本書は既にご紹介した今日庵歴代シリーズの『第二巻 少庵宗淳』に引き続き、平成20年(2008)5月に刊行された。
以前に京都の相国寺を探訪した時、境内の鐘楼の北側に宗旦稲荷社が祀られていることと「宗旦狐」の伝承話を知った。その宗旦とは千家第三代宗旦のことだった。この伝承は、短編小説にもなっている。次に知ったのが「乞食宗旦」と称されていたということ。さらに、書架に眠っていた『利休とその一族』(村井康彦著・平凡社ライブラリー)を最近やっと読んだ。「四 宗旦の世界」の冒頭が「乞食宗旦」という見出しだった。大徳寺に入り、出家していた宗旦が還俗し、父・少庵とともに千家の再興を志した。しかし、宗旦は仕官の道を選ばず、市中の茶人として利休の茶の湯を追究し禅を強調したという。それ故、経済的には不如意な生活で清貧に甘んじるという生き様を貫いた。そこからいつしか「乞食宗旦」と称されるようになったという。一方、宗旦は我が子については方々の伝手を頼り、盛んに有付(就職)先を得ることに奔走したという。このことを読み、宗旦という人物について一歩踏み込んで知りたくなった。
千利休に関しては数多の本がある。しかし、少庵、宗旦、と歴代の茶人についての一般書は数が少なくなる。一般書に近いものとして見つけたのが本書だった。『利休とその一族』から一歩踏み込んで、宗旦を知るという点では取りつきやすい教養書と思う。
本書の構成は『第二巻 少庵宗淳』とほぼ同じである。たぶん、この企画シリーズで構成上の統一性を持たせているものと推測する。まず、目次をご紹介しよう。掲載論文・寄稿文の筆者の肩書は省略する。本書を開いてお読みいただければと思う。
宗旦とその時代 徳川幕藩体制と寛永文化サロン 笠谷和比古
カラー 宗旦の遺芳 茶道資料館
宗旦の生涯と茶の境涯 筒井紘一
茶室に托す佗茶の心 ー宗旦の又隠、今日庵、寒雲亭- 戸田勝久
カラー 宗旦の好み物 茶道資料館
宗旦の茶道具-綺羅と侘び- 谷端昭夫
宗旦居士をしのぶ 宗旦筆 梅花絵賛 横山宗樹
宗旦居士をしのぶ 宗旦好 菊棗 三代宗哲作 阿部宗正
宗旦の菓子の茶 谷 晃
宗旦の茶室-求道と世間法、宗旦が考えた二つの世界- 池田俊彦
宗旦と大徳寺 竹貫元勝
宗旦の消息 田中 稔
宗旦四天王 白嵜顕成
元伯宗旦年譜 今日庵文庫
宗旦周辺系図・裏千家今日庵系図
宗旦の人生を知るという意味では、「宗旦の生涯と茶の境涯」「宗旦の菓子の茶」「宗旦と大徳寺」「宗旦の消息」を読み継ぎ、「元伯宗旦年譜」を通覧すると、大凡の生涯とその立ち位置がわかる。宗旦が利休の茶の湯の追究に専念し、千家の再興に注力した経緯がイメージしやすくなる。本書の帯には「極侘びの境涯に徹した枯高の茶人」というキャッチフレーズが記されている。利休の佗茶を追究し極める方向に進むことは、たぶん秀吉が没し、徳川幕藩体制が確立されていく過程の武家の茶とは、一層距離を置く時代背景もあったのではないか。本書を通読しそういう印象を抱いた。
宗旦は天正6(1578)年に千少庵の子として生まれ、11歳の頃(1588年)に大徳寺の春屋宗園のもとに喝食(かつじき)となった。宗旦が大徳寺で修行を続けている14歳の時(天正19/1591年)に祖父の利休が自刃。一族闕所(けっしょ)所払いになる。宗旦は仏門に居たのでそのまま修行を続ける。大徳寺の中では将来を属目されていたそうだ。会津の蒲生氏郷のもとに身を寄せていた父・少庵が赦免され、帰洛し千家再興をめざす。宗旦は18歳(文禄4/1595年)の頃に還俗したようだ。そして父とともに千家再興にあたる。還俗したといえども、禅の修行は継続していたのだろう。慶長6年(1601)4月に春屋より「元叔」の号を授かっている。武家社会に広まった茶の湯は、利休自刃の後、古田織部の茶の湯を経て、寛永年間には織部を継承する小堀遠州の茶の湯が主流となっていく。武家社会に広まる茶は、武家の社交手段という側面の比重が高まったのではないか。大名茶の時代である。金森宗和の茶の湯も加わる。
「宗旦の茶境が著しく進捗したのは、壮年時代に達した寛永年間(1624~44)に入ってからである。この頃宗旦のもとには、利休の茶風を慕う各大名家からの誘いが頻繁であった。しかし、宗旦は三人の息子や門弟を遣わすだけで、自身が権勢に近づくことはついになかった」(筒井、p44)という。利休の自刃が権勢に近づくことのネガティヴな側面を思い起こさせるからだろう。また、利休の正風をめざすほど、禅に重きを置く宗旦の茶の世界は俗世間の権勢と無縁の方向につき進んだのではないか。だが、それはあくまで宗旦の生き様を境界とした。息子たちの有付(就職)のためには父親として伝手を頼り奔走したのだから。
勿論、その背景には利休が生きた時代とは異なり、徳川幕藩体制の基礎が確立し、泰平の世へ時代が転換する時期だった。宗旦の息子たちには茶の世界という枠がまず前提となる。千家の正風を茶道役として伝授していく役割で仕官する。茶の宗匠として生活基盤を得、利休の正風を広めるという立場である。それ以上でもそれ以下でもない。だから、宗旦は息子たちの生活の安定のために奔走したのではないか。
宗旦自身は息子たちに勧められても仕官の道とは一線を画す。だが一方で、宗旦は武家政権からは隔たる京の宮廷、公家社会の人々には自ら親しみを抱いて近づくという行動をとったという。近衛信尋、鳳林承章などをきっかけとして、後水尾天皇の中宮東福門院和子のもとに出入りして茶風を伝えるとか、近衛家の応山(=信尋)・尚嗣父子や烏丸光広らと茶の湯を介して交流を深めたという。「宗旦の後妻宗見が東福門院に仕える女官であったこと」(筒井、p44)を本書で知った。
つまり、寛永時代を生きた宗旦は、京都のサロン文化の一員となったという。ここに名を挙げた鳳林承章の主宰する鹿苑寺のサロン、後水尾天皇の仙洞御所のサロンで、集まる人々と交流を深めたそうだ。(笠谷、p4)
こういう活動が、千家の再興とその基盤を強固にすることに繋がったのではないかと思う。
表千家には約250枚に及ぶ宗旦の消息文が所蔵されているという。今では、その文書が刊行書として公開されているようだ。本書では事例を踏まえて、消息文に表れる宗旦の心情と人柄が紹介されている。著者は宗旦を「愛に生きた茶人」と結論づけている。自分の思いを率直に消息に綴った子煩悩な親父だったようだ。一方で、消息文から「妻宗見のヒステリーにはほとほと手を焼く」(田中、p133)恐妻家という面もうかがえるというのもおもしろい。どんなことを具体的に書き残しているのか、機会があれば刊行書を読んでみたい。
宗旦の人生と消息文については、上掲の『利休とその一族』と資料的には相補関係となり、理解が深まる。
宗旦の好んだ茶道具を眺めていて、竹を素材として釣花入を創案したのが宗旦だと知った。西村九兵衛作「裏甲釜」はその姿がおもしろいと思う。三日月香合、桃香合、兜巾香合という一閑張の香合もまたおもしろい。宗旦が菊の花の文様を好んだということが水指・薬器・棗の数々からうかがえる。
また、「菓子の茶」が宗旦の茶会にける大きな特徴である点や、「宗旦の茶室」では、宗旦が茶室造りに、求道の世界と世間法の世界の二つの考えを持っていたという。宗旦が書き残した三幅対に「なぜそうした二つの世界を考え続け、相互に歩み寄らせることにしたのかが表れているように思われる」(池田、p127)という見方は興味深い。
最後は、宗旦の四天王と呼ばれた高弟を簡潔に紹介する文で締めくくられている。藤村庸軒、山田宗徧、杉本普斎、久須見疎安の四人である。上掲書と本書から、『茶話指月集』に導かれることになった。
本書は三代宗旦を知るうえで役立つ書である。
ご一読ありがとうございます。
本書からの波紋で、関心事を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
千宗旦 三千家の成り立ち :「茶の湯の歴史」
乞食宗旦 :「コトバンク」
相国寺宗旦稲荷神社 :「京都 Kyoto」
宗旦狐 :ウィキペディア
遠州流茶道 遠州流茶道宗家公式サイト
きれいさび :「JapanKnowledge」
茶道宗和流について ホームページ
金森宗和 :「コトバンク」
宗和流茶道の祖 金森宗和 :「岐阜県図書館」
近衛信尋 :ウィキペディア
鳳林承章 :「コトバンク」
後水尾天皇 :ウィキペディア
東福門院 :「コトバンク」
藤村庸軒 :ウィキペディア
庸軒流 :ウィキペディア
山田宗徧 :ウィキペディア
茶道宗徧流不審庵 ホームページ
杉木普斎 :「コトバンク」
杉木普斎と小豆餅 歴史上の人物と和菓子 :「とらや」
久須美疎安 :「コトバンク」
わび・さび :ウィキペディア
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
これまでに、茶の世界に関連した本を断続的に読み継いできています。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
茶の世界 読後印象記一覧 2021.10.14 時点
以前に京都の相国寺を探訪した時、境内の鐘楼の北側に宗旦稲荷社が祀られていることと「宗旦狐」の伝承話を知った。その宗旦とは千家第三代宗旦のことだった。この伝承は、短編小説にもなっている。次に知ったのが「乞食宗旦」と称されていたということ。さらに、書架に眠っていた『利休とその一族』(村井康彦著・平凡社ライブラリー)を最近やっと読んだ。「四 宗旦の世界」の冒頭が「乞食宗旦」という見出しだった。大徳寺に入り、出家していた宗旦が還俗し、父・少庵とともに千家の再興を志した。しかし、宗旦は仕官の道を選ばず、市中の茶人として利休の茶の湯を追究し禅を強調したという。それ故、経済的には不如意な生活で清貧に甘んじるという生き様を貫いた。そこからいつしか「乞食宗旦」と称されるようになったという。一方、宗旦は我が子については方々の伝手を頼り、盛んに有付(就職)先を得ることに奔走したという。このことを読み、宗旦という人物について一歩踏み込んで知りたくなった。
千利休に関しては数多の本がある。しかし、少庵、宗旦、と歴代の茶人についての一般書は数が少なくなる。一般書に近いものとして見つけたのが本書だった。『利休とその一族』から一歩踏み込んで、宗旦を知るという点では取りつきやすい教養書と思う。
本書の構成は『第二巻 少庵宗淳』とほぼ同じである。たぶん、この企画シリーズで構成上の統一性を持たせているものと推測する。まず、目次をご紹介しよう。掲載論文・寄稿文の筆者の肩書は省略する。本書を開いてお読みいただければと思う。
宗旦とその時代 徳川幕藩体制と寛永文化サロン 笠谷和比古
カラー 宗旦の遺芳 茶道資料館
宗旦の生涯と茶の境涯 筒井紘一
茶室に托す佗茶の心 ー宗旦の又隠、今日庵、寒雲亭- 戸田勝久
カラー 宗旦の好み物 茶道資料館
宗旦の茶道具-綺羅と侘び- 谷端昭夫
宗旦居士をしのぶ 宗旦筆 梅花絵賛 横山宗樹
宗旦居士をしのぶ 宗旦好 菊棗 三代宗哲作 阿部宗正
宗旦の菓子の茶 谷 晃
宗旦の茶室-求道と世間法、宗旦が考えた二つの世界- 池田俊彦
宗旦と大徳寺 竹貫元勝
宗旦の消息 田中 稔
宗旦四天王 白嵜顕成
元伯宗旦年譜 今日庵文庫
宗旦周辺系図・裏千家今日庵系図
宗旦の人生を知るという意味では、「宗旦の生涯と茶の境涯」「宗旦の菓子の茶」「宗旦と大徳寺」「宗旦の消息」を読み継ぎ、「元伯宗旦年譜」を通覧すると、大凡の生涯とその立ち位置がわかる。宗旦が利休の茶の湯の追究に専念し、千家の再興に注力した経緯がイメージしやすくなる。本書の帯には「極侘びの境涯に徹した枯高の茶人」というキャッチフレーズが記されている。利休の佗茶を追究し極める方向に進むことは、たぶん秀吉が没し、徳川幕藩体制が確立されていく過程の武家の茶とは、一層距離を置く時代背景もあったのではないか。本書を通読しそういう印象を抱いた。
宗旦は天正6(1578)年に千少庵の子として生まれ、11歳の頃(1588年)に大徳寺の春屋宗園のもとに喝食(かつじき)となった。宗旦が大徳寺で修行を続けている14歳の時(天正19/1591年)に祖父の利休が自刃。一族闕所(けっしょ)所払いになる。宗旦は仏門に居たのでそのまま修行を続ける。大徳寺の中では将来を属目されていたそうだ。会津の蒲生氏郷のもとに身を寄せていた父・少庵が赦免され、帰洛し千家再興をめざす。宗旦は18歳(文禄4/1595年)の頃に還俗したようだ。そして父とともに千家再興にあたる。還俗したといえども、禅の修行は継続していたのだろう。慶長6年(1601)4月に春屋より「元叔」の号を授かっている。武家社会に広まった茶の湯は、利休自刃の後、古田織部の茶の湯を経て、寛永年間には織部を継承する小堀遠州の茶の湯が主流となっていく。武家社会に広まる茶は、武家の社交手段という側面の比重が高まったのではないか。大名茶の時代である。金森宗和の茶の湯も加わる。
「宗旦の茶境が著しく進捗したのは、壮年時代に達した寛永年間(1624~44)に入ってからである。この頃宗旦のもとには、利休の茶風を慕う各大名家からの誘いが頻繁であった。しかし、宗旦は三人の息子や門弟を遣わすだけで、自身が権勢に近づくことはついになかった」(筒井、p44)という。利休の自刃が権勢に近づくことのネガティヴな側面を思い起こさせるからだろう。また、利休の正風をめざすほど、禅に重きを置く宗旦の茶の世界は俗世間の権勢と無縁の方向につき進んだのではないか。だが、それはあくまで宗旦の生き様を境界とした。息子たちの有付(就職)のためには父親として伝手を頼り奔走したのだから。
勿論、その背景には利休が生きた時代とは異なり、徳川幕藩体制の基礎が確立し、泰平の世へ時代が転換する時期だった。宗旦の息子たちには茶の世界という枠がまず前提となる。千家の正風を茶道役として伝授していく役割で仕官する。茶の宗匠として生活基盤を得、利休の正風を広めるという立場である。それ以上でもそれ以下でもない。だから、宗旦は息子たちの生活の安定のために奔走したのではないか。
宗旦自身は息子たちに勧められても仕官の道とは一線を画す。だが一方で、宗旦は武家政権からは隔たる京の宮廷、公家社会の人々には自ら親しみを抱いて近づくという行動をとったという。近衛信尋、鳳林承章などをきっかけとして、後水尾天皇の中宮東福門院和子のもとに出入りして茶風を伝えるとか、近衛家の応山(=信尋)・尚嗣父子や烏丸光広らと茶の湯を介して交流を深めたという。「宗旦の後妻宗見が東福門院に仕える女官であったこと」(筒井、p44)を本書で知った。
つまり、寛永時代を生きた宗旦は、京都のサロン文化の一員となったという。ここに名を挙げた鳳林承章の主宰する鹿苑寺のサロン、後水尾天皇の仙洞御所のサロンで、集まる人々と交流を深めたそうだ。(笠谷、p4)
こういう活動が、千家の再興とその基盤を強固にすることに繋がったのではないかと思う。
表千家には約250枚に及ぶ宗旦の消息文が所蔵されているという。今では、その文書が刊行書として公開されているようだ。本書では事例を踏まえて、消息文に表れる宗旦の心情と人柄が紹介されている。著者は宗旦を「愛に生きた茶人」と結論づけている。自分の思いを率直に消息に綴った子煩悩な親父だったようだ。一方で、消息文から「妻宗見のヒステリーにはほとほと手を焼く」(田中、p133)恐妻家という面もうかがえるというのもおもしろい。どんなことを具体的に書き残しているのか、機会があれば刊行書を読んでみたい。
宗旦の人生と消息文については、上掲の『利休とその一族』と資料的には相補関係となり、理解が深まる。
宗旦の好んだ茶道具を眺めていて、竹を素材として釣花入を創案したのが宗旦だと知った。西村九兵衛作「裏甲釜」はその姿がおもしろいと思う。三日月香合、桃香合、兜巾香合という一閑張の香合もまたおもしろい。宗旦が菊の花の文様を好んだということが水指・薬器・棗の数々からうかがえる。
また、「菓子の茶」が宗旦の茶会にける大きな特徴である点や、「宗旦の茶室」では、宗旦が茶室造りに、求道の世界と世間法の世界の二つの考えを持っていたという。宗旦が書き残した三幅対に「なぜそうした二つの世界を考え続け、相互に歩み寄らせることにしたのかが表れているように思われる」(池田、p127)という見方は興味深い。
最後は、宗旦の四天王と呼ばれた高弟を簡潔に紹介する文で締めくくられている。藤村庸軒、山田宗徧、杉本普斎、久須見疎安の四人である。上掲書と本書から、『茶話指月集』に導かれることになった。
本書は三代宗旦を知るうえで役立つ書である。
ご一読ありがとうございます。
本書からの波紋で、関心事を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
千宗旦 三千家の成り立ち :「茶の湯の歴史」
乞食宗旦 :「コトバンク」
相国寺宗旦稲荷神社 :「京都 Kyoto」
宗旦狐 :ウィキペディア
遠州流茶道 遠州流茶道宗家公式サイト
きれいさび :「JapanKnowledge」
茶道宗和流について ホームページ
金森宗和 :「コトバンク」
宗和流茶道の祖 金森宗和 :「岐阜県図書館」
近衛信尋 :ウィキペディア
鳳林承章 :「コトバンク」
後水尾天皇 :ウィキペディア
東福門院 :「コトバンク」
藤村庸軒 :ウィキペディア
庸軒流 :ウィキペディア
山田宗徧 :ウィキペディア
茶道宗徧流不審庵 ホームページ
杉木普斎 :「コトバンク」
杉木普斎と小豆餅 歴史上の人物と和菓子 :「とらや」
久須美疎安 :「コトバンク」
わび・さび :ウィキペディア
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その点、ご寛恕ください。)
これまでに、茶の世界に関連した本を断続的に読み継いできています。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
茶の世界 読後印象記一覧 2021.10.14 時点