遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『自画像のゆくえ』  森村泰昌  光文社新書

2019-12-12 16:03:16 | レビュー
 この本の表紙は、著者・森村泰昌の《自画像の美術史(ゴッホ/青)》という作品である。内表紙までに著者の作品が口絵として9点カラー写真で載っている。著者は、”なにものかに扮した自分自身を写真撮影する”というセルフポートレイト(自画像)手法の作品を長年制作してきた美術家である。
 その著者が自画像論を書きませんか、と編集者から問いかけられてから20年近い歳月を経て完結したのが本書だと、「あとがき」に記している。
 なぜ、タイトルが自画像の「ゆくえ」なのか? 
 著者は現代が「わたしがたり」にあふれかえった時代だと分析する。そのルーツはシャープが2000年11月1日に発売したカメラ付ケータイ電話だという。「持ち歩くプリクラ機能」を組み込むという発想から生まれた画期的な商品だった。「写メール」というキーワードが生み出された。ここを源流として、短期間にすさまじい技術の進化を経て、今や「自撮り」があたりまえの世に中に変貌したという事実をまず押さえている。私は気づかなかったのだが、2013年に「自撮り」の英語表記として「セルフィー」という語が英オックスフォード辞典に載せられたという。
 著者は「わたしがたり」の時代を生んだ「自撮り/セルフィー」の概念は未だ曖昧だが、「自画像/セルフポートレイト」と対比させたとき、この二者は同じなのかちがうのか、という問題提起を「はじめに」で投げかけている。そこで、「自画像」が描き続けられてきた過去、およそ600年ばかりの絵画史を著者は振り返るという作業を延々と続けていく。新書版で600ページ余のボリュームになっている。
 諸先人の著書に表明されたそれぞれの見解を引用しながら、賛否の意見を述べつつ、美術家としての独自の感性で自説を論じている。一方的に自説を語るのではなく、その時代の趨勢的な見方、考え方や各所見を引用しつつ、フェアーに論じているところが読ませどころであり有益である。

 600ページと大部であるが、著者は己の結論として、「終章 最後の自画像」の後半でそれまでの9つの章で分析し語ってきたエッセンスをまとめている。各章に登場する自画像の作者(画家)について要約している。そして、これらの先人が保持していたポジショニングは「過去形未来」だと要約する。著者の造語なのだろう。「軸足を過去に置きながら、もう片方の足は未来にふみだすという、AかBかの選択を越えた、”もうひとつの選択肢”を生きている」(p593)と言う。そして、「自画像というものは、『西洋の精神』の典型的なあらわれというよりも、ほんとうはもっと多種多様なのだという点である。ここから西洋精神なるものの本質を発見していくというような、原理主義的な発想は、画家たちの表現行為からはまったく見いだせない」(p595)と言う。著者が本書で考察した自画像は「いわば、西洋美術史を”踏みはずす”試みであった」(p596)と結論づける。
 この最終章後半部分を通読してから、各章を読むと逆に読みやすさが加わるかもしれない。なぜなら、まず著者が各章での分析・考察の結果一つの収斂した結論を述べると思いがちになるからである。だが、ここに登場する画家たちの描いた自画像についての著者がたりにより、様々な方向に導かれていくことになる。そこがおもしろいとも言える。
 一方、「わたしがたりの時代」「自撮り/セルフィー」との対比において、著者は「自画像の時代は確実におわろうとしている」(p597)と結論づける。さらに、「これから時代はもっとかわっていく。それもおそろしいスピードで。」(p597)と述べる。終章の「最後の自画像」の見出しのところで、この結論についての理由が記されている。本書を開いて、お読みいただきたい。セルフポートレート作品を制作しつづけてきた著者はどいうい立場をとるのか。この点も著者は述べている。

 それでは、著者が自画像の歴史をどのように分析し考察しているか、各章の構成を列挙し、印象深いあるいは興味深い箇所について私見あるいは引用を付記してみる。

第1章 自画像のはじまり ---鏡の国の画家
 著者は最初に東京藝大には膨大な自画像コレクションがあるという話を紹介している。私は知らなかった。その簡単な考察が導入になっている。
 1433年に描かれたファン・エイクの《赤いターバンの男》が「自画像のはじまり」とする説を紹介する。この絵、著者がセルフポートレート作品にしている。口絵1に載せてあるので、p43に掲載の作品と対比してみるとおもしろい。
 ここでは、ファン・エイクの続きに、アルブレヒト・デユーラーとレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像が論じられている。勿論この二人の自画像も著者はセルフポートレート作品にしている。レオナルド・ダ・ヴィンチといえば思い描かれる公式ポートレイトと、実際の姿とのギャップとその経緯が考察されていて、おもしろい。

第2章 カラヴァッジョ---ナイフが絵筆に変わるとき
 カラヴァッジョが様々な作品の作中人物に自分の顔を巧みに描き込んでいる経緯を考察していて興味深い。そして、著者は言う。

*カラヴァッジョにとって絵筆とは、殺傷能力を持つナイフと同義であったといっていい。 p129
*カラヴァッジョは、はしにも棒にもかからない人生の落伍者であったが、その反面、真正面から絵画世界とむきあった、思いのほか正直な画家であったといえる。 p130

第3章 ベラスケス ---画家はなぜ絵のなかに登場したのか
 ベラスケスの晩年の作《ラス・メニーナス》(日本語で《侍女たち》)、高さ3mを越えるという大作の画像をご覧になった方が多いと思う。この絵にベラスケスが自分自身を描き込んでいる。著者はこの絵を中心に据えながら考察を進める。この絵の分析の仕方が興味深い。著者はこの絵がリバーシブルの絵画であり、超絶技巧、手のこんだトリックが仕組まれているとその一端を考察している。絵の読み解きとして学ぶところが大きい。

*ベラスケスは、汚れたものを描く”リュパログラフォスの画家”として出発した。汚れている(と思われている)領域にこそもっとも美しいものはあると確信し、人間社会において周辺的とみなされてきた者たちを”本当の主人公”として描きつづけてきた画家であった。 p180
*ベラスケスは、滅びゆく”悲しい世界”に生きた画家だった。 p180

第4章 レンブラント ---すべての「わたし」は演技である
 レンブラントは誰もが認める自画像の画家だという。1628年の20歳をを過ぎた頃から、1669年、63歳で亡くなるまで生涯にわたり自画像を描き続けた。それ故、様々な人がレンブラントを語っているという。代表的な見解と小林英雄のレンブラント論を紹介している。「観察者としてのレンブラント」と「夢想家としてのレンブラント」という「二人のレンブラント」論を著者なりに考察していくところがおもしろい。
 ここでは、《夜警》という作品の考察に重点が置かれていく。様々な見解がわかって、鑑賞の奥行が広がる。

*レンブラントが17世紀に、はやばやと映画感覚を絵画に持ち込み、出演者がいて脚本があるのはあたりまえだという感覚で、絵画制作のプロセスを想定していたのだとしたらどうだろう。 p210  ← 著者による仮説の投げかけである。

第5章 フェルメール ---自画像を描かなかった画家について
 著者は《デルフトの眺望》と《牛乳を注ぐ女》の2点を主にしながら、自画像を描かなかった画家の自画像を考察していく。このアプローチそのものがそれまでの章とは異質であり、興味深いと言える。そして、著者は「もしフェルメールが描いたおおくの女性像が、フェルメールの自画像であるとすれば」という仮説を投げかけてくる。なんと著者はこの仮説を、2018年に自ら映画化していると言う。「フェルメールは、うしろ姿のままが一番美しい」という一文でこの章を締めくくる。

第6章 ゴッホ ---ひとつの「わたし」をふたつの命が生きるとき
 ゴッホはレンブラントに次ぎ40枚の自画像を描いたという。著者はゴッホの自画像を時系列で考察していき、正気と狂気という「内なる、ふたりのわたし」をゴッホの内面に見つめていき、その絵を考察する。そして、フィンセント・ファン・ゴッホの弟テオ・ファン・ゴッホとの兄弟関係を考察する必要性を重ねていく。「お互いがお互いを映しあっているかのような関係、ゴッホというひとつの人格を共有し、ともに生きてきたかのようなふたりの人生」という側面の意味を掘り下げている。このような視点を初めて知った。私にとっては、新鮮な考察である。
 さらに興味深いのは、ゴッホと宮沢賢治の類似性に言及している点である。

第7章 フリーダ・カーロ ---つながった眉毛のほんとうの意味
 メキシコの画家だという。私はまったく知らない画家だ。47年の短い一生で約200点の絵を残し、その半分以上が自画像だそうである。1990年に日本でフリーダ・カーロ展が開催されているという。太い眉毛がつながり、強調されている自画像の写真が掲載されている。著者は彼女の自画像、日記などを手がかりに、そこに何が見えて来るかを考究していく。20世紀に入り次々に女性芸術家が登場してくるという変化のきざしを背景にした上で、フリーダ・カーロを論じている。

*フリーダ・カーロとは、”華麗なる苦悩”のことであった。華麗なフリーダと苦悩するフリーダ。「ふたりのフリーダ」の声が同時に聞こえる。 p450

第8章 アンディ・ウォーホル ---「シンドレラ」と呼ばれた芸術家
 ウォーホルには、自分のポートレイト写真を活用した作品が多く見られるという。アメリカン・ポップアートの代表的な芸術家でもあるとか。私はこの芸術家を知らない。「シンドレラ」というあだ名は、「シンデレラ」と「ドラキュラ」を組み合わせた造語だそうだ。「映画制作者、ロックミュージックのプロデューサー、雑誌編集者、ニューヨークのアンダーグラウンド・カルチャーやゲイ・カルチャーにおける重要人物、と活動範囲がひろく、そのぶん影響力もおおきかった。容易に本性を見せず、ミステリアスで、それゆえひとをひきつけてやまなかった」(p460)とか。
 著者は、ウォーハルの代表作の幾つかを取り上げるとともに、彼の生い立ちにもふれ、アンディー・ウォーホルの中にふたつの「わたし」を見出していく。
 この章でおもしろいのは、最後に、ウォーホル語録を11とりあげ、それに対して著者がウォーホル風に答えてみるという試みをするという遊びをしている点である。

第9章 さまよえるニッポンの自画像 ---「わたし」の時代が青春であったとき
 著者は、まず明治以前のニッポンの自画像として、雪舟、岩佐又兵衛、葛飾北斎を考察する。「日本美術史では、おもしろい自画像が散見できても、持続的な歴史を形成するまでにはいたらない」といい、明治以前の日本美術は環境芸術か宗教芸術のいずれかとあえて論じている。戦後については、著者自身の「わたしがたり」と絡ませつつ、日本が青春時代であったころのニッポンにおける「青春の自画像」を概観していく。登場するのは、青木繁・萬鉄五郎・関根正二・村山槐多・松本竣介である。そして、松本竣介の求めた「普遍妥当性」について論じている。

*しかし芸術の価値のありかは、かならずしも完成させることにあるとはかぎらない。青木繁から松本竣介にいたる、私の好きな画家たちがそれを教えてくれる。 p565

終章 最後の自画像
 現代は”自画像”よりも”自撮り”の方が、「だれもが日常的につかう、よりなじみにある言葉になっている」(p568)と一旦とらえたうえで、その二つの言葉の意味する違いを明らかにする。現代という時代の「わたし」を考察している。

*自画像の世界には、どこまでも大上段にふりかぶって物申すというようなところがある。それにくらべ、自撮りの世界は、手軽でカジュアルな楽しみとして、世の中の常識となりつつあるようである。 p581

 様々な美術展で展示された自画像を鑑賞してきたが、自画像という領域の歴史という観点や画家が自画像を描く意識、意図という観点を考えたことがなかった。そういう意味で、自画像から画家を考えるという試みを興味深く読めた。
 自画像と自撮りを対比的に捉えるという見方もおもしろい。写真を撮ることは好きだが自撮りをする趣味はないので、この2つを並べて考えたことがなかった。時代が変化しつつあることへのインパクトになる書でもある。自画像の世界と自撮りの世界。セルフポートレイト(自画像)手法の作品を長年制作してきた著者が出した己の立ち位置としての結論もまたおもしろい。本書を開いて、楽しんでいただくとよいだろう。

 ご一読ありがとうございます。

本書に登場する画家たちの情報を少し検索してみた。一覧にしておきたい。
「森村泰昌」芸術研究所 ホームページ
   作品紹介  
morimura@museum
森村泰昌  :ウィキペディア
ヤン・ファン・エイクの生涯と代表作品(1) :「新・ノラの絵画の時間」
ヤン・ファン・エイク :ウィキペディア
アルブレヒト・デューラーの生涯と代表作・作品解説 :「美術ファン」
レオナルド・ダ・ヴィンチ :ウィキペディア
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ :ウィキペディア
「カラヴァッジョ」の生涯とその作品とは?表現技法や絵画も紹介 :「TRANS.Biz」
ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス :ウィキペディア
ディエゴ・ベラスケス  :「Salvastyle.com」
ディエゴ・ベラスケスの生涯と代表作・全作品一覧  :「美術ファン」
作品解説「ラス・メニーナス(女官たち)」 :「西洋絵画美術館」
レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン  :ウィキペディア
レンブラント 自画像 :「西洋絵画美術館」
レンブラント・ファン・レイン  :「MUSEY」
レンブラントが見られる日本の美術館3選!  :「和楽」
ヨハネス・フェルメール  :ウィキペディア
ヨハネス・フェルメールの生涯と代表作・全作品一覧 :「美術ファン」
圧巻っ!フェルメールの現存全35作品を見比べてみた :「和楽」
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ  :ウィキペディア
Meet Vincent Van Gogh and Millet : Van Gogh Museum
フィンセント・ファン・ゴッホ   :「Salvastyle.com」
フリーダ・カーロ  :ウィキペディア
フリーダ・カーロ  :「世界現代美術作家情報」
「フリーダ・カーロ」の生涯と作品とは?名言や自画像も解説 :「TRANS.Biz」
フリーダ・カーロ 苦悶と恍惚  :「BAZAAR」
アンディ・ウォーホル :ウィキペディア
アンディ・ウォーホル  :「Artpedia アートペディア/近現代美術の百科事典」
アンディ・ウォーホル  :「西洋美術史年表」
雪舟 :ウィキペディア
岩佐又兵衛 :ウィキペディア
葛飾北斎  :ウィキペディア
青木繁   :ウィキペディア
青木繁 絵画作品と所蔵美術館  :「気になるアート.com」
萬鉄五郎  :ウィキペディア
萬鉄五郎  :「日本近代美術史サイト」
関根正二  :ウィキペディア
関根正二の人間像  :「日本美術作家史情報」
村山槐多  :ウィキペディア
「没後100年 村山槐多企画展-驚きの新発見作品を一挙公開-」オープニングセレモニー・内覧会  :YouTube
松本竣介  :ウィキペディア
松本竣介のアトリエへ 【きよみのつぶやき】第5回 「松本竣介展 Vol.1 アトリエの時間」  :「美術展ナビ」

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