醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1090号   白井一道

2019-06-10 15:19:28 | 随筆・小説



    テレビ映画『地方紙を買う女』を見る



 松本清張原作の短編小説をテレビドラマにしたものである。調べてみるとこの短編小説は9度テレビドラマ化されているようだ。私が見たものは1987度版、主演女優を小柳ルミ子が演じたものである。
 この小説は、『小説新潮』1957年4月号に掲載されたもののようだ。二年後の1959年には第一回目のドラマ化が渡辺美佐子主演で放送されている。以来9度もテレビドラマ化されている。私が見たものは7度目にテレビドラマにされたものである。
 私がこのテレビドラマをパソコンで見る気になったのは、高校生の頃、短編小説『地方紙を買う女』を読んだ記憶かあったからである。高校生の頃は殺人の動機とトリックに興味を持った記憶が残っていた。今回、このテレビドラマを見て、興味をそそられたのは、北方領土問題と関連していることだった。
 戦後日本はソ連との漁業交渉を開始し、北方領土問題を経て、日本の河野一郎農相とソ連のブルガーニン首相との交渉により1956年5月15日に日ソ漁業協定が調印されたころを時代背景にしていたことに初めて気が付いた。日本はソ連との国交回復により漁業協定も発効し、1957年からベーリング海などの旧北洋漁業海域での操業が再開された。小説『蟹工船』の舞台となった海域である。蟹工船の時代、そこは地獄であったが今も変わらぬ地獄のようだ。日本からは再び多くの船団が出港したが、戦前とはソ連との力関係が逆転した新生北洋漁業は厳しい漁獲割り当て量に悩まされ、ソ連の国境警備隊やアメリカの沿岸警備隊による拿捕事件が続発した。特にソ連による拿捕は日本人漁民の拘束期間が長期化する例があり、船体は違反操業による没収処分を受ける事が多かった。このような時代、北洋漁業に生きた漁民の生きる哀しみを松本清張は表現している。
 拿捕された漁民を夫に持つ妻の苦悩と現実を男と女の問題として清張は表現している。一時間半のドラマを飽きるとなく見終えることができた。フジテレビがこのようなリアルなテレビドラマを制作していることに驚きもした。

醸楽庵だより   1089号   白井一道

2019-06-09 11:01:15 | 随筆・小説


   「基地が他国を傷つける」石川氏訴え     沖縄タイムス社 - 沖縄タイムス - 2019年6月9日

 「約11カ月かけ、日本列島約3500キロを踏破した石川文洋さん(81)。沖縄では、新基地建設が進む名護市辺野古や米軍のヘリパッドがある東村高江を訪れた。ベトナム戦争の最前線を取材した経験から「戦争を起こすのは、民間人ではなく政治家だ」と語り、「辺野古や高江で訓練する軍隊や軍用機が他国の人たちを傷つける。沖縄が加害者になってはいけない」と訴えた。
 「のんきな性格」だからか、旅のつらい思い出はなく、楽しいことばかりだったという石川さん。毎夜、生ビールを飲んで寝るのが「元気のもと」だった。
 東日本大震災の被災地や山口県の岩国基地など、各地のさまざまな風景を写真に収めた。「写真家は何かが心に触れる時、写真を撮る。それが1日に100回以上あったのはうれしかった」と顔をほころばせた。
心筋梗塞による一部心筋壊死(えし)で身体障害者手帳を受けた。旅を通して「そんな自分でも歩き通せる。誰にでもできる」とのメッセージを伝えたかったと語る。
 母方の祖父の名前が刻まれている平和の礎(糸満市摩文仁)も訪ねた。「礎に刻まれた人々は、残された人生を戦争で奪われた。非常に残念に思う」。ベトナムの戦場では、沖縄の基地から飛び立った爆撃機が大量の爆弾を投下し、多くの人々が犠牲になった。今でも「沖縄人として非常につらい」と心を痛めている。
 「基地のない沖縄を」と書かれたTシャツを着て沖縄を歩いたのは、自身の経験から辺野古や高江の基地に反対しているから。 
 「いろんな問題があるけど、日本はいい国です」。そう思えるのは「戦争がなく、普通の生活ができるから」であり、平和の尊さを重ねて強調した。」
  
 幸せであるということは、普通の生活ができるということ。平和であるということは、普通の生活が持続しているということ。ベトナム戦争、戦場カメラマンであった石川文洋さんが今も元気にしていることを知り、私は元気付けられた。

醸楽庵だより   1087号   白井一道

2019-06-07 13:26:39 | 随筆・小説



   若葉して御 めの雫ぬぐはヾや      芭蕉 元禄元年



 この句には前詞がある。「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して」
 脱活乾漆(だっかつかんしつ)造りの鑑真像は天平時代を代表する肖像彫刻である。このようなリアルな像が奈良天平時代に創作されたことに驚異を覚える。同じころ作られた作品に法隆寺東院夢殿に安置される等身大の肖像彫刻、脱活乾漆(だっかつかんしつ)造りの行信僧都坐像がある。鑑真像と並び称される天平時代を代表する肖像彫刻である。
瞑目した鑑真像には揺るぐことのない確固とした意志が表現されている。同じように法隆寺夢殿に安置されている行信僧都坐像にも強い意志の力が漲っている。
 仏の教えが形となった姿である。温和な優しさに満ちた鑑真像からは想像できない強い意志が漲っている。日本に戒律を伝える揺るぎない使命感に満ちた鑑真は艱難辛苦の末、日本に漂着し、平城京にはいっている。
日本は中国の仏教文化を受け入れて、国家の基礎を築いていった。日本は中国の仏教文化圏の中で国家形成をした。中国人鑑真は日本国家の基礎を築く働きをした。
 六月六日は鑑真忌である。鑑真が亡くなって九〇〇年後、芭蕉は唐招提寺を訪れ、秘仏鑑真像を拝み、この句を詠んだ。
         



醸楽庵だより   1086号   白井一道

2019-06-06 13:02:40 | 随筆・小説



   影待や菊の香のする豆腐串     芭蕉 元禄六年



 年中行事が生きている。それが前近代の社会であった。芭蕉が生きた江戸時代は年中行事が人々の生活を規律していた。影待という年中行事があった。友人、知人が集まって飲食を楽しむ行事である。
 正月、五月、九月の吉日に、徹夜して日の出を拝する行事が影待であった。夜明かして飲食を楽しむ行事が影待であった。年中行事であるが故に無制限の飲食が許された。普段は許されない飲酒が許される。庶民の生活を規律したのが年中行事であった。近代社会になるにしたがって年中行事が廃れていく。年中行事が行われなくなると同時に飲食、特に飲酒がいつでも、どこでも、行われるようになっていく。飲酒への規律がなくなっていく。
 江戸時代、清酒は貴重品であった。普段に飲めるものではなかった。影待の行事があるから酒が飲めた。芭蕉は酒が好きだった。豆腐田楽を肴に影待の宵を芭蕉は楽しんだ。九月の夜空に出た月を愛でて酔いを楽しんだ。日の出を待つことが楽しい。馥郁たる菊の香が漂う中で故郷を偲ぶ豆腐田楽をいただく。
 俳諧があってこその芭蕉の人生であった。俳諧が芭蕉の人生を豊かなものにした。

醸楽庵だより   1085号   白井一道

2019-06-05 12:20:06 | 随筆・小説



   資本主義経済制度の命はまだまだ続くのか


【ベルリン=石川潤】欧州議会選挙で躍進したドイツの環境政党「緑の党」が1日公表の世論調査で初めて支持率トップになった。メルケル首相のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)、国政第2党のドイツ社会民主党(SPD)は支持率を落とし、退潮に歯止めがかからなくなっている。二大政党を与党とするメルケル政権の先行き不透明感もにわかに強まってきた。

 ドイツで緑の党がドイツ国民の支持を得たことの意味を考えてみたい。資本主義という経済制度は様々な弊害を生む。最大の問題は貧困を撲滅することができない。資本主義経済が最も発達したアメリカ合衆国にあっても貧困をなくすことはできていない。さらに資本主義経済が恐慌状態になるとナチスのようなおぞましい独裁政治体制を創り出す。資本主義経済は絶えず独裁政治体制を創り出す動きが止むことがない。民主政治が絶えず資本主義経済をコントロールし続ける必要がある。政治が経済をコントロールする態勢が必要なのだ。それにもかかわらず「企業が最も活躍できる国づくり」をすると公言して憚らない政治家がいる。政治の使命を認識しない者の発言である。この発言は資本主義の危機を創り出すことを認識しない危険な発言である。資本主義経済は絶えず民主政治を破壊する動きを止めることはない。今までドイツにあってはドイツ社会民主党が民主主義政治体制を守ってきた。がしかしその役割がドイツ社会民主党から緑の党に変わったということなのであろう。ドイツの勤労者の政治的要求を実現するのはドイツ社会民主党ではなく、緑の党になったということを意味していると私は理解した。ドイツの勤労者の第一義的な政治的な要求が環境問題になったということを意味している。資本主義経済は絶えず地球環境、自然環境を悪化させる動きを止めることはない。だから政治的な力によって経済の在り方をコントロールする必要があるという認識がドイツ国民のものになったということを意味している。

天安門事件から30年   1084号   白井一道

2019-06-04 11:06:08 | 随筆・小説



   天安門事件から三〇年

[AFP=時事]中国の国営紙「環球時報(Global Times)」は3日、中国の民主化運動を当局が武力弾圧した天安門(Tiananmen)事件から今月4日で30年を迎えるにあたり、当時の政府の対応を擁護し、事件は中国に政治的な混乱に対する「免疫力」を与えたとの見解を示した。同国で天安門事件に関する論説が発表されるのは非常にはまれ。
 1989年6月4日、中国の首都北京の天安門広場(Tiananmen Square)では、民主化を求めるデモに対し、鎮圧のために軍部隊と戦車が展開。数百人、一説には推定1000人超の市民が殺害された。
 中国共産党の機関紙、人民日報(People's Daily)の傘下にある環球時報は英語版で、「6月4日は政治的混乱に対する免疫力を中国に与えた」と題した論説を掲載。政府によるこの「出来事」への対応を称賛し、「天安門での出来事は、中国社会のためにワクチンとして将来、どんな政治的動揺にも中国が対処できる免疫力を大幅に増大させる」と主張した。
 これに先立ち、魏鳳和(ウェイ・フォンホー、Wei Fenghe)国務委員兼国防相は2日、シンガポールで開催されたアジア安全保障会議で、天安門事件での流血を伴った弾圧について「正しい政策」だったと擁護。環球時報による今回の論説は、この発言に同調するものとなった。
【翻訳編集】AFPBB News

 
 加藤哲郎 2019.6.1、ネチズンカレッジより
 6月4日は、中国天安門事件、30周年です。 いまやアメリカと拮抗する大国となった中国では、wikipedia の接続遮断など情報統制が強まっていますが、世界中で問題を回顧し、その意味を考えようという動きがみられます。日本でも30周年のホームページが作られ、さまざまなイベントが行われています。1989年当時の中国民主化運動の学生リーダー王丹氏らが来日し、集会が開かれます。6月4日には、中国大使館への抗議と渋谷でキャンドルナイトとか。今日、日本で働いている多くの中国籍の人々や、中国人留学生、訪日中の中国人観光客の皆さんは、どのように受け止め、どんな感想を抱くのでしょうか、台湾・香港・米国などとの比較で、気になります。当時、私も一橋大学で何人かの中国人留学生を教えており、大学の同僚100人以上と中国政府への抗議文を作り、記者会見で発表すると共に、北京飯店ほか分かる限りの中国本土の電話番号に、手当たり次第にファクスで送信しました。まだインターネットがなかった時代の、 海外へのコミュニケーション手段でした。抗議文の末尾は、確か「6月4日を忘れない」でした。その時の留学生の一人とは、昨年夏に再会して、昨年8・15の本トップで書きました。「かつて大学院の政治学ゼミに在籍した中国人S君から電話、いま日本にきているので会いたい、という話。早速打ち合わせて、久しぶりの再会。S君が 日本に留学してきたのは、1980年代の末、ちょうどベルリンの壁崩壊・ソ連邦解体の時期でした。中国の青春時代が文化大革命と重なり、4年の下放=農村生活を体験したS君は、文革終了期に猛勉強して大学を卒業、中国社会科学院の優秀な若手エリート研究者として、日本に派遣されました。ところが、ちょうど中国では天安門事件、日本に留学していた多くの中国人留学生が、民主化を求めて本国天安門広場の学生・民衆に連帯しました。留学生のリーダーの一人であったS君は、在日中国大使館前の抗議行動に加わり、それが日本のテレビ・ニュースに映っていたことで、6・4弾圧後に本国政府・中国大使館にマークされ、奨学金・ヴィザも止められました。本国に帰れば厳しい弾圧にさらされるので、友人たちと共に台湾に脱出、すぐれた日本語能力・知識が買われて台湾の日系企業に就職、その統率力も認められ、中国・台湾に工場を持つ日本企業の大阪本社で日中経済交流の発展に尽力ました。10年ほどで日本企業の上海支社勤務のかたちで故国の土を踏み、日本と中国をつなぐビジネスマンとして活躍してきました。研究者への道は閉ざされましたが、歴史と政治への関心は失わず、私が中国に行く際にはしばしば会って、日中両国の未来を語り合いました」。S君のように、民主化運動に加わり、天安門事件で人生設計を狂わされた学生は、おそらく数万人はいたでしょう。そこからさらに遡ること33年、1956年の旧東独で起こった高校生たちの抵抗の物語が、映画になって、日本でも公開されました。日本での公開名は「僕たちは希望という名の列車に乗った」ですが、ドイツ語原題はDas Schweigende Klassenzimmer(沈黙の教室) 、 英語版はThe Silent Revolution (静かなる革命)です。東欧ハンガリーで1956年に起きた民主化運動とソ連の戦車による弾圧を、西側ラジオで知った東独の模範的高校生たちが、ソ連に抗議しハンガリーの若者に連帯して歴史の授業で2分間の黙祷をして、校長から教育大臣まで出てくる大問題に発展した、実話にもとづく映画です。高校生たちの青春と恋愛・家族・進学問題とうまく組み合わされ、天安門事件時の中国民主化学生たちとも共通する、現存した社会主義のもとでの自由と正義、友情と連帯の問題が、生活感のあるかたちで描かれていました。大学卒業直後の1970年代に旧東独に滞在して現存社会主義を体験し、それを土台に研究生活に入った私にとっては、1989年の「ベルリンの壁」崩壊後に見た泣き笑いの『グッバイ・レーニン』と、超監視国家としての東独をシリアスに描いた『善き人のためのソナタ』の双方の流れを想起させる、青春ノスタルジア映画でした。ただし今回は、現在の若い日本人学生たちと一緒に見ました。学生時代からの友人川人博弁護士が、東大教養学部で長く「法と社会と人権ゼミ」を開いていて、その受講学生有志と1956年の東独を描いた「僕たちは希望という名の列車に乗った」を見て、鑑賞後の感想会でコメントしてくれと言う誘いに乗って、喜んででかけました。まずは大学1・2年の学生たちの感想を聞き、私なりに映画の歴史的背景や1950年代・70年代・89年崩壊期の東独について補足しました。学生たちは、何しろ21世紀生まれが多く、素直にドイツの青春映画の一つとして受け止めていました。東独の秘密警察シュタージによる監視国家も、現代の中国や北朝鮮の言論の自由とダブらせて、やっぱりあんなものだっただろうという学生もいました。むしろ、ソ連に抗議する2分間の黙祷の目的を校長らに追及され、当時のハンガリーのサッカー選手プスカシュが犠牲になったので追悼したという若者たちの機転の利いた口裏合わせに、共感していました。私はプスカシュの名を知らなかったので、あの部分はフィクションではと言ったら、すぐに女子学生がスマホで調べて、いやフェレンツ・プスカシュは実在のプロサッカー選手で2006年まで生きていた、と調べてくれました。そもそも「社会主義」と「ファシズム」の関係がわかりにくかったらしく、なぜ東独では「反ファシズムの闘士」というだけで党幹部や指導者・教育者になれたのかという疑問が出されました。映画には描かれなかった1956年ソ連での「スターリン批判」の衝撃、日本では当時「ハンガリー動乱」と呼ばれ、今は「革命」とよばれていることの説明は、時間切れで舌足らずに終わったようです。でも、そうした問題を自由に屈託なく話す、若い学生たちの感性に、希望を感じました。映画で東独の学生たちが乗った「希望という名の列車」は、黙祷事件で退学になり家族とも切り離されて西側に逃れるための、やむなき逃避行でしたが、現代日本の学生たちにとっては、そうした自由や権利は、インターネットを通じて当たり前の空気のようになったようです。その東独時代の体験は、講演「『国際歴史探偵』の20年」で簡単に述べましたが、数年前に中部大学『アリーナ』誌に発表した長いインタビュー記録を、本「ネチズンカレッジ」にも入れてあります。聞き手は、他ならぬ1956年ハンガリーについての名著『ハンガリー事件と日本』(中公新書)の著者・小島亮教授です。川人弁護士が、人権を学ぶ学生たちに、さらに関心あれば本「ネチズンカレッジ」へと紹介してくれたので、天安門事件と「ベルリンの壁」崩壊時の私の同時代の著作『東欧革命と社会主義』のプロローグとエピローグを、今回アップしました。そこで巻頭においたポーランドの哲学者コラコフスキーの詩「なにが社会主義ではないか」は、当時は話題になりました。でも「あとがき」の「ベルリンーー1973年春」に書いた、現地の友人ディーター・フクスとの秘密の交流こそが、私の現存社会主義批判の原点で、「希望という名の列車」体験でした。そしてその連帯は、1945年以前のナチス・ドイツと天皇制日本は、ファシズムと呼ばれた同盟国で、旧ソ連や東独の一党独裁・監視国家と同じような自由の欠如と人権の抑圧が当たり前だった過去を共有することで、裏付けられていました。日本における戦前の「治安維持法体制」の一端については、その支配の重要な一翼であった思想検事「太田耐造関係文書」中のゾルゲ事件関係新史料にもとづいて、6月8日(土)午後、専修大学での大きな講演会で、「昭和天皇へのゾルゲ事件上奏文ー思想検察のインテリジェンス」と題して報告します。


 全世界の民衆がナショナリズムを克服し、国境を越えて連帯し協力し大国の覇権に抗議することが世界の平和を実現する。白井

醸楽庵だより   1083号    白井一道

2019-06-03 11:51:10 | 随筆・小説



   老の名のありとも知らで四十雀     芭蕉 元禄六年




 この句の出典は元禄六年十月九日付け許六宛書簡である。この書簡には次のような記述がある。「少将の尼の歌の余情(よせい)に候」。
 「少将の尼の歌」とは、「おのが音につらき別れはありとだに思ひも知らで鶏や鳴くらむ」『新勅撰集』。私の鳴き声に後朝(きぬぎぬ)の別れがあるとも知らずに鶏は鳴いている。一夜を共にした男女は一番鶏の鳴き声を聞くと男は女の床を出て、帰っていく。辛い別れがあるとも知らずに鶏は鳴き始める。
 人は人の喜びも悲しみも知らずに生きている。人は人に何をしようとしているのかも知らずに生きている。老いの名があるとも知らずにシジュウカラは今日も元気に河原にできた水たまりで飛び跳ねている。

醸楽庵だより   1082号   白井一道

2019-06-02 13:35:07 | 随筆・小説



   入る月の跡は机の四隅哉     芭蕉 元禄六年



 この句には、「東順伝」という前詞がある。其角の父、東順への追悼句として芭蕉は詠んでいる。東順氏愛用の机を通して死者への思いを芭蕉は詠んでいる。
 其角の父は医師であった。愛用していた机が部屋の中に残されているのを見て芭蕉は詠んでいるのだろうか。月の光が主の居なくなった机の四隅を照らしている。
 追悼句とはこのような句を言うのだと教えられるような句だ。読者はこの句を読み、心の中に静かさが広がっていくことを感じる。この静かさが追悼するということなのだろう。
 東順氏が愛用した机に死者の魂を芭蕉は発見している。すべての人はいつか死ぬ。しかし死者の思い出は生きている人の心の中に生きている。芭蕉の心の中に東順の生き生きとした姿がよみがえっている。「机の四角哉」と詠んだ所に芭蕉の手柄がある。

醸楽庵だより   1081号   白井一道

2019-06-01 15:47:24 | 随筆・小説



  なまぐさし小菜葱(こなぎ)が上の鮠(はえ)の腸(わた)     芭蕉 元禄六年




 小菜葱とは、田んぼに生える水草のこと。水田農民に嫌われた雑草だ。しかし万葉歌人たちは歌に詠んだ。「なはしろ(苗代)のこなぎ(子水葱)がはな(花)をきぬ(衣)にす(摺)りな(馴)るるまにまにあぜ(何)かかな(愛)しけ 」(,読人知らず)。農民に嫌われる花を衣服に擦り付け、紫色にした。振り向いてくれない思いを詠んだものだろうか。
 鮠(はえ)とは、ウグイのこと。また日本産のコイ科淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称でもあるようだ。
 釣りを楽しんだ子供が死んだ鮠(はえ)を打ち捨てて行った痕なのだろうか。
 支考の『笈日記』によれば、元禄7年去来の別宅桃花坊で芭蕉に会った折、支考がこの句について残暑の景であると言ったところ、芭蕉から褒められたと言われたとある。
 残暑が表現されているということか。