菊を温泉に入れると効能が増す。このような言い伝えが当時あったということを知って初めてこの句の理解が進む。
 菊の花に滴り落ちた水を飲むと不老長生の薬になったという逸話が広く江戸庶民の中に広がっていた。その逸話を広めたのが謡曲「菊慈童」である。その内容は中国、春秋時代、周の五代国王穆王(ぼくおう)が寵愛していた童が誤って王の枕を跨いでしまった。この行為は死罪に値するものであったが、罪一等減じられて、深山幽谷の山の中に捨てられた。慈童は菊の花・葉にしたたり落ちた水を飲んでいると何百年間もの間、美少年のままだったという。慈童の若さと美しさを寿ぐ舞が謡曲「菊慈童」のクライマックスである。この物語が菊水には不老不死の霊能があるという逸話を広めた。この逸話にあやかって現在にあっても「菊水」という銘柄の酒がある。しかしこの酒を飲むと不老長生という逸話は残念ながら現代にあっては生まれない。
 以上のような予備知識を持って「山中や菊はたおらぬ湯の匂」を読むとこの句を味わうことができる。芭蕉は山中温泉の湯につかり、好いお湯だと手ぬぐいでも頭に乗せて手足を伸ばしただけの句だとわかる。川のせせらぎが聞こえる山の中の温泉につかり、立ち昇る湯気の香りに疲れが癒される。深い安らぎを覚えたその気持ちが表現されているのだなぁーと納得する。
 芭蕉は山中温泉に十日間、滞在している。本当に気に入った温泉だったようだ。およそ百八十日間に及ぶ旅がいよいよ終わろうとしている。その精神的な疲れが山中温泉につかることによって癒されたことだろう。どうにか死ぬこともなく旅を終えることができそうだという安心感のようものを表現した句のなのかもしれない。俳句という文芸は読者にいろいろなことを想像させる力を持っている。ここに俳句の魅力がある。
 山中温泉はいい湯だった。このような散文では読者にいろいろなことを想像させる力がない。五七五で表現された短さが大きな大きな意味に膨らむ。ここに韻文の持つ力がある。

 今日も読んでいただきありがとうございました。


醸楽庵だより 110号  聖海

2015-03-05 10:56:54 | 随筆・小説
 
 
 秋の風はなぜ白いの
       石山の石より白し秋の風 芭蕉(おくのほそ道・那谷寺)

 この句は取り合わせの句なの、それとも一物仕立ての句なのかな。ある人は一物仕立ての句だと述べるだろう。さる人は取り合わせの句じゃないのと述べるだろう。私はこの句を一物仕立ての句じゃないかなと思っている。これは私の主観だ。俳句の解釈に客観的な真実というものがあるのかな。
 古くから取り合わせの句だ。いや一物仕立てだと主張する意見があるようだ。問題は「石山」にある。この「石山」がどこの「石山」かが問題なのである。一方は近江の「石山寺」の石山だと主張する者がいる。他方は那谷寺にある石山だろうと主張する。
 石山を近江の石山寺だと解釈すると那谷寺の石は近江の石山の石より白い。そこを秋風が吹いている。このような意味になる。「石山の石より白し」と「秋の風」とを取り合わせた句だと解釈する。この解釈は「付きすぎ」だという批判が聞こえてきそうである。このような主張に対して「石山」は那谷寺の石山だと読むと那谷寺に吹く秋の風は石山の石より白いという意味になる。これは一物仕立てということになるだろう。
 芭蕉は那谷寺の石山を見て、詠んだ句なのだから一物仕立ての句だと読むのが自然だなと私は感じる。それとも芭蕉は那谷寺の石山を見て、こりゃ、本当に白いなぁー、透き通るような白さだ。近江、石山寺の石より白いじゃないかと曾良と話し合ったのかもしれない。事実はどうだったのか、今から三百年前のその場に行くことができない以上、永遠にわからない。現在の私たちにできることはこの句の意味を解釈し、どちらの解釈がより「秋風」の真実を表現しているかということに尽きるようだ。
 芭蕉が私淑した西行は秋風を次のように詠んでいる。
おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風 『新古今集』
 秋風はどのような人にも物を思わせる不思議な力があるなぁー。人は秋風に吹かれるとどうして物思いにしずむのだろう。
夏目漱石が痔の手術で入院したときに次のような句を詠んでいる。
秋風や屠られに行く牛の尻
暗黒に世界に引っ張られていく自分の後ろ姿をもう一人の自分が見ているなぁー。錦と輝く紅葉は秋風に散る。真っ暗闇の冬に向かって輝きは透明な白い世界に変わり、やがて漆黒の世界に至る。秋の真実は透明な白い世界なのだ。「屠られに行く牛の尻」に白い世界を漱石は感じた。「秋風」の白さを漱石は表現している。
 内田百は秋風を次のように詠んでいる。
欠伸して鳴る頬骨や秋の風
 齢を重ね、欠伸をしても頬骨がなるようになってしまった。老いとは色気が無くなっていくね。秋の風に吹かれ暗闇の向こうには透明な白い世界が待っているような気がするなぁー。
内田百は「欠伸して鳴る頬骨や秋の風」と秋風の白さを詠んでいる。
秋風に吹かれると今まであったものがなくなっていく。その無常を人は感じる。今まで常にあったものが失われていく、その哀しみの気配に気づくのが秋の風なのかもしれない。
 石山の石より白し秋の風
取り合わせの句だと解釈すると「石」の白と「秋風」の白とが近づきすぎて、表現された世界が小さくなってしまう。那谷寺に吹く秋風は石山の石より白い透明な風だと宇宙へと広がっていく世界が表現される。きっと芭蕉は大きな宇宙を表現したのではないだろうか。

  ここまで読んでいただきありがとうございました。明日も書きたいと思っています。私は書くことが今日という日を慈しむと思っています。私の文を読んでくれたあなたにとっても今日という日が慈しまれるよう祈っています。





醸楽庵だより 109号  聖海

2015-03-04 11:15:59 | 随筆・小説

 人の世はなんと無常か!大粒の涙が芭蕉の頬をつたった
    むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす  芭蕉『おくのほそ道・小松』

 
 「あなむざんやな」、あー、これが斉藤別当実盛の兜か。声をあげた芭蕉はハラハラと涙が頬を流れ落ちるのを感じた。五百年前の兜が今に伝えられている。兜や錦の鎧の無惨な姿に芭蕉は心を痛めていた。謡曲『実盛』の話が胸に木霊した。武士道の鑑・実盛の兜がこんなに粗末にうち捨てられたように飾られているとは。
実盛は幼少時の源義仲に情けをかけ、木曽に逃がした。実盛は人情に篤い武士であった。血で血を洗う戦国の世、保元・平治の乱で実盛が仕えた義朝が平氏に敗れると源氏の武将であった実盛は平氏に立ち位置を変え、平清盛の三男、宗盛に仕えるようになった。
源義朝滅亡後、伊豆に流されていた義朝の三男、頼朝が挙兵すると、源平合戦が再燃した。骨肉相食む下剋上の世にあっても実盛は平氏の将軍として参戦する。倶利伽羅峠の戦いでは圧倒的な強さを源氏の将軍木曽義仲軍はみせ、平氏の軍勢は雪崩を打って散り散りとなった。篠原合戦で部下を失った平氏の将軍、実盛は将軍の出で立ち、白髪を染めて龍頭を飾った兜を被り、錦の直垂(ひたたれ)を着け一人、源氏の軍勢と向かい合った。名を名乗れといわれても、実盛は名乗らず、組み伏せられて止めを刺される。実盛は平宗盛への忠義を尽くす。実盛は故郷の地、篠原合戦に武士の魂・忠義という錦を飾ったのである。
実盛を知る木曽義仲の部下・樋口次郎は、ただ一目みて「あなむざんや」と声をあげた。実盛は白髪まじりの髪を染めた。前主君・源義朝に拝領した兜を被り、現主君・平宗盛に許された出で立ちで故郷に錦を飾った。かつて命を助けた義仲の情にすがりつくこともなく、けなげな最期を遂げた実盛に芭蕉の心はうち奮えていた。
『老木に花の咲かんが如し』、世阿弥の言葉に実盛の姿を芭蕉は見ていた。甲の下ではコオロギが鳴いているではないか。人生とは無常なものだなぁー。

 
 「醸楽庵だより」を読んで下さる読者の方々、お願いがございます。毎日書いて100号を超えることができました。私の日課になりました。芭蕉についてのいろいろな情報があれば教えて下さい。また私の文章で間違っている箇所があれば、ご指摘下さい。批評もして頂けれはと思います。よろしくお願いします。