遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『検事の信義』  柚月裕子  角川書店

2019-12-01 17:29:46 | レビュー
 4つの短編集が収録されている。「裁きを望む」「恨みを刻む」「正義を質す」の3作は50ページ前後、最後の「信義を守る」は101ページの短編である。本書のタイトルに直結する「信義」が題に使われているのは最後の短編だが、この4作はすべて、米崎地検の公判部所属である佐方貞人検事自身が裁判に臨む際の「信義」をストレートに扱っている。
 「信義」を辞書で引くと、「約束を守り務めを果たすこと。信を守り義を行うこと。あざむかぬこと」(『広辞苑』初版・岩波書店)、「約束を守り、義務を果たすこと」(『日本語大辞典』講談社)とある。ここでは検事としての信(約束)を守り、裁判において義務を果たすことを意味する。
 第3作「正義を質す」の中に、直接この信義に関わる場面がある。それは厳島神社のある宮島の旅館で、司法修習生時代の同期・木浦亨と交じわす会話である。
 「なあ、木浦。お前の正義ってなんだ」
 「俺の正義・・・・?」・・・「秋霜烈日だ。それ以外になにがある」
 「模範解答だな」
 「じゃあ、お前の正義はなんだ」
 「俺の正義か。俺の正義は---」・・・「罪を、まっとうに裁かせることだ」
佐方にとり、検事として正義を守るという努めは、「罪を、まっとうに裁かせることだ」に尽きる。そのためには、上司がどう思おうと、検察の面目がどうであろうと、まず己の使命であり、信義は「罪を、まっとうに裁かせることだ」として、真摯に一途に進んでいく。勿論、検察組織の一員として、佐方は踏むべき手順・手続きはきっちりと踏まえて、まっしぐらに突き進む。このスタンスこそ、佐方貞人検事シリーズが読者を惹きつける魅力だと思う。

 この短編集、取り上げられた題材はそれぞれに「重たい」。様々な観点での人間関係の根底に関わる側面を含んでいる。そこに肉迫していく佐方の眼差しと思考が読ませどころとなっている。

裁きを望む
 平成10年12月19日、住居侵入および窃盗の容疑で逮捕された芳賀渉32歳に対する論告求刑を担当検事となった佐方が行う場面から始まる。佐方は、証拠を勘案し被告は「無罪と考えます」と無罪論告を行ったのだ。無罪論告は皆無ではないそうだが、極めてめずらしい。起訴証拠を揃えて刑事部が公判部に送った事件である。その証拠記録を読んだ佐方がなぜそういう結論に達したのか? そのプロセスがストーリーとして展開されていく。
 この事件には、不可思議な点が多いとして、佐方は補充捜査を行いたい旨を上申し、この事件を洗い直す。無罪と論告しなければならない証拠を佐方はつかむ。
 米崎地検の本橋次席検事は、問題判決がでることを極端に嫌うことで有名だった。だが、佐方は本橋の主義に背く論告を行うことを上司の筒井副部長に報告した。本橋への報告は筒井がしたのだが、本橋はそれをなぜかすんなりと受け入れた。
 判決が降りた後も、佐方は芳賀が起訴されることを望んでいたという印象を腑に落ちないと思っていた。そんな矢先に、芳賀を送検した米崎東署の南場署長から佐方に電話が入る。思わぬ事実を告げられる。また、芳賀が住居侵入及び窃盗をした邸の故・郷古勝一郎の遺言書の件に関し、井原弁護士が佐方のところに訪れてくる。無罪となった芳賀に関わり、意外な事実が明らかとなってくる。そして、芳賀の真の望みが明らかになっていく。
 無罪論告の結果となった事件の背後には、人間関係の複雑な絡み合いが潜んでいた。
 筒井のスタンスが、佐方に「俺はまだまだです」とつぶやかせるエンディングが良い。

恨みを刻む
 旅館従業員、室田公彦、34歳の覚せい剤取締法違反(所持、使用)事件が扱われる。被疑者は覚せい剤所持で二度の逮捕歴があった。スナック経営者・武宮美貴からの通報で、米崎西署の生活安全課主任・鴻城巡査部長が逮捕した事件である。美貴は室田の幼馴染みであり、室田を心配しての通報だという。佐方は、美貴の証言内容で「5月24日、月曜日に車中で室田がクスリを使用していることろを目撃した」となっている箇所が気になると増田事務官に言う。佐方の住む官舎の近くの小学校では、美貴が目撃したという日の前日、23日の日曜日には運動会が行われていたことから、美貴の証言が気になったと言う。
 佐方は筒井副部長に報告し、武宮美貴の証人テストの実施を決断する。報告に行った佐方は、「お前がこの部屋に来るのが1分遅かったら、俺の方から呼んでいた」と言われ、何も書かれていない地検の定型茶封筒の中身を見る。それは、午前中に地検に届いたもののコピーだ。筒井はその内容から警察組織内の内部告発の可能性を考慮していたという。
 佐方は証言の裏を取る行動を順次広げて行く。そこには関係者相互の人間関係に思わぬカラクリが潜んでいた。このストーリー、佐方の探究プロセスが読ませどころである。結果的に、この事件は問題判決となる。佐方にとって処世術的には好ましくないことだが、「罪を、まっとうに裁かせる」というその信条にゆるぎはない。
 一方、警察組織内も揺れ動くことに。内部告発に二重の意味合いが含まれていたという落とし所も絶妙である。

正義を質す
 今年も後三日という時に、佐方が宮島行きのフェリーに乗船している場面から始まる。佐方は司法修習生時代の同期、木浦亨から電話連絡を受け、宮島の旅館に赴くことに同意した。木浦はつい先日婚約を解消したのだが、その前に宮島で婚約者と過ごすために有名な高級旅館の予約をしていたという。キャンセル料をとられるより、佐方が帰省する前にその旅館で久しぶりに会うことにしたいという誘いだった。佐方は応諾した。
 旅館の一室で佐方が木浦と酒を酌み交わしているところに、木浦の客が現れる。広島高検の上杉義徳次席だと木浦はいう。木浦は婚姻を決めたとき、仲人を頼んでいた人と説明した。上杉は、佐方の父親の件をさりげなく話題に出し、少し雑談をして席を立って行った。
 佐方はこの出会いに違和感を感じる。その前に二人の間で話題になっていたのは、スキャンダル雑誌「噂の真実」に載った検察の裏金問題についての告発記事のことだった。米崎地検でも、広報課の人間はクレームが凄くて仕事にならないと愚痴が出ていた。佐方は現時点では静観する立場をとっていた。木浦は告発記事の震源地が近いので、大揺れだという。
 木浦は佐方が今担当している事件を話題にする。広島県最大の暴力団、仁正会の溝口が米崎県警に恐喝の容疑で逮捕された事件である。公判にかかっている案件で佐方が担当だった。木浦が佐方を宮島に誘った意図が徐々に佐方には読めてきた。
 そして、冒頭に記した会話が交わされるような展開に進展していく。
 佐方の担当する案件は、公判中での溝口の保釈問題が懸案事項になっていた。溝口の保釈問題は、底流において広島県内での仁正会の分裂問題と抗争の可能性及び検察組織内部の裏金問題とも繋がっていたのである。それらのリンキングの中に上杉と木浦が居た。
 担当する事件の公判プロセスとは一歩距離を置く側面において、様々な要因が同時存在しその影響が多次元に及ぶという状況が生まれていた。担当する案件において、己の信義を守る上での伶俐な判断と決断を佐方にせまるストーリーとなっている。一歩距離を置く側面での決断という点に焦点を絞り込んでいるところが興味深い。おもしろい設定である。

信義を守る
 補佐役の事務官である増田からみて、これといって疑問がなかった案件に対し、「ちょっと、気になるのですが」と佐方が言った。
 事件は米崎市内の西に位置する大里町にある山林で発生した殺人並びに死体遺棄事件である。被害者は道塚須恵、85歳、重度の認知症者。遺体発見場所は住居から徒歩10分のところ。被疑者は道塚昌平、55歳。死因は絞殺である。ジョギングをしていた男性が遺体を発見し警察に通報した。遺体発見から2時間後の8時半に、大里町から5キロ離れた江南町の路上をふらふら歩いている昌平がパトロール中の警察官に職務質問され、その場で殺害を自白したのだ。須恵は5年前から認知症を患っていた。
 被疑者は現場から離れた理由を逃亡のためと自供していた。だが、佐方は2時間という時間と5キロ離れた地点での逮捕という点の関係が気になったという。逃亡する気なら、もっと遠くまで逃げられたのではないのか、という疑問だった。
 この案件は、刑事部のシニア検事である矢口史郎から送られてきた案件だった。高知地検から米崎地検に配属となり、個別で事件を担当する検事としては年次が一番上。キャリアが長く、気難しいと評判の人物だった。矢口は、昌平の公判引継書に求刑懲役10年と記していた。
 佐方が、異議を唱えると確実にひと悶着起きるのは必至だと増田は恐れた。
 佐方は例によって、副部長に報告に行くという行動を選択する。佐方は、再調査を始める。聞き込み調査を広げても、昌平という人物を悪く言う人はいなかった。起訴による調書に記された内容から浮かぶ昌平像と聞き込み調査での昌平像には大きなギャップが生まれていた。この再調査プロセスが読ませどころである。
 事実の背後に隠された真実の追求。佐方の行き着いた真実は、佐方に異例の論告・求刑を行わせる結末になる。伏線の張り方が巧妙な短編小説になっている。
 閉廷後に、裁判を傍聴していた矢口と佐方が対峙する。この時の二人のやりとりと、傍でハラハラしつつ立っていた増田による佐方の思いの解釈が、もうひとつの結末になっている。
 
 「罪を、まっとうに裁かせることだ」と考え、些細に見える疑問にも全力で挑んでいく佐方のスタンスと行動は、読後感として爽やかである。佐方のような検事が実際に居るのだろうか。実在して欲しいと思う。
 それとは逆の事実、事件が時折報道沙汰になる現実は悲しいことである。

 ご一読ありがとうございます。

徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『盤上の向日葵』  中央公論新社
『凶犬の眼』  角川書店
『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』  講談社
『蟻の菜園 -アント・ガーデン-』 宝島社
『朽ちないサクラ』  徳間書店
『孤狼の血』  角川書店
『あしたの君へ』 文藝春秋
『パレートの誤算』 祥伝社
『慈雨』 集英社
『ウツボカズラの甘い息』 幻冬舎
『検事の死命』 宝島社
『検事の本懐』 宝島社