鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

全国戦没者追悼式2021

2021-08-15 14:47:55 | 日本の時事風景
今年も終戦の日がやって来た。

東京の武道館で開催された「全国戦没者追悼式」は、コロナ禍の中、いつもの30分の1くらいの参列者200名余りをを数えるだけであった。

今年初めて、戦没者の配偶者(妻)が出席しなかったという。参加の予定だったのが、各県で参加自体を取りやめるのが多かったので、勢いそうなったのだろうか。

仮に参加できたとして、終戦時に25歳だった若妻でも、今はもう101歳であるから、たとえ元気であっても、感染爆発の東京には出たくなかったのかもしれない。

テレビ画面でも十分に追悼はできる。私の身内に直接の「戦没者」はいないが、毎年この日はテレビで追悼式を見ながら黙祷をしている。

追悼の「お言葉」を述べられるマスク姿の天皇陛下。雅子皇后さまもマスクを着用。去年もそうだった光景である。参列者も全員がマスクを着けていた。

8月15日は「終戦の日」である。決して「敗戦の日」ではない。

日本が米英仏蘭と戦った太平洋戦争は本来「大東亜戦争」というべきで、大東亜(アジア)に植民地を持つこれらの国々との戦いは、アジア解放の戦いでもあったことをゆめゆめ忘れてはなるまい。

その多くはアジアに最も少ない植民地(フィリピン)しか持たないアメリカとの戦いになったが、主として英米仏蘭の「人種差別的な植民地主義」への挑戦だった。アメリカ一国が日本の主たる敵になったのは、英仏蘭がヨーロッパでヒットラーのドイツと戦っていたからである。

アメリカは最終的にはヨーロッパ戦線にも出兵したが、大きな痛手は蒙らず、その分、対日戦線に注力できたのだ。その結果日本は敗れたが、アジアの多くの国で植民地からの解放の動きに火が点き、独立を果たし、直接かかわりを持たなかったアフリカ諸国でさえも独立の機運が高まり、1961年は「アフリカの(独立の)年」と呼ばれることになったほどだ。

戦後の連合軍(その主力は米軍)の占領政策で、「マッカーサーの欽定憲法」の押しつけとともに、そのような観点からの大東亜戦争は顧みられなくなったが、史実は史実である。

特に1955年のインドネシアにおける「アジア・アフリカ(バンドン)会議」では、主唱者のスカルノ、エジプトのナセル、インドのネルー、中国(共産党政府)の周恩来など戦後のアジア独立の錚々たる指導者たちが、アジア解放に大きな貢献をした日本を招聘しようとしたのだが、当時すでに第一次日米安保(1952年~1960年)が結ばれていたため、アメリカに忖度した日本政府は、政府代表として首相が出席すべきところ、たかだか外務省の審議官クラスしか出席させなかった――という経緯がある。
(※アメリカへの忖度が外交音痴の戦後日本を生み出したが、これは最初期の象徴的な出来事である。)

日米安保が結ばれている限り、日本があの戦争で何を目的として戦ったかの史実は、このような「アメリカへの忖度政策」でうやむやにされて来たのである。あの戦争の真実を知るためには、また戦後の歴史の真相を深くとらえるには、「日米安保、もし、無かりせば」という視点が必要である。

その時、戦没者がたんに犠牲者ではなく、欧米植民帝国主義と戦って命を落とされた尊い犠牲であったことに、思い至るだろう。

そして戦没者の方でも、かくも世界が植民地主義、人種差別主義から解放されているその様子を目の当たりにしたら、「ああ、世界には平和が訪れている。人類はもう二度と戦争をしてはいけない」と改めて我々子孫のために思うことだろう。

「マッカーサー欽定憲法」の下でも構わないから、「終戦の日」に、日本は永世中立宣言を「発出」しよう。それが戦没者への誓いであるべきだ。

世界もそれを待っている。

新型コロナ感染者が2万人に!!

2021-08-14 21:33:12 | 日本の時事風景
昨日から、日本の新型コロナ感染者がついに2万人を超えた。

7月29日に「1万人を超えた」と驚きの発表があってから、わずか16日で2倍になった。これはもっと驚きだ。

今年の正月明けに全国で7500人というそれまでの最多感染者に、やや驚いたのだが、その後は徐々に増えてはいたが、落ち着いた増加であった。5月の連休もさほどの急激な増加はなく「想定内」の状況だった。

それが皮肉にもファイザー社のワクチンが浸透してくると、かえって気が緩んだのか、7月に入ってから感染者が増加の一途をたどり、専門家の間で「第5波に入った」という意見が出されるようになった。

その結果、菅政権は7月11日から首都圏等の都市部に対して緊急事態宣言の延長を決めたのだが、ワクチン接種がかなり進んでいるにもかかわらず、感染は一向に減らなかった。

この頃、菅首相は記者団の「もっと強力な規制ができないのか」という質問には決まって「欧米では何度もロックダウンをしたのに、感染が押さえられていない。わが国ではそのような規制はしない。ワクチン接種で何とか感染爆発は抑えられる」との一点張りであった。

しかし、もうそうは言っていられなくなった。東京ではインド由来のデルタ株の猛威で、先に触れた今年の正月明け時点での最多約2500名が、3,4日前からは5000名を超えるようになった。お盆の帰省と夏休みの移動がある限り、この増加状況は今後も続くに違いない。

それにしても1年半前に少しの感染者が報告されて、学校関係が春休みまで休校となり、卒業式も在校生の参列なし、親も一人だけの参加という異常事態となったのを思い出す。まるで腫物を触るように「部活の自粛」「過酸化水素水による徹底消毒」等が矢継ぎ早に日常生活に取り入れられた。

3月24日にはIOC声明で、東京オリンピックの一年延期が言われ、明けて4月7日には「緊急事態宣言」が「発出」された。その際に一部の国民の間に「自粛警察」なるものが現れ、話題をさらったが、今ではかえって懐かしい。

こういった国民の自粛への自発的取り組みのおかげで、先進諸国が一日に万の単位で感染者を増加している一方で、日本の感染増加は微々たるものであった。安倍前首相はこれを称して「日本型感染抑制モデル」と胸を張った。これも「アベノマスク」とともに、懐かしいくらいだ。

たしかに日本のそういった状況は、台湾や韓国の感染者の少なさとともに、世界の注目を浴びたのだが、6月19日にプロスポーツの観客を入れての興行にゴーサインを出し、県境をまたぐ移動も良しとしてから、次第に東京のみならず全国各地(特に沖縄)で小爆発的な増加に転じた。当鹿児島でも7月の初旬に、接待を伴う飲食店で大規模なクラスタ―が発生している。

さらに夏休みの旅行・レジャー・帰省を当て込んで「GO TO トラベル」「GO TO イート」を解禁したことで、感染増加は歯止めを失くしてしまった。

秋のシーズンはさほどの顕著な増加は見られなかったが、忘年会シーズンに入った12月になると「厚生省老健局の職員によるクラスタ―」が発生したりして、どんどん増えて行った。

年末年始が過ぎ、正月の7日の時点で、上に述べたように東京都で2500人弱、全国で7500人の大幅な増加となって現れた。

成人式は軒並み中止となり、卒業式も1年前と同じ寂しい式典となった。

そしてオリンピックが済んだ今日この頃、感染者数が2万人となり、これは一年前なら日本の10倍以上も感染者の多かったイギリスの現在値3万余の7割にも当たる。今月中にはイギリスと肩を並べるのではないかと危惧される事態だ。

イギリスは米国のファイザー社やモデルナ社のワクチンより効き目が劣ると言われながらも、自前のアストラゼネカ社のワクチンがあって、だんだん減少して行くだろうが、自前のワクチンを持たない他国頼みの日本は、「日本型感染抑制モデルだ」などと法螺まがいの雄叫びなど「発出」している暇に、ワクチン政策を確立しておかなければならなかったのだ。

ワクチンを早くに確立して、世界からやって来るオリンピアンに接種できるような体制が取れなかったのか、と残念である。遅れてもいいから自前のワクチンを完成すべきだろう。

冬季オリンピックでチャイナワクチンが使われ、「中国政府はオリンピアンに東京オリンピックよりも安心・安全を保障した」などと尊大に言われたくないではないか。


渡来人の初出(記紀点描⑨)

2021-08-13 10:29:35 | 記紀点描
【任那人・蘇那曷叱知(ソナカシチ)】

記紀のうち特に日本書紀には朝鮮半島や中国大陸からの渡来人が頻出するが、その中で最も早いのが書紀の崇神紀と垂仁紀に登場する「蘇那曷叱知(ソナカシチ・ソナカシッチ)で、この人は任那人であるという。崇神紀は次のように記す。

〈崇神紀65年秋7月、任那の国、蘇那曷叱知を遣わして朝貢せり。任那は筑紫国を去ること2000里余り、北の海を隔てて、鶏林(新羅国)の西南に在り。〉

崇神天皇はこの3年後に崩御しており、おそらく老齢で今はの際に近かった崇神天皇の見舞いの形で派遣された者だろう。任那は崇神天皇の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイソニヱ)」の「御間城(ミマキ)」の語源の地でもあるのだ。

この人物はまた、あとを継いだ11代垂仁天皇の代まで滞在しており、崇神天皇の崩御を見送り、さらに新天皇の垂仁の即位を見守ったことになる。中国王朝において、その皇帝の死と新皇帝の即位には周辺の諸王・諸族から「弔問」や「朝賀」の使者が送られたが、そのことを彷彿とさせる。

さてこのソナカシチが、朝賀の役を済ませて任那へ帰る時(垂仁天皇の2年)に、ちょっとした事件が起こる。それは任那の国王への土産として「赤絹100匹」(匹は2反であるから200反であり、相当な量である)を持たせたところ、道中で新羅人によって奪われた、というのである。そして、これがきっかけとなって任那と新羅との間に怨恨が生じたと書く。

その怨恨の結果が2世紀以上あとの6世紀(562年)の新羅による任那併呑であり、この「赤絹事件」は言わばその予言説話に当たる。

この記事の後に「一(ある)に曰く」ともう一つの「一(ある)に曰く」と前置きした説話があるので紹介しておく。どちらも長い説話なので、要点のみ略して記載する。

最初の「一に曰く」では、まずソナカシチの別名が記される。

別名①「意富加羅国の王子、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」及び別名②「于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)」が示されている。

つまり任那人ソナカシチは三つの名を持っているということである。「シチ(叱知)」は「ツヌガアラシト」の「シト」と「ウシキアリシチカンキ」の「シチ」と同義であり、魏志韓伝によれば「首長」の意味である。また「ウシキアリシチカンキ」の「カンキ(干岐
=旱岐とも書く)」は、やはり「首長」の新羅での用法である。

別名の①と②を比較すると結局最初の「ツヌガ」と「ウシキ」だけの違いとなる。私見では「ツヌガ」は「ツヌカ」で、「角鹿」すなわち福井県の敦賀」を想起する。また「ウシキ」は「ウシ=牛=大人」と捉え、「大人の港」の意味にとる。

「角鹿」は神功皇后が新羅征伐から凱旋したあと、武内宿祢が神功皇后の生んだ応神天皇(ホムタワケ)を連れて「気比大神(けひのおおかみ)」を参拝しに行った所であった。そこは半島南部との交流の地点でもあったから、半島南部のウシキ(大人の港)には角鹿(敦賀)からの倭人航海民がいたとしてもおかしくはない。

このウシキすなわち「大人の港」こそ、金海のことと推量する。金海の古い名は「金官伽耶」であり、魏志倭人伝に記された時点では「狗邪韓国」で、れっきとした倭国であった。任那とは5世紀初頭の高句麗好太王碑に「加羅」とともに刻まれた旧弁韓の倭人国のことであり、辰韓王であった崇神天皇の祖先が列島に移動する前に王宮を築いた由緒ある国であった。

ソナカシチはその任那王(王名は不詳)によって派遣された崇神天皇への弔問使であり、同時にまた垂仁天皇への朝賀使でもあったということになる。時代は西暦310年代のことであったと思われる。

もう一つの「一に曰く」だが、これは難波と豊前の二か所に祭られている「比売語曽(ひめごそ)神社」の由来譚である。

ツヌガアラシトがまだ国(任那=大加羅)にいた時分のこと、ある村で祭っているという白い石を貰い受け、床の辺に置いたところ、美女になった。交わりを持とうとしたが女は東へ逃げて行った。追いかけ、船を出して行き着いたのが倭国だった。その女は難波まで逃れて比売語曽の社に祭られたという。また、豊前でも祭られたという(※古事記では応神天皇の時代のこととし、難波の比売語曽神社を挙げ、祭神の名をアカルヒメとする)。

このことから言えるのは、最初の渡来人はツヌガアラシト(ソナカシチ)だけではなく、女神アカルヒメも招来されたということである。

 【天日槍(アメノヒボコ)】

日本書紀では垂仁天皇の2年にソナカシチ(ツヌガアラシト)が3年にわたる滞在を終えて任那に帰るのだが、それと入れ替わるように同天皇の3年に今度は新羅の王子「天日槍」が渡来する。この人も最初期の渡来人として扱うことにする。

古事記ではソナカシチの渡来説話はなく、この「アメノヒボコ」の渡来が最初である。しかも「天之日矛」と書き、垂仁天皇の時代ではなく、応神天皇の時に渡来したように書かれている。ここの齟齬は大いに疑問のあるところである。

まずアメノヒボコの漢字だが、書紀では「天日槍」と書いており、これはどうしても「アメノヒヤリ」としか読めないのだが、岩波本でも他の解説本でも「アメノヒボコ」としている。古事記が「天之日矛」と書く方に合わせたのだと思われるが、「アメノヒヤリ」と読んで差支えはない。しかし、ここでは古事記の方の「アメノヒボコ」を採用しておく。

次の方が大きな齟齬であるが、書紀では垂仁時代なのに、古事記では応神時代の渡来としてあるのはなぜかということである。

これは古事記の方がおかしいのである。その理由は、応神記のアメノヒボコ説話の最後の方で、アメノヒボコが但馬に定着し、その子孫を述べた箇所があるのだが、アメノヒボコの子孫の5代目が垂仁天皇のために常世国にわたって「トキジクノカグノコノミ」(橘のこととされる)を採って来た「タジマモリ」であると記している。

第15代の応神天皇の時代に渡来して来たアメノヒボコの5世孫であるタジマモリが、過去の第11代の垂仁天皇に仕え、トキジクノカグノコノミを採取して来るなんてことは金輪際あり得ないことである。

したがってアメノヒボコが渡来してきた時代は垂仁天皇の代としなければおかしい。これは古事記の編纂者である太安万侶は神武天皇の長男・カムヤイミミの裔孫であり、神武王統(投馬国王統)を断絶させた崇神王統が半島由来であることを糊塗するための造作であると考えてよい。(※同じ意図で造作したのが崇神と垂仁の和風諡号における「五十」の脱落であったことは以前に指摘した。)

さてこのアメノヒボコがもたらした「神宝」というのが次のようである。

1.羽太の玉 2.足高の玉 3.鵜鹿鹿(ウカカ)の赤石玉 4.出石の小刀 5.出石の鉾 6.日鏡 7.熊の神籬

の7種であった。これを定住した但馬国に保管して、常に「神宝」扱いをした、とある。

ところが分注に「一に曰く」として、神宝は7種ではなく8種あったとも書く。もう一つの神宝は「胆狭浅の太刀」で「イササノタチ」と読ませている。1~3は「玉」、4、5は「小刀と鉾」という武器、6は鏡であり、7は「ヒモロギ」と読み「祭礼の際の神の依り代」のことである。分注に見える「胆狭浅の太刀」は4,5と同様武器に当たるものである。

一方で古事記の応神記に載るアメノヒボコ招来の「神宝」は、1と2 珠(玉)が二種類、3.浪振る領巾(ヒレ)4.浪切る領巾 5.風振る領巾 6.風切る領巾 7.奥津鏡 8.辺津鏡 の8種である。

書紀と古事記の「神宝」にはかなりの違いがある。特に古事記の3~6が「領巾」という点である。この「領巾」が「太刀」であるのなら、古事記記載の神宝も「玉、太刀、鏡」という「三種の神器」に重なる物になるのだが、ここをどう理解したらよいのか、今のところ解釈に余る点である。

新羅(辰韓)王子のアメノヒボコは任那から渡来したソナカシチ(ツヌガアラシト)と違い、但馬の出石に定住しており、出石においてはこのような「神宝」を祭礼に使用したものと思われる。

同じく半島由来の崇神、垂仁両天皇の祭儀にはアメノヒボコが持参したような「神宝」を使用した可能性が高いだろう。両天皇がしばらく本拠地としていた糸島の「五十王国」において、「鏡・玉・太刀(剣)」の祭儀が始まったと理解してよいのかもしれない。

倭人と濊(ワイ)人

2021-08-12 16:28:28 | 邪馬台国関連
【縄文時代中期からある海上交易】

縄文時代の5000年前から3500年前(中期から後期)にかけて、南九州の海民は九州北部の黒曜石の産地である佐賀県伊万里市の腰岳や大分県の姫島まで航海していた、という事実が垂水市の柊原(くぬぎばる)貝塚から多量に出土した黒曜石製の矢じりによって判明している。

また同じ時期、いちき串木野市の市来貝塚出土の指標土器「市来式土器」は沖縄でも発見されている。

さらに鹿屋市の榎原遺跡などでは、岡山県倉敷市の船元貝塚出土の縄文中期の「船元式土器」と同じ胎土の土器片が出土している。

以上はここ30年くらいの考古学の著しい進展によって明らかにされてきたもので、「縄文時代人はすぐそこにある山や野原が生活の場で、そこで採れる植物性や動物性の食糧のみに依存した暮らししかしていなかった」というような縄文時代観は過去のものになった。

5000年前にはまだ「構造船」はないが、波除け板を取り付けた「準構造船」に近いものはあったし、丸木の刳り舟にしても二つを横に連結した単純な「双胴船」はあり、交易に活躍したと思われる。

 【朝鮮海峡の往来】

南九州から北部九州まで行けたのであれば、あと一息で朝鮮半島である。九州北部と朝鮮半島の間には名にし負う荒波の「玄界灘」(朝鮮海峡)が横たわるので危険は伴うが、上天気の日を選べば海峡渡海も可能だったであろう。

九州南部の縄文前期(6000年前)の標識土器「轟式土器」には胎土に「滑石」(ロウ石)が混入されており、滑石の産地は朝鮮半島に多く、その頃半島で製作されていた「櫛目文土器」に轟式土器の原型があるのではないかとみられている。

そうなると5000年前よりさらに1000年もさかのぼって、九州と朝鮮半島の間で船による交易(人流)があったと言えることになる。

しかし縄文時代の交流は極めて限られたものでしかなかった。玄界灘の荒波をかいくぐってまで交易品を獲得しようというほどの余裕はまだなかったはずだ。

 【弥生時代の朝鮮海峡航路は鉄交易の「定期航路」?】

それが弥生時代になると、大陸で金属器すなわち青銅器や鉄器が発明され普及し始める。その情報はやはり船による交易でもたらされたのだが、田んぼにおける湛水型の米作りが開始され、定着してくると、さらなる開田への意欲が大量の鉄器(主として鍬)を必須とするようになった。

弥生時代の半ばだったと思われるが、朝鮮半島南部に大規模な鉄山「伽耶(カヤ)鉄山」が発見されると、九州島の倭人はこぞって半島に渡り、鉄の交易に乗り出した。

魏志倭人伝の前には魏志韓伝があるが、そこに載る三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の国々には、航海民に特有の「文身(入れ墨)」を施す者が多数いたと書かれている。

これらの航海民は後世、「宗像族」や「安曇族」と呼ばれる北部九州の海民が多かったが、その中に南九州の「鴨族」も参加していた。縄文中期に北部九州まで黒曜石の交易にやって来ていた南九州海民の子孫と言える人たちである。

南九州から半島までのルートは九州西岸ルートで、独自の航路を開拓していたはずである。

半島南部にはこのような倭人が多数おり、朝鮮海峡を渡るルートはいわば「定期航路」のような塩梅だったと思われる。

半島南部の伽耶鉄山の活況は目覚ましく、魏志韓伝には「韓・濊・倭、みなこれを取るに従う。諸市、買うにみな鉄を用う。中国の銭を用うるが如し。また、以て二郡に供給す。」とあり、韓(馬韓・弁韓・辰韓)と濊人、および倭人が鉄の採掘に従事していたこと、中国では売買に銅銭を使うがここでは鉄が使われていたこと、そして採れた鉄を帯方郡と楽浪郡に供給していたようである。

倭人が半島において伽耶鉄山の開発に一枚絡んでいたことが、ここに余すことなく描かれているのである。「鉄の時代」と言われる弥生時代の一つの証明がこの文書と言えるだろう。

 【倭人と濊人】

さて、この鉄資源の開発には九州島からの倭人および韓人のほかに「濊人」が関わっていたとあるが、この濊人について述べておかなくてはならない。

魏書の東夷伝には以上の倭人伝・韓伝のほかに、「夫余伝」「高句麗伝」「東沃沮(ヒガシヨクソ)伝」「挹婁(ユウロウ)伝」「濊伝」があり、全部で7種族の記載がある。夫余は南満州、高句麗は北朝鮮北部、東沃沮は高句麗より東の日本海寄り、挹婁は東沃沮よりさらに北方の沿海州寄り、そして濊は北朝鮮の東半分を占めている。

この濊は漢(前漢)が紀元前108年に楽浪郡を置く前までは現在の北朝鮮域を広く占めていた。この時に濊は国家の縮小を余儀なくされ、半島の東方へ押しやられた。そのため多くの濊人が他所に逃れたらしい。

半島南部はすでに人口が多かったのだろう、北部へ逃れ、高句麗やさらに北の夫余にまで行った者もいた。「夫余伝」には「夫余王の倉庫に<濊王之印>があり、古城があって<濊城>と名付けられている」という記事があり、それを裏付けている。濊の王族クラスが夫余の地に逃れたのだろう。

この濊人こそが紀元前5世紀頃の著作とされる『山海経(センガイキョウ)』の中で、「東海の内、北海の隅に国がある。名は朝鮮天毒。この国の人は水に住む。偎(ワイ)人、愛人がいる。」としてある偎(ワイ)人、愛(アイ)人に他なるまい。「水に住む」というのは「水辺に住み、漁撈をしている」という意味だろう。これらの「ワイ人」「アイ人」はほとんど同じ種族を指し、つまるところ「ワ(倭)」とも同種であろう。

 【倭人と濊人は「水」のつながりの「同種」】

このことを別の面から証明する説話が、『後漢書』の「檀石槐(ダン・セキカイ)伝」という鮮卑の首魁の伝記に記されている。

檀石槐は紀元136年の生まれだが、40歳の頃、満州地方から鴨緑江近くの烏侯秦水という川までやって来たが、そこで食料が尽き、川の中を泳ぐ魚を糧にしようとして、東に千里行った所に住む倭人を千家連行し、「秦水の上に置いて」魚を獲らせて飢えをしのいだというのだ。(※「秦水の上に置いて」という表現が奇妙だが、これは「秦水の川辺に住まわせて」ということだろう。)

烏侯秦水は鴨緑江の支流で、高句麗の版図に入る川だと思われるが、その東方に住んでいた「千家の倭人」とは実は濊人だろう。前漢時代に楽浪郡という漢の直轄地(植民地)を置かれたために北に落ち延びたて住み着いた濊人集落ではないかと思われる。

先に引用した『山海経』の中の「朝鮮天毒の人は水に住む」と書かれた「偎(ワイ)人」の生業が漁撈であるとすれば、九州島の海民の生業の海上交易とは「船を操る」点で重なって来る。鮮卑にとっては倭人と濊人とは見分けがつかなかったのかもしれない。それほど似た種族同士だったのだ。

この倭人集落があったという鴨緑江の支流は高句麗の版図だと説明したが、後の西暦400年代に高句麗は騎馬民化するが、100~200年代の魏志の時代はまだ騎馬の片りんはなく、「その国中の大家(支配者)は耕さず、下戸(被支配者)が遠くから米・食料・魚・塩を担いで来て供給する」(高句麗伝)という統治状況であった。「魚・塩」というところに注目すべきである。

以上から魏志倭人伝時代(100~200年代=弥生時代後期)の朝鮮半島には南部の三韓はもとより、北部の濊と高句麗まで倭人の同種がおり、しかも水に関したもの、直接的には漁撈、間接的には水上交易などで暮らしていたらしいことが分かる。

もちろん彼らは農業もしていたであろうが、魏志倭人伝等の中国側史料ではさして触れられていない。魏という中国北方の王朝にとって農業はごく当たり前の生業であり、触れるには値しなかったのだろう。何と言っても物珍しい水産・水運の方が特記事項なのであり、記録に残したのである。








土器の発明は南九州?

2021-08-11 10:52:02 | 古日向の謎
もう7年前のことになるが、2014(平成26)年の9月、長野県の御岳山が突如水蒸気爆発を起こし、登山中の40数名もの人が命を落とした。

テレビでは、連日、山頂付近にいてその火砕流に遭遇した人の撮影したスマホの動画が流され、見る者を呆然とさせた。そしてしばらくしてから救助隊が編成され、山頂に向かいながら行方不明者の捜索活動に当たる様子が映されるようになった。

その現地のテレビ報道を見ていて、はっと気づかされたことがあった。

捜索隊が入って何日目だったかは忘れたが、数日雨が続いたあとに入り、山頂近くの分厚く積もった火山灰の中を歩いていた隊員の何人かが、灰のぬかるみに足を取られて動けなくなり、数人がかりでようやくぬかるみから抜け出したのであった。

火山灰は乾燥していれば本来サラサラというかパサパサのかまどの灰のような物なのだが、水をたっぷり含むと、あのように粘土のような粘着性を持つのだな、と驚かされた。

そうか、あれを適当にこねれば器になる。それを焼いたら焼き物になるに違いない。

そう思ったのである。

鹿児島は28000年前に噴出した入戸火砕流(いわゆるシラス火山灰)に覆われており、ほぼ全土にシラス台地が広がっている。たまたま大雨を伴う台風が襲来した後などに、そのシラス台地の崖が崩れて小さな土石流が発生することがあるが、何日か後にたっぷり含まれた水分が抜けると土石流の表面がぬるぬるした物に覆われるのを見ることがある。

これは地元では「ノロ」というのだが、多分「ぬるぬるしているからヌル」からの転訛だろう。これは火山灰の中の微粒子のうち比重の軽いものが表面に浮き出たもので、粘着性が強い。しかも、うっかりその表面に靴を載せると、足を滑らせてしまうことがある。

御岳山の火砕流に含まれている微粒子も同じように表面に浮き出て厚い層をなしたに違いない。比較的軽い粒子なので足を載せるとずぶっと入り込み、粘着性があるのでもがけばもがくほど自力では脱出できなくなる代物である。

このような火山灰性の粘着物が地中に長い間溜まっている間にいわゆる「粘土」になり、それが焼き物の材料「胎土」になるのではないだろうか。

もしそうだとしたら、火山地帯こそ土器用の粘土を豊富に含んでいることになり、日本列島でも名うての火山地帯である南九州(古日向)で、縄文時代早期や草創期に全土に先駆けて土器が発明されても不思議ではない。

今のところ日本列島で発掘された最古の土器は青森県の外ヶ浜町の「大平山元(おおだいやまもと)遺跡」出土の13000年前の物とされている。この遺跡は今回、世界文化遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一部を成しているが、向こうもおそらく火山地帯の一角ではなかったかと思われる。
(※鹿児島県指宿市の水迫遺跡でも同じ頃の無文土器が出土しているから、日本列島の南の果てと北の果てで、同時多発的に土器が生まれたとしてもよい。)

しかしながら、かの東北では大平山元遺跡のみが飛びぬけて古いのだが、その後に続く草創期・早期の土器群が少ない。上野原遺跡を代表とする縄文早期の土器群のようなまとまりは見られない。ましてや縄文早期の壺(壺型土器)はない。

南九州(古日向)の縄文早期(11500年前~7500年前)の遺跡群は、十分に世界文化遺産に値する。

だが、火山の恵みによりかくも先進的だった古日向の縄文早期時代ではあったが、残念ながら皮肉にも同じ火山がその早期の文明の終焉をもたらした。

古日向を貫く4つのカルデラ火山のうち、もっとも南にある「鬼界カルデラ」が大噴火を起こしたのだ。約7500年前のことである。

鬼界カルデラの噴出は人類文明史上最悪の結果をもたらしたといわれる。これによって古日向に栄えていた縄文早期の先進的な文化と古縄文人は壊滅状態に陥った。逃げ延びた人々も、もちろん多数いただろうが、火砕流と大津波の直撃を受けた大隅半島や薩摩半島の南半分は、ほぼ死に絶えたといってよい。

(※この様子を再現したのが上野原遺跡の一角に立てられた「縄文の森展示館」の中にあるシアターである。興味があれば一度鑑賞をお勧めする。もちろん早期の土器群その他の遺物および遺構も素晴らしい。)

死に絶えるまではいかないにしても、分厚く降り積もったアカホヤ火山灰によって豊かな森林と大地は消失し、11500年前から7500年前まで4000年もの間、南九州を彩った驚くほど先進的な古日向文明は衰退してしまった。

この時代のことを「高天原時代」と言えるのではないか、とひそかに感じるのだが、「古縄文語」(古極東アジア語)とともに考えてみたいと思う。