遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ヒトごろし』  京極夏彦   新潮社

2018-03-18 15:04:33 | レビュー
 「浅黒い指が白い頸に喰い込む。」という一文から始まる。
 ストレートにタイトルと響き合う冒頭文である。単行本で1081ページに及ぶ長編。主人公は土方歳三。そう、新選組副長となった人物である。
 一応、歴史小説・時代小説のジャンルに入るのだろう。史実を元に、土方歳三という男の抱く価値観、思念、戦いに対する捉え方を土方自身の視点で延々と記述していくという息の長いフィクションである。幕末の歴史年表を編成すればそこに記載される事実で新選組に関わる事項をメインに点描させながら、それらの事象・事件に土方がどのように関わっていったのかという側面からストーリーが展開していく。

 冒頭のこの一行、女郎の頸を絞めているのは、歳三である。だが、彼は一歩手前で頸を絞めるのを止める。それは頸を絞めている女の顔の変化を見つめていて、「どうも、首を絞めるのはあまり良くない。汚らしい。滑稽だ。見てくれが悪い。穢いのは好まない。喉笛を切り裂く方が良い」という理由による。首を絞められた女の状態を頸を絞めている歳三の目を通して克明に冒頭から描いて行く。すでに、ここに「ヒトごろし」土方の殺すことに対する価値観が表出している。
 この冒頭をトリガーに土方歳三の回顧として、人を「ころしたい」と自覚することが起点となる。歳三が己を「人殺し」として自己認識するに至った原風景が連綿と語られる。 「人殺しは悪いことで、それをすると殺されてしまうのか」という疑念が歳三に湧く。7歳頃に、不義者成敗ッと叫ぶ侍が不義密通を理由に路上で女を殺す場面を偶然目撃したのである。その後に、村はずれの五兵ヱの息子久米蔵が嫁を匕首で殺すのを目撃する。久米蔵は死罪となった。その原体験を踏まえて、人を殺すことが許される、許されないということの意味について、少年時代に認識を深めて行く。

 著者は「人殺し」の前提が何かを歳三の認識プロセスとして描き込んで行く。
 歳三は、人を殺してはいけない決まりがあることは諒解するに至る。人を殺すことはできるが、出来ることでも為てはならぬことという認識を一旦は持つ。だが、百姓と武士は違い、武士だけは人を殺しても良いという例外を認めているという事実に気づく。所属階層の違いを乗り越えられれば、人は殺しても良いということではないのかと。

 咎められることなく、罪になることもなく、己の内心に湧く「人をころしたい」という欲望を歳三自身が満たすにはどうするか。この小説は、歳三が人を殺せる立場になり、己が殺したいと思った人を殺すための合法的なしかけを作りあげるプロセスを様々なエピソードを盛り込みながら、延々と描き込んで行く。
 歳三の心理と思考のプロセスを描くことが、第一のテーマになっていると思う。己を「人外(にんがい)」「人でなし」の存在として位置づけ、確信犯としての「ヒトごろし」と認識する歳三の生き様を描くことである。

 「俺は殺したいから殺した」という歳三の行為が、合法的な手続きの下での行為として、新選組を背景に展開されていく。己が罰を受けない立場を築くために、少年期からの友である近藤勇(宮川勝太)を神輿として担ぎ上げ、新選組を確立させてその下で行動する。それ故、この小説は、新選組がどういう経緯で確立され、京の都で、人々から忌み嫌われる蛇蝎のごとき存在ではあるが、大きくなった経緯を描く。鳥羽伏見の戦いを経て、新選組が壊滅する状況を描き込む。さらにその後に土方と近藤が取った行動と経緯を追う。元新選組の残党が新選組を名乗り北海道の五稜郭での戦いの中で崩壊していくプロセスを描くことになる。
 興味深いのは新選組が関わる様々な事件・事象もまた、歳三の目を介したもの、あるいは歳三が直接関わった行動という側面から描かれる点である。幕末の諸事件・事象を側面史的観点で読んでいくことになる。勿論そこには著者の視点、フィクションを交えた一説ということになるのだが、幕末史の読み解きとしても面白い。

 この大長編のストーリーの大凡の展開を眺めておこう。
 最初の180ページ余は、歳三が己の欲望を自覚し、「人殺し」について考えるプロセスである。義兄の「人を使えよ歳三。・・・上に載ってる者を使え。・・・・使い道を見極めよ。・・・そして、使った分は使われろ。役目を見定めれば、お前さんにも役割が出来よう」という助言をひとつの転機として、合法的な人殺しのできる立場への思念を形成する過程を描く。
 宮川家から勝太が武家の養子に入り、その後近藤道場を継承するのだが、そこに集ってきていた人々が後の新選組の中核となる。彼らの背景を描いていく。清河八郎の提言により幕府が発令した浪士召し出しの報せを彼らが知ることで、このストーリーが展開する導入部となる。そこに、冒頭の首を絞めたが止めにした女郎、涼から歳三が銘刀・和泉守兼定を贈られるエピソードも加わる。そこには歳三にその刀で切られて綺麗に死にたいという涼の条件が付いているのだが。このあたりまでセクション3までで描かれて行く。
 先走るが、この涼はその後、歳三の後を追うようになり、点描風に歳三との関わりが描き込まれていく。そしてストーリーのクライマックスにも涼が登場する。それが歳三最後の場面のトリガーになるという次第。このクライマックスは読ませどころだろう。歳三の殺しの美学からすれば、パラドキシカルな死に様を迎えるのだから。

 セクション4は、江戸の伝通院における清河八郎の下での浪士隊の結成と、京への移動の経緯である。芹沢鴨が登場する。清河八郎の謀計が明らかになる。

 セクション5は、局長の芹沢鴨暗殺に至る経緯。ここに隊に加わっている山崎林五郎の兄、山崎丞(すすむ)が、芹沢鴨の葬儀の場面で歳三の前に現れる。家業が鍼医者なのだが、間諜という仕事が好きなのだという。これ以降、歳三との関わりが深まる。監察という役割を担い、間諜稼業に勤しみ、歳三の手足となっていく。この山崎丞が歳三の考えを的確に言い当てる。
 「人殺しは、為てはならんことや。為てはいかんことでっせ。なのにあんたは、それをしてもいいことにしてしもた。そうなったんやないで。そうしたんですやろ。こら偶然やない。あんたが仕向けたんや。あんたが」と(p544)。それを承知で、このおもろい遊びを間諜という形で手伝いたいと申し出る。

 セクション6は、捕まえた枡屋喜右衛門即ち古高俊太郎の拷問から始まり、池田屋襲撃事件の顛末を描く。その襲撃のシナリオを歳三が描いたとする。

 セクション7は、新選組から脱走したが捉えられた山南敬助と歳三が対話する場面を中心に展開する。元から武士である山南の思考と新選組の有り様とのギャップ、そして伊東一派が入隊してきたことによる山南の思考の変化を語る。それは新選組の実態を語ることにもなっている。山南が武士をかざして死を語っていた時は、山南を殺す気もなかった歳三は、士道を捨て脱走し生きるという選択をした山南を殺す。山南が切腹をする形で殺す行動を取る。腹に小刀を突き、それで死ぬわけではないので、介錯という形で首を落とすつもりだった。それは合法的な形を取った人殺しである。しかしその場に沖田が飛び込んできて斬首してしまう。沖田は伊東甲子太郎ほか数名がその部屋に入ろうとしているところをみたからだと後で言う。
 伊東甲子太郎は勝海舟が周旋して新選組に送り込まれたと山崎丞が顔の血を洗う井戸の傍で言う。歳三は伊東を殺したいと考えるようになっていく。

 セクション8は、甲州長沼流軍学を売りにして、近藤勇に取り入り、その取り巻き・幇間の役割を務めていた無能な武田観柳斎が新選組から逃げ出した。その観柳斎を見つけだし、問い詰める。そこから、観柳斎を介して、大政奉還の論議が出始めた頃の世情、諸藩の状況を描いて行く。武田は、歳三にではなく斎藤一に袈裟懸けに切り裂かれて殺される羽目になる。
 このセクションでの一つの山場は、伊東甲子太郎の暗殺である。伊東が新選組から分派して、御陵衛士として高台寺党を結成する。近藤勇が分派を認めるのだが、その裏には歳三の周到なシナリオがあった。だが、ここで歳三のシナリオは一部破綻し、それが禍根を残す。

 セクション9は、鳥羽伏見の戦い以降の歳三と近藤たちの行動の経緯を描くストーリー展開となる。大政奉還後、徳川慶喜は江戸に逃げ帰る。新選組は徳川から捨てられる立場になる。官軍に追われる立場になった新選組崩壊後の姿が描かれて行く。
 幕府公認治安隊の隊長・旗本大久保大和と名乗り、会津を目指していた近藤等は、総州流山で官軍に包囲されてしまう。ここで近藤は投降することになる。
 一方、歳三は有象無象の隊員たちの命を救うために、江戸に戻り勝海舟と談判する道を選択する。歳三と勝海舟の交渉場面が大きな山場となる。この対談交渉が史実としてあるのかフィクションかは知らないが、おもしろい場面描写を楽しめる。

 セクション10は、北海道の五稜郭に舞台が移る。歳三は、勝からまだ人殺しがしたければ、つでに江戸にいる莫迦や阿呆も一緒に連れて行ってくれと頼まれる。勝に使われることを歳三は拒否するが、結果的にそうなる。官軍に降ることを拒否した有象無象の連中が蝦夷地に集結するのだ。旧幕府海軍の軍艦八隻を略奪し江戸を脱出し蝦夷地に新しい国を造ると号した榎本釜次郎、伝習隊創設にかかわり積極的な抗戦派であった元歩兵奉行大鳥圭介が、蝦夷地での中心人物だった。だが、戦という観点では、いかに無能だったかが歳三の視点を介して描かれて行く。そして、戦をするのは嫌いであり、人殺しをするという立場の歳三が最後の生き様を見せる舞台となっていく。

 タイトルは「ヒトごろし」である。本文で歳三の視点で「人殺し」という表現が使われる。この小説では、様々な色合いの違う「ヒトごろし」が描き込まれているという意味合いと受け止めた。「ヒトごろし」はその総称表現なのだろう。
 歳三は上記のように、「人殺し」はいけないことという認識を持った上で、己を人外と位置づけ、合法的なしくみ・しかけの中で、手続きを経た上での外見上は合法的な「人殺し」を行い、「ころしたい」という内心の欲望を達成していく。お膳立てをして、合法的やりかたで人を殺す。
 沖田は殺しが好きである。動物でも人でも、己の楽しみのために人を殺す。それ故に歳三は沖田を毛嫌いしている。
 佐々木只三郎が要所要所で歳三の前に現れる。彼は会津藩士である。藩主の命を受けて、任務として人を殺す。合法的殺人の執行者という立場に己を位置づけている。
 新選組に入隊した、山南敬助、斎藤一など元々武士だった者たちは、武士として己の抱く武士道の概念を前提として人を殺す。
 幕府軍、官軍を問わず、兵隊となった連中は、命令に従い、鉄砲を撃つ。敵軍に勝つために、鉄砲を撃ち、人を殺す。
 命令を発する上層の武士たちは、己は手を汚さず命令により人を殺させている。
という風に、様々な「ヒトごろし」が幕末動乱の渾沌とした中に併存していたといえる。 その中で、土方歳三の確信犯としての「ヒトごろし」は異彩を放っている。

 ご一読ありがとうございます。


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本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
土方歳三  :ウィキペディア
土方歳三  :「コトバンク」
新撰組 鬼の副長 土方歳三の生涯  :「NAVERまとめ」
(新選組発祥の地)壬生屯所旧跡  :「八木家」
壬生寺  ホームページ
  壬生寺と新選組について
新選組ファンなら行かなくちゃ!西本願寺&京都駅周辺  :「Travel,jp」
近藤勇 :ウィキペディア
近藤勇 :「コトバンク」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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もう一つの拙ブログで、以下の探訪をまとめています。こちらもご覧いただけるとうれしいです。
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スポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -3 阿弥陀堂門、太鼓楼、新開道路碑、境内境界の景色
スポット探訪 京都・中京 壬生寺細見 -1 表門・一夜天神堂・本堂・狂言堂
   3回のシリーズでまとめてご紹介しています。


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