あつみ山や吹浦かけて夕涼み 芭蕉 元禄二年
句郎 「あつみ山や吹浦かけて夕涼み」、『おくのほそ道』に載せてある句を鑑賞したい。
華女 上五の「あつみ山や」は字余りになっているわね。「あつみ山」は五音よね。なぜ芭蕉は敢て字余りにしたのかしらね。
句郎 ここに芭蕉の俳諧師としての力量が発揮されている。
華女 「あつみ山」でも「あつみ山や」でも、ここに切れがあるのよね。
句郎 そう、問題は切れにあると思う。句中の切れは俳句に何をもたらすのかな。例えば「閑(しずか)
さや岩にしみ入蝉の聲」の場合、切れ字「や」はどのような役割をしているのかな。
華女 「閑(しずか)さ」と「岩にしみ入蝉の聲」との間に半拍の間を設けるという役割をしているのが切れ字「や」の働きなんじゃないの。
句郎 そうそう、この間を設けることによって余韻のようなものが生れるのかな。最近、フジコヘミングのピアノを聞いた人の感想を読んだ。この感想の中で述べられていることは、音と音との間の間(ま)が素晴らしいとい
うようなことが書いていた。その微妙な間が音に深みを与えていると述べていた。同じ曲を何回聞いても毎回微妙に間が違う。何回聞いても飽きることがないとも書いていた。超絶技巧とは、どれだけ早く指先が動き回るということではなく、一音一音の輝きは間が生んでいるとね。俳句にあっても、間が読者の想像力を刺激する。俳句に深みをもたらすのではないかと思う。
華女 間(ま)ね。俳句は書かれた文字を読み、味わうものだからよね。読むとい う営みがもたらす感動が韻文というものなのよね。それは「切れ」という「間(ま)」がもたらすということなのね。
句郎 「あつみ山吹浦たけて夕涼み」としても「あつみ山」と「吹き浦かけて夕涼み」との間には切れがあるでしょ。
華女 そうよね。確かに「あつみ山」と「吹き浦かけて夕涼み」との間には半拍の間があるわね。それなのに芭蕉はなぜ「あつみ山や」と余計とも言えそうな「や」を付け加えたのかしらね。
句郎 「あつみ山」と「あつみ山や」とを口に出して読んでみるとどんな違いがあるかな。
華女 「あつみ山吹浦かけて」の場合は、すっきりつながって読めるわね。「あつみ山や吹浦かけて夕涼み」の場合は、「あつみ山や」で少し渋滞するように感じるわ。
句郎 そうでしょ。「あつみ山」の場合の切れが半拍だったとしてら「あつみ山や」の場合の切れは一拍ぐらいの間がある感じがするでしょ。
華女 そうね。分かったわ。芭蕉は「あつみ山や」とすることによって間を深くしたのね。
句郎 そうなんじゃないのかなと私は考えている。
華女 間を深くすることによって芭蕉は何を表現したかったのかしら。
句郎 「あつみ山」から「吹浦」にかけての雄大な浜辺を表現するために「あつみ山や」と切れを深くしたのではないかと思う。
華女 確かに「あつみ山や」とした方が「あつみ山吹浦」より雄大な風景が瞼に浮かぶような気がするわ。
句郎 微妙な間を大きくすることができた。