もう西日本は大変なことになってしまいました。昨日までは死者40人ちょっとの報道でしたのに、どんどん増えて、今日先ほどのニュースでは死者80人あまり安否不明者60人弱と…このままだと優に100人を越えてしまうのではと心配でなりません。
ニュースなどを見て大分の弟が〝宇部の方は大丈夫なん?〟と電話をくれました。以前は台風や大雨などで山口県のことが報道されると、真っ先に母が心配して電話を掛けてきました。もうその母もいなくなりましたが、でもまだ心配してくれる兄弟がいるということはアリガタイことです!
相変わらずニュースは洪水のことばかり…それを見ていたら義母から電話。こんな夜に…どうしたん、何かあったの?と聞くと、主人に代わってと言う。何ごとかと思っていると、広島呉市にいる叔父さんのことでした。
母の実家なんですが、家の横に小さな川が流れているのです。その川が氾濫して、上の方から土砂や車などが流されてきて…エエッ、じゃあ家は?と聞くと、大丈夫だったけれど、流れてきた大きな岩が門の前を塞いで出入りが出来なくなったんだと。反対側の畑は土石が流れ込んで埋まってしまったが、皆無事だからと…ああ、よかった、ホッとしました。
母の実家は呉市吉浦というところで、このあたりの住宅地はみな崖の上から海岸へ向かって切り開かれた傾斜地にありますので、台風や洪水のときはとても心配なのです。
私が嫁いで初めての墓参りでした。11人だったかしら、一つの墓標に同じ命日で名前が刻まれていたんです。昭和20年でしたので、原爆なのかと思ってしまったのですが、9月でしたからなぜと聞くと、終戦直後の台風で、この吉浦一帯は土石流で押し流され埋まってしまったんだそうです。その時、母の両親、長兄夫婦にその子供たち、おまけに近くに住んでいた次兄の家族までが危ないから(次兄の家にいたら無事だったと…)と言って避難してきて、全員が一緒に流されて亡くなったんだそうです。一番末の弟の叔父さんは戦地からまだ戻っていなかったので助かったと。この話を母から墓参りに行く度に何度も聞きました。
この台風は、室戸台風、伊勢湾台風と並んで昭和の三大台風のひとつに数えられる〝枕崎台風〟です。調べてみると、「被害者の内訳は死者2,473人、行方不明者1,283人、負傷者2,452人。終戦直後のことであり、気象情報が少なく防災体制も不十分であったため、各地で大きな被害が発生した。特に広島県では死者・行方不明者合わせて2,000人を超えるなど被害は甚大であり、原爆の惨禍に追い打ちをかけた。また、柳田邦男のノンフィクション小説『空白の天気図』の題材にもなった。」と。(Wikipedia)
特に広島県の死者・行方不明者合せて2000人余りのうち、呉市の土石流で亡くなったのが1156人…。母は幼い主人を背中に負って、土石の中から死体を掘り出しては…義父はまだ戦地でしたので…埋葬、といっても火葬場などは使えなくて、残っている近所の人たちと穴を掘ってはそこで臨時の火葬をしたと…その時はもう人間らしい感情というものはなく、だた〝やらなくっちゃ〟という義務感だけで必死に働いたそうです。だって暑いから早くしないと腐敗が始ってしまうと、淡々と話す母を、私はただ黙ってウン、ウンと頷いて聞くことしか出来ませんでした。こんな苦しみを乗り越えてきた母ですから本当に強いです。心から尊敬しています。私の母も辛抱強くて逞しかったけど、本当にこの時代の人たちは、特に女性は強いですね。自分が歳を取ってくるに従って、見倣わなくてはと思うのですが、到底足元にも及びません。その義母ももうすぐ白寿になります。
ところで、この梅雨期の豪雨により、河川の氾濫することを「出水」(でみず)といって、夏の季語です。台風による出水は「秋出水」といいますので気を付けましょう。
一夜さに出水一湾濁したり 千田一路
目のついてゆけぬ迅さの出水川 藤崎久を
写真は、宇部の中津瀬神社にある「龍吐の名水」とその説明。雨の中で撮りましたのでいよいよボケていますね。ゴメンナサイ!