長尾景虎の戯言

読んだり聞いたりして面白かった物語やお噺等についてや感じたこと等を、その折々の気分で口調を変えて語っています。

宮部みゆき著【ぼんくら】

2010-10-12 13:52:40 | 本と雑誌

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井筒平四郎は四十路半ばの南町奉行所同心で、役目は臨時廻りである。
臨時廻りとは、江戸の人口が増え、定町廻り同心の人数だけで手が回り切らなくなったので、それを補うために作られた役職である。
ということで、本所深川方の役目を助(す)けている。
平四郎は生来の怠け者で面倒なことは大嫌い、何かにつけて楽なほうに流れる男。
信心なんぞ面倒だからしない、だから迷信深くもない。
深く何かをするなぞ、元来この男の性分に合わないのだ。
御番所中間の小平次を随え、日々ぶらぶらと本所深川一帯を歩き回りながら、さほど忙しくもなく、他の仕事に心をわずらわされることもなく、こんな昼行灯の平四郎でも役目は務まっている。
ところが・・・。
深川北町にある通称鉄瓶長屋で、人殺しがあった。
殺されたのは表通りの三軒長屋北端で、八百屋を営んでいる富平の長男太助だった。
一年ほど前に富平が卒中で倒れ寝たきりになってしまってから、店は太助とお露の兄妹で切り回していた。
明け七ツ、お露が長屋差配人の久兵衛の家に駆け込んだ。
三軒長屋の真ん中で煮売屋を商うお徳が、お露の足音に目覚めそこに駆けつけた。
寝たきりの富平のほうが、とうとういけなくなったと気遣ったのだ。
お徳は長屋の古株で、束ね役でもある。
お露は太助が殺し屋に殺されたという・・。
自身番に出動する平四郎。
一昨年この鉄瓶長屋では、久兵衛の告げ口で店を首になったことを逆恨みした正次郎が、久兵衛の居所を探し当てて、出刃包丁を持って襲いかかる事件があった。
鉄瓶長屋の地主湊屋総右衛門は、俵物を扱う問屋の湊屋だけでなく、勝元という料亭も営んでいた。
久兵衛は勝元の番頭だった。そして正次郎は勝元の板場で働いていたのであった。
お露のいう殺し屋とは、その正次郎のことらしい。
一昨年のとき、真っ先に駆けつけて正次郎を叩き伏せたのが太助だった。
だがお露の話はあまりに不自然だ。それに、お露の袖には返り血らしきものがついていた。
ところが久兵衛が出奔してしまう。
自分がいればまた正次郎が襲いに来るので、長屋の皆に迷惑がかかる。
そんな意味の書き置きを残し、わずかな手回り品だけ持って夜逃げした。
誰も久兵衛の言葉を信じてはいない、太助を殺したのはお露だと薄々感づいている。
だが仲のよい兄妹、その妹が兄を殺すには、久兵衛が己の暮らしを抛ってでも守ろうとする、それなりの事情があったということになる。
久兵衛の後釜の差配として鉄瓶長屋に来たのは、まだ二十七歳の若造の佐吉だった。
おまけに烏の官九郎まで連れて来た鉄瓶長屋の地主湊屋総右衛門の遠縁にあたり、元は植木職人だったようだ。
差配人とは世間知のある老人の仕事であるが、前の差配人久兵衛が姿を消した事情が事情なので、なり手がなく口説いて承知させたとのこと。
そんな訳で名主たちは認めていたが、当然他の差配人たちや鉄瓶長屋の誰もが、佐吉を差配人としては認めなかった。
お徳なぞ毛嫌いするほどであった。
しかし、佐吉は差配人としての貫禄こそないが、人当たりがよく、頭もよく、生真面目な働き者だった。
一所懸命長屋差配の務めに励み、次第に長屋の住人とも馴染んでいった。
平四郎も佐吉を気に入っていた。
だが佐吉の働きぶりとは反対に、鉄瓶長屋は櫛の歯が欠けるように、次から次へと店子が家移りして出ていく。
入って来たのはといえば、長助というぼんやりした八つの子供と、女郎あがりのおくめという三十路女だけだ。
長助は牛込の長屋で母親のおこうと暮していたが、おこうが病で死に、やがて長助も高熱で頭をやられた。
身よりのない長助は長屋差配人の卯兵衛に引き取られていたが、ふらふらと鉄瓶長屋にひとりでやって来てしまった。
実は長助の父親の善冶郎が、鉄瓶長屋で別の所帯を持っていたのだ。
佐吉は長助を引き取ることにし、気まずくなった善冶郎は長屋を出ていってしまった。
おくめのほうは幸兵衛長屋に住んでいて、差配の幸兵衛と訳ありだったが、家移りしなければならない事情ができて越して来た。
佐吉の奮闘を尻目に、妙な信心騒動やなんやかやと櫛の歯が欠けるように人が減っていく鉄瓶長屋に、平四郎は妙に据わりの悪いものを感じる。
佐吉は湊屋に利用され、本人が知らぬうちに、何か良からぬ企みに加担させられているのではないか?
平四郎は幼馴染で隠密廻りをしている辻井英之介に、相談し調べてもらうことにした。
平四郎は英之介のことを「黒豆」と呼んでいた。
黒豆の調べによると、湊屋の身代は総右衛門が一代で築きあげている。
総右衛門の前身や生まれ育ちには、知られていない部分が多い。
総右衛門の姪にあたる、葵のひとり息子が佐吉であった。
二十年ほど前、葵は佐吉が五歳か六歳のころ、息子の手を引き湊屋に逃げ込んで来たらしい。
ちょうど湊屋が立派な俵物問屋として、築地に今の店を張ったばかりのころである。
しかしその四年後、葵は佐吉を残し突然姿を消す。
総右衛門の女房おふじとの、軋轢があったようである。
佐吉は湊屋出入りの植木屋へ奉公に出された。
店子をしくじっては落ち込む佐吉を見ていて、平四郎には湊屋総右衛門が、鉄瓶長屋の住人を皆追い出そうとしているように思えてならない。
それも表向きそうとは判らないように、店子自らの事情で家移りしていくように仕向けているようなのだ。
穿ちすぎと一笑に付するには、あまりに不可解極まりない。
そう考えたほうが、どうも平仄が合うような気がしてならないのだ。
しかし湊屋は大店である、鉄瓶長屋の店子を立ち退かす気であれば、それ相応の金を包み、移り先の世話もしてやることなぞ造作もないことだろう。
姑息な手段を弄する必要はないはずなのだが・・・。
そんな平四郎の前に、仁平という岡引が現れる。
仁平は陰険な男で、どうやら湊屋総右衛門に遺恨があり、何とか小伝馬町の牢屋敷に閉じ込めたいようだ。
平四郎は怠惰な男で、海千山千の岡引とは面倒で付き合わないことにしている。
人畜無害の中間の小平次でさえ面倒に思う平四郎は、岡引を手下(てか)として使うことはしない。
仁平には取り合わなかったが、後日深川の岡引の大親分茂七に、仁平と総右衛門の因縁について聞きにいった。
茂七は箱根に湯治に出て留守だったが、茂七の一の手下政五郎が応対してくれた。
そして政五郎に代わって、額が異様に広いので「おでこ」と呼ばれている、三太郎という十二ぐらいの男の子が話してくれた。
広い額は伊達ではない、おでこは人間記憶装置だった。
総右衛門が総一郎と名乗って、茶と紙を扱う「萬屋」に奉公していたころ、その同じお店の生え抜き手代として仁平がいた。
ふたりとも頭が切れ商い上手だったが、総一郎には皆からの人気があった。
陰険で弱いもの虐めをする仁平には人望がなく、お店の嫌われ者で、総一郎を中心とする奉公人たちによって、店を追われる格好となった。
仁平を陥れた者たちは、後にことごとく仁平によって滅ぼされ、総右衛門だけが残っていた。
平四郎は仁平の執念深さに呆れる。
ところで平四郎には美形の妻がいるのだが、子はいない。
同心とは世襲制度ではないが、慣習として父子代々継がれていく。
井筒家にも跡取りが望まれるので、養子を取る必要があった。
細君の次姉が藍玉問屋の河合屋に嫁いでいて、五人の子がいる。
五番目の子である弓之助という十二の男の子を、養子にしたいと細君は望んでいる。
そんなことで、勢い弓之助は井筒家に出入りするようになった。
弓之助は人形のようなきれいな顔立ちで、何でも計る癖がある。
頭の回転もよく、平四郎よりよほど立派な字を書く。
平四郎は見回りに、弓之助を連れ歩くようになった。
さて色んなことが判ってくるうちに、平四郎はこの男には珍しく怒りを覚える。
怠惰で物事を深く追求することをしない平四郎だが、今度ばかりは様子が違った。
鉄瓶長屋を櫛の歯が欠けるようにがらんどうにしていき、いったい湊屋総右衛門は何を企んでいるのか?
佐吉は母親の葵が、湊屋の手代と駆け落ちしたと、いい含められていた。
律儀に働く佐吉、それに鉄瓶長屋の心であるお徳も、総右衛門にいいように利用されているのではないか。
それは人の真心を手玉にし弄ぶに等しく、総右衛門が大店の主を笠に着た、平四郎にとっては胸くそ悪い話なのだ。
こうなると太助殺しも、元差配久兵衛の美談と、額面通りに信じる訳にはいかなくなってくる。
久兵衛は総右衛門の傀儡と見てよい。
平四郎は黒豆に加え、手下がいないぶん政五郎にも探索を頼む。
弓之助もいつの間にか、おでこと仲良くなった。
鉄瓶長屋が建つ以前には、同じ場所に大きな提灯屋があったのだが、急に傾いて家も店も手放した。
その提灯屋の主人は、実は湊屋総右衛門の女房おふじの従兄である。
鉄瓶長屋に絡む一連のことどもは、何やらその提灯屋と繋がりがあるようなのだ。
そんな中、簀巻きにされた正次郎の土左衛門が揚がる。
やがて平四郎は、奇妙な真相と向き合うことになる・・・。
名ストーリーテイラーが紡ぐ時代劇ミステリー、【日暮らし】へと続く。
いつも飄々としている平四郎をはじめ、登場人物の層が厚く、そのキャラは実に面白い。


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