遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『分身』  東野圭吾  集英社文庫

2021-09-05 18:30:45 | レビュー
 鞠子の章と双葉の章として2つのストーリーが交互にパラレルに進行する。このこと自体がおもしろい。まず、どう関わり合っていくのかと興味を引く。氏家鞠子は札幌の叔父の家から大学の英文科に通う大学生。小林双葉は東京の高田馬場にある東和大学国文科に通う大学生。北海道と東京、全く異なる環境で互いの存在を知ることもなく二人は成長した。その鞠子と双葉が共にそれぞれの母の死を契機に、母の死についての理由探しの行動に出る。二人はパラレルに独自に行動する。だが必然的な縁が明らかになっていく。本書のタイトル「分身」はその象徴語である。現代医学の最先端における危険な領域を背景に取り入れたサスペンス長編。その謎解きのプロセスに読者は徐々に惹き込まれていくことになる。この発想が興味深い。

 鞠子は子供の頃、誰からも母子が似ていると言われたことがなかった。幼児の頃、母の実家で祖母に「まあまあこの子は、見るたびに綺麗になっていくじゃないか。一体誰に似たのかねえ。静恵からこんな子が生まれるなんて、こういうのをトンビがタカを産んだっていうんだろうね」と。母は楽しそうに笑っていた。だが、小学生の頃には自分が父親にも似ていないことに気づき始める。鞠子の前では態度に見せないが、母静恵の悩む姿を偶然垣間見るようになる。学校で戸籍のことを習った後、密かに市役所に行き戸籍謄本を申請した。恐る恐る見ると、父母の欄の下に長女と明記されていた。鞠子は両親の勧めで家を離れ、寄宿舎制度のある中学校に進学する。中学2年の冬、鞠子は帰省した。12月29日、家族の団欒の場だった家がガスの漏洩、爆発による火災で燃え落ちた。その時、なぜか鞠子は家の庭の雪の上に居た。事後捜査の結果、母の自殺が原因ということになる。だが、鞠子は、母が父と自分を道連れにしようとしていたと確信した。なぜ、母は自殺しようとしたのか。
 札幌の叔父の家に下宿して、大学に通い始めた時、叔父夫妻の娘・香から仏壇の引き出しに残されていたという古い地図と写真を見せられた。鞠子の母が残していたものという。この写真が契機となり、鞠子は母の自殺の真相を探る決意をする。まず、父の出身校である東京の帝都大学を訪ね、その当時のことを調べることから始める。北大生の横井から紹介された帝都大学に通う下条という女性が鞠子に協力してくれることになる。英文科に進学していた鞠子は、父の半生記を英文でまとめるための調査だと下条に説明した。父親が大学で発生学を教えていることを告げる。鞠子がまず会いたかったのは梅津正芳という人物。偶然にも下条はその梅津先生のゼミ生で医学を学んでいるという。
 積極的で、親身になって調査に協力してくれる下条に、鞠子は徐々に調査の真の目的を話すようになっていく。下条はますます鞠子に協力的になる。そして、下条はある仮説にたどり着く。彼女は一層鞠子に関心を持ち始める。

 双葉は東和大学の国文科に通う大学生だが、高校時代の男友達とアマチュアバンドを組みその歌手となっている。大学に通うよりバンドにのめり込んでいて、母親がテレビ番組に出演することだけは厳禁すると言っていたにもかかわらず、密かにテレビの生放送番組に出演した。
 双葉は駅から徒歩10分ほどの二階建てアパートの二階に母子で住む。ベランダからは緑豊かな石神井公園が眺められる。母・志保は看護婦として勤めている。未婚の母であることを双葉は知って居るがそのことに屈託はない。双葉は母とは似ていない。それが原因でいじめられたこともあるが、そんなことも気にしないで逞しく育っていた。母は、テレビの生放送を見ていた。帰宅すると「あんたの歌、まあまあじゃない。見直した」と、思いもかけないことを双葉は言われた。だが、その後、双葉はなぜか母が思い苦しんでいる姿を垣間見ることになる。
 双葉がテレビ番組に出演した後、奇妙な出来事が次々に起こる。5日ほど後、バンドの練習後アパートに帰ってきた双葉は、中年の男が帰る間際に母と最後の会話をかわすのを、身を隠して偶然聞く。五十前後の小柄で堂々とした後姿をみせる紳士だった。その翌日、大学で国文科の学生をつかまえて双葉のことを聞き込みする男が現れていた事実を知る。その男は左足を引きずるようにして歩いていたという。質問を受け、応対して謝礼をもらった複数の友人が双葉に教えた。その際、男が見せた写真は高校ぐらいの頃の髪がストレートでロングのものだったという。双葉はそんな髪形をしたことはなかった。友人はどうみても双葉の写真だったという。帰宅した夜、双葉は石神井警察署交通課から連絡を受ける。母が勤め先の病院からの帰路、轢き逃げに遭って谷原病院に運ばれたと。悪い予感が当たる。轢き逃げが原因で母は亡くなる。
 双葉は母がテレビに出ることを禁止していたことと突然の母の死に何らかの関係があると思わざるを得ない。双葉は今まで気にしていなかった母の過去について調べ始める。双葉は、町田に住む叔父から、母が旭川にある北斗医科大に進学したこと。大学を辞めて東京に戻ってきたこと。その時には妊娠していたことを聞き出す。警察の調べで、アパートを訪ねてきていた紳士が誰かは捜査の結果判明した。併せて、その人には轢き逃げ時刻のアリバイがあることも判明した。
 母の身の回りのものを整理していて、今までみたことのないスクラップブックを見つける。そこには、何年か前に首相を務めたこともある保守党の実力者、伊原俊策の私生活、子どものに関わる記事が集められていた。双葉にはなぜ母がこんあスクラップブックを持っているのか、皆目わからなかった。

 このストーリー、鞠子と双葉のそれぞれに進める調査が、二人の出生の過去を明らかにしていく。
1.下条の協力を得て、微かな糸口となる情報から、少しずつ情報を手繰り寄せていく。複数回に亘って東京で様々な人に会い、調査を進めるプロセスがメインになる。そのプロセスで、下条がある仮説にたどり着く。鞠子は、母の死が己の出生に関係していることを知る。だが、その理由は父に確認しなければならないことに行き着く。
 併せて、調査の過程で鞠子は自分の分身ともいえるほぼ同じ容貌、姿の人が存在する事実を知る。
 鞠子が下条の協力で推し進める調査のプロセスが一つの読ませどころになっている。ジグソーパズルを仕上げていくような感じがおもしろい。
2. 双葉は北斗医科大学の藤村と名乗る人物からの電話を受ける。彼は母が轢き逃げされる事件の前日訪ねてきたことを語った。双葉は藤村から母のことを聞きたいと言う。藤村は北斗医科大にて話をするという。双葉は北海道に赴くが、それは自ら無自覚に危地に飛び込む形になっていく。
 危地を脱する事態には、北海道に出かける前に、アパートの階段のところで双葉の帰宅を待っていた月刊ビジネス雑誌の編集部所属だと名乗る脇坂講介が関係してくる。脇坂は双葉を追って自家用車で北海道に来たのだ。脇坂はなぜか双葉をサポートする立場で行動を共にしていく。
 双葉もまた、己の出生の秘密の核心を脇坂の協力も得て、徐々に気づいていく。
 読者にとっては、なぜ脇坂が双葉に対して協力的なのかが謎である。それが双葉の行動プロセスでの関心事項にもなる。脇坂もまた重要な役割を担わされていたのだ。
3. 鞠子は、下条の調べを介して小林双葉の存在と住所を知ることになる。双葉のアパートを訪れて知ったのは、双葉が北海道に出かけて行ったことと、留守番を頼まれたというユタカのことである。鞠子はユタカを介して双葉と連絡を取ることになる。双葉の身の危険を憂慮するユタカが重要な結節点の役割を担っているところがストーリーの展開をうまく繋いでいる。重要な黒子役といえる。
4.北海道に戻る鞠子は、空港内で双葉と会う約束をする。だが、空港で待つ間に、彼女の前に現れた男が、父の友人だと言い鞠子に同行を要求する。空港の出入口には別の男の傍に父が居た。目の前の男は小林双葉のことを知っていた。鞠子はその男の要求に従わざるを得なくなる。鞠子は父と直に話がしてみたかった。
 だが、それは理由がわからないままに鞠子が危地に踏み込む一歩となった。

そして、すべてのことが繋がり、鞠子と双葉に収斂していく。

 医学倫理の問題が絡む興味深いサスペンスと言える。次々と事実が明らかになっていくプロセスの展開が巧みである。読者を飽きさせないで引きこんでいく。
 生命を扱う医学の限界はどこにあるのか。何を限界とすべきなのか。それを問いかける小説にもなっている。

 この小説は、1993年9月に刊行され、1996年9月に文庫化されている。
 文庫本の解説を読むと、本書は「小説すばる」に連載された『ドッペルゲンガー症候群』という小説に加筆し、『分身』と改題して上梓されたものという。

 最初の出版から早くも四半世紀を過ぎている。この小説が創作された時点から、生命科学、医学の領域は一層発展していることだろう。ここで扱われたテーマは、形は変わるだろうが、人間にとって一層身近な問題になっているのではないか。
 著者は、四半世紀以上前に、人間にとって現代科学における重大な倫理問題の一つを問題提起していたとも言える。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書を読み、関心を広げてネット検索してみた。一覧にしておきたい。
赤ちゃんを迎える前に!妊娠についての基礎知識 :「女性のための健康ラボMint+」
不妊症  :「日本産婦人科学会」
不妊治療はどうやって選択される? 不妊治療の種類と選択方法:「恵愛生殖医療医院」
体内受精  :「つばきウイメンズクリニック」
体外受精  :「神奈川レディースクリニック」
双生児  :ウィキペディア 
キメラ  :「コトバンク」
キメラ遺伝子  :「薬学用語解説」
クローン    :ウィキペディア
クローン    :「東邦大学」
解説:サルのクローン誕生、その意義と疑問点 2018.1.26 :「NATIONAL GEOGRAPHICS」
クローン猿誕生で真に危惧すべきは「人間複製」への応用ではない 2018.2.2
        :「DIAMOND ONLINE」
クローン人間の作製について、倫理面での問題をどう考えればよいか
  :「もっと知りたい人のためのバイオテクノロジーQ&A」
「クローン人間作製」についてのコメント:「石野研究室」
クローン技術による人個体の産生等に関する基本的考え方  平成11年11月17日
     科学技術会議生命倫理委員会クローン小委員会   :「文部科学省」
クローン動物  :「コトバンク」
人とブタのキメラから臓器をつくり出す。万能細胞を用いて再生医療の高みへ。 YouTube
【近畿大学農学部│ 農LABO】
人とサルの細胞混在「キメラ胚」を長期培養…生命倫理の面で懸念の声  2021.4.16
    :「読売新聞オンライン」

ATOLS - KIMERA feat. IA / キメラ feat. IA
 本小説とは無関係です。キメラの語句検索で得たおもしろい曲の動画なので・・・・。

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『天空の蜂』  講談社文庫
東野圭吾 作品 読後印象記一覧 1版  2021.7.16 時点  26作品

『利休とその妻たち』 上巻・下巻   三浦綾子   新潮文庫

2021-09-02 12:15:46 | レビュー
 今年の5月末に平凡社ライブラリーの1冊、村井康彦著『利休とその一族』(1995/5刊)を読んだ。この読後印象記は6月初旬にご紹介している。この本、もとは連載等での初出後、1987(昭和62)年1月に出版された。この本が私には千利休自身だけではなく、彼の家族・一族にも関心をいだくきっかけになった。
 その関心からまずこの『利休とその妻たち』を読んでみた。史実を踏まえた上で、歴史小説(フィクション)として、宗易(利休)の妻たちへの愛と対応が描かれている。そこには先妻と後妻それぞれの半生の対極的な生き方、有り様が描き出されている。また、息子・娘たちへの宗易の愛と対応も点描風に描き込まれていく。それは茶の湯の世界を確立するに至るまでの宗易の信念・思念と内心の懊悩のプロセスが表裏一体のものとして絡められながら描かれて行くことでもある。ストーリーは天文18年宗易28歳の時点から天正19年2月28日、70歳で切腹して果てるまでに及ぶ。
 この小説は、上掲書より早く、1980(昭和55)年3月に刊行され、1988(昭和63)年3月に文庫化された。その後増刷を重ねている。

 上掲書に「千家略系図」(p137)が載っている。利休には公式には2人の妻がいた。先妻は法名「宝心妙樹」、後妻は茶号「宗恩」で記されている。現存する文書類の記録では生前の名は不詳という。この小説は、先妻を「お稲」、後妻を「おりき」の名で描く。略系図には宗易と先妻・お稲との間に一男三女が明記されている。一人息子が紹安(のちの道安)である。三女の名は不詳。「女」とのみ記し、嫁ぎ先を併記する。一方、後妻・おりきには連れ子・少庵(のちの宗淳)が居て、おりきと宗易との間に2男児をもうけたがいずれも幼くして死んだ。「宗林童子」「宗幻童子」の法名で記されている。また、略系図に宗易には他にお亀と称する子の名が記されている。後にこのお亀が少庵の妻となる。この小説ではお亀を「おちょう」と読ませている。
 この小説で描かれた時期を外れるが、少庵とお亀の間には二男一女が略系図に記されていて、長男が茶道千家の三代目・宗旦である。宗旦の息子たちの代で千家が三家に分流していくことになる。

 この小説では、同年齢の紹安と少庵の幼名は、それぞれ与之介、吉兵衛として描かれる。お稲との間にできた三女は、長女・おゆう、次女・お袖、三女・おぎんと設定されている。だが、さらに著者は四女・おこうを加えている。

 では、このストーリーの世界に入って行こう。少し触れたが、宗易が己の茶の湯を確立していくプロセスが大きく絡みながら、宗易と「妻たち」との関わりかたがテーマになっている。ストーリーの構成としてお稲とおりきは対照的なキャラクターとして描かれていく。このストーリーの読ませどころは、妻たちの対極的なスタンス、有り様が宗易の茶の湯の道にどのように影響を及ぼしたのかという点にある。私にはその点が実に興味深かった。それは小説故のドラマティックな脚色なのか。大凡の事実を踏まえた描写なのか。どちらだろう・・・・。お読みいただきお考えいただきたい。
 ストーリーの冒頭は、お稲が4歳の与之介に男の子は外で戦ごっこをするもの。お茶のまねごとなどして遊ぶなと注意する場面から始まる。与之介の父の行う茶道を否定するのだ。なぜか? お稲は三好一族に生まれた。三好長慶の腹ちがいの妹であり、魚屋(ととや)と称する商家に嫁いだこと自体を悔やんで生きている。「茶の湯がいくらうまくても、城の主になれません」とお稲は与之介に言い聞かせる。武士を上に見て、商人を蔑む心を持つ女だった。お稲は兄の長慶から宗易に対する信頼を聞かされ、己の夫を見直す面が出てくるが、基本的には茶の湯の道に精進する生き方にはネガティブであり、三好一族の存在を優先する姿勢を貫く女、そして三好一族を滅ぼした元部下の松永久秀を恨み続ける女として描かれる。母に言われようと、与之介は父の行う茶を学ぶことを好む。
 宗易は19歳で父を失い、魚屋千家の跡を継いだ。19歳の秋に武野紹鴎の門を叩き、茶の湯を心の拠り所とし、その道を究めていこうとする。宗易の生き方をお稲は理解もせず、真っ向から否定するスタンスを抱き、己の態度にも出す。こんなところからストーリーが始まるのだから、この先どうなることか・・・・。読者としては、宗易がお稲の考え、態度にどのように対応していくかが関心事にならざるをえない。

 堺の商人たちの経済力には大名たちも一目置いている。武器の調達をはじめ、戦のためには力のある商人の協力が不可欠なのだ。一方、商人にはいくら財力があっても権力を買うことはできない。その点で武士への羨望があった。堺の商人の間で茶の湯が盛んだった。高価な名のある茶器を堺の大商人は贖うことができた。大名よりも高価な茶器を持っているという満足感を満たせた。さらに、茶の湯は教養を身につける道でもあった。つまり、茶の湯は大名と互角あるいはそれを上回る己を誇示できる場でもあった。武野紹鴎の茶に対する理念は別として、茶の湯もその次元から始まるわけである。過去に遡れば、闘茶の寄合の時期もあった。つまり、そんな茶の湯の次元から抜き出た茶の湯の世界は何か。それが宗易のテーマになっていく。
 著者は、「茶は『和敬静寂』でなければならぬ。茶は『宗教』でなければならぬ。宗易の宗教は禅であった。禅は譲ることであり、無になることでなければならぬ、と宗易は思っていた。」(上・p193)という視点から宗易の茶の湯の道を描いて行く。

 宗易の弟子に宮王三郎という猿楽の名手がいた。あるとき、宗易は宮王三郎に能を習うことにする。能の所作が茶の湯の点前の動き、流れの呼吸を会得する役に立つと判断したからだ。そして、能の師として宮王の指導を受ける為に、宮王の邸に出かけて行く。初日の稽古を終え、玄関から門に向かう途中で、偶然、宮王の4歳の子・吉兵衛と出会う。それが宗易の人生を変える契機になる。吉兵衛との会話のわずかのときが、息子を探す母との出会いに導かれることに・・・・。それが宮王の妻、おりきとの出会いである。
 宗易と名乗ったとき、おりきはありありと畏敬の表情を見せた。「これが、茶聖千利休と、後の妻宗恩、そして千家二代目少庵との奇しき出会いであった」(上・p25)と著者は記す。
 宗易は、おりきに対して「瑞々しさに溢れるような色香を湛えながらも、余にも清らかであった」(上・p107)「浄められた茶室の聖さにも似ていた」(上・p107)という印象を抱く。我が妻お稲とは対極的な存在として、宗易の心におりきへの思いが培われていく。

 このストーリー、大きく捕らえると、宗易が宮王の妻であるおりきをどのような経緯を経て、後妻に迎えるい至ったかを描いている。おりきへの宗易の愛のあり方、茶聖宗易ではなく人間宗易の側面が徐々に大きくクローズアップされていく。逆に、おりきの宗易に対する思いを描くプロセスでもある。その端的なエピソードが「阿波の碁石」として描かれる。その思いの深さを本文で味わっていただきたいと思う。
 宮王の妻・おりきとの出会いはおりき17歳の時。その後、宮王は求めに応じて阿波に渡り、その地で亡くなる。三好実休がおりきに思いを寄せる。さらに松永久秀がおりきを我がものにせんとする。実休の伝手でおりきは阿波から堺に戻ることに。宗易はこの実休・久秀二人の渦中に巻き込まれていく。
 おりきの人生の変転が始まる。おりきは堺から去り行方が知れぬことに。京の町で宗易が再会するのはそのときから11年後である。再会した宗易とおりきは深い関係になっていく。宗易の妻お稲は病に伏す身とはいえ、生きていた。
 宗易とおりきの間にできた子が幼くして死んだことを契機に、おりきはわが子の死を契機に、キリシタンの道に入って行くことに・・・・。再び宗易には新たな忍耐の始まりとなる。紹安はおりんの存在を受け入れる。
 天正5年、宗易56歳。7月にお稲が病没する。この頃に、お亀と少庵が結婚するという。翌天正6年、宗易57歳の頃、おりきは46歳で宗易の後妻となる。一旦嫁いだが千家に戻っていたおぎんもまたキリシタンとなっていて、おりきを義母として受け入れる。

 宗易はおりきに茶の湯を共に語れる喜びを見出していく。美貌で聡明なおりきは、茶道具についても目利きであり、思わぬ発想のできる女だった。茶の湯の道を確立せんとする宗易の信念と思念、行動に対して、おりきは常にポジティブであり、問われれば控えめに己の考えを語った。ストーリーの後半は、おりきを伴侶として、宗易が懊悩しながらも己の茶の湯の世界を切り開き確立していくプロセスである。宗易がおりきから己の茶の湯の道・世界を築き上げるうえで、どれだけ力強い支えを得たかが語られるストーリーでもある。著者はそんなおりきを描き込んで行く。読み進めて行くと、二人の会話を楽しめる場面が各所に盛り込まれている。

 このストーリーの中には、おりきがキリシタンになるという設定と絡め、宗易が己の茶の湯の世界を確立する一環として導入した事項について著者の仮説がエピソード風に盛り込まれて行く。たとえば、
*宗易は山崎の禅院妙喜庵に秀吉の命を受け茶室建築を行う。それは現存する二畳の茶室待庵である。この茶室に宗易は躙口を考案した。おりきがサンチョの御堂で聞いた話、狭き門より入れという話を宗易に語る。そのおりきの話がヒントになったと語る。
*おりきがキリシタンになりたいと宗易に告げたとき、宗易は日比屋了珪サンチョの建てた御堂に同行し、そこでの儀式を見聞する。その見聞から宗易は茶の湯における所作のヒントを得る。一例をとりあげよう。磔になり流されたイエズスの血に見立てた葡萄酒を器から飲み干した後に司祭が呑み干し空になった盃に行った仕種である。器の上に金襴のふくさをかけるときの仕種の美しさである。茶の湯でのふくさの扱い方、所作を工夫するヒントを宗易は得た。
*小田原の戦から戻った宗易は、おりきから『こんてむつすむん地』という翻訳書を借りて読む。そこには天下一の茶頭と自負もする宗易にとり実に痛い言葉を見出す。そして、天主(デウス)の教えも、茶の心も、つまるところは一つであったと気づく。近ごろの自分のあり方を内省する契機とする。それは、宗易にとり茶の湯での心のあり方を一歩深める結果となる。
こんなことが盛り込まれている。おもしろい仮説といえる。

 ストーリーは、上記の通り、宗易が切腹を命じられるに至る経緯とその切腹当日の描写が最後の山場となる。おりきは鮮血に染まった利休の遺体に小袖をかける。「おりきは只祈った。利休が天国に迎えられることをひたすら祈った。」(下・p301)と記す。
 そして、天正19年2月28日の利休切腹後、おりきは石田三成に召し出され、三成の屋敷に封じ込まれ、キリシタンとして信仰を抱き続ける場面の描写で終わる。それは石田三成に謀計を語らせ、石田三成という人物の一面を描写して終わることにもなっている。
 

 本書を読んで、印象に残る文を下巻からご紹介しよう。これらの文が本書への誘いになるかもしれない。ストーリーの文脈を知りたくなるのでは・・・・・。
*生きていた時には、嫌悪もいらだたしさもあった。だが人の死は、愛情を超えて、その心にふれることを可能とする。 (下・p29)
*お稲の目には、常に咎め立てようとする狭さがあったが、おりきには宗易のすべてに賛意を表した。いや、敬意を表した。それが男である宗易の心をのびやかにさせた。持っている力が、五倍にも八倍にも伸びていくような思いであった。 (下・p39)
*茶の湯は、つづまりは、茶に湯を入れて、茶筅で掻きまわし、それを味わうまでのことじゃ。只それだけのことだと、よくよく腹におさめてあれば、人の失敗もかばってやれるものじゃ。それを、ついきつく咎め立てをしてしまう。和敬を失った茶は、茶ではない。 (下・p87)
*茶は心の茶でなければなりませぬに。 (下・p87)  ⇒おりきの言
*利休の利は、利発の利を意味していた。利休の休は、その利が鈍磨しているの意である。
 禅では、この「利休」の境地を「悟り終わって未だ悟らざるに同じ」又は「絶学無為の閑道人」の境地とし、人間の究極の境地と見なしていた。  (下・p120)
*誰もが、自分の人生のシテを演じている。自分を中心に生きている。そして、それは根強い人間の姿なのだ。  (下・p131) ⇒ おりきの思い
*領民の幸せは、領主の存在を忘れて暮らせること。  (下・p146) ⇒高山右近の言
*すべては形から入って、形から出ねばならぬものである。が、一旦形に入ると、形から抜け切ることは容易にできることではない。茶の湯にとって、最も大いなるものは、和らぎであり、尊敬であり、清潔であり、静寂であった。茶会を幾度持とうと、同じ茶会は二度とは持てない。茶会は亭主一人で建立できるものではなく、客人の一人一人の心映えもまた、茶会を建立させる大きな要素であった。同じ顔ぶれであっても、それは一生に一度限りの茶会なのである。つまり「一期一会」なのであった。  (下・p238)

 ストーリーの構成は一気に最後まで読ませ、読者を惹きつけるものだと思う。一つの歴史フィクションとして見事にまとめ上げられている。

 最後に気づいたことに触れておきたい。冒頭に掲げた村井康彦著『利休とその一族』は評論書であり、史実・資料に論考を加えたものである。本文に、天正17年正月、大徳寺内の聚光院に利休が永代供養米の寄進を申し出た時の文書(寄進状)についての記述がある。利休は生前にこの聚光院に墓石を用意した。その永代供養米の寄進である。その書面には、宗易の父母の法名、宗林童子、宗幻童子の法名が記され、「利休宗易 逆修」「宗恩 逆修」の二行が記されていて、末尾に「但、墓に石灯籠在之、利休・宗恩、右燈籠ニシュ(朱)名在之」の一行が記されている。(p83)
 逆修という形で禅宗大徳寺に生前に墓石を設けた宗易は後妻の宗恩の名を連ねていることになる。
 この寄進状の文面に言及した『利休とその一族』の最初の出版が1987(昭和62)年だという。
 また、桑田忠親著『新版千利休』(角川文庫、1969/昭和44年)、『定本千利休-その栄光と挫折-』(角川文庫、1985/昭和60年)が手許にある。1955(昭和30)年に初版が出た以降の後継本である。新版・定本ともに、末尾の「利休年譜」が付され、「天正17年(1589) 正月 (68)大徳寺塔頭聚光院内の祖先の墓碑に供養し、米七石を寄進した」(定本)という記述がある。しかし、本文ではこの供養と寄進のことは考察されていないし、寄進状の内容にも言及はない。
 2009(平成21)年8月に出版された川口素生著『千利休101の謎』(PHP文庫)には、「Q12 利休が大徳寺で一族の追善を依頼した意図は?」という項を掲げ、寄進状の文面に言及している。

 本書の著者がこの小説を発表した時点では、この文書(寄進状)の存在が未公表あるいは未発見だったのかもしれない。つまり、具体的な情報はなかった。
 この寄進状を素直に読めば、宗恩は宗易とともに、逆修という形で供養を受けた、つまり仏教徒の一員となる。
 歴史小説のフィクションにおいて、おりきを最後までキリシタン信仰者と設定しているストーリーの構想という点から言えば、史実としての具体的情報が執筆時点ではなかったということだろう。
 そうでなければ、史料として残るこの寄進状の存在、その内容をどう解釈すればよいのか、フィクションといえどもその史実をどのようにストーリー内で整合させるかが論点になりうる。あるいは、歴史小説におけるフィクションはどこまでその構想に自由度があるのかという論点にもつながっていく。私にはそんな気がする。

 脇道に逸れた。小説ではあるが、茶聖千利休という人物の実像を追求する上で、興味深い小説と思う。ここに描き出されたおりきのような女性がいれば・・・・すばらしいことだろう。

 ご一読ありがとうございます。

本書を読み、関心事項をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。
千利休 堺市史第七巻
利休木像 :「茶の湯覚書歳時記」
南宗寺 :「堺観光ガイド 堺観光コンベンション協会公式サイト」
妙喜庵 ホームページ 
妙喜庵 :ウィキペディア 
第1回 妙喜庵待庵  :「窓研究所」
龍寶山大徳寺  :「臨黄ネット 臨済禅 黄檗禅 公式サイト」
大徳寺聚光院 特別拝観とお茶会  :「京都春秋 ことなり塾」
古渓宗陳  :「コトバンク」
見ないと損!京都・大徳寺の特別公開は驚きと感動の連続です 2018年:「家庭画報.com」
千紹安 ⇒ 千 道安 :ウィキペディア
千家二代 千少庵(宗淳) :「茶道本舗和伝.com」
大林宗套  :「コトバンク」
日比屋了珪  :「コトバンク」
こんてむつすむん地  :「コトバンク」
こんてむつすむん地  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)