本書の副題は「原子力政策研究会100時間の証言」である。
ETVが3本のドキュメンタリーを制作して放送したという。残念ながらその放映があるということを見落としていて見ていない。
「前編 置き去りにされた慎重論」「後編 そして”安全神話”は生まれた」。その続編として「不滅のプロジェクト~核燃料サイクルの道程~」。この3つの番組が制作された。本書はその取材記である。歴史的事実を地道に具体的にトレースしていく作業が行われた記録となっている。
取材記の中核資料が「島村原子力政策研究会」の記録として残されていた100時間を超える録音テープである。島村とは、1956年、「発足したばかりの科技庁(=科学技術庁)で原子力政策課長に就任。日本初の原子炉導入に携わった後、原子力局長や原子力員会委員などを歴任。引退後も1996年に82歳で亡くなるまで、日本の原子力行政において指導的立場にあり続け、政策決定に深く関わった人物だ」(p18)。p28には、1955年経済企画庁原子力室長時代の写真が載っている。島村武久氏である。その島村が1985年から94年までの9年間、「島村原子力政策研究会」を開催していたという。録音テープはこの研究会の事実記録なのだ。今は伊原義徳氏(旧通産省・旧科技庁の官僚、本書出版時点で87歳)ほか有志が現在も「原子力政策研究会」を結成して、島村の志を引き継いでいるという。著者は伊原氏から入手したこの録音テープを軸にしながら、様々な取材情報を総合し、取材記をまめている。
著者のスタンスは明確である。「全巻を徹底的に聞き込むことで、島村たちが推し進めてきた日本の原子力政策の足取りを追体験し、構造的な矛盾を徹底的に検証していく。そこから初めて、福島原発事故に至る過程が明らかにされるとともに、次世代に伝えるべき教訓が出せるかもしれない。」(p19)ここに原点がある。
「はしがき」の冒頭の一文は次の通りである。
「本書は、日本に原子力発電所の導入が検討され始めた1950年代前半から、東京電力福島第一原子力発電所がレベル7の炉心溶融事故を起こす2011年3月11日までの日本の原子力政策の歴史をたどったものである」。
本書は資料根拠を明示し、関係者の略歴も明記しつつ実名で歴史をたどっている。それは、伊原氏が著者に録音テープを貸し出した意図にも合致する。「後の世代に事実を伝える一助になるのであれば」(p19-20)。内輪の極秘の会合記録だった故に、そこには赤裸々な衝撃的言葉が発せられているようだ。その一端がこの取材記に引用され跡づけされてもいる。
島村氏自身が、研究会を始めて程ない1987年『島村武久の原子力談義』(電力新報社)を出版し、「日本の原子力政策の矛盾を手厳しく批判している」という。(p29)
原子力が平和利用という旗印のもとに、基礎研究をなおざりにして、まずは実用炉の導入へと突き進み、その結果がフクイチのメルトダウンへの道となった。私には到底想像の及ばない規模の負の遺産が残された。そうなったのはなぜか・・・・・。本書はその経緯を跡づけている。まず「事実」を知るために、必読の書の1冊となるだろう。
最初に目次を紹介しておきたい。ここだけで大凡の文脈が明確になる。
はじめに
序章 極秘の会合・島村原子力政策研究会
第Ⅰ部 置き去りにされた慎重論
第1章 残されていた極秘の証言記録
第2章 巨大産業と化していく原子力
第3章 初の商業炉導入の”真相”
第4章 軽水炉の時代の到来
第Ⅱ部 そして”安全神話”は生まれた
第5章 科学技術の限界を問おうとした科学裁判
第6章 最重視された稼働率の向上
第7章 自らの神話に縛られていった「原子力ムラ」
第Ⅲ部 ”不滅”のプロジェクト-核燃料サイクルの道程
第8章 なぜ日本は核燃料サイクルを目指したのか
第9章 核武装疑惑解消のために
第10章 壮大な夢の挫折-変質するサイクル計画の”目的”
あとがき
関連年表
第Ⅰ部の見出し「置き去りにされた慎重論」について、著者が次の要約文を記している。この要約文に至る克明な取材経緯の記述が読みどころである。
「日本への原子力発電所の早期導入を国策として進めた、国と財界。基礎から研究すべきだとの主張を退けられた科学者。経済性を優先せざるを得なかった電力会社。それぞれの思惑の中で、ひとり置き去りにされたのが、安全性だったという現実--。」(p176)
是非、この事実経緯を一読願いたい。政治主導で事が進み、最初は様子見の産業界が動き出すと、科学者の主張は横に置き、ここでも「バスに乗り遅れるな」心理で突っ走って行った現実がある。それを「今こそ振り返る必要がある」(p176)同じ轍を繰り返さないために。
この第Ⅰ部を読んでいただきたいために、いくつか引用しておきたい。
*「電力経済研究所の設立という既成事実を先手を打って作り上げることで、学術界の停滞ムードを打破しようとしたのです。 p34 ← 森一久氏の証言
*1954年2月、藤岡たちは原子力シンポジウムを開催。原子力の平和利用の一例として、当時、注目を集めていた原子力潜水艦がテーマに取り上げられ、科学者たちの間では、研究再開発を歓迎する雰囲気が生まれかけていた。原子力予算案はこうした科学者たちの動きを無視し、全くの政治主導で出現したのである。 p57
*1955年の夏、前田正男と中曽根康弘に加え、松前重義、志村茂治の4人による超党派国旗議員団が結成され、具体的な原子力政策の検討が始まった。 p59
*「正力さんたちに、湯川先生のアイデアを生かそうという気持ちはほとんどなかったですね。ただ政府が作った政策に、湯川さんの署名が欲しかっただけでした。・・・ p85
← 湯川の門下生藤本陽一氏の証言。東京大学原子核研究所の元教授。
*こうしたJRR-1で発生したトラブルは、正式の報告には何も書かれなかった。そして、十分な検証を行う時間もない中、立て続けに研究2号炉であるJRR-2の建設が始まった。
*伊原氏たちは、正力が見落としていた重要な問題点を見つけた。そもそもコールホールダー原発の原子炉は、核兵器を製造するためプルトニウムを造り出すことを目的に設計された炉が原型であり、純粋に発電を目的として開発されたものではなかった。そして、炉内で造り出されたプルトニウムは、イギリス政府が核兵器の材料として買い上げることになっており、・・・・発電コストが低く抑えられている理由・・・だったのである。 p114
*日本初の商業炉は、終始、正力松太郎が主導権を握り、安全性や経済性につして様々な問題を抱えたまま、イギリスから導入することが決定された。 p119
→正力は、ヒントン卿のいうことに惚れ込んだのだという。
→「ある意味で口火を切ったのは中曽根さんかもしれないけれども、原子力発電ってことになると、やっぱり正力さんってものを忘れることはできない。正力さんの決断で踏み出したから、後は加速度的にサーッといったような気がするんです。」(島村武久)p146*そりゃ35メートルの高さだったら津波の被害を受けなかったかもしれないけれど、そんな所に発電所を造れたかということですよ。造れたかもしれないけれど、非常に高いものにつくでしょうね。経済的に安くすむということから、GEを選んでターン・キーという形で契約を結んだわけだから、それを覆してしまったら、全く意味が無いと言うことですよ。(豊田正敏氏の発言) p167 ←元東電・原子力開発本部、原子力部長代理
→ この判断は当時としては妥当なものだったと語る。
第Ⅱ部は表題「そして”安全神話”は生まれた」のとおり、「安全神話」が作られた経緯を証言・資料ベースで明確に跡づけしている。
アメリカで開発された軽水炉型原発が「プル-ブン・テクノロジー(完成された技術)」として日本に輸入されたことにより、「少なくとも国は積極的に技術開発に投資する必要はない」「完成されたという認識が、ミスリードした思想的な背景にあるのではないか」(p182、殿塚猷一氏)とみる。さらに、「原発が設置された地域の住民感情に配慮する余り、日本では原子力の危険性と向き合ってこなかったことが、今回の事故被害を大きくした背景にある」(p183)という議論がメンバーで議論されているのだ。
第5章で、原子力の科学技術の限界と安全性を問おうとした「日本初の科学裁判」となったで「伊方原発訴訟」が「作られる側」住民の視点に立って、議論の経緯が再検証されている。フクイチで現実化した問題事象のほとんどがこの裁判の中で論じられているのである。安全性の捉え方について、国側の証言者の発言記録から、どこで論理の展開が打ち切られているかがよく分かる。事故の想定において必ず緊急炉心冷却装置(ECCS)が働くという前提で、立地評価がなされているということが当然視されているのである。(p222)「無視できる程度のリスクは受容可能であるということで、原子力発電の利用が容認・推進されるということの認識が大切である」(裁判当時、原子炉安全専門審査会会長、東大教授、内田秀雄氏)という認識は、現在も原子力ムラの認識としてなんら変化していないのではないか。そんな気がしてならない。
第6章では、火力発電の公害問題が取り上げられ始めた1970年代初めに、オイルショックが発生し、日本経済の低迷の最中で、1974年8月の朝日新聞への最初の原子力広告を皮切りに各新聞に続々と原子力広告が登場して行った経緯が跡づけられている。そこには企業として収入源を補うために広告掲載の収入源として原子力広告が位置づけられていったこと、金の力が結局、報道における報道の仕方に影響力を及ぼして行ったという事実が読み取れる。
「権限と人員を持った原子力規制を担当する強力な機関を設置すべきだという声は、原子力行政懇談会の議論の過程で、原子力政策の推進を前提としたものへと姿を変え、最終的に法律化されるときには、権限の弱い諮問機関的な安全委員会の形に収まった。原子力政策推進のためには、『規制』ではなく、あくまでも『安全の確認』にとどめるという姿勢が貫徹されたといえる」(p257)。原子力行政にとり御しやすい形に変質した経緯もよくわかる。
電力会社各社が、一旦原発を導入し建設稼働すると、稼働率向上という側面に突っ走っていき、それ故にトラブルの隠蔽、虚偽記載の横行などの発生してくる経緯が明らかにされている。
第7章では、スリーマイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故が発生して行ったにもかかわらず、あるいはそれ故に原子力ムラが自らの安全神話に縛られていった経緯が克明に追跡されている。安全だと言い続けてきた前言を翻せないというジレンマがそこにはある。
「深刻な原発事故が『起きる可能性がある』としたら、住民は原発を受け入れるだろうか。」(p286)この根源的な問題に行き着いても、そこを曖昧にしたままで進める姿勢が、現在もそのまま温存されているのではないか。
このあたりの論理思考を検証するのに有益だ。
第Ⅲ部の表題は、「”不滅”のプロジェクト」である。
これは第10章に出てくる伊原義徳氏の体験的感想に由来する。「日本ではプロジェクト不滅の法則というのがあって、いかにおかしくても死なないと。プロジェクト不滅というのはおかしいじゃないかって叱られるんですけれど。まあいったん決めたら何とか最後までやるというのが、体質なんでしょうか。」(p369)という箇所だ。そして、副題にある「核燃料サイクル」もまさにその様相を呈してきたし、今なお継続しているというところにある。現在までの道程を明らかにしようと試みたのがこの第Ⅲ部だ。
伊原氏は、この法則を持ち出した続きに、「高速増殖炉開発」を挙げて、「依然として今の考えでいけるのかどうかという問題は、私は個人的にはちょっと気になっておりますが。まあ依然として、再処理をやってというのは、理屈は一番いいんですけど」と疑念を述べている。
上掲のとおり、第Ⅲ部は3つの章で構成されている。「なぜ日本は核燃料サイクルを目指したのか」「核武装疑惑解消のために」「壮大な夢の挫折-変質するサイクル計画の”目的”」という文脈である。
以下、キーセンテンスと思われる箇所を抽出してみよう。詳細な道程の分析は本書をぜひご一読いただき、それぞれにお考え願いたい。
*正力(松太郎)の他にも、核燃料サイクル計画に関心を持たない人々は数多くいた。中でも最も及び腰だったのが、電力会社をはじめとする産業界だった。 p313
*追い風となる出来事が起きた。1973年の第一次オイルショックだ。石油に頼る火力発電の将来が危ぶまれるようになる中、プルトニウムをリサイクルして使う核燃料サイクルに、経済界を中心に大きな期待が寄せられるようになったのである。
→ この時のさらなる追い風を著者は例示する
1977年4月 茨城県大洗町の研究用小型の高速増殖炉「常用」が初臨界に成功
1978年3月 福井県敦賀市の新型転換炉「ふげん」が臨界に成功 同7月初送電
1978年 茨城県東海村に小規模のプルトニウム抽出の再処理施設建設
→ 国が核燃料サイクル計画に執心し、経済界は資本の論理(利益)だけなのだ。
現在、「ふげん」では、26年間がかりの廃炉作業が行われている。発生する高レベル放射性廃棄物の処理や管理には、数千年から数万年が必要と見込まれている。 p344
685億円かけて建設されたふげんは、本来の増殖炉としての役割を果たすことなく、「プルトニウム焼却炉」として使われ続けた。増殖というメリットを生かせない限り、その機能とコストを比較すると、新型転換炉は、軽水炉に全く太刀打ちできるものではなかった。 p344
*外務省の官僚たちは、核燃料サイクルによってプルトニウムを取り出せることに注目。この技術を開発することにより、日本がいつでも核武装できる体制を整えておこうと考えていた。核武装という選択肢を持っておくことは、日本の防衛・外交上必要だという考えは、同僚の間で共有されていたと、矢田部氏は語った。(付記:元外務省国際連合局の科学科長・矢田部厚彦氏) p331
*科学技術疔の官僚たちは、・・・もんじゅの事故以降、プルサーマル以外に、プルトニウムを使う手だてが見当たらなかった・・・最終的にプルサーマルは、2000年の長期計画で国策として行っていくことが明記された。 p362
*科学技術疔から計画を引き継いだ文部科学省は、今後も高速増殖炉の開発を軸に、核燃料サイクル計画を進めて行くこととした。→2011年の小委員会の結論を踏まえ p366-7
現在でも、今後の核燃料サイクル計画の具体的な方針を巡る意見はまとまらず、継続して議論されていくことになっている。 p368
*半世紀の時間と巨額の国家予算をつぎ込んで推し進められてきた、核燃料サイクル計画。壮大な夢を追った後に残されたのは、半減期2万4000年のプルトニウム。そして、この先10万年にわたって監視を続けなければならない高レベル放射性廃棄物だった。 p370
「資源エネルギーをいかに確保するか」が原子力選択にあったという。資源エネルギー確保は、いつの時代においても基本テーゼである。原子力の選択において、基礎科学研究の論理が横に押しやられ、資本の論理、欲望の論理が何時かしら「危険なものは危険」という日常感覚を麻痺させ、核燃料サイクル計画を不滅のプロジェクトとするまでに、つっぱしてってしまった事実。原発メルトダウンへの道に至った現実。
やはり、ここでその事実を見つめ直す必要があるのではないか。
「あとがき」は末尾でこう述べている。
「原発の安全神話という病理が私たちの社会に根を張る過程を見つめた本書が、原発反対を訴える人々にとっても、原発推進を訴える人々にとっても、これまでの原発に深く関わってこなかった人々にとっても、巨大技術がはらむリスクを客観的に見つめる一助となれば望外の幸せだ」と。
最後に、本書第Ⅰ部に関連して、『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』(有馬哲夫著・新潮新書)を併読されることをお薦めしたい。この「遊心逍遙記」を書き始める前に読んだ新書である。重ね合わせると、さらにその経緯について、視点を広げることもでき、事実の理解が深まると思う。
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本書関連で関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ETV特集 シリーズ 原発事故への道程 前編 置き去りにされた慎重論
:「録画テータベース」
NHK ETV特集 原発事故への道程(前後編)文字起こし :「PUKIWIKI」
正力松太郎 :ウィキペディア
中曽根康弘 :ウィキペディア
再処理推進への懸念示す島村研究会資料 20年前の当事者等の会合記録から
:「核情報」
敗戦後日本にもちこまれた悪魔の火:原子力(1) :「社会科学者の時評」
敗戦後日本にもちこまれた悪魔の火:原子力(2) :「社会科学者の時評」
プルトニウムの危険性 :「社会科学者の時評」
発電炉の仕組みのちがい :「発電所の種類」
原子力発電の仕組みとは? 原発先生の特別授業 用語集
東海村 :ウィキペディア
東海村JCO臨界事故 :ウィキペディア
動力炉・核燃料開発事業団 :ウィキペディア
日本原子力開発機構 ホームページ
日本原子力発電 :ウィキペディア
日本原子力発電株式会社 ホームページ
日本原燃 ホームページ
六ヶ所再処理工場 :ウィキペディア
六ヶ所再処理工場反対 「美浜の会」のサイト項目
六ヶ所再処理工場に伴う被曝-平常時と事故時 小出裕章氏
たねまきJ「六ヶ所村再処理工場 ・恐るべき再処理の実態」小出裕章氏(内容書き出し・参考あり)7/19 :「みんな楽しくHappyがいい」
【六ヶ所再処理】工場周辺住民の被爆を国は認識 2012-12-23 :「原発問題」
プルサーマル :ウィキペディア
プルサーマル計画 :「日本原子力発電株式会社」
プルサーマル :「電気事業連合会」
概要:プルサーマルの危険性を警告する :「核情報」
プルサーマル導入-その狙いと危険性 小出裕章氏
プルサーマル MOX燃料の危険性!? 日本が保有するプルトニウムは4000発分!
伊方原発訴訟 :ウィキペディア
伊方原発をとめる会 未来に負の遺産を残さないために ホームページ
伊方原発訴訟上告審判決 ジュリスト pdfファイル
原発行政への司法審査のあり方 三つの原発訴訟最高裁判決から考える 首藤重幸氏
伊方原発訴訟判決の問題点 礒野弥生氏
原発訴訟における「主張立証の必要」について 安井英俊氏
証言 伊方原発訴訟
「原発は安全」判決書いた最高裁判事が東芝に天下り 司法にも広がる原発マネー汚染
お気に入り記事へ保存 04:31 05/27 2011 三宅勝久氏 :「 My News Japan」
伊方発電所の安全対策について :「四国電力株式会社」
ふげん :ウィキペディア
もんじゅ :ウィキペディア
小出裕章さんにきく。(4) - 「もんじゅ」と原子力研究の歴史について。
- 2014.04.28 音声 :Youtube
迷走続く夢の原子炉「もんじゅ」 事故、不祥事で信頼失墜 ;「福井新聞」
(2014年4月5日午前7時15分)
福島原発以上に危険性のある高速増殖炉『もんじゅ』で今起きていること
:「ガジェット通信」
原発個別地図・六ヶ所再処理工場(青森県)からの距離 :「ちょっと便利帳」
原発個別地図・大飯発電所(福井県)からの距離 :「ちょっと便利帳」
原発個別地図・浜岡原子力発電所(静岡県)からの距離 :「ちょっと便利帳」
原発個別地図・伊方発電所(愛媛県)からの距離 :「ちょっと便利帳」
原子力百科事典 ATOMICA :「高度情報科学技術研究機構」
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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
今までに以下の原発事故関連書籍の読後印象を掲載しています。
読んでいただけると、うれしいです。
『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1』 東浩紀編 genron
『原発ホワイトアウト』 若杉 洌 講談社 ←付記:小説・フィクション
『原発クライシス』 高嶋哲夫 集英社文庫 ←付記:小説・フィクション
原発事故及び被曝に関連した著作の読書印象記掲載一覧 (41冊) (更新2版)
ETVが3本のドキュメンタリーを制作して放送したという。残念ながらその放映があるということを見落としていて見ていない。
「前編 置き去りにされた慎重論」「後編 そして”安全神話”は生まれた」。その続編として「不滅のプロジェクト~核燃料サイクルの道程~」。この3つの番組が制作された。本書はその取材記である。歴史的事実を地道に具体的にトレースしていく作業が行われた記録となっている。
取材記の中核資料が「島村原子力政策研究会」の記録として残されていた100時間を超える録音テープである。島村とは、1956年、「発足したばかりの科技庁(=科学技術庁)で原子力政策課長に就任。日本初の原子炉導入に携わった後、原子力局長や原子力員会委員などを歴任。引退後も1996年に82歳で亡くなるまで、日本の原子力行政において指導的立場にあり続け、政策決定に深く関わった人物だ」(p18)。p28には、1955年経済企画庁原子力室長時代の写真が載っている。島村武久氏である。その島村が1985年から94年までの9年間、「島村原子力政策研究会」を開催していたという。録音テープはこの研究会の事実記録なのだ。今は伊原義徳氏(旧通産省・旧科技庁の官僚、本書出版時点で87歳)ほか有志が現在も「原子力政策研究会」を結成して、島村の志を引き継いでいるという。著者は伊原氏から入手したこの録音テープを軸にしながら、様々な取材情報を総合し、取材記をまめている。
著者のスタンスは明確である。「全巻を徹底的に聞き込むことで、島村たちが推し進めてきた日本の原子力政策の足取りを追体験し、構造的な矛盾を徹底的に検証していく。そこから初めて、福島原発事故に至る過程が明らかにされるとともに、次世代に伝えるべき教訓が出せるかもしれない。」(p19)ここに原点がある。
「はしがき」の冒頭の一文は次の通りである。
「本書は、日本に原子力発電所の導入が検討され始めた1950年代前半から、東京電力福島第一原子力発電所がレベル7の炉心溶融事故を起こす2011年3月11日までの日本の原子力政策の歴史をたどったものである」。
本書は資料根拠を明示し、関係者の略歴も明記しつつ実名で歴史をたどっている。それは、伊原氏が著者に録音テープを貸し出した意図にも合致する。「後の世代に事実を伝える一助になるのであれば」(p19-20)。内輪の極秘の会合記録だった故に、そこには赤裸々な衝撃的言葉が発せられているようだ。その一端がこの取材記に引用され跡づけされてもいる。
島村氏自身が、研究会を始めて程ない1987年『島村武久の原子力談義』(電力新報社)を出版し、「日本の原子力政策の矛盾を手厳しく批判している」という。(p29)
原子力が平和利用という旗印のもとに、基礎研究をなおざりにして、まずは実用炉の導入へと突き進み、その結果がフクイチのメルトダウンへの道となった。私には到底想像の及ばない規模の負の遺産が残された。そうなったのはなぜか・・・・・。本書はその経緯を跡づけている。まず「事実」を知るために、必読の書の1冊となるだろう。
最初に目次を紹介しておきたい。ここだけで大凡の文脈が明確になる。
はじめに
序章 極秘の会合・島村原子力政策研究会
第Ⅰ部 置き去りにされた慎重論
第1章 残されていた極秘の証言記録
第2章 巨大産業と化していく原子力
第3章 初の商業炉導入の”真相”
第4章 軽水炉の時代の到来
第Ⅱ部 そして”安全神話”は生まれた
第5章 科学技術の限界を問おうとした科学裁判
第6章 最重視された稼働率の向上
第7章 自らの神話に縛られていった「原子力ムラ」
第Ⅲ部 ”不滅”のプロジェクト-核燃料サイクルの道程
第8章 なぜ日本は核燃料サイクルを目指したのか
第9章 核武装疑惑解消のために
第10章 壮大な夢の挫折-変質するサイクル計画の”目的”
あとがき
関連年表
第Ⅰ部の見出し「置き去りにされた慎重論」について、著者が次の要約文を記している。この要約文に至る克明な取材経緯の記述が読みどころである。
「日本への原子力発電所の早期導入を国策として進めた、国と財界。基礎から研究すべきだとの主張を退けられた科学者。経済性を優先せざるを得なかった電力会社。それぞれの思惑の中で、ひとり置き去りにされたのが、安全性だったという現実--。」(p176)
是非、この事実経緯を一読願いたい。政治主導で事が進み、最初は様子見の産業界が動き出すと、科学者の主張は横に置き、ここでも「バスに乗り遅れるな」心理で突っ走って行った現実がある。それを「今こそ振り返る必要がある」(p176)同じ轍を繰り返さないために。
この第Ⅰ部を読んでいただきたいために、いくつか引用しておきたい。
*「電力経済研究所の設立という既成事実を先手を打って作り上げることで、学術界の停滞ムードを打破しようとしたのです。 p34 ← 森一久氏の証言
*1954年2月、藤岡たちは原子力シンポジウムを開催。原子力の平和利用の一例として、当時、注目を集めていた原子力潜水艦がテーマに取り上げられ、科学者たちの間では、研究再開発を歓迎する雰囲気が生まれかけていた。原子力予算案はこうした科学者たちの動きを無視し、全くの政治主導で出現したのである。 p57
*1955年の夏、前田正男と中曽根康弘に加え、松前重義、志村茂治の4人による超党派国旗議員団が結成され、具体的な原子力政策の検討が始まった。 p59
*「正力さんたちに、湯川先生のアイデアを生かそうという気持ちはほとんどなかったですね。ただ政府が作った政策に、湯川さんの署名が欲しかっただけでした。・・・ p85
← 湯川の門下生藤本陽一氏の証言。東京大学原子核研究所の元教授。
*こうしたJRR-1で発生したトラブルは、正式の報告には何も書かれなかった。そして、十分な検証を行う時間もない中、立て続けに研究2号炉であるJRR-2の建設が始まった。
*伊原氏たちは、正力が見落としていた重要な問題点を見つけた。そもそもコールホールダー原発の原子炉は、核兵器を製造するためプルトニウムを造り出すことを目的に設計された炉が原型であり、純粋に発電を目的として開発されたものではなかった。そして、炉内で造り出されたプルトニウムは、イギリス政府が核兵器の材料として買い上げることになっており、・・・・発電コストが低く抑えられている理由・・・だったのである。 p114
*日本初の商業炉は、終始、正力松太郎が主導権を握り、安全性や経済性につして様々な問題を抱えたまま、イギリスから導入することが決定された。 p119
→正力は、ヒントン卿のいうことに惚れ込んだのだという。
→「ある意味で口火を切ったのは中曽根さんかもしれないけれども、原子力発電ってことになると、やっぱり正力さんってものを忘れることはできない。正力さんの決断で踏み出したから、後は加速度的にサーッといったような気がするんです。」(島村武久)p146*そりゃ35メートルの高さだったら津波の被害を受けなかったかもしれないけれど、そんな所に発電所を造れたかということですよ。造れたかもしれないけれど、非常に高いものにつくでしょうね。経済的に安くすむということから、GEを選んでターン・キーという形で契約を結んだわけだから、それを覆してしまったら、全く意味が無いと言うことですよ。(豊田正敏氏の発言) p167 ←元東電・原子力開発本部、原子力部長代理
→ この判断は当時としては妥当なものだったと語る。
第Ⅱ部は表題「そして”安全神話”は生まれた」のとおり、「安全神話」が作られた経緯を証言・資料ベースで明確に跡づけしている。
アメリカで開発された軽水炉型原発が「プル-ブン・テクノロジー(完成された技術)」として日本に輸入されたことにより、「少なくとも国は積極的に技術開発に投資する必要はない」「完成されたという認識が、ミスリードした思想的な背景にあるのではないか」(p182、殿塚猷一氏)とみる。さらに、「原発が設置された地域の住民感情に配慮する余り、日本では原子力の危険性と向き合ってこなかったことが、今回の事故被害を大きくした背景にある」(p183)という議論がメンバーで議論されているのだ。
第5章で、原子力の科学技術の限界と安全性を問おうとした「日本初の科学裁判」となったで「伊方原発訴訟」が「作られる側」住民の視点に立って、議論の経緯が再検証されている。フクイチで現実化した問題事象のほとんどがこの裁判の中で論じられているのである。安全性の捉え方について、国側の証言者の発言記録から、どこで論理の展開が打ち切られているかがよく分かる。事故の想定において必ず緊急炉心冷却装置(ECCS)が働くという前提で、立地評価がなされているということが当然視されているのである。(p222)「無視できる程度のリスクは受容可能であるということで、原子力発電の利用が容認・推進されるということの認識が大切である」(裁判当時、原子炉安全専門審査会会長、東大教授、内田秀雄氏)という認識は、現在も原子力ムラの認識としてなんら変化していないのではないか。そんな気がしてならない。
第6章では、火力発電の公害問題が取り上げられ始めた1970年代初めに、オイルショックが発生し、日本経済の低迷の最中で、1974年8月の朝日新聞への最初の原子力広告を皮切りに各新聞に続々と原子力広告が登場して行った経緯が跡づけられている。そこには企業として収入源を補うために広告掲載の収入源として原子力広告が位置づけられていったこと、金の力が結局、報道における報道の仕方に影響力を及ぼして行ったという事実が読み取れる。
「権限と人員を持った原子力規制を担当する強力な機関を設置すべきだという声は、原子力行政懇談会の議論の過程で、原子力政策の推進を前提としたものへと姿を変え、最終的に法律化されるときには、権限の弱い諮問機関的な安全委員会の形に収まった。原子力政策推進のためには、『規制』ではなく、あくまでも『安全の確認』にとどめるという姿勢が貫徹されたといえる」(p257)。原子力行政にとり御しやすい形に変質した経緯もよくわかる。
電力会社各社が、一旦原発を導入し建設稼働すると、稼働率向上という側面に突っ走っていき、それ故にトラブルの隠蔽、虚偽記載の横行などの発生してくる経緯が明らかにされている。
第7章では、スリーマイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故が発生して行ったにもかかわらず、あるいはそれ故に原子力ムラが自らの安全神話に縛られていった経緯が克明に追跡されている。安全だと言い続けてきた前言を翻せないというジレンマがそこにはある。
「深刻な原発事故が『起きる可能性がある』としたら、住民は原発を受け入れるだろうか。」(p286)この根源的な問題に行き着いても、そこを曖昧にしたままで進める姿勢が、現在もそのまま温存されているのではないか。
このあたりの論理思考を検証するのに有益だ。
第Ⅲ部の表題は、「”不滅”のプロジェクト」である。
これは第10章に出てくる伊原義徳氏の体験的感想に由来する。「日本ではプロジェクト不滅の法則というのがあって、いかにおかしくても死なないと。プロジェクト不滅というのはおかしいじゃないかって叱られるんですけれど。まあいったん決めたら何とか最後までやるというのが、体質なんでしょうか。」(p369)という箇所だ。そして、副題にある「核燃料サイクル」もまさにその様相を呈してきたし、今なお継続しているというところにある。現在までの道程を明らかにしようと試みたのがこの第Ⅲ部だ。
伊原氏は、この法則を持ち出した続きに、「高速増殖炉開発」を挙げて、「依然として今の考えでいけるのかどうかという問題は、私は個人的にはちょっと気になっておりますが。まあ依然として、再処理をやってというのは、理屈は一番いいんですけど」と疑念を述べている。
上掲のとおり、第Ⅲ部は3つの章で構成されている。「なぜ日本は核燃料サイクルを目指したのか」「核武装疑惑解消のために」「壮大な夢の挫折-変質するサイクル計画の”目的”」という文脈である。
以下、キーセンテンスと思われる箇所を抽出してみよう。詳細な道程の分析は本書をぜひご一読いただき、それぞれにお考え願いたい。
*正力(松太郎)の他にも、核燃料サイクル計画に関心を持たない人々は数多くいた。中でも最も及び腰だったのが、電力会社をはじめとする産業界だった。 p313
*追い風となる出来事が起きた。1973年の第一次オイルショックだ。石油に頼る火力発電の将来が危ぶまれるようになる中、プルトニウムをリサイクルして使う核燃料サイクルに、経済界を中心に大きな期待が寄せられるようになったのである。
→ この時のさらなる追い風を著者は例示する
1977年4月 茨城県大洗町の研究用小型の高速増殖炉「常用」が初臨界に成功
1978年3月 福井県敦賀市の新型転換炉「ふげん」が臨界に成功 同7月初送電
1978年 茨城県東海村に小規模のプルトニウム抽出の再処理施設建設
→ 国が核燃料サイクル計画に執心し、経済界は資本の論理(利益)だけなのだ。
現在、「ふげん」では、26年間がかりの廃炉作業が行われている。発生する高レベル放射性廃棄物の処理や管理には、数千年から数万年が必要と見込まれている。 p344
685億円かけて建設されたふげんは、本来の増殖炉としての役割を果たすことなく、「プルトニウム焼却炉」として使われ続けた。増殖というメリットを生かせない限り、その機能とコストを比較すると、新型転換炉は、軽水炉に全く太刀打ちできるものではなかった。 p344
*外務省の官僚たちは、核燃料サイクルによってプルトニウムを取り出せることに注目。この技術を開発することにより、日本がいつでも核武装できる体制を整えておこうと考えていた。核武装という選択肢を持っておくことは、日本の防衛・外交上必要だという考えは、同僚の間で共有されていたと、矢田部氏は語った。(付記:元外務省国際連合局の科学科長・矢田部厚彦氏) p331
*科学技術疔の官僚たちは、・・・もんじゅの事故以降、プルサーマル以外に、プルトニウムを使う手だてが見当たらなかった・・・最終的にプルサーマルは、2000年の長期計画で国策として行っていくことが明記された。 p362
*科学技術疔から計画を引き継いだ文部科学省は、今後も高速増殖炉の開発を軸に、核燃料サイクル計画を進めて行くこととした。→2011年の小委員会の結論を踏まえ p366-7
現在でも、今後の核燃料サイクル計画の具体的な方針を巡る意見はまとまらず、継続して議論されていくことになっている。 p368
*半世紀の時間と巨額の国家予算をつぎ込んで推し進められてきた、核燃料サイクル計画。壮大な夢を追った後に残されたのは、半減期2万4000年のプルトニウム。そして、この先10万年にわたって監視を続けなければならない高レベル放射性廃棄物だった。 p370
「資源エネルギーをいかに確保するか」が原子力選択にあったという。資源エネルギー確保は、いつの時代においても基本テーゼである。原子力の選択において、基礎科学研究の論理が横に押しやられ、資本の論理、欲望の論理が何時かしら「危険なものは危険」という日常感覚を麻痺させ、核燃料サイクル計画を不滅のプロジェクトとするまでに、つっぱしてってしまった事実。原発メルトダウンへの道に至った現実。
やはり、ここでその事実を見つめ直す必要があるのではないか。
「あとがき」は末尾でこう述べている。
「原発の安全神話という病理が私たちの社会に根を張る過程を見つめた本書が、原発反対を訴える人々にとっても、原発推進を訴える人々にとっても、これまでの原発に深く関わってこなかった人々にとっても、巨大技術がはらむリスクを客観的に見つめる一助となれば望外の幸せだ」と。
最後に、本書第Ⅰ部に関連して、『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』(有馬哲夫著・新潮新書)を併読されることをお薦めしたい。この「遊心逍遙記」を書き始める前に読んだ新書である。重ね合わせると、さらにその経緯について、視点を広げることもでき、事実の理解が深まると思う。
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本書関連で関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ETV特集 シリーズ 原発事故への道程 前編 置き去りにされた慎重論
:「録画テータベース」
NHK ETV特集 原発事故への道程(前後編)文字起こし :「PUKIWIKI」
正力松太郎 :ウィキペディア
中曽根康弘 :ウィキペディア
再処理推進への懸念示す島村研究会資料 20年前の当事者等の会合記録から
:「核情報」
敗戦後日本にもちこまれた悪魔の火:原子力(1) :「社会科学者の時評」
敗戦後日本にもちこまれた悪魔の火:原子力(2) :「社会科学者の時評」
プルトニウムの危険性 :「社会科学者の時評」
発電炉の仕組みのちがい :「発電所の種類」
原子力発電の仕組みとは? 原発先生の特別授業 用語集
東海村 :ウィキペディア
東海村JCO臨界事故 :ウィキペディア
動力炉・核燃料開発事業団 :ウィキペディア
日本原子力開発機構 ホームページ
日本原子力発電 :ウィキペディア
日本原子力発電株式会社 ホームページ
日本原燃 ホームページ
六ヶ所再処理工場 :ウィキペディア
六ヶ所再処理工場反対 「美浜の会」のサイト項目
六ヶ所再処理工場に伴う被曝-平常時と事故時 小出裕章氏
たねまきJ「六ヶ所村再処理工場 ・恐るべき再処理の実態」小出裕章氏(内容書き出し・参考あり)7/19 :「みんな楽しくHappyがいい」
【六ヶ所再処理】工場周辺住民の被爆を国は認識 2012-12-23 :「原発問題」
プルサーマル :ウィキペディア
プルサーマル計画 :「日本原子力発電株式会社」
プルサーマル :「電気事業連合会」
概要:プルサーマルの危険性を警告する :「核情報」
プルサーマル導入-その狙いと危険性 小出裕章氏
プルサーマル MOX燃料の危険性!? 日本が保有するプルトニウムは4000発分!
伊方原発訴訟 :ウィキペディア
伊方原発をとめる会 未来に負の遺産を残さないために ホームページ
伊方原発訴訟上告審判決 ジュリスト pdfファイル
原発行政への司法審査のあり方 三つの原発訴訟最高裁判決から考える 首藤重幸氏
伊方原発訴訟判決の問題点 礒野弥生氏
原発訴訟における「主張立証の必要」について 安井英俊氏
証言 伊方原発訴訟
「原発は安全」判決書いた最高裁判事が東芝に天下り 司法にも広がる原発マネー汚染
お気に入り記事へ保存 04:31 05/27 2011 三宅勝久氏 :「 My News Japan」
伊方発電所の安全対策について :「四国電力株式会社」
ふげん :ウィキペディア
もんじゅ :ウィキペディア
小出裕章さんにきく。(4) - 「もんじゅ」と原子力研究の歴史について。
- 2014.04.28 音声 :Youtube
迷走続く夢の原子炉「もんじゅ」 事故、不祥事で信頼失墜 ;「福井新聞」
(2014年4月5日午前7時15分)
福島原発以上に危険性のある高速増殖炉『もんじゅ』で今起きていること
:「ガジェット通信」
原発個別地図・六ヶ所再処理工場(青森県)からの距離 :「ちょっと便利帳」
原発個別地図・大飯発電所(福井県)からの距離 :「ちょっと便利帳」
原発個別地図・浜岡原子力発電所(静岡県)からの距離 :「ちょっと便利帳」
原発個別地図・伊方発電所(愛媛県)からの距離 :「ちょっと便利帳」
原子力百科事典 ATOMICA :「高度情報科学技術研究機構」
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今までに以下の原発事故関連書籍の読後印象を掲載しています。
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『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1』 東浩紀編 genron
『原発ホワイトアウト』 若杉 洌 講談社 ←付記:小説・フィクション
『原発クライシス』 高嶋哲夫 集英社文庫 ←付記:小説・フィクション
原発事故及び被曝に関連した著作の読書印象記掲載一覧 (41冊) (更新2版)