遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『若冲』 澤田瞳子  文藝春秋

2015-12-22 09:47:30 | レビュー
 平成10年(1998)に「京の絵師は百花繚乱」(京都文化博物館)というタイトルの展覧会があった。京の都はまさに様々な絵師が様々な画風・技法・技巧で競ってきた場である。数多の絵師の中で、江戸時代にあって、個性的な絵を描き続けた若冲は心惹かれる絵師の一人である。手許の図録を見ると、このとき「白鶴図」「雪中遊禽図」「鶏図」が出品されていた。最初の2作品は、この小説のストーリー中でも触れられている。
 若冲の絵を鑑賞することが中心で、若冲がどんな人物だったのか、史実に基づく伝記は読んだことがない。出版されているかどうかも調べていない。美術館・博物館での若冲に関わる展覧会を幾度か鑑賞してきた折に、会場の解説文を読んできた程度。
 そこで、連作短編小説として作品化されたこの本を知り、関心を抱き読んでみた。本書は2015年4月に出版されている。この小説に関連する事項をネット検索していて、この小説が第153回直木賞候補作品になっていたことを事後的に知った。

 一言でいえば、一気に読み進め、読み応えがあった。ここに描かれた若冲像に徐々に引き込まれて行き、連作の最後の二作品では感情移入していた。感情移入して読み終えた小説は久しぶりである。

 この小説を読むとき、2000年に京都国立博物館で開催された「特別展覧会 没後200年 若冲」の図録も書棚から久しぶりに引き出した。時折関連する若冲の絵を参照しつつ読み進めた。

そのときの図録がこれ。
 若冲の作品をいくつか加えた展覧会はいくつも見ている。若冲作品だけに的を絞った展覧会は、私の見た範囲では、2007年に相国寺承天閣美術館で開催された「開基足利義満600年忌記念 若冲展」がもう一つ。その図録の内表紙を改めてみると、「釈迦三尊像と動植綵絵 120年ぶりの再会」と記されている。こちらも久しぶりに眺める。

 この小説は、錦高倉市場の青物問屋枡源の長男・源左衞門(後の若冲)が40歳になった春、絵を描いている場面から始まる。手許にある図録には、若冲に一時期とはいえ妻が居たという記述はない。「かれは生涯、独身を貫いた」という記述はある(上掲図録)。 この小説は、8年前に土蔵で首を吊って死んだ源左衛門の妻・お三輪の存在という設定になっている。枡源の主としてお三輪を妻とした2年後に、お三輪が自殺したという。その弟が弁蔵であり、弁蔵は枡源に奉公していたが、お三輪の死後、玉屋に奉公先を変えている。彼は姉に対する枡源の人々の仕打ちと源左衛門に恨みを抱き続ける。源左衛門は義理の妹・お志乃と弁蔵を夫婦とし、枡源の跡を継がせる考えを実行しようとする。しかしそれが、逆に弁蔵の心を逆なでし、油に火を注ぐことになるのだ。弁蔵は、源左衛門の絵なぞ糞食らえ、源左衛門より秀でた技量を修得し見返してやると、出奔する。

 この小説は、若冲がお三輪を死なせたことで原罪意識を心中に深く蔵し、己の絵の世界へ没入していくというスタンスが原点になっている。その視点で若冲の作品が絵解きされ、若冲の生き様が描きこまれて行く。お志乃を義理の妹というのは、先代源左衛門が枡源出入りの百姓の娘に手を付けて生ませた子、妾の子なのだ。お志乃が十代の秋に母が流行風邪で死去、先代が亡くなっているのに、叔父夫妻が姪のお志乃を枡源に押し付けたのだ。お志乃の枡源における居場所は、お三輪亡き後、独身のままで絵を描くことに没頭する源左衛門の身近にしかない。源左衛門が絵を描くのに必要な膠を煮て顔料を準備するなど、身近な世話である。つまり、若冲の挙措を一番身近に感じ、若冲の思いを斟酌できる観察者的存在となっていく。
 一方、弁蔵は絵師の世界に飛び込み、若冲を主にしながら有名画家の贋作を得手とし、それを生業とする絵師となる。市川君圭と名乗る。そして若冲流の絵を描いて、若冲の技量を超えようと対峙する。ある時点から、若冲の描く絵に対し、市川君圭の絵が若冲の眼前に現れる。若冲と君圭、二人の男の長年の相剋が生まれていくのである。
 これが事実に基づくのか、史実の隙間を著者の想像力が織りなした創作であるのかは、私にはわからない。しかし、ネット検索してみると、市川君圭という絵師は実在人物のようだ。勿論、若冲作品の展覧会でこの絵師の名前に触れられてるのを見た記憶が無い。
 実に興味深い設定のストーリー構成になっている。若冲に妹がいたことは、上掲図録にも出てくる。ただし、「妹」という語のみなのだが・・・。
 
 本書の構成は、基本的には一つの短編小説が、若冲の特定の作品を背景にして描かれている。そこに著者流の絵の解釈、絵解きという趣向を織り交ぜながら、若冲の生涯のあるステージを描き出し、連作の形で語っていくという設定である。若冲の生き方、有り様を語る黒子的役割をお志乃がになっていくという構想のように理解した。この点も、私には興味深い側面である。
 各短編を追いながら、読後印象をまとめ、ご紹介したい。上掲図録を参考に、直接関連する若冲の作品を題名に併記してみた。

【 鳴鶴 】 文正筆「鳴鶴図」、その写し「白鶴図」 双幅、「雪中遊禽図」 一幅
 冒頭に触れてきた若冲40歳の背景状況が語られていく。この小説では、お志乃の質問を受けて、若冲が狩野探幽の高弟・鶴沢探山の弟子にあたる青木左衛門に半年ほど最初に絵を習ったと答えている。上掲2冊の図録には、大坂の在野の狩野派画人・大岡春卜に最初に就いたのではないかと推定されている。調べて見ると、近年京狩野鶴沢派の青木左衛門言明という写生を得意とした画家についたという説があるようだ。著者はこちらの説を取り入れている。若冲研究が進展しているということなのだろう。若冲の心奧、若冲と弁蔵の桎梏の始まりが描かれる。
 
【 芭蕉の夢 】 鹿苑寺大書院障壁画 宝暦9年(1759)
            「竹図」(狭屋之間)襖四面、「葡萄図」 襖四面
            「芭蕉に叭々鳥図」 襖四面 ほか
 枡源の家督を弟に譲った若冲は帯屋町の隠居所で描絵三昧の生活に入る。大典和尚は、池大雅を若冲に引き合わす一方、若冲に鹿苑寺(金閣寺)大書院の障壁画を描けという。大典和尚の恩に報いるための若冲の新たな挑戦が描かれる。
 隠居所を訪れた池大雅に同行を頼まれ、内裏に行き、後に「宝暦事件」と呼ばれる騒動で蟄居中の裏松光世に引き合わされる。そこで、市川君圭の描く若冲「鴛鴦図」の贋作を見せられることに。一方で、裏松光世と彼の弟・日野資枝との桎梏の深さを知る。
 絵を介して、若冲が弁蔵に対峙しなければならないという現実が始まる。
 
【 栗ふたつ 】 動植綵絵 宝暦8年(1758)~明和3年(1766) 三十幅
 枡源の三男・新三郎の病死とお志乃への縁談話、そして円山佐源太(後の応挙)の若き時代を描くエピソード話を綴る。弟・新三郎の死が契機となり、枡源と若冲との間が絶縁状態に発展する。そして若冲は重大な決意をする。その結果、「動植綵絵」と大典和尚が名づけた一連の若冲筆の絵が相国寺に喜捨される原因になる。
 一方、お志乃は五条問屋町の明石屋半次郎に嫁ぐことになる。
 後でふりかえると、若冲のこの心境の変転あたりから、この小説への感情移入が進んでいったように思う。これはあくまで連作として読み通した場合の作用が大きい。

【 つくも神 】 付喪神図(つくもがみず) 50代後半の制作との推定 紙本墨画
 3年前に『平安人物志』が刊行され、画家の項で若冲が大西酔月、円山応挙に次ぐ第三座を得たということに触れた記述から始まる。この時の『平安人物志』は明和5年(1768)出版なので、明和8年、若冲56歳。
 明石屋半次郎を筆頭とした五条問屋町の店々が、東町奉行所に錦高倉市場の営業差し止めを願い出るという騒動が起こる。隠居の身である若冲が帯屋町の町年寄とならざるを得なくなり、この錦高倉市場の存続問題にかかわっていく。このとき上坂してきていた江戸幕府の勘定所の下役中井清太夫の助力を得ることになる。若冲の人生において中井が要所で関わるというストーリー展開は、著者の想像力の産物かもしれないが、なかなかおもしろい設定になっている。
 付喪神図という作品の絵解きとして興味をそそられる。
 一方で、お志乃は離縁され、再び若冲の許に身を寄せる。

【 雨月 】 果蔬涅槃図  紙本墨画
 お志乃は卒中で倒れた義母・お清の世話をする立場になっていく。病人のたっての望みだという。枡源(本家)を弟に譲り、絶縁状態の若冲は、実母・お清との確執が心にある。妹・お志乃の行為を「物好きやなあ」と傍観する。このあたり、若冲という人物の生き様が出ているのか。
 この章では、若冲が斗米庵という別号を使い、深草にある石峰寺(せきほうじ)に五百羅漢石像の建立発願、与謝蕪村の晩年の子・おくのをきっかけにした蕪村と若冲の出会い、がある。
 六匁の代金で依頼された三十三回忌追善の絵を若冲が引き受ける。若冲の母お清の死は、若冲が仕上げた絵の絵解きという形のエピソードに連動していき、興味深い解釈と感じる。
 上掲図録の作品解説によると、「果蔬涅槃図」について、佐藤康宏氏が、安永8年(1779)の母の死が契機となって若冲がこの絵を描いたという説を呈しておられるようだ。著者はこの見方を踏まえて描き込んでいるのだろう。

【 まだら蓮 】 蓮池図 (旧襖六面)、仙人掌群鶏図 襖六面  西福寺蔵
 天明8年(1788)正月晦日、五条北の団栗辻子界隈から発生した火災が蔓延し、京都大火となる。団栗焼けとも言われるこの天明の大火により、若冲の居宅、相国寺、枡源も焼亡する。若冲の生活環境が激変していく。若冲は火事の中、弟子の若演に助けられる一方、若演は逆に火災の犠牲になる。若演の行方を捜す過程で、若冲は恨みを抱き続ける市川君圭に遭遇する。市川君圭は赤子を抱き、行方の解らぬ妻捜しをしていたのだ。そして、若冲は彼の赤子を押しつけられる羽目になる。
 火災に遭遇した後の若冲の生き方、市川君圭の生き方が描かれていく。錦高倉界隈から離れることの無かった若冲が、摂津国豊島の西福寺の障壁画を描くために赴く。また深草の石峰寺が寄寓先となっていく。
 己のために絵を描き、描いた絵が金を生むという立場から、73歳になって暮らしのために絵を描くという立場への転変・・・・。若冲と市川君圭の対比という形で描かれていくところに、深い意味が込められているように思う。  

【 鳥獣楽土 】 白象群獣図 一面 紙本墨画淡彩 (制作年次不詳)
 この章に若冲という号の由来が記されている。枡源の長男源左衛門が弟に家督を譲り、主を退くと決意したときに、相国寺の大典和尚が『老子』第45章にある「大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若(ごと)きも、その用は窮まらず」(満ち足りたものは一見空虚と見えるが、その用途は無窮である)という一節から、「若冲」と付けたという。「冲」は「沖」という字の俗字であるそうだ。
 その裏付けは、上記図録に掲載の狩野博幸氏「伊藤若冲について」に説明がある。
 
 天明の大火から復興の進む京の町に祇園会が巡ってくる。前年に若冲は碁盤の目の上に、白象と獅子を二枚折り屏風として描くという新画法の試みをしていた。それが宵山の屏風祭で、金忠の店先を飾り、評判を取ったのだ。それを今年、若冲は素直な8歳の少年に育っている晋蔵を連れて見に出かける。だが、その見物は、谷文五郎(後の谷文晁)という武士で画人の三十男との出会いであり、彼がスケッチしてきた画図から、再び市川君圭との確執復活となる。若冲の新画法をベースにして、六曲一双の屏風絵で挑戦してきたのだ。このショッキングな場面展開が鮮やかにストーリー展開していく。これを裏付ける話があるのか著者の想像力が織り込んだフィクションなのかは不明だが、小説としてはダイナミックに展開し、若冲の最晩年の対決意欲を盛り上げている。この章から最終章にかけて、私は特に引きこまれ、感情移入して行く結果となった。
 巧みなストーリー展開であり、読ませどころとなっている。

 上記図録には、「樹下鳥獣図屏風」六曲一双(静岡県立美術館蔵)と、「鳥獣花木図屏風」六曲一双(エツコ・ジョウ プライス コレクション蔵)が掲載されている。しかし、その作者については様々な論議がなされているようだ。

【 日隠れ 】 石燈図屏風 六曲一双 文化庁蔵
 若冲が深草の石峰寺で没した後の四十九日法要の場面を中心にして、クライマックスとなる。場所は相国寺鹿苑院。この場面の主な登場人物は、導師役の大典和尚の侍香(じこう)に任ぜられた明復、お志乃、玉屋の隠居・伊右衞門、金田忠兵衛、谷文五郎(文晁)、中井清太夫である。最後の最後に、市川君圭が登場する。
 中井清太夫という具眼の士とその卓見を組み込むところがおもしろく、興味深い。
 お志乃が若冲の心のうちを顧みて思いを整理する姿が描かれる。お志乃はこの小説では、若冲の心の代弁者という役割をも終始担っていていた。若冲の黒子に徹した存在、いぶし銀のような存在である。そしてラスト・シーン。市川君圭と画人・谷文晁の交わす対話がその読み応えを増幅していくように思った。
 ほっとさせるエンディングでもある。

 この小説の文に記述はないが、上掲図録によれば、伊藤若冲が没したのは寛政12年(1800)9月8日あるいは10日という。前者は『参暇寮日記』・「喝名」に記録され、後者は相国寺祖塔過去帳・宝蔵寺過去帳に記録されている日付という。伏見深草にある石峰寺に土葬されたそうだ。

 最後に、印象深い記述のいくつかを引用し、ご紹介しておこう。自分のための覚書でもある。

*お前は--お前はわしという画人そのものやったんやな。そうや、君圭、お前がわしを絵師にしたんや。  p288
*お前の絵はすべて、己のためだけのもの。そない独りよがりの絵なんぞ、わしは大嫌いじゃ。  p293
*絵師とは、人の心の影子。そして絵はこの憂き世に暮らす者を励まし、生の喜びを謳うもの。いわば人の世を照らす日月なんやで。 p294
*生の輝きは、絶望の淵の底より仰ぎ見てこそ、最も眩しく映る。そう、光り満ち、花咲き乱れるあの鳥獣の国は、決して贖えぬ罪を犯し、孤独に老い朽ちた若冲だからこそ描きえた、哀しき幻の世界。  p320
*中井さまのお言葉、ごもっともどす。そやけど、兄さんの絵についてとやかく言うてええんは、うちでも中井さまでもなく、当の兄さん一人なんと違いますやろか。 p332
*それは所詮、若冲の生きた意味、絵を描き続けた意味を知らぬ者の語る由なし事。どれだけ懸命に思いを巡らせたとて、彼らが若冲の--そして君圭の胸裏に迫ることは叶うまい。  p333
*人の心というのは、誰であれどっか薄汚れて欠けのあるもんどす。・・・・美しいがゆえに醜く、醜いがゆえに美しい、そないな人の心によう似てますのや。そやから世間のお人はみな知らず知らず、若冲はんの絵に心惹かれはるんやないですやろか。  p353

ご一読ありがとうございます。

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本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておいたい。
伊藤若冲  :ウィキペディア
あの人の人生を知ろう~伊藤若冲  :「文芸ジャンキー・パラダイス」
伊藤若冲プロフィール  :「古美術 景和」
大岡春卜  :ウィキペディア
鶴澤探山  :ウィキペディア
池大雅   :ウィキペディア
池大雅   :「京都大学電子図書館」
円山応挙  :「コトバンク」
円山応挙について :「大乗寺 円山派デジタルミュージアム」
市川君圭 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」
張 月樵  :ウィキペディア

伊藤若冲の作品画像コレクション  :「NAVERまとめ」
『平安人物志』  :「日本文化研究センター」
  上辺にある明和5年版の項をクリックして、26-27ページを開くと、画家の3人目に「滕汝鈞 字 景和 号 若冲」として載っています。

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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店