失敗はどこにあったのか-----
侘助 藤井聡太棋聖18歳が木村一基王位47歳と戦い、4勝0敗で王位を奪った。80手と短手数で勝利した。このようなタイトル戦を戦った経験のある棋士の経験談を聞くとタイトルホルダーと将棋盤をはさんで対面するとその威圧感に打ちひしがれてしまいそうなほど圧力があると言っている。しかし藤井7段と対戦した経験から言うと彼にはそのような圧力というか、威圧感のようなものが何もないという。とても柔らかな自分の存在を受け入れてもらっているような安心感があるという。
呑助 戦いに立ち向かう男らしさのような恐ろしさがないということなのですか。
侘助 有名なタイトル7冠を制覇した羽生永世名人と対戦した棋士の話によるとその威圧感というか圧力に圧倒されるという。
呑助 棋士は盤上に命を賭けているということなのでしよう。
侘助 盤上に人生がある。しかしまだ18歳の藤井聡太氏にとって将棋はまだ遊びに過ぎないのかもしれない。遊びに過ぎない将棋に人生を賭けている46歳になる苦労人、千駄ヶ谷の受け氏の異名を持つ木村一基9段は人生を賭けて勝負に挑んだことであろう。
呑助 どこか、しくじった箇所が木村一基王位にあったのではないですか。
侘助 いや、どこに敗因があったのか、私には皆目分からない。木村王位は藤井棋聖の飛車を捕獲した。素人は「王より飛車を可愛がり」なんて言われているくらいに飛車が捕獲されてしまったら、負けたような気持ちになるが、藤井棋聖は第一目が終わり、次の手を封じ、勝利への道を歩み始める。藤井棋聖が指した手は飛車と銀とを交換する手であった。誰がこのよう手を考え抜き、指すことができようか。解説をしていた8段の棋士もこのような手を想像だにしていなかったに違いない。
呑助 藤井少年の飛車は銀で捕獲されてしまったのですね。
侘助 木村一基王位は銀と飛車との交換によって、しめしめと思っていたのかもしれないが、これが運の尽きだった。それから何手も指すことなく、将棋は終わってしまった。
呑助 飛車の捕獲が勝利への道ではなく、敗者への道であったということですか。
侘助 将棋は逆転のゲームだという人がいる。勝利への道が敗者への道になる。相手に勝ちだと思わせて、敗者へと突き落とす。このようなゲームが将棋なのかもしれない。
呑助 この指し手は失敗なのだという認識がないと駄目だということですかね。
侘助 そう、間違った指し手をしたから負ける。正しい指し手をしているのなら負けるはずがない。失敗したから負ける。この失敗を失敗として認められるか、どうかと言う事が強いか、弱いかと言う事なのではないかと考えている。
呑助 強い人は正しい手を指す、弱い人は間違った手を指すということですか。
侘助 その盤面でどのような手が正しい手なのかを探すゲームが将棋なのかもしれない。
呑助 将棋は頭の格闘技なのですね、
侘助 そう、将棋は格闘技なのだ。戦いが終わると体重が何キロか減るような厳しい格闘なのかもしれない。絶えず正しい手を探し求めて行く孤独な道なのかもしれない。助けてくれる人は誰もいない。ただ独り自分の進む道を探し出す苦しみに耐える厳しい道なのかもしれない。
呑助 プロの将棋指しには将棋する楽しみと言うものは無いのかもしれませんね。
侘助 プロの歌手には歌を歌う楽しみはないという話を聞いたことがある。ある歌手が歌を歌い、楽しいなと感じた時、あー、私はプロを辞めようと思っているのかもしれないなと思ったという文章を読んだことがある。
呑助 芸能に生きる人にとって、芸そのものを自ら楽しむことないということなのですね。
侘助 きっと、そういう事だと思う。子供が好きで保母さんになった人は子供が好きなだけではやっていけないことを知っていることだろう。