遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『月下のサクラ』  柚月裕子  徳間書店

2022-01-03 14:51:08 | レビュー
 主な登場人物は、米崎県警捜査支援分析センターの機動分析係の面々である。係長は黒瀬仁人警部だが、このストーリーでの中心人物は森口泉巡査。プロローグは、森口泉が機動分析係配属を希望して、実技試験の追跡テストを受ける、つまりある人物を追跡するという場面描写から始まる。そして「追跡テスト、落第」と宣告される。
 泉は25歳で米崎県警に事務職として採用されたが、4年後にある事件を契機に退職した。その後、30歳で警察官採用試験に合格。警察学校、交番勤務等を経て、33歳で捜査二課の刑事に登用された。泉は追跡テストで落第したが、黒瀬の強引な推しで機動分析係配属が決定する。
 このストーリーは、森口が機動分析係に配属され、黒瀬以下、機動分析係のメンバーの一員として取り組む事件、それも県警察組織を揺るがす大事件についての顛末譚である。

 機動分析係のメンバーにまず触れておこう。彼等は名前を略して呼び合っている。
 仁 黒瀬仁人警部 係長。黒瀬はメンバーから信頼されている。
 哲 市場哲也 50歳、歳年長。メンバー歴8年。捜査第一線の熱さを全身から放つ
 真 日下部真一 メンバー歴6年。一見教師風、きちんとした服装で礼儀正しい
 春 春日敏成 メンバー歴4年。頭が切れセンスがよいと評されている
 大 里見大(まさる) メンバー歴2年。28歳、最年少。整った顔立ちと優しい雰囲気

 泉が部屋に戻ってきた春日に挨拶すると、ぼそりと「スペカンね」と言われる。スペシャル捜査官の略で、刑事になってすぐ県警配属となったのも、機動分析係に異動できたのも、強い引きがあった。特別扱いだと春日に注釈された。泉はこれがここでの共通認識なのだというところから、スタートを切ることになる。

 米崎県警の会計課の金庫から現金がなくなっていた。担当の課員が金庫を開けて気づいた。緊急事態の発生である。報告を受けた会計課の笹塚課長は県警本部長の大須賀に連絡。大須賀から指示を受けた機動捜査隊の捜査員と鑑識が駆けつける。初動捜査が始まって行く。
 賄賂事件で押収した120万円を金庫に納めるために担当者が開けたところ、9530万円の現金がなくなっていた。詐欺事件などで押収した現金だという。事件を捜査する警察内部で盗難事件が発生したのだ。記者クラブの担当者が騒ぎを聞き付けていた。マスコミも大騒ぎをし始める。
 黒瀬以下機動分析係は、まず一定期間を想定して本部周辺の防犯システムの録画映像を分担して分析する捜査から始めて行く。

 このストーリーは、盗難事件を直接担当する捜査一課の捜査活動に焦点を当てるのではなく、機動分析係という捜査支援を行う脇役の部署に焦点を当てていく。機動分析係は、基本は県内に張り巡らされたNシステムや防犯システムなどの監視カメラが記録した映像を分析し、それらの記録映像を縦横に連携させながら、事件に関係する車や人物を分析して抽出していく役割を担う。その上で臨機応変に機動的に現場に出て監視捜査活動に従事する。あくまで捜査の脇役的存在なのだ。県警本部内部で発生したこの事件は、彼等が機動的に行動し捜査を牽引する形で進展していくことに・・・・・。
 そこが警察小説としては、斬新なストーリーの展開を生みだす切り口になっている。その新鮮さが読ませどころの一つになる。

 捜査一課による会計課課員への事情聴取の結果、現金が盗まれた時期が10月1日から事件発覚までの2か月間とまず絞られてくる。さらに、会計課の笹塚課長に対する事情聴取により、捜査の重要人物は会計課の課員および保科前課長と推論されていく。保科は一身上の都合という理由で9月30日付で早期退職していた。
 一方、泉は県警本部の駐車場の映像分析から、保科前課長が退職後の10月に駐車場を出入りしている映像を発見した。
 黒瀬は機動分析係を総動員して保科について身辺調査に取りかかる。何等かの形で事件に関与している可能性が濃厚と判断した。様々な視点から情報を収集するとともに、保科の現在の行動確認に踏み込んで行く。

 捜査一課とは独立した機動分析係の監視行動のプロセスで、泉は保科の車を追うように走る車の存在に気づく。その写真を日下部の指示を受け、黒瀬に画像送信する。泉が署に戻ると、黒瀬に同行し大会議室に行くことに。そこには捜査一課長の阿久津と捜査支援センター長の宮東が居た。彼等の前で、泉は黒瀬から10枚の顔写真を見せられた。その中に車に乗っていた人物がいるかと。
 大会議室を出た後、黒瀬に質問した泉に対して、黒瀬はぼそりと答えた「ソトニ」だと。ソトニとは、警視庁公安部外事二課の隠語である。泉にはさっぱり関係が飲み込めない。だが黒瀬は「この事件、考えていた以上にでかいな」とつぶやいた。
 何らかの仮説を立てた黒瀬はメンバーに指示する一方で、一切話さずに彼独自の動きを取り始める。

 そんな矢先に、保科が死んだという連絡が入る。黒瀬と泉は現場に向かう。移動中に阿久津課長から黒瀬に電話が入る。現場に一番乗りしていたのはサクラだと。なぜか、警視庁の公安が現場に来ていた。この小説のタイトルは、ここに由来するようだ。

 著者はこのストーリーで、このサクラの動きを非常に興味深い視点から描き込んでいる。刑事警察と公安警察の根本的な違いを指摘するかの如くに・・・・・。だが、それは許容できる行為なのかどうか。重大な問題提起を含んだものとなる。このストーリーでは推定にとどめ、その判断は埒外のテーマに留められているように思う。
 このストーリーをお読みいただき、ご判断いただくとよい。

 県警本部内における盗難事件の捜査は、保科の死がトリガーとなる。
 なぜメンバーから信頼されている黒瀬が、敢えて独自の動きをとろうとしていたのか。その点が市場を介して明らかになっていく。そこには黒瀬の過去の捜査経験における自己嫌悪の深い思い、慚愧が内在していた。同じ事態を繰り返さない、機動分析係のメンバーを巻き込みたくないという信念だった。
 だが、黒瀬に想定外の嫌疑が降りかかることにより、黒瀬の仮説は機動分析係の捜査方針の重大な核心となる。機動分析係の監視ターゲットが絞り込まれ、そこから事態が急展開していく。それは米崎県警本部を激震させる事実を暴露する方向に突き進む。

 泉は市場に詰め寄って言う。「一生、罪悪感と自己嫌悪に苦しめられることがどれだけ辛いか、それを知っている黒瀬さんなら、きっと私の気持ちをわかってくれます。行ってこい、あとは俺に任せろ、きっとそう言います」(p344)と。そして泉は市場の了解を取り付ける。
 そんな泉を春日が評する。「まるでコガネムシだな。虫のくせに飛ぶのが苦手で、よく落ちる。が、けっこう根性があって、諦めずになんども飛ぼうとするんだ」(p345)と。 泉のとる捨て身の行動が泉を窮地に追い込むことに・・・・・。

 このストーリー、盗難事件の発生状況が一種異常である。それ故に事件が解明された結果もまた異常というべきものとなる。読者としては、興味深くかつおもしろい。一気読みしてしまった。
 この小説は、週刊「アサヒ芸能」(2019年1月3日号~10月31日号)に掲載された後、加筆修正され、2021年5月に出版された。

 異色な構想の警察小説として、がんばりやさん・森口泉巡査がこの後、登場する機会があるのだろうか。シリーズとしての第2弾を期待したい。

 ご一読ありがとうございます。

 徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『暴虎の牙』  角川書店
『検事の信義』  角川書店
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『蟻の菜園 -アント・ガーデン-』 宝島社
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『孤狼の血』  角川書店
『あしたの君へ』 文藝春秋
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『検事の死命』 宝島社
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