鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

スマートウイルス

2021-08-21 21:42:38 | 災害
先日見ていたワイドショーで、ある女性医師が「今度のウイルスは頭がいいんですよ」と苦笑いしつつ言っていたが、この武漢ウイルスは確かにスマート(お利巧)だ。

次々に変異株が現れて、ウイルス対策に注力している各国の治療機関を、あざ笑うかのように、新しく変異をして行くではないか、まるで忍者のように。

毎年恒例のインフルエンザウイルスにも変異株があって、A香港型とかソ連型とかが生まれているが、インフルエンザの変異株は変異したと言ってもずーっとこの数種類の変異に固定されており、今年の流行はA香港型だ、それともソ連型だとかが発症とともに分かり、それへのワクチンをすぐに手当すればよい。

ところが新型コロナウイルスは、一年半ほどの間にアルファからデルタまで4種類、今話題になっているペルーでの変異株ラムダ株まで入れると何と5種類もの変異株が出現している。

こんなことは自然発生したウイルス界の常識では有り得ないことではないのか?

それに現在3200万人という世界最大の感染者を出しているアメリカで変異株が起きていないことも不可解だ。当然出現していておかしくない。ことアメリカに関してはこのウイルスのスマート(お利巧)さが全く無いのだ。これもあり得ないことだろう。

そうなると考えられるのは、アメリカではすでにアメリカ型の変異株が出現しているのにそれを報道管制しているのか、それとも変異株が起きないようにする何か特別な手段を持ち合わせているのか、のどちらかだろう。

自由な報道や表現を表看板にしているアメリカだが、やはり「不都合な真実」では隠しておきたいのだろうか。(※今に始まったことではないが。)

それとも変異株が起きないように、何か特殊な治療法があるのだろうか。

どちらも有り得ると思うのだが、私をしてこんな猜疑の目を向けさせるのは、アメリカがまさに今度のウイルスの発現地である武漢の「武漢ウイルス研究所」とタッグを組んで研究を重ねていたと知ったからである。

アメリカが中国の武漢ウイルス研究所に資金を提供して委託研究させた理由は、以前にアメリカの同じような研究所がセイフティーレベル4の極悪ウイルスや細菌を研究をしていて「炭疽菌」という最恐の細菌が関係者に持ち出されてばらまかれたことがあったからだという。危険極まりないウイルスや細菌はもうアメリカでは研究しないので――というのが表向きの説明だ。

しかしそのアメリカの研究所は今でも米陸軍の管轄下で存在しているそうだ。しかも純粋に科学的に疫病を研究をする所ではないようなのだ。つまり、俗に言う「生物兵器」を研究する機関でもあるらしい。

アメリカが仮想敵国であるはずの中国とタッグを組んだのは、2000年に中国南部で流行したSARS(コウモリから人へ感染したコロナウイルス性肺炎)を克服し、その発症と治癒に至る経過を中国が研究し、知り尽くしていたからに違いない。これにより新たなコロナウイルス感染が発生しても感染を抑え、感染者への治療も可能になる。

その上、ワクチンもSARSの遺伝的情報を掴んでいれば迅速に開発できる。このような一連の研究が武漢ウイルス研究所で行われていたようだ。そしてウイルスのスマート(お利巧)化も・・・。

アメリカでわずか一年半で一般的には10年は要するというワクチンが製造できたのも、その研究に基づきひそかにワクチン開発に着手していた成果だったのだろう。同じように中国でも、シノバックという製薬会社があっという間にワクチンを開発したのも同じ研究によるのではないだろうか。

世界最高レベルの危険なウイルスや細菌の研究において、アメリカと中国は「呉越同舟」の関係にあったと言っていいのかもしれない。(もしかしたらロシアもイギリスもそれらの情報を得ていて、スプートニクやアストラゼネカというワクチンを早々と製造できた・・・?)

ただ、武漢ウイルス研究所から新型コロナウイルスが漏洩したのは「事故」なのか「故意」なのかをめぐって、当のアメリカと中国の間で激しい論争が繰り広げられている。

この新型コロナウイルスの感染流行の勃発について、お互いに罪をなすりつけ合っているが、もし以上の私の解釈が正しいとすれば、まさに「茶番」であり、「どっちもどっち」としか言いようがない。

迷惑を蒙っているのは全世界の善良な市民である。当のアメリカでさえ、一般市民は「知らぬが仏」なのだろう(もちろん中国でも)。

ロックダウンへの法整備

2021-08-20 15:36:11 | 日本の時事風景
昨日までの3日間、鹿児島では200名を超える感染者数が記録された。

これはある程度予想がついていた。鹿児島から東京など大都市圏に行っていた大学生や専門学校生などが夏休みで帰って来たのと、旧盆の帰省客(多くは家族連れ)の入り込みが先週一杯続いたことによるものだ。

さらに追い打ちをかけたのが、デルタ株の蔓延だろう。従来株よりも感染力が強く、これまでだったらうつらない(うつさない)レベルの「三密」でも簡単に感染してしまうというから厄介だ。

全国では昨日、感染者数が2万5000人を超えた。ほぼイギリスレベルになっている。

イギリスではすでに18歳以上のワクチン接種率が80パーセント近くになっており、そのためにジョンソン首相が1か月前に「制限解除」を打ち出して、各種スポーツ大会やイベントも三密になるのを防がなくてもよいようになったにもかかわらず、感染者数も死亡者数も頭打ちになって来ている。

このまま行くと日本の感染者数はイギリスのそれを追い抜くだろう。

全国知事会などでは盛んに感染抑制のための提言をしているが、政府は結局のところ「ワクチン頼み」をオウム返しするしかないでいる。

また「ロックダウンへの法整備を」という提言もちらほら聞こえるが、政府は常にスルーしている。

民主主義の国だから、これについては民意を勘案する機関である国会で決めなければならないことは重々承知しているが、政令で可能な「緊急事態宣言」のオウム返し(ワンパターン)だけの政策では、もう誰も聞く耳を持たなくなっているのではないか。

せめて東京だけでもロックダウンに近い「外出禁止令」を出すべきではないだろうか。

東京都がやるのが最も良いが、政府機関が多数あるのでそうは言ってられない。だが、思い切った人流抑制策を採らなければ、デルタ株による感染増加には歯止めがかからない。一番良いのは「東京一極集中の解体」なのだが、これこそ時間のかかる大政策であるから、今はもう間に合う術はない。

今後もウイズコロナの時代は続くはずで、ロックダウン的な手法が必要になる可能性は高い。

衆院議員選挙と自民党総裁選が控えている状況では、ロックダウンへの法整備を審議する時間的余裕も、心理的余裕もなかろうが、今度の総選挙ではそのような訴えを公約にする人物へ投票するのも一理あろう。

自民党が「ロックダウン法案」に消極的なのは、あのNHKの「ぼーっと生きてんじゃねえよ!」のチコちゃん流に答えれば次のようになろうか。

チコちゃん「ねえ、ねえ、岡村。自民党がロックダウンに消極的なのはどうしてかな?」

岡村「さあ、・・・どうしてかなあ」

チコちゃん「ボーッと生きてんじゃねえよー!!!」

チコちゃん「それはー、アメリカがやらないからー」

(評価)五歳の子でも危機管理(外交でも災害でも)の時、日本が忖度する(顔色をうかがう)のはいつもアメリカだということを知っているんだ。偉いね―。

縄文時代早期文化の崩壊と拡散

2021-08-19 22:58:33 | 古日向の謎
8月11日のブログ「土器の発明は南九州)」の最後の方で述べたように、南九州(古日向)が発祥の縄文早期(11000年前~7500年前)の平底・筒型の「貝殻文土器」と「壺型土器」は、残念ながら薩摩半島沖の「鬼界カルデラ」の大噴火(約7500年前)によってほぼ壊滅した。

その後植生が再生されて人が住めるようになってから、新たな縄文文化が開始された。それは縄文前期だが、その初期を飾る土器が「轟式土器」で、少し遅れて「曽畑式土器」が認められている。

どちらも熊本県宇土市の貝塚から発掘されているという共通点があるのだが、轟式土器の方には貝殻文様が刻まれており、こちらは古日向の縄文早期の「貝殻文土器」の後継と言えるのかもしれない。この土器は古日向ではかなり普遍的に発掘されているので、担い手は7500年前の鬼界カルデラ噴火を生き延びた人たちの子孫だった可能性が高い。

その一方で曽畑式土器の方は、宇土市の曽畑貝塚で見つかった以外の出土例は少なく、局所的な土器に過ぎなかった。

ところが1960年、宮崎市の生目古墳群に近い「跡江貝塚」から大量の曽畑式土器が発見され、曽畑式土器への注目が集まった。この視線は思いがけない所からも注がれることになった。

そこは南米のエクアドルである。エクアドルを考古学的に研究していた米国人エバンス博士が、エクアドルのバルディビアといういう遺跡を調査していて、大量に見つかっていた土器片について、「それまでのエクアドル式土器類とは全く違う完成された土器群だ」と認識し、どのような経緯で比較したのか不明だが、とにかく曽畑貝塚出土の曽畑式土器の文様にそっくりなことに気付いたのであった。

1965年には夫妻で曽畑貝塚にまで足を運び、九州島からエクアドルに曽畑式土器が運ばれた可能性を確信している。

南米と南九州では太平洋を挟んで6000キロも離れており、まして間にあるのは広漠とした海である。

そんなにも広い大海原を7000年近く前に手漕ぎの船で渡れるものかどうか科学的な検証を得ているわけではないが、かつて沖縄海洋博が開かれた時(昭和50年=1975年)にミクロネシアのサタワル島から手漕ぎのカヌー〈チュチュメニ号〉で3000キロをやって来た現地民がいたから、全く不可能というわけではない。

航海民(海人=うみんちゅ)と言われる人たちは、陸上で暮らす人間には想像もつかない遠方にまで交易のために行くことがあるので、一概に否定すべきものではないだろう。

九州の西海岸にある曽畑貝塚の曽畑式土器が、今度は九州の東海岸に近い跡江貝塚で多量に発見されたのだから、その可能性に一石を投じることになったのである。もっとも、ここの曽畑式土器の土器片とエクアドルのバルディビア遺跡の土器片とに共通の文様があることに気付いたのは地元の考古マニアの日高という人で、年代は大分後になる。

その人の発信がエバンス博士の後継者という日本人女性に繋がり、彼女が来日して調べたところ、3~40パーセントの割合で似通っていたそうである。

土器自体が6000キロもの旅をするわけがないから、人が持って行ったのである。

曽畑式土器は朝鮮半島や沖縄でも出土しており、九州では今や特に熊本、長崎では普遍的にみられるのだが、宮崎の跡江貝塚で大量に見つかったことによって、鹿児島を含め九州全域に拡散した土器と言ってよい。

この拡散の中心をなしたのは、おそらく鬼界カルデラ大噴火を生き延びた南九州人ではないかと思う。

南九州は縄文時代中期になると鬼界カルデラよりはるかに小さいが、池田湖カルデラの噴出があり、霧島(高千穂)の噴火、開聞岳の噴火、山川湾カルデラ噴出、成川マールの爆発・・・と弥生時代に入るまで暇の無い火山活動に見舞われており、被害、避難、拡散が繰り返されて来た。

南九州の縄文人はそんな中を果敢に生きて来たが、陸上よりも海域を好んで乗り出したのも、飽くなき生存への意欲の表れと言える。

中で不思議なのが、南米の原住民に高い頻度で見られる「成人T細胞白血病」である。この白血病はHTVL-1ウイルスに感染して発症するのだが、母子感染が主な感染経路であるという。その感染率が南米と並んで高いのが九州南部、西部、それと沖縄なのだという。

太平洋を挟んで遠く離れていながらこの特殊なウイルスのキャリア率が他に比べて異常に高いという共通の傾向を示す原因は、やはり人の移動があったということだろう。

HTVL-1ウイルスの彼我の共有がいつからのことなのか、特定は難しいが、エクアドルにまで拡散したと思われる7500年前の鬼界カルデラの大噴火の時でなければ、池田湖カルデラの噴出した4500年前かもしれない。

いずれにしても、南九州において繰り返される大規模な火山災害は人々の最も忌み嫌うものだが、それを逃げおおせた人々がいて果敢にも海を渡り、太平洋の向こうに到達して居着いた過去があったと想像すると、まさに歴史はロマンでもある。

平成5(1993)年と今年

2021-08-17 22:19:19 | おおすみの風景
平成5年と言えば、我が家が大隅半島南部の内陸の町「田代町」(現在は大根占町と合併して錦江町田代)に移住して来た年だ。

その年が明けて大隅半島のこの町に移住しようと決め、3月には田代町役場を訪ねて、移住後の借家などを紹介してもらった。

そして7月になり、上の子どもが夏休みに入るのを待って、当時住んでいた広島市安佐北区三入というところから、4トントラックをレンタルして自分が荷物を、家内たちは自家用車で約600キロほどを、10時間以上かけてやって来たのであった。

この平成5(1993)年という年は天候不順で、南九州では4月頃も気温が上がらず、6月に入った梅雨がなかなか明けずに長引いていた。

この梅雨の長さは今年と似ている。今年の南九州の梅雨入りは例年より3週間も早い5月11日で、梅雨明け宣言が出されたのが7月11日であった。ところが同じ頃に鹿児島の北部では大雨が降っており、梅雨明けどころではなかったのである。(※だから、鹿児島地方気象台は7月11日に「鹿児島県では南部だけが梅雨明けした」と言うべきだった。)

梅雨明け後もどんよりした曇り空の日が多く、真夏の「青天」がほとんどなかったに等しかった。今は暦の上では立秋を過ぎているので「眩しい夏空」とは言えないが、とにかく青空の少ない夏となっている。

東京オリンピックはどうにか無事に終わったが、運が良かったというべきか、7月23から8月8日までの会期中に南海上に見えていた2つの台風は上陸することなく、オリンピック競技には影響を与えなかった。

しかし、オリンピックが終了した2日後から行われている高校野球夏の甲子園大会は、開始の8月10日こそ天気に恵まれたが、翌日からは雨のため順延を重ねて4日遅れとなった。(※再開後の今日も雨のために1試合が途中コールドゲームになっている。)

オリンピックと入れ替わるように日本列島にかかり始めた停滞前線(秋雨前線)は抜ける気配のないまま、今日でもうまるまる1週間、各地に雨を降らせている。特に九州北部には東シナ海からの湿った空気が次々に流れ込み、地形によっては「線状降水帯」の発生を見てとんでもない降水量を記録している。

平成5(1993)年の夏は、これと同じ状態が南九州でも鹿児島に襲い掛かり、当時、時間雨量が初めて100ミリを超えた日もあった。8月1日には姶良地方(現在の姶良市)を襲い(8.1豪雨)、それから5日後には鹿児島市を襲った(8.6水害)。この時にシラス台地ではがけ崩れが頻発し、とくに記憶に残っているのが鹿児島本線の竜ヶ水駅だ。

線路を埋め尽くした土石流のため列車が立ち往生し、傍らを走る国道3号線も不通となり、孤立した乗客乗員は自衛隊の艦船で国分方面に輸送されたのであった。幸い竜ヶ水駅での死者はいなかったが、その一方で、同じ土石流に巻き込まれた近くの三船病院では多数の死者が出ている。

「8.6水害」では鹿児島市内の惨状もひどかった。江戸時代末期に造られたいわゆる「五大石橋」の5つのうち4つまでが崩落したのである。この記念すべき石橋を復元しようという「守る会」と、撤去して新しい橋に造り変えようという当局の間で確執が長く続き、あたかも「烏の鳴かぬ日はあっても、石橋関連の話題の無かった日はない」というほどであった。(※結局、石橋は、無事だった「西田橋」とともにすべて撤去された。ただ西田橋だけは祇園ノ洲公園(石橋公園)に当時のまま移設復元された。)

「8.6水害」後もぐづついた天気は続き、早期米などは6分程度の出来に過ぎず、戦後最悪の不作となった。日本全国でも不作で、緊急に日本の米に近いカリフォルニア米が輸入される事態となった。(※この結果が今でも存在する「ミニマムアクセス」で、一定量のアメリカ米を輸入しなければならなくなったのである。)

さて、田代町に移住した夏は、まだその後にも2回ほど台風の接近で慌てなければならなかったのだが、最後の仕上げの極め付きが9月2日の「台風13号」の直撃だった。この台風は南シナ海から北上して薩摩半島の近くまでやって来た時の気圧が910ミリバール(現在はヘクトパスカル)で、そのままの勢力で山川町から頴娃町のあたりに上陸し、指宿を通過して鹿児島湾を渡り、大隅半島に再上陸したのであった。

旧田代町の庁舎の屋上に設置されていた風力計が70mを記録した後、風力を受ける部分が吹き飛んでしまった、と聞いているので、実際の風力は80mくらいはあったのではないか。多くの住宅の屋根の瓦が飛ばされ、瓦工場の在庫がすぐに切れ、その後も需要に製造が追いつかなかったため、年末になっても相当数の家々にはブルーシートが載せられたままだった。

当時住んでいた大原地区の少し山手から集落を見下ろすと、屋根に被せられた青いシートが木々の間に点在し、まるで難民キャンプのようだと思ったものである。

今年は台風がやや少ない気がするが、それでも12号が発生している。これの前の9号、10号はさしたる勢力を産まずに列島をかすめただけだが、油断は禁物だ。

それにしても今日は結構な雨が降る。これを書いている10時半から1時間の間、南から西にかけて窓や屋根を打つ雨の音の止むことがない。50ミリまではないが3~40ミリはあるだろう。時折り、雷の音も聞こえる。明日も荒れた天気になりそうだ。甲子園の高校野球が気になる。

渡海人の初出(記紀点描⑩)

2021-08-16 16:55:34 | 記紀点描
「記紀点描⑨」では、日本列島に渡来した最初期の人物として、任那からのソナカシチ(ツヌガアラシト)と新羅からのアメノヒボコを取り上げたが、それでは列島から渡海して行った最初期の人物は誰なのか、記紀から抽出してみたい。

列島から渡海した最初期の人物は、実は、神武紀に登場した神武天皇の兄二人なのであった。

古日向に「天孫降臨」したニニギノミコトの2世代後はウガヤフキアエズノミコトだが、ウガヤフキアエズには4人の皇子が生まれている。長男を五瀬(イツセ)命といい、次男を稲氷(イナヒ)命といい、三男を三毛入野(ミケイリヌ)命といい、最後に神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が生まれている。

最後の神武天皇を古事記では「ワカミケヌノミコト」としており、こちらの方が名称としては古いと思われる。

さてこの皇子たちの中で渡海して行ったのが、次男のイナヒと三男のミケイリヌである。

 【稲氷(イナヒ)命の渡海】

イナヒノミコトは、古事記では渡海の時期をまだ古日向に居た時のこととするが、書紀では東征の途中の熊野に来てからであった。

なぜ渡海したのか。

その理由は、古日向からはるばる熊野まで来た時に海が大荒れになった時、イナヒノミコトは「自分の母は海神であるのに、海に難渋させられる」と嘆き、剣を抜いて海中に入り、「鋤持神(サイモチノカミ)」となった、とある。

海中に入っただけで「渡海」とは言い難いと思われるが、『新撰姓氏録』の第五巻「右京皇別下」によると、このイナヒノミコトの後裔が「新良貴」(シラギ)だとあり、イナヒノミコトは新羅国王の祖であるとしている。

そんなバカなことがあるものかと一蹴されてしまいそうだが、実は、朝鮮の史書『三国史記』の中の「新羅本紀」には初代の赫居世王の時に倭人の「瓠公(ホゴン・ほこう)が重臣に就任したという記事があり、また第4代脱解(トケ・タケ)王は倭人そのものだという。

前者の瓠公の渡海の由来は皆目分からないが、後者の脱解については「倭国の東北千里にある多婆那国で生まれた」と記す。そうなると『新撰姓氏録』の「新良貴」姓の始祖イナヒノミコトこそがまさにこの第4代脱解に当たるのではないかと思われるのである。

では、脱解の出身地「多婆那(タバナ)国」とはどこであろうか。

解説書の多くは京都の「丹波国」ではないかとするが、私見では九州の「玉名」である。

丹波では倭国(の中心)を播磨国あたりに比定しなければならないが、整合性は無い。そもそもこの時代の倭国の中心は九州にあり、九州でも後のクマソ国とされる南九州は西海岸航路を通じて半島とは深いつながりがあった。

玉名は魏志倭人伝に記載の「烏奴国」であり、玉名市を河口とする菊池川の中流域に所在する5世紀の「江田船山古墳」の被葬者ムリテは、出土した鉄刀に刻まれた銀象嵌文字によると、「典曹人(文官)」だったことからも、当時、そこに、半島を経由した文物に明るい人物がいたことが知られる。
(※一般には5世紀の頃、大陸の文物は畿内王権を経由して九州に伝えられたとされるのだが、九州の豪族が直接半島を経由して大陸由来のものを導入していた可能性の方が高いと思う。須恵器なども半島から九州島に直接到来したはずである。)

なお、不思議というか面白いのが、脱解王が新羅第4代の王に就任して二年目に、あの初代赫居世王によって重臣に取り立てられた倭人の「瓠公(ホゴン)を、再び重臣として「大輔」に任命していることである。同じ九州島出身の倭人ということで寵遇したのだろうか。

 【三毛入野(ミケイリヌ)命の渡海】

ミケイリヌノミコトは、古事記では東征の前に「常世(とこよ)国に渡りましき」とあり、日本書紀では東征の途中の熊野で兄と同じく海に入ったと書かれている。その行き先は「常世」であった。

「常世」については垂仁記・垂仁紀ともに、三宅連(みやけのむらじ)の祖先であるタジマモリを常世国に派遣して「トキジクノカグノコノミ」を採って来させた—―という共通の記事がある。

この常世国のある場所について、古事記には記載がないが、書紀の方には、

 〈遠く絶域に往き、万里の浪を踏みて、遥かに弱水(ジャクスイ=よわのみず)を渡る。この常世国はすなわち神仙の秘区にして、俗の至る所にあらず。往来する間に、自ずから十年を経たり。あに、独り峻爛(シュンラン)を凌ぎて、また本土に向はむことを期せめや。〉

と記述があるように、往来に10年もかかるような絶遠の地であり、行くのは良いが二度と帰って来られないような荒波の向こうであることが分かる。

往来の可否は別にして、三男のミケイリヌも次男と同様、海に入ったことに変わりはなく、どちらも列島を離れて海外に行ってしまったということである。

この記事にある「弱水」であるが、『延喜式』第8巻「神祇八 祝詞」の中に、「東文忌部献横刀時呪」(やまとのふみのいみきべのたちをたてまつるときのじゅ)というのに出て来るのだ。

これは帰化人である東文忌部が天皇を寿ぐために刀を献上する際の祝詞(シュクシ=のりと)であるが、その中の一節に、「呪して曰く、東は扶桑(日本列島)に至り、西は虞淵(西アジア)に至り、南は炎光(東南アジア)に至り、北は弱水に至る。千城百国、精治万歳、万歳万歳!」とあるが、「北は弱水に至る」がそれである。

天皇の統治領域を最大限に表したまさに「祝詞(シュクシ)」なのだが、はるか北の果てという時の固有名詞として登場するのが「弱水」である。

弱水は実は魏書東夷伝の「夫余伝」にも登場している。東夷にある「夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓、倭人」の7か国のうち、最も北にあるのが夫余で、当時の戸数は八万を数え、今日の南満州に当たる国である。その一節は、

 〈夫余は長城の北、玄菟を去ること千里、南は高句麗と接し、東は挹婁と接し、西は鮮卑と接す。北に弱水あり。〉

秦の始皇帝がより堅固にしたという「万里の長城」の北側(満州)にあり、そこは玄菟郡(漢代の前108年に置かれた直轄地で遼東にあった)からは千里(徒歩であれば10日の行程)あり、南は高句麗と、東は沿海州の挹婁と、西は騎馬民の鮮卑(今の内蒙古)に接している。その北には弱水がある。

ここに出ている弱水はおそらく黒竜江(アムール川)に違いない。満州一の大河である。

夫余伝のこの弱水と、上の祝詞に出て来た弱水とは一致しているのではないか。アムール川なら北の極限として他の東西南の極限と同列に並べることが出来よう。

しかし書紀の説話の「タジマモリを常世に行かせ、そこからトキジクノカグノコノミという柑橘類の一種を採って来る」というのは不可能だろう。なぜなら、そんな北方で柑橘類の類が実ることはあり得ないからである。

そうなるとタジマモリが出かけたという常世国は、書紀の記事にあるように「神仙の秘区」であるとした方がよい。

しかし現実に、三宅連という豪族の祖先であるタジマモリはたとえ「神仙の秘区」であるにしても、海外のどこかへ行ってきて戻って来た。これは事実だろうと思われる。

そこがミケイリヌノミコトの渡ったという「常世国」と同じなのかどうかは定かではないが、神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の時代の2世紀代に、九州島の航海系の海人が半島を往来していたことは「魏志韓伝」の記述からも間違いのないことである。

(※タジマモリの先祖は新羅からの最初期の渡来人「アメノヒボコ」であった。そのアメノヒボコを招来した(船に乗せて来た)のは九州島の航海系倭人であったことを見逃してはならない。)

 【追記】

以上の論考は、記紀に描かれ、人物名が特定された個人の中で、最初期に海を渡った人は誰だったのか――というものであり、特定の人物でなく「倭人」という一般名称なら、そのような倭人は相当古くから渡海していた。

中国の史書『論衡(ロンコウ)』の中の「第八 儒僧編」には、〈周の時、天下泰平にして、越裳(エッショウ=越地方に住む非漢族)は白雉を献じ、倭人は暢艸を貢ず。〉とあり、また、「第五十八 恢国編」には、〈成王の時、越常(=越裳)、雉を献じ、倭人、暢を貢ず。〉と見えている。

後者に登場する「成王」は周王朝の二代目で、紀元前1000年から1050年頃に王位にあったことが分かっているから、倭人の誰かは勿論、その倭人が日本列島のどこから大陸に渡ったのかの特定はできないのだが、とにかく、倭人が紀元前1000年という古い時代に大陸に渡っていたのは事実である。

その経路はおそらく朝鮮半島経由であっただろう。半島西部に沿う「沿岸航法」によれば確実に到達できるからである。