醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  914号  白井一道

2018-11-20 08:01:28 | 随筆・小説


   
 米中貿易戦争は米中全面戦争へとエスカレーションするのか。

 
 2018.11月18日、「APEC 米中対立で初の採択見送りAPEC首脳宣言、初の採択見送り 米中対立の影響」
「日本や米国、中国など21カ国・地域が参加し、パプアニューギニアで開かれていたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議が18日、閉幕した。会議では米中が互いの通商政策をめぐって対立し、首脳宣言の採択を断念する異例の事態となった。首脳宣言が採択されなかったのは、第1回の首脳会議が開かれた1993年以降初めて。代わりに議長国のパプアニューギニアが議長声明を発表することになった」と朝日新聞は報じている。
またロイター通信は次のように報じた。
 議長国パプアのオニール首相は閉幕に当たり開いた記者会見で、加盟21カ国のどの国が合意できなかったかとの質問に対し、「2つの大国だ」と答えた。
 また、朝日新聞デジタル版は「首脳宣言で世界貿易機関(WTO)やその改革の可能性に言及するかどうかが合意の障害になったと説明。「APECにはWTOに関する権利はない。それは事実だ。こうした問題はWTOでの提起が可能だ」と述べた。
米国は会議で、中国が国有企業に巨額の補助金を出していることや、国外の企業に技術移転を強要していることを批判。中国を念頭に、共通の貿易ルールを定める世界貿易機関(WTO)を改革する必要性を宣言に盛り込むよう提案した。
これに中国が反発。米国を念頭に保護主義や単独主義的な動きを批判するとともに、米国の提案に反対した。反対はほかの国からもあったとみられ、パプアニューギニアも調整しきれなかった。」とも報じている。
これらの報道を読むと貿易のルール作りについてアメリカの主張と中国の主張が折り合わなかったということが分かった。アメリカは資本主義経済に基づく貿易政策を主張し、中国は社会主義経済を目指す貿易政策を主張したため、折り合いがつかなかったと理解した。
 その一つが中国の国有企業に対する補助金だ。アメリカに輸出する中国国有企業への補助金は中国製品に25%の関税をアメリカ政府が課しても、その効果を無にしてしまう可能性がある。アメリカ政府は中国政府がアメリカ輸出製品製造国有企業に政府補助金を出されては困るということなのだろう。そのような補助金を出すことは公正な貿易ではないという海外貿易のルールにしようとアメリカ政府を代表したペンス副大統領は主張した。アメリカの属国である日本政府はアメリカの主張に賛成したのだろう。
しかし「APECにはWTOに関する権利はない」という意見が出され、議長国のパプアニューギニア首相は「首脳宣言」を出さない決断をしたのかなと私は理解した。
 アメリカ、ペンス副大統領は中国政府に対して苛立ちを覚えたことであろう。ペンス副大統領は2018年10月4日、ハドソン研究所でチャーチル元イギリス首相の「鉄のカーテン」演説に匹敵する演説をしている。
チャーチルは1946年3月、アメリカ合衆国ミズーリ州フルトンで演説した。その一節の「バルト海のステッテンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降ろされた」と述べた。これが米ソ冷戦の始まりだった。ソ連邦が東ヨーロッパ諸国の共産主義政権を統制し、西側の資本主義陣営と敵対している状況を批判した。その後、ソ連=共産圏の排他的な姿勢を非難する言葉として多用され、現在に至っている。
チャーチルがソ連を批判したようにペンス副大統領は中国を批判している。ペンス副大統領の演説文を読むと中国がアメリカの覇権を脅かす覇権国を狙っているという不安感に満ちている。中国政府に対する不信感が不安感を生んでいる。
アメリカ・ハーバード大学グレアム・アリソン教授は著書『Destined For War』(邦訳『米中戦争前夜・新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』の中で「ツキュディデスの罠」を述べている。ツキュディデスとは、『戦史』という著書を書いた古代ギリシアの歴史家である。彼はその著書の中で都市国家スパルタとアテネが30年間ギリシア世界の覇権を争ったペロポネソス戦争を書いている。
 覇権国スパルタが新たな強国アテネの出現に不安を抱く、ここに戦争の始まりがあると。

醸楽庵だより  914号  白井一道

2018-11-19 07:27:03 | 随筆・小説


 
 北方領土は日本に返還されるのか。



 「北方領土をめぐる日ロ交渉で、返還後の島に米軍基地を置かない考えを日本がロシアに伝えていたことが明らかになった。安倍晋三首相はロシアが長年抱く米軍基地への懸念を取り除くことで局面を打開し、歯舞(はぼまい)群島と色丹(しこたん)島の2島先行返還を軸に交渉加速を狙うが、2島の主権や国後(くなしり)、択捉(えとろふ)の帰属など難題が待ち受けている」。このように朝日新聞デジタル版は報じている。この報道を読むと北方領土をロシアが日本に返還しない理由は米軍基地が北方領土に建設される危険性があるからロシアは北方領土を日本に返還しないということだと理解することができる。
 日本政府はそのことを知っているから「北方領土返還後の島に米軍基地を置かない考えを日本がロシアに伝えていた」という。
 もしこの話が本当であるなら、プーチン大統領はなぜ1956年に結ばれた日ソ共同宣言に主権などについては何も書いていないと述べたのか。このプーチン氏の発言は歯舞、色丹諸島を返還しないと言っているに等しい。プーチン氏は北方領土返還後の島に米軍基地を置かないという日本政府の考えを信じていないということなのだろう。
 なぜなら日本政府はアメリカ政府と日米地位協定の改正を本格的にしていないからだ。日米地位協定がある以上、米軍は日本国内のどこにでも米軍が望む地域に米軍基地を設けることができるからだ。
 安倍総理は自民党の選挙公約のようなものでプーチン氏を納得させることができるとでも考えていたのだろうか。
 安倍総理は私の代で北方領土返還を実現したいと抱負を述べたがロシア政府は北方領土の主権を日本政府に返還する意向はないようだ。
 日米安保条約を改め、日米平和友好条約のようなものに改めることなしには北方領土の返還はないのだろうと私は思った。



醸楽庵だより  913号  白井一道

2018-11-18 14:54:36 | 随筆・小説
   


 草の戸や日暮れてくれし菊の酒  芭蕉  元禄4年



句郎 「九月九日、乙州が一樽をたずさへ来たりけるに」の前詞を置き、この句を芭蕉は元禄四年に詠んでいる。
華女 重陽の節句ね。元禄時代には年中行事が色濃くあったのね。
句郎 、『蕉翁句集』には「此の句は木曽塚旧草に一樽を人の送られし九月九日の吟なり」と付記されている。この時、芭蕉は膳所義仲寺無名庵に滞在していた。
華女 乙州(おとくに)とは、近江蕉門の門人よね。
句郎 江戸に立つ乙州を囲んで俳諧の会が催された。その時の俳諧の発句が「梅若菜鞠子(うめわかなまりこ)の宿のとろろ汁」であった。
華女 そんなことがどうして分かるのかしら。
句郎 俳諧の『古今集』と言われている『猿蓑』の巻5に歌仙か載せてある。発句が芭蕉の「梅若菜」の発句だ。
華女 乙州とは、何をしていた人なの。
句郎 大津藩伝馬役をしていた町人のようだ。今でいうなら運送業を営む経営者だったのかな。
華女 重陽の節句には菊の酒を嗜む。呑ん平にはいい行事があったのね。
句郎 豊かな人情の交流があったということなんじゃないのかな。
華女 義仲寺無名庵にいた芭蕉と乙州、和尚さんがお神酒を楽しんだということね。そけだけの句よね。「日暮れてくれし」という言葉に思いが籠っているわね。
句郎 日本酒のおいしさを堪能したということなんじゃないのかな。
華女 芭蕉はお酒が好きだったのね。
句郎 菊の酒をいただくということは、単に酔いを楽しむということではなかったように思うよ。
華女 そうなのかしら。
句郎 菊の酒とは、不老長生を願う神事だった。単に酔いを楽しむお酒ではなかったようだ。
華女 確かに菊の葉には薬効があるのよね。
句郎 どのような薬効があるのかな。
華女 平安時代には「菊の着せ綿」という菊に綿をのせて香りを移したものを着物に使い、老いを払って若返るという優雅な風習があったようよ。今でも生菓子などに「着せ綿」というご銘のお菓子があるという話を聞いたことがあるわ。
句郎 科学的にも解明されているのかな。
華女 そのようよ。菊花中の成分が、生体内の解毒物質であるグルタチオンのつくるという報告があるみたいよ。
句郎 昔は菊の酒を高きに登っていただくと風習があったと云うでしょ。
華女 「登高(とうこう)」という秋の季語があるわ。
句郎 現在では高きに登って菊の酒を賞味するというような行事をする人はいないだろうな。
華女 季語「菊の酒」も「登高」も廃れていく季語なのかもしれないわ。
句郎 「一足の石の高きに登りけり」という虚子の句があるが何を詠んでいるのか、分かる人は少ないだろうね。
華女 「行く道のままに高きに登りけり」という富安風生の句があるわ。この句に季語があると気付く若い人はいないかもしれないわ。
句郎 現在にあっては、もう芭蕉の「草の戸や」の句が何を詠んだのかも分からなくなっているかも。

醸楽庵だより  912号  白井一道

2018-11-17 12:17:42 | 随筆・小説


 行く秋や手を広げたる栗のいが  芭蕉  元禄七年 


句郎 元禄七年、芭蕉が詠んだ句だ。『芭蕉翁追善之日記』には、「五日の夜なにがしの亭に会あり」とあるから俳諧の発句として掲出した句なのかもしれない。
華女 「行く秋」と「栗のいが」の季重なりになっているわ。でもこの句は「行く秋」を詠んでいるのよね。
句郎 発句なのかもしれないが一句として自立した俳句になっているように思うな。
華女 長谷川櫂氏の説に従
えば「行く秋」の前と「栗のいが」の後で切れているように思うわ。
句郎 季語「行く秋」と「手を広げたる栗のいが」との取り合わせの句のようだ。
華女 季語「行く秋」の情緒には今まであったものが無くなっていく哀しみのようなものがあるわ。
句郎 「行く秋」には人と人との別れの情趣を芭蕉は詠んでいるように思う。
華女 そうね。『おくのほそ道』の最後の句は「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」よね。芭蕉は大垣で門人と別れるのよね。
句郎 「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて」。この言葉が『おくのほそ道』の言葉だから。旅立つ人があとにとどまる人への別れの情が「行く秋」にはあるように思う。
華女 また人との別れには心の中に吹く寒い風。寒くなっていく心細さのような気持ちもあるように思うわ。
句郎 そう思うよ。貞享五年、45歳になった芭蕉は「行く秋や身に引きまとふ三布蒲団(みのぶとん)」と詠んでいる。身幅の狭い布団に包まって行く秋を寝ているということなのかな。
華女 身近にあったものが薄れていく哀しみね。それが「行く秋」の情趣なのね。
句郎 栗の木は落葉広葉樹の大木になる木かな。北関東の山国では栗の木が繁茂している。
華女 日本全国に繁茂している木なんじゃないかしらね。
句郎 芭蕉の郷里、伊賀上野にも栗の木が繁茂していたのかもしれないな。
華女 そうよ。この句を芭蕉は郷里・伊賀上野で詠んでいるんでしょ。
句郎 そうか。芭蕉は郷里、伊賀上野の仲間、門人たちとの別れの挨拶を詠んだ句なんだろう。
華女 「手をひろげたる」とは、手のひらを思いっきり広げて別れの挨拶をしたということなんじゃないのかしらね。
句郎 栗のいがを剥く時のわくわく感は栗のいがを剥く難しさにあるように思うんだ。棘に刺されないよう細心の注意をして茶色の皮を取り出した時の喜びがある。
華女 秋の日の喜びね。栗のいがが醸しだすわくわく感が行く秋の気持ちと響き合うのよ。心温まる別れなのよ。人との別れはこのような別れがいいと私は思っているわ。
句郎 そうだと思うな。
華女 そうでしょ。芭蕉のこの句、私、好きよ。
句郎 いいよね。このカラッとした明るさがいい。「麦の穂を便りにつかむ別れかな」。留別吟として読むなら、この句の方が力強さがあるように思うけれども、「行く秋や手をひろげたる栗のいが」もいいなぁー。この軽さがいいのかもしれないな。
華女 名人の句なのよ。

醸楽庵だより  911号  白井一道

2018-11-15 07:56:46 | 随筆・小説


   冬の芽や耐えて大きな花の咲く  一道


 日曜の朝、庭に出てハナミズキを見上げました。葉の半分が落ち、残った半分がまだらに紅葉していました。朝の青空にハナミズキの樹形を眺めました。樹形をじっと見ていると枝の先端に丸い小さな蕾を見つけました。この小さな蕾は厳しい冬の寒さに耐え、春になると花を咲かせてくれるるのだなとハナミズキの命の息吹を感じました。
 大脇さんは一人で野田在住の外国人をサポートするボランティアをしていると聞き、同行しました。大脇さんが運転する小さな車は居酒屋やスナックが並ぶ四階建てのビルの前に駐車しました。居酒屋にでも入っていくのかなと思っているとビルの裏側に回り手すりの付いた鉄の階段を上り始めました。最上階まで元気にのぼっていきます。いくらか私の方が若いのに息が切れそうなくらい急な階段です。最上階に着くとここに段差があります。気をつけて下さいとアドバイスをいただきました。廊下に設置された洗濯機が夕暮れの
中で音をたてていました。
すると左側の一番奥の部屋のドアが開きました。
 「遅くなってごめんね。今日は友人を連れてきました。」と言うと玄関が台所になっているアパートの中の一室に大脇さんは入っていきます。私も後についています。二畳ぐらいの台所兼入り口を抜けると三畳ぐらいと感じられる畳の部屋にテレビとソファーが置いてありました。そこに大脇さんと私、四十前後のフィリピン人女性が座りました。小太りの女性には少し窮屈そうに見えました。
 大脇さんは早速書類を取
り出し、本人に確認をしながら記入し始めました。これでは振り込めないと言われましてね、とフィリピン人に説明しながら仕事をしていきます。何の書類なのかなと思っていると「確定申告は五年さかのぼってできるということなんですがね、まぁーいろいろありまして二年間さかのぼって申告したところ、還付金を柏税務署が振り込んでくれることになりました。これが振込先を記入する署名なんです。銀行名と銀行支店名の記入が無かったため振り込めないという通知があったんです。」と説明してくれました。柏税務署行きという封筒に書類を入れ、のり付けし、裏面に署名してあげていました。この仕事が終わると女性はこの書類が読めないと一枚の紙を出しました。見ると身元保証書とありました。
 ミンダナオ島出身の女性の妹さんが姉さんを頼って日本に来るというようなことらしい。その妹さんの身元保証をお姉さんがする保証書だった。女性には英語が通じるようだ。これはギャランティーだ、と大脇さんが説明すると女性は納得した。これはイヤー、これはマンス、これはデイ。ナショナリティー、アドレス、ネーム、次々と説明しながら日本語を英語に変えて書いていく。「法令を遵守します。」というところでちょっと詰まってしまいました。私も何と言うのかなと思っているとキープ・ザ・ロウと大脇さんは英語で書きました。さすがだ。
ゴミ分別の方法も英語を日本語の下に書いたところ、ゴミを分別するようになり、コンビニにゴミを捨てなくなったという。大脇さんは大きな花を咲かし初めているようだ。


醸楽庵だより  910号  白井一道

2018-11-14 07:33:34 | 随筆・小説


  汐越(しほごし)や鶴はぎぬれて海涼し  芭蕉  元禄2年

  

句郎 「汐越(しほごし)や鶴はぎぬれて海涼し」。この句を芭蕉は象潟で詠んでいる。また伝わっている『真蹟懐紙』には「腰長(こしたけ)の汐というふ処はいと浅くて、鶴下り立ちてあさるを」との前詞を置き「腰長や鶴脛ぬれて海涼し」とある。
華女 「汐越」とは、潮水を引き入れている浜をいうのかしら。
句郎 遠浅になっているところでいいんじゃないのかな。
華女 家の近くを流れる古利根川に入って餌を探すアオサギをよく見かける
わ。細く長い足をゆっくりゆっくり動かし、長い嘴で小魚や泥鰌などを捕まえるのよ。
句郎 古利根川の川底は浅いね。私もよく見かけるな。
華女 アオサギは一年中いるわよ。鶴は見かけたことはないわ。鶴は渡り鳥なんじゃないの。
句郎 鶴が日本に渡ってくるのは冬なんじゃないのかな。
華女 芭蕉が『おくのほそ道』の途上、象潟でこの句を詠んだのは夏よね。
句郎 「海涼し」と詠んでいるのだから、「涼し」は夏の季語だよね。
華女 三百年前の元禄時代の象潟には鶴がいたのかしらね。
句郎 当時、象潟は松島と同じような海の中に小嶋がたくさんある潟湖だった。九十九島・八十八潟の景勝地だった。だから芭蕉は象潟を訪ねた。
華女 その後、地震でもあって土地が隆起したのかしら。
句郎 そうなんだ。文化元年(1804年)の象潟地震で海底が隆起し、陸地化した。その後、本荘藩の干拓事業による水田開発が進み、歴史的な景勝地は破壊されていった。その時、当時の蚶満寺の住職・二十四世全栄覚林の機転や命懸けの呼びかけによって、後に保存運動が高まり、今日に見られる景勝地の姿となったようだ。
華女 当時、象潟が松島と同じような景勝地として名高いところだったということはわかったわ。問題は夏の象潟に鶴がいたのかしらね。
句郎 夏の象潟に鶴がいたとは、どうしても考えられないな。
華女 芭蕉は汐越しの浜を見て、鶴を想像して詠んだ句なのかしらね。
句郎 象潟の汐越しにいる鶴を見て詠んだ句ではない。そうとしか考えられないよね。
華女 だからかしら、芭蕉はこの句を『おくのほそ道』に載せていないわね。『おくのほそ道』に載せられるような句ではないと芭蕉はかんがえていたのじゃないのかしらね。
句郎 そうのかもしれないな。夏の汐越しの涼しさは表現されているようには思っているんだけどな。
華女 この句はヒィクションだと私も思うわ。
句郎 細く長い脚の鶴と象潟の汐越し、一幅の絵になるようにも思うな。
華女 「古利根のアオサギ浅い川涼し」。この句はどうかしらね。アオサギは一年中いるから季語にはならないわ。
句郎 芭蕉はいろいろ創っているね。単なる写生による句を詠むということをしていないね。実際に自分の目で見たことを詠むということではなく、今までの俳諧師といわれる人々の間で慣例的に詠む内容が決まっていた。それに従って詠むようだったからな。

醸楽庵だより  909号  白井一道

2018-11-13 07:12:27 | 随筆・小説


  塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)  芭蕉  元禄5年


句郎 今日は元禄五年、意専(遠雖)宛書簡に載せてある句「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店」、この句について考えてみたい。芭蕉の句の中でも凄さを感じさせる句の一つじゃないかな。
華女 私もそう思うわ。干からびた鯛の歯がぐさっと心に食い込んでくるように思うわ。寒風が吹き抜けていく魚屋の店先が瞼に浮かぶわ。
句郎 この句にはリアリズムがある。写生では表現できないリアル感がこの句にはあるなぁー。
華女 芭蕉の最高傑作の句だとも言えるように私も思うわ。冬の寒さをこのようにリアルに表現している句を読んだことがないわ。
句郎 芭蕉はリアリストだった。このリアリズムに芭蕉の句の近代性があるように感じているんだ。
華女 殺風景な魚の棚に魚屋の寒さがあるのよね。
句郎 服部土芳の俳論書『三冊子(さんぞうし)』の中で紹介されている。「此句、師のいはく、心遣はずと句になるもの、自賛にたらずと也」。魚屋の店先を見て、ふっと言葉があふれ出た。自慢できるような句ではありませんと、芭蕉は述べている。「鎌倉を生て出けん初鰹、といふこそ、心のほねおり折、人のしらぬところなり」と。「鎌倉を」の句には苦吟した。人知らぬ苦労をしたと芭蕉は述べている。腹の痛くなるような苦しみをした句ではない。名句というのはふっと口から出てきた句が名句になると芭蕉は言っているのかもしれないな。
華女 日頃、お腹の痛くなるような句を詠む苦しみをしている人が言える言葉なんじゃないのかしらね。俳句初心者が口からふっと出した言葉が句になることは絶対にないと私は思うわ。
句郎 将棋のプロが何も考えずに指した手にアマはたちまち参ってしまう。訓練を積んだ人にはかなわないということなんだ。芭蕉は骨身を削って句を詠んできた結果ふっと口から吐いた言葉が句になったということなんだ。
華女 芭蕉は努力の人だったということね。
句郎 また『三冊子』には次のようなことも書かれている。「又いはく、猿の歯白し峰の月、いふは、其角也」。蕉門第一の門弟、其角の句「声枯れて猿の歯白し峯の月」に刺激されて詠んだ句だとも芭蕉は言っていたと弟子の土芳は書いている。
華女 枯れた猿の鳴き声と月光との取り合わせの句ね。分かるわ。月明かりの青い光線と枯れた猿の鳴き声よね。「猿の歯白し」。この言葉に師としての芭蕉は刺激を受けたんでしょうね。
句郎 きっとそうだと思う。「塩鯛の歯ぐきは我老吟也」と芭蕉は述べていたと土芳は書いている。
華女 俳諧とは座の文学だと言われているわ。座とは、俳諧の仲間がいるということ。仲間の句に刺激され、また自分の句が仲間を刺激する。このような人間関係から生まれてきた文学が俳諧というものだったいうことね。
句郎 芭蕉の句に刺激を受けた弟子の句が師の句作を刺激する。俳句とは一人で詠むものではないということなのかもしれないな。
華女 きっとそうなのよ。その俳諧の伝統が今でも生きているのよ。それが句会というものなのよ。

醸楽庵だより  908号  白井一道

2018-11-12 13:16:46 | 随筆・小説


  会津坂下のお酒と山形庄内のお酒を楽しむ





侘輔 今日楽しむ酒は福島会津坂下の酒、豊国酒造の「豊久仁・純米大吟醸・雄町」と山形県庄内余目町の鯉川酒造の「純米吟醸・美山錦」のお酒なんだ。
呑助 銘柄「豊久仁」は、何回か、楽しんでいますね。銘柄「鯉川」のお酒も楽しんだ経験があるような気がしますよ。
侘助 そうだよね。「豊久仁」のお酒はしっかり味の乗ったボディーのあるお酒かな。それに対して「鯉川」のお酒は淡麗辛口、繊細、すっきりしたお酒かな。
呑助 今日のお酒は飲み比べが楽しみですね。
侘助 酒造米「雄町」のお酒と酒造米「美山錦」のお酒の違いが分かるといいなぁーと思っているんだけどね。
呑助 なかなかお酒の場合、酒造米の違いによる酒質の違いが分かるようになっちゃ、プロですかね。
侘助 素人にはほとんど分からないのが普通だと思うな。ワインのようにブドウの果汁だけで醸したお酒の場合はブドウの品種によってワインの酒質が大きく違う場合は一般の素人でもわかる場合が
あるかもしれないけど。
呑助 日本酒の場合は米の他に水や造り、酵母などがあるから難しいということなんですかね。
侘助 日本酒の場合は、製造工程が複雑だからね。日本酒は同じ醸造酒だとしてもワインやビール、紹興酒と比べてはるかに製造工程から見るとはるかに高級酒だと言えるように思う。
呑助 日本酒は高級酒なんですか。
侘助 日本酒はワインやビールと比べてみると何が高級と言えるのかと云うと並行複発酵という複雑な発酵経過を経て日本酒になっていく。ビールやワインは単発酵のお酒だから、日本酒と比べると簡単だ。
呑助 並行複発酵とはどのような発酵を言うんですか。
侘助 お米の澱粉が麹によって糖分になっていく過程と糖分が酵母の働きによってお酒になっていく過程が同じ酒樽の中で並行して発酵していく。ここに発酵食品としての日本酒の特徴がある。
呑助 米の澱粉が糖になることと糖がお酒になることが微生物の働きによって同時に進むということなんですか。
侘助 そうなんだ。だから日本酒製造の基本はまず麹造りだ。杜氏さんの腕の見せ所は麹造りにあるようだ。
呑助 日本酒が高級酒だといわれる理由は、手間がかかるお酒だということですか。
侘助 その通り。ワイン造りの過程と比べてみると日本酒は手間がかかる。まずは精米、どのくらい米を削るか。削る時間が途方もなく長い。削りすぎると米は砕けてしまう。砕けた米は酒にはならない。精米にはリスクが伴う。次に洗米だ。強く洗うと精米された米は脆い。次の難しさは精米した米にどのくらい水を吸わせるか、ストップウォッチを用いて秒単位で給水時間を計っている。
呑助 えっ、そんな風にしてお酒を造っているんですか。
侘助 最近は機械化が進んでいると言われているが酒造りには限界があるみたいだよ。最近は洗米機が普及しているがちょっと前までは冷たい水で手洗いしていたからね。

醸楽庵だより  908号  白井一道

2018-11-11 13:03:16 | 随筆・小説


  ゆふばれや櫻に涼む波の花  芭蕉  元禄二年


句郎 「ゆふばれや櫻に涼む波の花」、『おくのほそ道』には載せられていないが、芭蕉が象潟で詠んだ句である。『曽良旅日記』には「夕に雨止て、船にて潟を廻ル」と前詞を置いてこの句が載せてある。また酒田の医師伊東玄順、俳号が不玉、医号は淵庵。芭蕉は、『奥の細道』の旅の途中酒田で会い、曾良を加えて三吟歌仙を残した酒田の俳人不玉の著に「継尾(つぎお)集」というものがある。この書の中に「西行桜、西行法師
 象潟の桜はなみに埋れて  はなの上こぐ蜑のつり船
「花の上漕」とよみ給ひけむ古き桜も、いまだ蚶満寺のしりへに残りて、陰波(なみかげ)を浸せる   夕晴いと涼しかりければ」と前詞を置いてこの句が載せてある。
華女 元禄時代の山形、酒田には俳諧を楽しむ人がいたのね。
句郎 酒田は北前船文化の中心地の一つだからな。最上川流域の物産、紅花や年貢米などを送り出した所が酒田だった。裕福な町人の街が酒田だった。そうした町人の文化の一つが俳諧だった。
華女 芭蕉の陸奥への旅を
可能にしたのは町人の台頭ということだったのかしら。
句郎 日本の西回り航路が隆盛に向かい始めたころ芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。
華女 イタリア・ルネサンスの始まりも地中海航路の制海権をイスラム商人からヴェネチアやジェノアの商人が奪ったことだと高校生の頃教わった記憶があるわ。北前船の隆盛と俳諧文化というのは関係があるような気がしてきたわ。
句郎 日本国内の流通の隆盛ということは新しい文化を創造するということがあったのかと思う。まさに元禄時代は日本のルネサンスなのかもしれない。
華女 イタリアルネサンスの人々はアラブ文化を通してギリシア・ローマの文化を再発見したように芭蕉は酒田への旅を通して西行の歌を再発見したということなのかしらね。
句郎 「象潟の桜はなみに埋れてはなの上こぐ蜑のつり船」という西行の歌を再発見し、詠んだ句が「ゆふばれや櫻に涼む波の花」だということかな。
華女 象潟の桜が海面に写っているのよね。その海面を船で廻ったということなんでしょ。
句郎 西行の歌を俳諧の発句にしたということなのかな。
華女 漁師の釣り舟に乗り、花見をしたということが俳諧の発句ということね。
句郎 西行が詠んだ花を愛でる貴族の世界を町人の世界で花を愛でる喜びを詠んだ。
華女 花見という貴族の文化を町人が継承し、花見という町人の文化を詠んだ句が「ゆふばれや櫻に涼む波の花」という句だということなのね。
句郎 西行の歌は桜の花の写っている海で漁をする漁師の姿と船を一幅の絵として表現しているのに対して芭蕉の句は自ら漁師の船に乗り、涼しさを楽しむ喜びを詠んでいる。
華女 この句の季語は「涼しさ」ね。芭蕉は西行の歌に刺激され、桜の木が海面に写っている上の船に乗った時の涼しさを詠んでいるのよね。
句郎 西行の歌がなければ、芭蕉はこの句を詠むことはなかったんじゃないのかな。詩歌の伝統の上に芭蕉は句を詠んでいる。

醸楽庵だより  906号  白井一道

2018-11-10 11:42:09 | 随筆・小説


  暑き日を海にいれたり最上川  芭蕉  元禄二年



句郎 「暑き日を海にいれたり最上川」、『おくのほそ道』に載せてある句を鑑賞したい。『曽良旅日記』を読むと旧暦の元禄二年六月十四日(新暦七月三十日)「寺島彦助亭へ 被レ招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ」とある。「俳有」とは、寺島彦助亭(安種亭)において俳諧を編んだということ。その俳諧の発句が「涼しさや海にいれたる最上川」だった。
華女 芭蕉は「涼しさや」の句を推敲し、『おくのほそ道』に載せるときに「涼しさや」を「暑き日を海にいれたり最上川」とし
たのね。
句郎 そう、「涼しさや海にいれたる最上川」は、俳諧の発句だが、「暑き日を海にいれたり最上川」は俳諧の歌仙から切り離され、一句として独立した俳句になっている。
華女 俳諧の発句「五月雨を集めて涼し最上川」を推敲し、俳諧から独立した一句にしたのが「五月雨を集めて早し最上川」だったのと同じことね。
句郎 『おくのほそ道』の俳文、「羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉
も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす」と書き、「暑き日を海にいれたり最上川」とした。
華女 「涼しさや海にいれたる最上川」。この句は寺島彦助亭(安種亭)のある酒田、吹浦から眺めた最上川下流域の風景を詠んだ句なのよね。
句郎 海風の入る彦助亭への挨拶吟なのかな。
華女 「暑き日を海にいれたり最上川」。この句には挨拶性のようなものが薄れているように思うわ。「涼しさや」と安種亭の涼しさを詠んでいるのに対して「暑き日を」の句は酒田吹浦の夏そのものが表現されているように思うわ。
句郎 「暑き日を海にいれたり」と自然を表現している。「たり」で切れ、最上川と続けた。句中に切れのある一物仕立ての句になった。俳諧の発句ではない一句として独立した句になった。芭蕉は『おくのほそ道』という俳文を旅を終えた後、書き上げた。俳文を書く中で俳諧の発句は俳句になった。
華女 句郎君は俳句という文芸は芭蕉が創造したということが言いたいわけね。
句郎 高校生の頃、国語の授業で俳句は近代になった明治時代に正岡子規が俳句を創造したということを教わった。芭蕉の句は俳句ではなく、俳諧の発句だと教わった記憶がある。しかし、『おくのほそ道』を読み進むうちに高校生の頃、教わったことは間違いのように感じ始めているんだ。
華女 私も高校生の頃よ。国語の時間に俳句は正岡子規が詠んだというようなことを教わったように思うわ。
句郎 正岡子規は日本近代の韻文の創始者のような印象があったが、そうではなく、芭蕉の俳句が日本近代の文学と言えるように感じ始めているんだ。例えば、「山路来て何やらゆかしすみれ草」、この句が今から三百年以上前の句だと思えないような句でしょ。現在の中学生でも十分理解可能な句だと思う。こんな句を読んだ芭蕉はまさに日本近代の文学を創造していると言っていいのじゃないかと考えているんだ。芭蕉の文学は近代の文学だ。