醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1100号   白井一道

2019-06-20 12:43:58 | 随筆・小説



 皆出でて橋を戴く霜路哉  芭蕉 元禄六年



 この句には「新両国の橋かかりければ」と前詞がある。
 橋にはロマンがある。橋の上には夢がある。橋は人と人とを結びつける。この句を読んで私は突然、若かった頃読んだドストエフスキーの短編小説『白夜』を思い出した。サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝によって18世紀に築かれた人工都市である。そこはネヴァ川河口に築かれている。江戸と同じように運河が幾筋も築かれ、橋が大きな役割をしている。白夜に孤独な青年が橋のたもとで少女と出会う。幻の恋の物語だ。
 芭蕉庵の脇を流れる小名木川も隅田川と旧中川を結ぶ運河・水路である。江戸時代初期に徳川家康の命令で建設されたものである。水の都・江戸の街にとって橋は江戸に暮らす町人たちにとってあこがれの待ちに待った公共のものであった。
 新しい橋ができた江戸町人の喜びを芭蕉は詠んでいる。新両国橋にできた霜が朝日に輝いていた。白く輝く霜を見て目を輝かす町人たちの喜びを芭蕉は詠んでいる。


醸楽庵だより   1099号   白井一道

2019-06-19 12:38:23 | 随筆・小説



    資本主義経済が単なる金儲けの仕組みになった時、資本主義経済は人々を不幸にする

 金を儲けることが人々を幸せにする。このような思想に資本主義の本質があるかのような議論がある。封建社会の中にあって、資本主義思想は人々を幸せにした。資本主義経済が高度に発達した日本社会において民間の活力を公共事業の中に導入することは、人々を不幸にする。公共事業を民主化することが公共事業を活性化する。民間活力の導入ではなく、民主化することだ。
 誰かの金儲けが人々を不幸にする出来事が進んでいるエッセイを読んだ。


『金儲けで、国有林を禿山にする日本』    AERA dot. - 2019年6月19日

哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

 国有林を伐採・販売する権利を民間業者に与える法律が成立した。権利を得た業者は最長50年間独占的な樹木採取権を手に入れる。林業の「成長産業化」をめざすという触れ込みだが、林業者の90%が小規模・零細で、大規模な伐採を行う資力を持たない日本では、国有林の材木が外資を含む大企業の専有物になることは確実である。
 さらに問題なのは、法律が伐採後の植林を義務づけていないことである。金儲けのために林業に参入してくる人たちが、伐採後に日本の森を守るために再造林のコストを善意で負担してくれるだろうという予測に私は与しない。日本の国有林の相当部分は遠からず禿山になるだろう。
 記事を読んでいるうちに似た話が昔あったことを思い出した。
 明治末年の神社合祀の時、多くの神社が取り壊されたことがあった。全国の神社20万社の3分の1が廃社となり、所有する山林が民間業者に二束三文で払い下げられた。その実情について、当時神社合祀に孤軍奮闘して反対した南方熊楠が怒りを込めてこう記述している。
「他処の人々が濡れ手で粟を攫み、村民はほんの器械につかわれ、(中略)霊山の滝水を蓄うるための山林は、永く伐尽され、滝は涸れ、山は崩れ、ついに禿山となり、地のものが地に住めぬこととなるに候」「官公吏たりし人、他県より大商巨富を誘い来たり、訴訟して打ち勝ち、到るところ山林を濫伐し、規則を顧みず、径三、四寸の木をすら伐り残さず、(中略)木乱伐しおわりその人々去るあとは戦争後のごとく、村に木もなく、神森もなく、何にもなく、ただただ荒れ果つるのみこれあり、(中略)もとより跡に木を植え付ける備えもなければ、跡地に、ススキ、チガヤ等を生ずるのみ、牛羊を牧することすらならず、土石崩壊、年々風災洪水の害聞到らざるなく、実に多事多患の地相と成り居り申し候」
「他処」より来たった「大商巨富」によって豊かな森林が荒廃した日本林業史上のこの大事件を法律に賛成した議員たちは知っていたのだろうか。知らずに賛成したのならその無知に、知って賛成したならその強欲に唖然とする他ない。
※AERA 2019年6月24日号

醸楽庵だより   1098号   白井一道

2019-06-18 12:29:01 | 随筆・小説



    寒菊や粉糠のかかる臼の端  芭蕉 元禄六年



 この句は元禄六年十一月上旬ごろ、野坡と芭蕉は芭蕉庵で両吟俳諧を巻いた発句であると今栄蔵は『芭蕉年譜大成』の中で書いている。
 山本健吉はこの句を芭蕉名句の一つとして挙げている。江戸下町に生きる町人の生活が表現されているということであろう。元禄時代に生きた町人たちにとってご飯を炊くということは大変なことであった。まず米を搗くことから始めなければならなかった。臼と杵で米を搗く。こうして精米をして、それから井戸端に行き、米をとぐ。ご飯を食べるということは大変な労働を伴う営みだった。
 冬、米を搗く。力の入った男の腕が杵を持ち上げ、臼に打ち下ろす。朝日の中で男の腕から湯気が立ち上る。男の声と息が聞こえてくる。杵を打ち下ろす度、粉糠が舞い上がる。江戸庶民の家ではどこでも行われていた日常生活の一部であった。その江戸庶民の生活の一断面を切り取り、人間の生きる姿を芭蕉は表現している。
 寒菊と米搗きとを取り合わせることによって生命力の漲る庭先の風景を芭蕉は表現した。米を搗く。この生命力に芭蕉は美を、俳諧を発見した。

醸楽庵だより   1097号   白井一道

2019-06-17 12:37:54 | 随筆・小説



   子供に嫌われる学校


 古代ギリシアの哲学者ソクラテスは教育とは産婆術だと述べている。子供を産むのは母親である。母親が子を産む介添えをするのが産婆である。知識や能力を身に着けるのは子供である。子供が能力や知識を身にける手助けをするのが教師である。ソクラテスの教えは現在の学校教育にあっても大事な教えである。どうも現在の学校教育にあってはソクラテスの教えに反することが行われている。子供の学力を貶めるようなことを今の学校教育では行われているようだ。子供の心と人間性を大事にすることなしには子供の能力を引き出すことはできないだろう。人間破壊をする学校教育が行われている。そのような記事を読んだ。

 学校のファシズムが、国に都合のいい子をつくる
  ハーバービジネスオンライン - HARBOR BUSINESS Online - 2019年6月17日

◆なくならない「組体操」や「ブラック校則」
 人を米俵のように積み上げることが、先生たちには快感なのだろうか――。
 運動会の組み体操のことである。学校側は、「教育的意義がある」「一体感を得ることができる」「伝統だから」などと説明するが、子どもの命をかけてまでやることではないだろう。
 そもそも、学校には安全配慮義務がある。組み体操に保護者が期待する声があるというが、実施を決定しているのは学校だ。過去に死亡事故や後遺障害を負った例があり、専門家からも危険だと指摘されているのに、学習指導要領にもない演技を続けているのは不適切だといえる。SNS上では、組み体操と特定の宗教との関わりも指摘されている。個人の尊厳を奪う憲法違反でもあると思う。それとも、学校は「特別」だから、「命より伝統が大事だ」と言い逃れできるというのだろうか。
 学校は長く、「治外法権」だと言われてきた。人権を侵害するような校則も目立つ。
 制服のスカート丈の長さ、下着や靴下の色、ブラジャーの形、髪の長さや色、髪留めのゴムの色や留める位置、校章のワッペンを縫い付ける糸の色、鉛筆の本数、教室で発表する時のいすの引き方……など、統制はありとあらゆる場面に及んでいる。
「社会に出てからの決まりを守る練習」という説明も聞くが、下着の色まで決まっている会社があるのだろうか。
 しかも、こうした細かな校則は、親世代が現役の中高生だった頃よりも増えているという。なぜなのか。
◆モラハラ取材で垣間見えた学校教育の「効果」
 先月、モラルハラスメント(精神的DVの一種)の取材をして、その「効果」に気づいた。妻が茶わんによそったご飯の量に対して「一口多い」「二口少ない」などと文句を言い、冷蔵庫の中身など日常生活の隅々まで細かなルールを設定している夫がいた。どんな意味があるのか不思議に思い、取材先の臨床心理士に尋ねると、これは加害者に典型的な特徴なのだという。細かなルールを一つひとつ守らせることで相手を支配し、思考力を奪うことができるからだ。
たとえば、「服装の乱れは心の乱れだから、校則で規制している」といわれる。一方、生徒の服装が乱れたとき、心の部分に着目して「何かあったの?」と尋ねるような指導がなされているとはいえない。スカート丈が短かったら、生活指導担当の教員が「短すぎるぞ」と叱って正すだけで終わりになることがほとんどだろう。
 つまり、校則は「守らせること」そのものに意義が見いだされている。そう感じざるを得ない。細かな校則を一つひとつ守らせていくことで、反抗しない従順な子どもを育てようとしているのではないか。人間としてではなく、米俵として……。組み体操で培われるという「学習規律」は、号令一つで子どもたちを素早く動かすために都合がいい。
 子どもを「個」ととらえるのではなく、「集団の構成員」として扱う思想は、安倍政権の「教育再生」が向かっている社会のあり方とも合致している。
◆道徳教科書検定で修正された「家族」の描写
「かぞくについておもっていること」という記述は、「だいすきなかぞくのためにがんばっていること」へ。「じぶんのことをつたえてみよう」は「ともだちともっとなかよくなろう」へ――。今年3月、小学校の道徳教科書の検定で「不適切」とされ、修正された文章の一例だ。
 2018年度から小学校で道徳が正式な教科になると決まったとき、文部科学省は「考え、議論する道徳」を掲げ、「子どもを一定の方向に導くものではない」と繰り返し説明してきた。だが、この細かい検定意見を見る限り、「おしつけ」への懸念はぬぐえない。
 学習指導要領には、「規則の尊重」「公共の精神」など学年によって19~22の道徳的価値が定められている。文科省は、これを「内容項目」と呼んでいるが、戦前の教科だった「修身」の「徳目」とほぼ変わらない。教科書検定では、この「徳目」に沿って細かい意見がつき、各教材がどの「徳目」に対応するかまで明示を求めている。
 冒頭の例「かぞくについておもっていること」では、「徳目」の「家族愛、家庭生活の充実」に書かれている「家族のために役に立つ」という部分が必要だったし、「じぶんのことをつたえてみよう」では、「友情、信頼」に対応していることをはっきり示していなかったというわけだ。
 ほかにも、「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」では、地域への「思い」を強調するような記述が求められた。「パン屋が和菓子屋に変わった」と話題になった前回の教科書検定よりも、細部にわたってチェックが厳しくなったように見える。
◆学校で拡大する「心を磨く」活動
 もちろん、こうした愛国心や家族愛を強調するような道徳教育の背景には、第一次安倍政権発足直後の2006年に改正された教育基本法がある。
 道徳教育は、学校教育全体を通じて行わなければならないものとされ、学校では、今、「心を磨く」活動が盛んになっている。
 筆者の子どもが通う都内の公立小学校では、職員室の近くに「あいさつ賞」を受賞した児童の写真がはってある。「あいさつって表彰するものなの?」と疑問に思い、どんな人が贈られる賞なのかを子どもに尋ねたところ、「自分から先に先生にあいさつした人」だという。「たまたま先生と目が合ってあいさつしたら、あいさつ賞なの?」。疑問がふくらんだ。
「あいさつ運動」にも力を入れている。校門前で登校する児童らに「おはようございます」を連呼する「あいさつ当番」が回ってくると、子どもは普段より早く登校しなければならない。PTAによる保護者への参加の呼びかけもある。
 あいさつは、コミュニケーションの基本だといわれる。確かに、街で会った顔見知りの保護者から、あいさつをされると気持ちがいい。ただ、あくまでコミュニケーションの一つであり、どんな人間関係であっても、おうむ返しに「言わなければならないもの」ではないはずだ。だが、学校は「豊かな心の育成」を掲げ、当たり前のように運動化している。
 友達への言葉がけについて、自分で目標を設定し、できたかどうかをチェックするワークシートが配られたこともあった。
 なぜ、学校が子どもの人間性にまで口出しするのだろう。そんな疑問をきっかけに学校を取材したところ、「心を磨く」活動は想像以上に広がっていることが分かった。
 素手でトイレ掃除をしたり、体育の授業でお辞儀を学んだり、親になる心構えを学ぶ授業があったり、弁当が神聖視されていたり……。
 こうした活動や授業を、誰がどんな目的で広めているのか。保護者や地域も巻き込んで達成されようとしている日本の教育の行方を、『掃除で心は磨けるのか いま、学校で起きている奇妙なこと』(筑摩選書)にまとめた。
「虐待だ」と批判もされている素手でのトイレ掃除は、実際に体験させてもらった。体験しなければ、その活動が何を伝えようとしていて、なぜ教員たちが夢中になってしまうのかを知ることができないと思ったからだ。実際に体験することで、「ただの掃除」ではなく、一つひとつの行為に「教育的な」意味づけをされていることが分かった。
 埼玉県の公立中学校には、「あいさつ賞」ならぬ「輝き賞」があった。15分間黙ってひざをついて掃除をする「無言ひざつき清掃」を頑張っている生徒を表彰するものだ。自ら汚れに気づいて動き、自問自答を繰り返すことで、生徒たちの「荒れ」が収まるという効果があったとされている。こうした無言清掃は、さまざまな形で全国に浸透中だ。
 たびたび疑似科学として話題になるマナー「江戸しぐさ」は、学校や自治体で利用され、新たな「○○小学校しぐさ」が生まれている。同僚の子どもが通う都心の公立小学校でも、筆者の子どもが通う都内の公立小学校では、職員室の近くに「あいさつ賞」を受賞した児童の写真がはってある。「あいさつって表彰するものなの?」と疑問に思い、どんな人が贈られる賞なのかを子どもに尋ねたところ、「自分から先に先生にあいさつした人」だという。「たまたま先生と目が合ってあいさつしたら、あいさつ賞なの?」。疑問がふくらんだ。
「あいさつ運動」にも力を入れている。校門前で登校する児童らに「おはようございます」を連呼する「あいさつ当番」が回ってくると、子どもは普段より早く登校しなければならない。PTAによる保護者への参加の呼びかけもある。
 あいさつは、コミュニケーションの基本だといわれる。確かに、街で会った顔見知りの保護者から、あいさつをされると気持ちがいい。ただ、あくまでコミュニケーションの一つであり、どんな人間関係であっても、おうむ返しに「言わなければならないもの」ではないはずだ。だが、学校は「豊かな心の育成」を掲げ、当たり前のように運動化している。
 友達への言葉がけについて、自分で目標を設定し、できたかどうかをチェックするワークシートが配られたこともあった。
 なぜ、学校が子どもの人間性にまで口出しするのだろう。そんな疑問をきっかけに学校を取材したところ、「心を磨く」活動は想像以上に広がっていることが分かった。
 素手でトイレ掃除をしたり、体育の授業でお辞儀を学んだり、親になる心構えを学ぶ授業があったり、弁当が神聖視されていたり……。
 こうした活動や授業を、誰がどんな目的で広めているのか。保護者や地域も巻き込んで達成されようとしている日本の教育の行方を、『掃除で心は磨けるのか いま、学校で起きている奇妙なこと』(筑摩選書)にまとめた。
「虐待だ」と批判もされている素手でのトイレ掃除は、実際に体験させてもらった。体験しなければ、その活動が何を伝えようとしていて、なぜ教員たちが夢中になってしまうのかを知ることができないと思ったからだ。実際に体験することで、「ただの掃除」ではなく、一つひとつの行為に「教育的な」意味づけをされていることが分かった。
 埼玉県の公立中学校には、「あいさつ賞」ならぬ「輝き賞」があった。15分間黙ってひざをついて掃除をする「無言ひざつき清掃」を頑張っている生徒を表彰するものだ。自ら汚れに気づいて動き、自問自答を繰り返すことで、生徒たちの「荒れ」が収まるという効果があったとされている。こうした無言清掃は、さまざまな形で全国に浸透中だ。
 たびたび疑似科学として話題になるマナー「江戸しぐさ」は、学校や自治体で利用され、新たな「○○小学校しぐさ」が生まれている。同僚の子どもが通う都心の公立小学校でも、児童による「○○ないという○○小学校スタイル」もあるそうだ。
◆学校ごとの問題に矮小化してはいけない
 最近、ツイッターでも、軍隊のような集団での行進や、応援団を中心とした上級生の指導による高校の応援歌練習の動画などが「気持ち悪い」と拡散されている。
 一方で、校則や定期テストのない一部の公立学校が持ち上げられるようにもなった。ただ、いま学校で起きていることは、学校ごとの問題に矮小化してはいけないと思う。公教育全体のあり方を問わなければ、子どもや家族がつまずいたとき、「良い学校を選ばなかった個人の自己責任」にされてしまうのだから。
◆「なにか、おかしい」と気づいている人はきっといる
 5月18日、保護者と教員でつくる任意団体「PTA」のあり方について疑問をもつ新聞記者や保護者がつながり、都内で「PTAフォーラム」というイベントを開いた。当初の参加申し込みは数人で、実行委員も赤字を覚悟していた。だが、直前の告知だったにも関わらず、当日は全国から80人以上が参加して熱い議論が交わされた。
 参加者たちは、PTA会費から交通費などを出してもらったわけではない。九州や東北など遠方からも、自費で駆けつけた人たちだ。北海道新聞や熊本日日新聞など地方紙の記者たちも実行委員会に加わっていた。私たちは、こうした交流を通して、民主主義が地域に根付く一歩になればと期待している。
「なにか、おかしい」と気づいている人は、きっと身近にいる。
 教員の中にも、個より集団を重んじる学校に疑問を持ちながら、多忙な日々や「聖職」という特別な意識に縛られて、身動きできなくなっている人たちがいる。
 我が子だけが選ばれた「良い教育」を受けられたとしても、集団に同調する教育を受けた人たちが大半を占める世の中になれば、誰もが生きづらい社会になってしまう。
 気づいた人と一緒に声を上げていきたい。
 拙著『掃除で心は磨けるのか――いま、学校で起きている奇妙なこと』では、学校や地域で起きていることを教育政策に照らし合わせながら俯瞰し、全体像が見えるように工夫した。教育について考える全ての人にとって、本当に今のままでいいのかを立ち止まって考えるきっかけになればと思う。
<取材・文/杉原里美 Twitter ID @asahi_Sugihara>

醸楽庵だより   1096号   白井一道

2019-06-16 12:53:54 | 随筆・小説




  区別は差別に転化する 「パンプス強制は差別だ」



 男性と女性の服装には違いがある。これは単なる区別である。おおよそ服装によって男と女の違いを知ることができる。同じように髪形にも同じようなことが言えるだろう。服装や髪形など単なる男と女の区別に過ぎないものが差別に転化することがある。そのような記事を目にした。職場に働く女性がパンプスやヒール着用を強制されるということになるとこれはたんなる区別に過ぎなかったことが差別に転化する。
 単なる区別に過ぎないと思っていたことが差別になっているという事例の記事を読んだ。その記事内容が以下のものである。

 パンプス問題「女性vs男性」の的外れ
 女性に対する、職場でのパンプスやヒール着用の義務付けに異議を唱え発足した署名運動「#KuToo」が、社会的に盛り上がりを見せている。葬儀社でアルバイトをする石川優実さんがツイッターで呟いたことから始まり、「#KuToo」のハッシュタグと共に主にネット上で反響を呼んだ。最近では根本匠厚生労働相が、パンプスの義務付けを容認するような見解を示したことも大きな話題となり、運動は過熱している。
◆「これまでずっとそうだったから」というだけで残るマナー
 女性がパンプスやヒールを履くことを実質的に強制されるようになるのは、就職活動時が最初であろう。よくある就職活動のマニュアル本には、「マナー」として、相応しいリクルートスーツや鞄、髪型やメイクなどと合わせて、パンプスを履くように、と示されている。私が数年間勤務していた大手日系企業でも、男女ともに理想的なマナーを示したポスターが、社内に貼られていた。
 女性であれば、スカートは短すぎないか、ストッキングを着用しているか、派手な色のネイルをしていないか、長い髪の毛は結んでいるか、など。男性であれば、汚れのないワイシャツを着用しているか、髪の毛は長すぎないか、髭はしっかりと剃っているか、などが挙げられていた。クールビズの期間以外はネクタイも着用しなければならない。
 数多くの社員が集まり共に仕事をする以上、互いに最低限の清潔感を求めることは理解できるが、それ以上のことを「マナー」という名目で要求することにどのような意味合いがあるのかは理解しづらい。
 飲食店でもなく、特別な顧客対応があるわけでもないのに、女性社員が長い髪を結ばなければならないのはなぜなのか。男性がワイシャツを着用するのは良く、ポロシャツを着用してはいけないのはなぜなのか。
「マナー」という言葉は、あまりにも漠然としており、中には「これまでずっとそうだったから」「それが当たり前だったから」という理由で大した理由もなく残っているものも少なくないと感じる。
◆ヒール・パンプスによる損失は、健康上の問題だけではない
 私自身、新社会人で朝から晩まで個人宅を訪問する営業をしていたころは、慣れないパンプスを履いていたせいで、常に足がぱんぱんにむくみ、腫れあがっていた。靴擦れをしても、ストッキングを履いているとすぐには絆創膏で手当てすることも難しい。痛みを我慢しながら歩き続ける日々だった。
 パンプスはヒール部分が傷みやすく、また自分の足に合うものを探すのも一苦労。靴擦れで靴の内側に血が滲んでしまうこともあった。そんな靴を客先で脱ぐと、滲んだ血が目立ってしまう。仕方なくパンプスを新調しなければならなかった。
 これらのこと考えると、健康上はもちろんのこと、何足ものパンプスを購入しなければならない金銭的な損失や、そもそも「足が痛い」と思いながら仕事をするという意味で生産性の面でも損失があったように思う。
 それでも「当たり前だから」、「みんなそうだから」と思い込み、「スニーカーを履いて営業に行きたい」、「ヒールのない靴で回ってはだめですか」とは、言えなかったのだ。同じような経験をしている女性は少なくないだろう。そこまでしてパンプスを履かなければならない理由は何なのか。この「#KuToo」運動は、これまでの「当たり前」を見直すきっかけを与えてくれている。
◆従業員が企業に対し異議を唱えることの難しさを理解するべき
 企業と従業員の間に力関係が存在する中で、社内で「当たり前」とされてきたマナーに対して異議を唱えることは、容易ではない。だからこそ、企業が従業員に対して要求する事柄については、「どうして必要なのか」という理由も含めて説明する必要があると感じる。
もちろん、好きでヒールやパンプスを履く人もいる。スタイルを良く見せたい、ファッションの一環としてヒールのある靴が好きだから、など理由は様々であろう。それが、企業が求めるルールの範囲内であったなら、ただ単純にラッキーであるというだけで、ヒールやパンプスを嫌がる人に対して強制していい理由には繋がらない。
 本当に、そのルールは必要なのか。守らないことで、誰にどのような迷惑をかけることになるのか。本質的な必要性を見極めて決める必要があると感じる。「好きにすればいい」という意見もあるだろうが、企業「ルール」や「義務」を提示すると、従業員は、個人としての主張や自由を唱えづらくなってしまう。それを企業は理解し、現存の一つ一つのルールに対して向き合うべきであると感じる。
◆いつの間にか作り上げられる、不要な対立構造
 #KuTooのような問題提起に対して、様々な意見が聞こえてくる。このような議論を「女性の問題である」と捉えて「いちいち面倒くさい」と考える男性の声や、「自分で上司に掛け合えばいいのでは」という声など、様々だ。
 中には「女性として美しくなるための努力をしない人の意見だ」「楽をしたい人の意見だ」等の声もある。しかし、これは「女性の問題」でも「美しくなることを放棄した人の意見」でもないと考える。
 不必要であるはずの、ともすれば個人のみならず企業にとっても不利益となるかもしれないことについて、出来る限りなくすための運動なのではないだろうか。これまで「当たり前」だとされていたことは、本当に必要なことなのか。今まで見過ごされていた個人の不利益を、なくすことは出来ないのだろうか。
 このムーブメントを、パンプスやヒールの話に限ったものとして捉えることは、あまりにも勿体ないと感じる。「男性vs女性」「パンプスを履きたい人vs履きたくない人」というような不必要かつ的外れな対立構造を作り議論するのではなく、皆が当事者であるという前提のもとで、社会全体の問題として捉えていくべきだと思う。
<文/汐凪ひかり>

醸楽庵だより  1095号   白井一道

2019-06-15 12:32:11 | 随筆・小説



    鞍壷に小坊主乗るや大根引    芭蕉 元禄六年



 「大根引という事を」。このような前詞がある。『炭俵』に載せられている。
 この句について去来が書いている。『去来抄』に次のような文章がある。
 「蘭國曰、此句いかなる處か面白き。去來曰、吾子今マ解しがたからん。只圖してしらるべし。たとへバ花を圖するに、奇山幽谷霊社古寺禁闕によらバ、その圖よからん。よきがゆへに古來おほし。如此類ハ圖の悪敷にハあらず。不珍なれバ取はやさず。又圖となしてかたちこのましからぬものあらん。此等元より圖あしとて用ひられず。今珍らしく雅ナル圖アラバ、此を畫となしてもよからん。句となしてもよからん。されバ大根引の傍に草はむ馬の首うちさげたらん、鞍坪に小坊主のちよつこりと乗りたる圖あらば、古からんや、拙なからんや。察しらるべし。國が兄何某、却て國より感驚ス。かれハ俳諧をしらずといへども、畫を能するゆへ也。圖師尚景が子也。」
 嵐国がこの句のどこが面白いのかなと言った。
 吾子にはまだ分からないだろうな。ただ絵にしてみると分かるかもしれないよ。例えば花を描くとするなら、珍しい山、深い谷、霊験ある社、伝統のある寺、「禁闕(きんけつ)」とは皇居、宮廷の門、禁門などのことだから宮廷の門に咲く花を描くならその絵は良いだろう。良いが故に古来多く描かれてきた。このような絵は悪くない。今では珍しくないから描かれなくなってきた。また絵にして好ましくないものではないが珍しいものではないから描かれなくなった。今、珍しく雅なる絵になるならば、これを絵としてもよいのだ。句に詠んでもよいのだ。そこで、大根を収穫しているお百姓さんの傍で馬が一頭首を下げて草を食べている。その鞍坪に子供がちょっこりと乗っかっているなんて情景があったら、これは古くからあるもので珍しくもないというの、それともくだらんというの。考えてほしい。君の国のお兄さんは、この句を読んで感動したと言っている。彼は俳諧はやらないけれど絵を描くからね。よく句の情景が思い浮かぶからなんだよ。この兄弟は水墨画の巨匠片山尚景の子供である。
 大根畑の傍らに農耕馬が草を食んでいる。その農耕馬の鞍壺に小さな子供が乗っている。この農民の姿に芭蕉は詩を発見した。今まで誰も農民の働いている姿に詩を発見した人はいなかった。芭蕉が初めて農民の働く姿に詩を、美を発見した。誰もが今までごく普通にどこでも目にした光景である。その光景に詩を、美を芭蕉は発見した。
 私はミレーの絵を思い出す。『晩鐘』『落穂拾い』。『晩鐘』『落穂拾い』が表現している光景は農村に生きる者にとっては珍しくもない当たり前のごく普通の光景であった。その当たり前な農民の生きる姿にミレーは絵を発見した。人間の真実を発見した。貴族の生活の優雅さや美しさにではなく畑に働く農民の姿に人間の美をミレーが発見したように芭蕉は大根畑に働く農民家族の姿に俳諧を発見した。このことを芭蕉は「軽み」と表現している。「軽み」とは、農民や町人、誰でもがごく普通にどこでも普段に見ることのできる風景の中に見つけた真実、俳諧を言う。このように私は「軽み」を理解した。

醸楽庵だより   1094号   白井一道

2019-06-14 15:18:12 | 随筆・小説



    振売の雁あはれなり恵美須講    芭蕉 元禄六年



 「神無月二十日、深川にて即興」。このような前詞がある。芭蕉・野坡・孤屋・利牛と四吟歌仙を深川芭蕉庵で編んだその発句。『炭俵』に載せられている。
振売とは、手に下げ、または籠にいれたものを売り歩く、行商人を言う。恵比須講は神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願する祭である。この祭は講のひとつであり、漁師や商人が集団で祭祀をおこなう信仰結社的な意味合いもあるが、えびす講は各家庭内での祭祀の意味も持つ。東日本では家庭内祭祀の意味合いが強く、また東日本では商業漁業の神としてのみならず、農業神として崇める傾向が西日本よりも顕著のようである。
 芭蕉は江戸町人の生活を詠んでいる。元禄時代の町人たちは雁を食べていた。和歌が詠まなかったことを芭蕉は詠んでいる。振売の雁に芭蕉は俳諧を発見した。

醸楽庵だより   1093号   白井一道

2019-06-13 15:10:41 | 随筆・小説




  菊の香や庭に切れたる履の底    芭蕉 元禄六年



 「元禄辛酉之初冬九日、素堂菊園之遊
 重陽の宴を神無月の今日に設け侍る事は、その頃は花いまだ芽ぐみもやらず、「菊花ひらく時即ち重陽」といへる心により、かつは展重陽(てんちょうよう)のためしなきにしもあらねば、なほ秋菊を詠じて人々を勧められける事になりぬ」と前詞を付け、この句を詠んでいる。
 芭蕉は元禄六年の初冬九日、素堂邸の菊園に招かれた。元禄六年は辛酉(しんゆう・かのととり)ではなく、癸酉(きゆう・みずのととり)であった。重陽の宴とは、杯に菊花を浮かべた酒を酌みかわし、長寿を祝う宴である。
 俳諧の友、素堂邸に招かれた芭蕉は庭に履き捨てられた草鞋に俳諧を発見した。
 

醸楽庵だより   1092号   白井一道

2019-06-12 13:12:06 | 随筆・小説



   前近代社会にあっては、儀式が重要な役割を果たした

 近代社会は儀式を廃止した。なぜ近代社会は儀式を葬り去ろうとしたのか。儀式には呪術性がある。この呪術性を近代精神は排除しようとした。
 公立高等学校にはまだ儀式の呪術性が残存している。例えば、公立高等学校の入学式には呪術性が残存している。入学式には入学許可候補者呼名がある。担任となる教師が一組、誰々と呼名していく。体育館の賓段には国旗、県旗、校旗が掲げられ、その下に校長が正装し、花の飾られた机の前に起立している。八組までそれぞれの担任予定者が担当する組の生徒の呼名を終わると最後になった教諭は以上320名と言う。校長は呼名を聞き終わるとこれらの者を何々高等学校への入学を許可すると発する。校長の発言によって生徒は入学許可候補者から何々高等学校生徒になる。入学許可候補者の呼名は入学式最大のイベントである。校長の肉声が入学許可候補者から何々高等学校生徒の身分を付与する。ここに儀式の持つ呪術性がある。それに比べて卒業式における呪術性は廃れてきているようだ。つまらない校長の式辞を廃止する傾向がみられるようだ。
 年号と言うものも呪術の一つであろう。何一つ社会のありようが変わりようもないにもかかわらず、平成から令和へと年号を変えた。大手マスコミが大騒ぎしただけのことであるにもかかわらず、何か新しい時代が始まったかのような意識を国民に持たせる役割をしている。
 年号と言う何でもないものに神秘性を付与する儀式が行われ、年号が意味を持ち始める。儀式が年号に神秘性を付与する。儀式の主催者が新天皇である。天皇は呪術の主催者であると同時に呪術者そのものである。
 天皇制とは封建遺制である。近代社会とは無縁なものである。だから近代国家の典型的な国をアメリカに見ることがでる。アメリカ合衆国にあって儀式はあっても儀式の呪術性は排除されている。合理主義という思想が儀式の呪術性を排除してきた。

醸楽庵だより   1091号   白井一道

2019-06-11 16:29:02 | 随筆・小説



    『徒然草』第一段を読む



 「いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かンめれ」と兼好法師は書き出している。
兼好法師が生きた時代は古代天皇制権力が政権を失い、武家政権が権力を確立していく時代である。古い律令体制が崩壊し、新しい封建体制が生成していく過程である。兼好法師は廃れいく古代的な天皇支配体制に組み入れられた人間を表現している。
古代天皇制権力を支えた人民支配のイデオロギーを兼好法師は表現している。
「いでや」と語りだす。「そうですな、この世に生まれて来たからには、願いたいことはいろいろたくさんありますな」と述べている。
 [御門の御位は、いともかしこし。竹の園生の、末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様はさらなり、たゞ人も、舎人など賜はるきはは、ゆゝしと見ゆ。その子・孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つかたは、ほどにつけつゝ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし]
天皇陛下の位ほど尊く恐れ多いものはない。天皇の血筋にあるものは人間の種ではないほど尊いものだ。摂政や関白など天皇と血筋の近い人は言うまでも無い。摂政や関白とは言わないまでも、舎人などを与えられるような身分の者はたいしたものだ。舎人などを持つことが許されたような身分のものなら、たとえ没落しても気品が残っている。下っ端の者で、程度もそこそこなのが、運よく用いられて、そのために本人はいい気になっているものの、気品というものが備わらないのはいかにも見苦しい。
言葉ずかい、身なり・顔だち・態度などを通して感じられる、その人の品格が人間の身分を決めている。このような考えが身分制度を作っていると述べている。だから前近代社会にあっては、言葉や顔、身のこなし、礼儀、立ち居振る舞いが醸しだす品格が身分を表現していた。
 [法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるゝよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢まうに、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖の言ひけんやうに、名聞ぐるしく、仏の御教にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。]
僧侶ほど、羨ましいと思わないものはない。人には木の端のように思われるよと清少納言が書いているとおり、誠にもっともなことだ。権勢が盛んで、羽振りがよいといっても 、僧侶では、すばらしいとは見えないものだ。増賀聖が述べているように世間的な名利ばかりに心をくだくことは仏の教えにも背くものだと思う。一途な世捨人はなかなか捨てがたい方もおられます。
 [人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ 、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なく成りぬれば、品下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。]
人は姿、かたち、容貌が優雅でありたいと思っている。ものをいうことが受け入れやすく、言葉数が少なく、飽きずに対面していられるようでありたい。優れていると思う人の心が劣っていたりする。そのようなことが見えることほど残念なことはない。人品や姿は生まれつきのものだが、それに比して、どうしてどうして心の方はというと、賢い方へ賢い方へと移っていくこともできるのだ。姿、心根の良い人も才がなくなると人品が悪くなり、人相の悪い人々と交わるとたちまち人柄も悪くなっていくことは本人の望むことではないがそうなっていく。
 [ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道。また、有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男はよけれ。]
こうあってほしいことは、本格的な学問の道、作文・和歌・管絃の道。儀式、行事の知識、人の手本となることが大事だ。上手に字が書け、上手に歌が歌え、自慢するような素振りをしない。男はお酒が飲める方がいい。
古代天皇制下における支配階級に生きる男の処世訓を兼好法師は述べている。ここに述べられていることは、現代社会にあっても高級官僚たちには通用することかもしれない。