落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

西村眞悟氏「八月十五日が過ぎて・・」

2015年08月23日 | 歴史
メルマガ「西村眞悟の時事通信」より
西村眞悟の時事通信 平成27年8月22日(土)
http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1128

八月十五日が過ぎて、あらためて平和を願え

喉元過ぎれば熱さ忘れる、と言われるが、 その「喉元」を「八月十五日」に置き換えれば、 日本の世相、つまり、マスコミとそれに乗る面々の軽佻浮薄ぶりがしみじみ分かる。
今年も八月に入れば、マスコミで連日、 「戦争の悲惨さと平和の尊さ」の証拠写真・証拠映像そして生き証人の体験談の特集番組が放映される。

広島と長崎の原爆忌の集会においては、 そこの市長が挨拶で、現在国会で継続中の安全保障に関する法案への反対意思を表明していた。
さらに、安倍総理の挨拶に対する「野次」があったようである。
では、この集会は何だ。
戦没者慰霊の集会か、 それとも反戦平和の反政府集会か。

そして、八月十五日が過ぎれば、 皆、付いていた狐が落ちたようにケロリとしている、と感じるのは小生だけだろうか。
つまり、「真の平和」を確保する為に何をすべきか!
この肝心要の決断を回避する為に、八月十五日が過ぎればケロリとしているのだ。

これでは、八月十五日までのマスコミの特集と各種行事は、 慰霊と平和を願うものではなく、 慰霊と平和を願うという口実のもとに盛り上がる「政治運動」ではないか。

一九七七年(昭和五十二年)九月、 欧州NATO諸国で、「反核運動」・「反ミサイル運動」が大勢の参加者を吸収して巻き起こった。
この時、西ドイツのシュミット首相を中心として、NATOは、 ソビエトがNATOに向けて実戦配備した中距離核弾頭ミサイルSS20に対抗して、 同じく中距離核弾頭ミサイルであるパーシング2を導入して、 ソビエトと「相互確証破壊の体制」を構築し、 ソビエトのSS20を抑止しようとしていた。

このNATOの動きに対して、巻き起こった大規模な欧州の反核・反ミサイル市民運動は、 ヒロシマ・ナガサキが体験した核の悲惨さを強調し、ヨーロッパの平和を維持する為に NATOのパーシング2配備を阻止しようとしたのである。

結局、NATOは、ソビエトのSS20に対抗してパーシング2を導入し、 その上で、ソビエトに対して、強烈な軍縮交渉を迫ったのだ。 その結果、ソビエトはSS20をヨーロッパ方面から撤去し、 ヨーロッパの核の脅威は除去された。

そこで言っておく。
ソビエト崩壊後に何が分かったのか?
それは、 あの時のパーシング2導入に反対してヨーロッパで巻き起こった反核・反ミサイル運動は、 実は、ソビエトがパーシング2導入を阻止する為に仕組んだものであった、ということだ!

同時期、我が国の原水爆禁止運動は、 ソビエトや中共の核兵器は非難せず、ただアメリカの核だけを非難していた。
そしてその当時、我が国は「スパイ天国」とソビエトのスパイから言われていたのである。
我が国も、NATO諸国に対する工作と同じ工作をソビエトから受けていないと誰が言えるのか。
ソビエトからの工作を受けた本人だけが否定するだけだろう。

そして、言う。
本年の八月十五日までのご存知のマスコミのキャンペーンも、終わってみれば、 現在参議院で審議中の安保法案に対する、 反憲法的・反平和的だという否定的な「政治的効果」を生み出しているのが明らかになっている。
それで喜ぶのは何処か!
一九七七年のヨーロッパで喜んだのはソビエトだった。
二〇一五年のアジアで喜ぶのは、中共ではないか!

さあ、八月十五日までのいつものキャンペーンも終わった。
従って、平和を確保し、これから戦争の悲惨を体験しないようにする具体的な方策を見詰めよう。
一九七七年、NATO(西ドイツのシュミット首相)は、 如何にしてソビエトの核の脅威を除去したのか。
それは、既に書いたように、ソビエトのSS20に対してパーシング2を導入し、 その上で、ソビエトに軍縮交渉を仕掛けたからだ。

その結果、ソビエトはSS20をヨーロッパから撤去した。
仮にシュミットが、反核・反ミサイル運動に参加して、ともに手をつないでデモをしておれば、 絶対に、ソビエトはSS20を撤去しなかったであろう。
反対に「我か勝てり」と喜んだはずだ。
このシュミットのパーシング2導入の決断は、古来からの鉄則の有効性を実証している。
その鉄則とは、 「平和を願うなら、戦争に備えよ」 である。

同志、諸兄姉!
平和を願うなら、戦争に備えよう!
断じて、中共を喜ばすな!
※パーシング2の「2」はローマ数字ですが、配信ソフトの都合上アラビア数字にしています。

八月十五日から始まった戦争がある

前回に続いて、八月十五日に関して書く。
我が国のマスコミの「戦争特集」という行事は、八月十五日で終わる。
そして後は忘れたようになる。
しかし、現実には、その日から、また戦争が始まっていた。
その戦争は、軍服ではなく礼服を着た戦争であった。
その主役である 昭和天皇と外務大臣重光葵に関して記しておきたい。

サイパンが陥落し本土への爆撃が予想されるようになった昭和十九年八月二十九日から 敗戦後の二十一年まで侍従長を務めた明治十三年生まれの藤田尚徳海軍大将は、 その間の陛下のお姿を次のように書いている。

「そこに発見したものは、上御一人の立場にたたされた陛下が、 戦争の終結と平和の回復のためにつくされた超人的な努力である。
国の存亡をかけた動乱の舞台に、ただお一人出通して楽屋へ下ることも許されず、 その間に陛下がひたすら念じられていたことは、勝利とか敗戦とかを越えた、 人間同志の信頼と、そこから生まれる平和の世界に、いかにしたら戻れるかという祈りである。」

「苦しみがあってもうったえるべき人のいない天皇、 グチのやり場もないのが日本の天皇の姿であった。
陛下は発言したくても、その意見を公になさることはなかったわけで、 戦争の責任についても、もちろん一言もお述べになったことはない。
ただマッカーサー元帥に対して、『一切の責任を自分で負う』と表明されただけであった。」

「昭和天皇実録」を概観すると、 藤田侍従長の言うとおり、昭和天皇の日常は超人的である
。 そのなかで、印象に残るのは、外地に展開する陸海軍の積極的作戦行動を中止させるためのご努力である。
八月十五日に、天皇は、辞表を提出した鈴木貫太郎総理に代わる首班を選ぶ作業を開始しつつ、 大元帥として、大陸命と大海令を発せられて外地に展開する陸海軍の作戦中止の命令を発し、 翌十六日には、皇族を宮中に呼び、各々、支那方面、関東軍方面および南方方面に赴いて各軍に停戦の聖旨を伝達をするように命じ、翌十七日に「陸海軍人に対する勅語」を発せられた。

また、天皇は、 外務大臣重光葵と参謀総長梅津美治郎に、 九月二日のアメリカ戦艦ミズーリ号での降伏文書調印を命ぜられるのであるが、 調印の前日に二人を呼んで、意に沿わぬ務めと思うが、国のために行ってくれと労っておられる。

外務大臣重光葵は、毎朝、教育勅語を朗読する人物であった。
昭和七年の天長節を上海で迎えた重光葵は、演壇で国歌君が代を歌っているときに爆弾を投げ込まれた。
その時重光は爆弾が投げられたのは分かっていた。
しかし、国歌斉唱中であったので動くのは不敬であると考え動かなかった。
そして、右足を付け根から吹き飛ばされて失った。
また、昭和十八年十一月、東条内閣の外務大臣であった重光は、 東京で大東亜会議を開催し「大東亜共同宣言」を発出している。
重光には、諸民族の共存共栄と人種差別撤廃を謳った「大東亜共同宣言」こそ、 白人だけの自由を謳っただけで、白人に支配されるアジア・アフリカの有色人種を顧みない「大西洋憲章」に遙かに優るものとも強烈な自負があった。
重光は、八月二十八日、伊勢に赴き、禊ぎをしてから、伊勢神宮に参拝し、一心に祈った。

「我が国を造りましたる大神に 心をこめて我は祈りぬ」

このような男である重光が、九月二日早朝に天皇から送られた義足をつけて横須賀沖に停泊するアメリカ軍艦ミズーリ号に向かったのである。
ミズーリ号は、八十九年前の嘉永六年、 ペリー艦隊の旗艦であるサスケハナが投錨していた同じ地点に投錨していた。
そして、その艦橋にはサスケハナが掲げていた同じ星条旗が掲げられていた。

午前九時半に、降伏文章調印を終えて帰路につくと、 同じ二日、連合軍総司令官マッカーサーは、日本国政府を介さずに直接次の三つの布告をしてきた。
一つ目は、連合軍総司令官の直接命令によって動くこと、
二つ目は、日本の裁判所を廃止してアメリカ軍の軍事法廷によること、
三つ目は、日本の通貨を廃止してアメリカの軍票によること。
要するに、マッカーサーは、我が国に軍政を施こうとしたのだ。

この三つの布告をみた重光葵は、午前中に、直接、横浜のニューグランドホテルに乗り込み、そこに滞在するマッカーサーに面会を求め、直談判の上、 我が国に直接軍政を敷くのは降伏文書に違反する。
我が国は、ドイツのように政府がなくなったのではない、我が国の政府は機能している、 我が国は、無条件降伏をしたのではない。
よって、三つの布告を撤廃されたし、と要求した。
九月五日、マッカーサーは、三つの布告を撤廃した。
まさに、重光葵の「礼服を着た戦闘」であった。

以上、八月十五日から始まった新たな戦いの、始まりのほんの一部を書かせていただいた。
この戦いの帰趨が、七十年たった現在のところ、「敗北」という判定をされても文句は言えない。
東京裁判史観の定着や村山富市談話などが「敗北」の証であろう。
しかし、マスコミの表層だけで判定できないのが我が日本である。
明治天皇が謳われたように、
「敷島の大和心のををしさは ことあるときそあらわれにける」
であるからだ。
しかも、「ことあるとき」は近づいている。
日本を信じよう。



西村眞悟氏「八月二日、バシー海峡戦没者慰霊祭と梅沢裕騎兵少佐一周忌」

2015年08月07日 | 歴史
西村眞悟の時事通信 平成27年8月5日(水)
八月二日、バシー海峡戦没者慰霊祭と梅沢裕騎兵少佐一周忌

八月二日、 台湾のバシー海峡に面した最南端の潮音寺で、 大東亜戦争において、バシー海峡に水没した十万人以上、もしくは二十万人、ともいわれる日本軍将兵の慰霊祭が行われた。
同日、大阪の天王寺区にある鶴林山性厳寺において、 大東亜戦争において沖縄県座間味島守備隊長、梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐の一周忌の法要が行われた。

この日、私は、バシー海峡において、 この蒼い穏やかな見渡す限りの海に没した十万余の将兵の霊に祈り、 同時に、遙か大阪の天王寺で一周忌法要が行われている梅沢裕騎兵少佐の霊に祈った。

数年前、バシー海峡を見渡す台湾最南端のギャランピー岬の岩場を降りて、 海面と同じ高さのぎざぎざの岩礁に立った。 そして、底の知れない海を眺めた。 かつて十数万の日本軍将兵を呑み込んだ海は、蒼く鏡のように穏やかに南に見渡す限り広がっていた。
私は、目を瞑り「海ゆかば」を謳った。 歌が終わりに近づく時に、突然、私の足に波がぶつかり、その飛沫が顔にかかった。
鏡のような海に急に波が立ち私に当たりに来たのだ。

歌を終え海を見詰めると、もとの静かな蒼い海だった。不思議だった。
私は、今も、あの波は、将兵の霊が「海ゆかば」に応答してくれたものだと思っている。
何故なら、バシー海峡の海に吞まれるように沈んでいった十万を超える戦没者は、 今まで知られることもなく忘れられつつあったからだ。

昭和十九年八月十九日、午前四時五十分、 最大の陸軍特殊輸送船(揚陸母艦)「玉津丸」(長さ140メートル、9590トン)は、 台湾からフィリピンのマニラを目指してバシー海峡を航行中、 アメリカ海軍の潜水艦から左舷中央部に二発の雷撃を受けて十分間で沈没した。
乗り込んだ将兵四千八百二十人のうち、生存者は六十五名で、四千七百五十五名が戦死した。

十二日間の漂流の末に奇跡的に生き残った静岡の独立歩兵第十三聯隊の中嶋秀次上等兵は、 戦後復員してから、バシー海峡で水没していった戦友の慰霊を生涯の目的として働き始めた。 そして、遂に、生還から三十七年が経過した昭和五十六年(一九八一年)八月に、 バシー海峡で水没した多くの将兵の遺体が流れ着いた台湾最南端のバシー海峡を見下ろす丘に、 私財をなげうって潮音寺を建立し、 平成二十五年(二〇一三年)八月、九十二歳の生涯を閉じた。

梅澤裕帝国陸軍騎兵少佐は、 陸軍士官学校五十三期、昭和二十年、沖縄県座間味島の守備隊長となり同島に赴任すると、 アメリカ軍上陸を直前に控えて、 住民から集団自決用の小銃、爆薬等の提供を要求される。
梅澤隊長は、住民代表に、自決用の武器等の提供を拒絶して、 自決をしてはならんと諭して帰した。
しかし、住民は、集団自決を決行してしまう。
これは、近くの渡嘉敷島でも同じであった。

終戦直後、地元のマスコミは、 「沖縄戦記、鉄の暴風」を編纂発行して、軍命令による住民の集団自決と報道する。
昭和三十三年、朝日新聞は、「週刊朝日」で、梅澤少佐が、住民に集団自決を命じたように報道する。
昭和四十五年、作家の大江健三郎は現地に赴くこともなく、「沖縄ノート」(岩波新書)を出版して、 梅澤少佐が、住民に自決を命令したと書く。
そして、大江がノーベル文学賞作家となったので、梅澤少佐の自決命令説が「真実」として定着しはじめる。

その後、梅澤少佐は、戦友や住民の慰霊を続けていたが、このまま、大江等の軍の自決命令説が定着すれば、 国家と軍、そして、戦友さらに何より住民の名誉が著しく毀損されたままになることを憂い、 これを阻止するために、平成十七年、 「沖縄ノート」を書いた大江健三郎を名誉毀損で訴える。
 裁判所は、「集団自決の軍命令の証拠なし」と認めるも、 「軍の関与は否定できない」との、訳の分からない理由で訴えを棄却する(最高裁も同じく棄却)。

平成二十六年八月六日、梅澤裕少佐、死去、享年九十七歳。
葬儀において、 櫻井よしこ氏は、「梅澤さんの濡れ衣は完全に晴れた」との弔電を寄せ、 葬儀委員長の南木隆治氏は 「南京大虐殺の虚構も、従軍慰安婦強制連行の虚構も、集団自決命令の虚構も、 総て虚偽であることが明らかになった」との弔辞を述べた。

平成二十五年八月に、九十二歳で亡くなった中島秀次さん 平成二十六年八月に、九十七歳で亡くなった梅澤裕騎兵少佐 お二人は、大東亜戦争の終結から亡くなるまで、 生涯に亘って共に、たった一人で、戦友の慰霊を続けられ、 日本人の精神性と人の魂の崇高さを我々に示し続けて下さった。

このお二人の 中嶋秀次さんが生涯をかけたバシー海峡戦没将兵の慰霊祭と 梅澤裕さんの一周忌の法要が、 八月二日という同日に、 バシー海峡と天王寺の性厳寺で各々行われたことに感慨深いものがある。

嗚呼、戦いの日々を生き抜き、戦後も六十年間以上、戦後の風潮としての自虐史観と一線を画し、 黙々と戦友同胞への誠を貫いて生きた勇者が、各地で次々と戦友のもとに帰って行く。
そして、あと十年も経てば、我々は、総ての勇者とこの世で会えなくなる。

最後に、 「戦後70周年記念、2015年バシー海峡戦没者慰霊祭」のために、 日夜無私の働きを続けられ、 意義深い歴史的な実現を果たされた若き日本と台湾の男女の実行委員会の皆様に、 心よりお礼を申し上げます。

日本と台湾は、目に見えない絆で結ばれている。
日本と台湾は運命共同体である。
日本と台湾が団結すれば、東アジアの平和が確保され幸せな文明圏が誕生する。
勇者は日々、天に帰って行くが、勇者の魂を受け継ぐ君たちがいる。

お問い合わせ:西村眞悟事務所
TEL:072-277-4140 E-mail:sakaioffice@n-shingo.com
http://www.n-shingo.com/
亡父(1999年他界)も同時期、輸送船に乗せられ南方に向かっていた。
父の記録には「軍は本船団の半数が目的地に到着することを以て成功と思う」と云われたとある。
九隻三列、二十七隻の船団で進み、船団の中央に乗船していたため撃沈を免れた。
しかしその後あのボルネオ死の行軍に加わわり終戦まで辛酸をなめることになった。
亡父の戦争体験↓
http://kansai.me/tdym/ww2nd/WWII_2.htm#2-2


終戦時、朝鮮半島にいた日本人の運命

2015年06月25日 | 歴史
最近、終戦時のGHQの検閲の実態が明らかになってきている。
これもその一つだったか・・・

メルマガ 西村眞悟の時事通信 平成27年6月25日(木)
http://www.n-shingo.com/

知られざる朝鮮半島における日本人の運命

先日、西村に伝えておきたいことがあると、青森に先祖代々住んでおられる方が来られた。 その伝えておきたいこととは、 昭和二十年八月十五日前後に朝鮮半島にいた日本人の運命である。
この青森の方の奥さんのお母さん(故人)は、 我が国の敗戦後に朝鮮半島から引き上げてきた方で、その状況を次のように語っていた。

敗戦後、満州から歩いて朝鮮に入ると、 朝鮮人の兵隊(武器を持った人)に、婦女子だけ集められて収容所に入れられた。
その収容所には二百四十人がいた。 その二百四十人のうち、日本に帰れたのは八十人だけで、残りの百六十人は帰っていない。
朝鮮人に千円を渡せば日本に行く船に乗れると言われて、 千円を渡して収容所を出ていった人は、一人も帰っていない。
彼女らは、もんぺの中に現金を縫い込んで満州から逃れてきていた。

アメリカ在住のヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんは、 十一歳の時、朝鮮半島の最北部にある羅南から日本に引き揚げた。
その体験を赤裸々に 「日本人少女ヨーコの戦争体験記 竹林はるか遠く」(ハート出版) という本に著してアメリカで出版した。

それは、 「大戦末期のある夜、小学生擁子(11歳)は、『ソ連兵がやってくる』とたたき起こされ、 母と姉・好(16歳)との決死の朝鮮半島逃避行が始まる。
欠乏する食料、同胞が倒れゆく中、 抗日パルチザンの執拗な追跡や容赦のない襲撃、民間人の心ない暴行をかいくぐり、祖国日本をめざす。
日本人引き揚げ者が味わった壮絶な体験記である。

この青森の方の話とヨーコ・カワシマさんの著書に接して、私(西村)は、 一年前の平成二十六年五月、ストックフォルムに於ける日朝局長級会談での合意文書の中に、 朝鮮半島からの日本人引き上げ者が体験した知られざる運命に符合する文言が入っているのに気付いた。
それは、 「1945年前後に、北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、残留日本人、 いわゆる日本人配偶者、拉致被害者及び行方不明者を含む総ての日本人に関する調査」 という文言中の 「1945年前後に、北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、残留日本人」である。
日本側が、日本人引き揚げ者の実体解明に関する明確な意欲を以て、この文言を使ったのかは不明ながら、 北朝鮮側が、この文言を受け入れた動機は明確である。

それは「遺骨ビジネス」だ。
即ち、北朝鮮は、 日本人の遺骨一体に対して金○○円を受け取るならば、 膨大な額の外貨を日本から獲得できると判断したのである。
即ち、膨大な人数の日本人が、終戦後の引き上げ途上で殺されて北朝鮮内に埋められているということだ。
そして、北朝鮮は、この事実を日本から金を引くために、 ストックフォルムで先行自白(語るに落ちる)したのだ。

また韓国域内のことであるが、 私の友人のお父さんは、戦前、韓国域内で教員をしており、戦後引き上げてきた。
そして、後年、韓国の教え子達が同窓会を開いてくれた。
このような良好な環境のなかにあっても韓国域内から引き上げるときは、 愛読書の森信三著「修身教授録」しか持参できなかった。
他の総ての財産を放棄して引き上げてきたのである。
また、私は、北朝鮮域内のように抗日パルチザンからの攻撃はなかったとはいえ、 韓国域内から日本に引き揚げる前に、目の前で父親が金槌で殴り殺される経験をした人を知っている。

以上のように、朝鮮半島からの日本人引き揚げ者には、苛酷な運命が待ち受けていた。
しかし、その全容が明らかにされているシベリア抑留者と比べて、 何故、朝鮮半島からの引き揚げ者の運命は蓋をされたように知られていないのだろうか。

この疑問を解明する鍵は、 我が国を軍事占領した連合軍総司令部(GHQ)が、戦後直ちに実施した言論の検閲である。
GHQの検閲事項の第8項は、「朝鮮人への批判」を禁じているのだ。
これが、現在に至るも、朝鮮半島の日本人が如何なる境遇におかれ、 一体何万人が殺されたのか一切蓋をされて伝わらない理由である。

現在の韓国の大統領は、就任以来、朝から晩まで日本を非難してきた。そして、 「加害者と被害者の関係は、千年経っても変わらない」 と化け猫の怨みのようなことを言っている。

従って、日本は、こういう日本非難を聞き流さず、 朝鮮半島に於ける知られざる日本人同胞の悲惨な運命についての関心を喚起し、 今こそ、その歴史の実相を解明しなければならない。



加瀬英明氏『戦後の日本の原罪』

2015年05月23日 | 歴史
■「加瀬英明のコラム」メールマガジン 2015年5月23日 02:05:03JST
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戦後の日本の原罪

 日本はもう半世紀以上も、国家として原罪ともいうべき、大きな咎(とが)を負ってきた。
 私は筆をとるようになってから、台湾を擁護してきた。
毛沢東政権も、中国3000年のおぞましい政治文化によってつくられた、専制国家だから、心を許してはならないと、説いてきた。

 私は田中内閣が、日中国交正常化を強行した時に、雑誌『文芸春秋』『諸君』などの誌面をかりて、朝日新聞などが安酒に酔ったように中国熱を煽ったことを、非難した。
 翌年、いま中国通の第1人者となっている宮崎正弘氏が働いていた、浪漫社から刊行した著書のなかで、「田中首相が訪中した時の新聞の『秋晴れ 北京友好の旗高く』とか、『拍手の中しっかりといま握手 とけ合う心 熱烈歓迎』という見出しをみると、日独伊3国同盟が結ばれた後に、松岡外相がベルリンの目抜き通りを、パレードした時の新聞の熱狂的な見出しのように思えて、しかたがない」(『新聞批判入門』)と、揶揄(やゆ)した。
 あの時も、新聞はナチスドイツに憧れて、世論を煽り立てた。今度は、毛沢東だった。

 親独派にかわって、親中派が日本の進路を危いものとした。私は日中国交を結ぶのに当たって、日台関係について中国の言い成りになったことに、憤慨した。当時、中国は中ソ戦争がいまにでも起ることに震えあがっていたから、日本を強く必要としていた。
 日本の政財界も、まるで幕末の狂乱のお蔭参りの再現のように中国へ靡(なび)いて、すっかり正気を失なっていた。
中国は日本と国交を樹立するのに焦る必要があったが、日本にはまったくなかった。日中は国交がなくとも、最大の貿易相手だった。

 私は田中首相が北京空港に降り立った時の、朝日新聞の高熱によってうかされた譫言(うわごと)のような記事に、唖然(あぜん)とした。特派員が朝から酒でも呷(あお)っているのではないかと、疑った。
 「その時の重く、鋭い静寂を、何と表現したらいいだろう。広大な北京空港に、いっさいの音を失ったような静けさがおちてきた。1972年9月25日午前11時40分、赤いじゅうたんを敷いた飛行機のタラップを、黒い服の田中首相がわずかにからだを左右に振りながら降りてきた。まぶしそうに空を見上げ、きっと口を横に一文字に結んで、周首相の前にすすんだ」 「‥‥これは夢なのか。いや夢ではない」
「実際には、その時間は1分にも満たなかったはずであった。記者団の群れにまじった欧米記者たちの不遠慮な声もしていたかもしれない。しかし、その時間は、もっと長く感じられた。なんの物音もしなかったと思う。40年も続きに続いた痛恨の時間の流れは、このときついにとまった。その長い歳月の間に流れた日中両国民の血が涙が、あふれる陽光のなかをかげろうのようにのぼっていく――ふとめまいにさそわれそうな瞬間のなかでそんな気がした」

 私は「新聞記者は、どのような状況にあっても、目まいを起こしてはならない。しっかりしてほしい。それに、日本であれ、外国であれ、記者たちはいつも『不遠慮な声』をだしているものだ」(前掲の拙著)と、叱責した。

 中国はそれから40年もたたないうちに、日本へ向かって醜い牙を剥くようになった。
 この時の朝日新聞の社説の「日中新時代を開く田中首相の訪中」も、憤飯物だった。
 「日中正常化は、わが国にとって、新しい外交・防衛政策の起点とならねばならない。日米安保条約によって勢力均衡の上に不安定な安全保障を求める立場から、日中間に不可侵条約を結び、さらにその環をソ連にもひろげる。あるいはアジア・極東地域に恒久的な中立地帯を設定する。そうした外交選択が可能となったのである」

 日本は日台関係を絶って、台湾を放棄した。私は日台は一体だから、台湾が中国によって呑み込まれたら、日本が亡びると説いた。台湾は日本にとって、もっとも大切な隣国だ。
私は米中国交樹立を待って、日中国交を結ぶべきだったと主張した。

 アメリカは日本より7年遅れて、中華民国と断交して、米中国交を樹立した。この時、アメリカは米台間で領事関係を維持することを強く求めたが、中国側が「日本方式(ジャパン・フォームュラ)」しか認めないといい張ったので、従わざるをえなかった。五十年にわたって日本国民だった、台湾人の想いを裏切った、日本の罪は重い。

 しかし、アメリカ議会が台湾関係法(TRA)を制定して、政権に台湾を防衛することを義務づけた。今日まで米台関係は、台湾関係法に基く公的なものとなっている。
 私は国会がアメリカ議会に見倣(みなら)って、日本版の台湾関係法を立法するべきだと、主張してきた。1日も早く、そうしてほしい。
 そうすることによって、日本は原罪を償うことができる。

■台湾関係法(Wikipedia)
台湾関係法(たいわんかんけいほう、英: Taiwan Relations Act、略称: TRA)は、アメリカ合衆国の法律。 台湾(中華民国)に関するアメリカ合衆国としての政策の基本が定められている。 事実上のアメリカ合衆国と台湾(中華民国)との間の軍事同盟である。・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/台湾関係法



加瀬英明氏『日本の理想を実現した大東亜会議とAA会議』

2015年05月21日 | 歴史
■「加瀬英明のコラム」メールマガジン 2015年5月20日 02:02:51JST
http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi

日本の理想を実現した大東亜会議とAA(アジア・アフリカ)会議

 4月に、インドネシアのジャカルタにおいて、アジア・アフリカ会議60周年記念首脳会議が催された。バンドン会議、あるいはAA会議とも呼ばれた。
 安倍首相が日本が引き続きアジアにおける平和の構築と、アジア・アフリカの成長に貢献してゆくと、演説したが、堂々としていた。
 会議には、アジア・アフリカから約100の国と、地域の首脳が参集した。

 第1回バンドン会議は昭和30(1955)年に、29ヶ国の代表が参加して開催された。日本がサンフランシスコ講和条約が発効して、独立を回復してから、はじめて出席した国際会議となった。

 この時、私の父・俊一は政府次席代表として、会議に出席した。
 私は高校3年生だった。父がインドネシアへ出発する前に、私に「今度の会議は重光(葵)と、わたしが苦労した大東亜会議につぐ、有色民族の2回目の歴史的な会議となるものだ」と、感慨深げに語った。

 50年前のAA会議に当たっても、10年前の50周年記念会議、今回の60周年会議の時にも、日本のマスコミが大東亜会議を引き合いにだすことが、まったくなかった。残念なことである。
 大東亜会議は昭和18(1943)年に、東京にビルマ、フィリピン、インド、タイ、満州国、中国(南京政府)の首脳が、一堂に会して催された、人類はじめての有色民族のサミットだった。
 当時、東條内閣の外相だった重光葵と、政務秘書官として側近だった父が、東京・麹町の重光私邸で大東亜会議の構想を幾晩も徹夜して練って、首相に提案したものだった。

 日本は開戦の御詔勅にあるように、「自存自衛」のために戦っていた。しかし、戦争目的が自衛のためというと消極的であるから、大東亜会議は日本の役割を歴史に残すために、アジアの諸民族を解放することを、宣明することをはかったものだった。
 重光は敗戦後、A級戦犯として実刑判決を受け、日本が独立を回復した後に釈放されたが、鳩山内閣がAA会議の前年に成立して、外相に復帰した。

 父は出発する前に、「重光に晴れ舞台を踏ませたかったのに、来れないのは何とも残念だ」といった。重光外相が首席代表となるところだったが、国会会期中だったために、首相と親しい実業家の高碕達之助経済審議庁長官が、起用された。
 日本はインドネシアを敗戦の年の9月に独立させることを、決定していた。インドネシアは日本が連合国に降伏した直後の8月17日に、独立を宣言した。

 第1回AA会議は、大戦が終結してからまだ10年しかたっていなかったために、反植民地感情が奔騰するなかで開催された。父もその熱気に、あらためて驚かされた。
 会議が始まると、新興アジア・アフリカ諸国の代表たちが日本代表団の席にくると、日本が帝国主義勢力をアジアから駆逐して、民族解放をもたらしたことに対して、つぎつぎと感謝の言葉を述べた。
 昭和31(1956)年3月8日に、重光葵外相が参院予算委員会で、「太平洋戦争によって、日本は東南アジア諸国の独立に貢献した」と述べた。
 いま、岸田外相が同じ発言を行うことが、できるだろうか。
 だが、日本が先の大戦を戦ったことによって、人種平等の世界が招き寄せられたのだった。

 昭和天皇は敗戦の翌年に、側近者に対して先の戦争をもたらした原因について、つぎのように述べられている。
 「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后(ご)の平和条約の内容に伏在してゐる。(大正8年のパリ講和会議において)日本の主張した人種平等案は列国の容認する処(ところ)とならず、黄白の差別感は依然残存し加(カリフォルニア)州移民拒否の如きは、日本国民を憤慨させるに充分なものであった。
 かゝる国民的憤慨を背景として、一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業(もの)ではない。(『昭和天皇独白録』)

 平成12(2000)年に、拓殖大学が創立100周年を祝った。拓殖大学は明治33(1900)年に、海外で開拓に当たる人材を育成するために、創立された。
 今上天皇が記念式典に、行幸された。その時のお言葉のなかで、「校歌には青年の海外雄飛の志とともに、『人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし』と、うたわれています。当時、多くの学生が、この思いを胸に未知の世界へと、大学を後にしたことと、思われます」と、述べられた。
 父・天皇の想いを、語られたにちがいない。

 大東亜会議とAA会議は、日本の理想を実現したものだった。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成27年(2015)5月19日(火曜日)通算第4544号
◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
http://melma.com/backnumber_45206/

加瀬英明『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』
(ベスト新書、KKベストセラーズ)

インドもインドネシアも、日本の軍事作戦に支えられ、
次々と独立を達成し、深く日本に感謝した事実経過を知ろう

 アジアの覚醒と解放、アジア諸国を武力で侵略し、植民地として、横暴な搾取を繰り返した、人種差別政策を実行した欧米列強に正面から挑戦した日本は、破れこそしたが多くのアジア諸国から感謝された。
 ところが肝心の日本が自虐史観の罠に嵌り、そのことを自覚しないまま、アジアとりわけ中国と韓国に謝罪し続けてきた。その背後に、じつは米国があった。米国は知られて貰っては困る自らの犯罪が明るみに出ないためにも、中国・韓国の反日策動に同調し、日本を貶め続けることを黙認している。
 都合の悪い諸事実とは、いまさら言うまでもないが、フライングタイガー、フランクリンルーズベルトの狂信的個性、廣島・長崎ばかりか東京大空襲など殺戮の数々。真相の隠蔽。。。。。。

 「シェンノートは、蒋介石政権に戦闘機と、アメリカ陸軍航空隊の現役パイロットを、義勇兵として、偽装して派兵する案を、ルーズベルト政権に提出した。大統領はこの案をただちに承認した。これは、重大な国際法違反だった」(39p)。
 こればかりではない。日系アメリカ人を拘束して砂漠の掘っ立て小屋に収容した。ドイツ人にそんなことはしなかった。明らかな米国の「憲法違反」で、人種差別だった。
 捕虜となった日本兵を機関銃で殺戮したり、人道上の犯罪をアメリカ兵はくるったように各地で展開した。
 こうした不都合が事実が山のようにあるが、戦後日本はこれらのことで米国に抗議したりはしなかった。まさか、捕虜を虐待するなどと、日本の伝統的武士道からは考えられないことだった。
 結局、ルーズベルトの罠にはまった日本は対米開戦に誘導され、各地で日本兵は武士道精神を発揮して闘い、アメリカ兵を畏怖させた。
 しかしアジア諸国は独立し、日本にふかく感謝した。こうした経過を加瀬氏は淡々と、乾いた文体で、歴史家の目をもって叙している。



第五福竜丸事件

2015年05月03日 | 歴史
1954年にビキニ環礁で核実験による「死の灰」を浴びた静岡県の漁船「第五福竜丸」の久保山さんが亡くなった。その頃当方は小学生だったが、新聞の一面に写真とともに報道されていたのを覚えている。
だが、このほど久保山さんの直接の死因は「死の灰」ではなく、輸血によって感染した肝炎だった疑いがあることがわかった。清潔な輸血であれば死ぬことはなかったということだ。もっとも、急性の放射線障害のため余儀なく輸血をすることになったので遠因ではあるかも知れない。
長らく信じ込んでいた「死の灰」だったが・・・
第五福竜丸の死因は「死の灰」ではなかった
2015年05月01日(金)11時09分 ニューズウィーク 池田信夫
http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2015/05/post-925.php

 今年の日本記者クラブ賞の特別賞に、南海放送(愛媛県)の制作したテレビ番組「放射線を浴びたX年後」が選ばれた。受賞理由は「太平洋での米国の水爆実験による漁船被ばく問題を10 年以上も番組や映画を通じて追及した」となっている。

 地方民放がドキュメンタリーを制作することは困難であり、しかも60年前の事件を取材するのは大変だったと思う。私はその番組を見ていないが、1954年にビキニ環礁で核実験による「死の灰」を浴びた静岡県の漁船「第五福竜丸」の事件を追跡し、その他にも多くの漁船が核実験で被曝した事実を明らかにしたものだ。

 第五福竜丸は水爆実験の立入禁止海域で操業していたため、核爆発によって飛散した大量の放射性物質を浴びた。この結果、乗組員23人に放射線障害が起こり、そのうち無線長の久保山愛吉が半年後に死亡した。これを読売新聞が「死の灰の犠牲者」と報じ、放射能の危険性を示す出来事として、世界的なニュースになった。

 しかし病理解剖によって判明した久保山の死因は肝炎であり、放射線で起こる病気ではない。高田純『核爆発災害』によれば、久保山の肝臓に蓄積されていた放射能は130ベクレル/kgで通常の値(120ベクレル)とほとんど変わらなかった。

 他の22名の船員についても放射線医学総合研究所が長期にわたって追跡調査をしたが、2003年までに死亡した12名の内訳は、肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名で、ほぼ全員に肝機能障害がみられた。放医研は2005年の年報で、次のように報告している。

船員の被曝した推定線量は1.7~ 6.0Gyであった。最近では平成15年5月に1名が肝癌で死亡、これまでに死亡者12名となった(内訳は肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名)。肝機能異常が多くの例に認められ肝炎ウイルスの検査では、陽性率が非常に高い。しかし、腹部造影CT検査などでは肝細胞癌などの悪性腫瘍の所見は認めなかった。

 また2008年の年報では以下のように述べている。

私どものこれまでの研究調査の中では、おそらく免疫機能がかなり落ちていた為にウイルス感染に影響していた可能性があると考えていますが、具体的にどの程度影響があったのかという事は私どもの調査では分かっていません。ただ、おそらく可能性として、肝臓障害の比率から輸血による障害の可能性があったであろう、と考えています。

 このように彼らの症状は、輸血が原因だったと推定される。当時は売血された血液を輸血に使い、注射針も使い回していたので、肝炎に感染したものと考えられる。特に急性の放射線障害の出ていた久保山は、全血液を輸血で入れ替えたため、血液感染で肝炎になった疑いが強い。

 南海放送の番組では、核実験の当時マーシャル諸島の近海にいた日本の漁船の乗組員に取材し、操業していた992隻の漁船のうち、548隻が放射性物質を浴びたという。しかし立入禁止区域の中で操業していたのは第五福竜丸だけで、それでも爆心地から150kmも離れていたので、それ以外の漁船にそれほど多くの「死の灰」が降ったとは考えられない。

 しかも500隻以上の船が被災したとすれば、乗組員に多くの癌が発生するはずだが、南海放送の調査した241人の乗組員のうち、死者は77人で、そのうち癌による死者は26人だったという。日本人の3人に1人は癌で死ぬので、これはその平均値に近い。

 アメリカ政府も追跡調査を行なったが、ビキニ環礁の周辺にいた船の中で肝機能障害が大量に発生したのは第五福竜丸だけで、マーシャル諸島の住民にも核実験を行なった作業員にも、発癌率の上昇はみられない。

 しかし当時メディアが「第五福竜丸の悲劇」を派手に報道し、世界にもその名前が知られたため、核兵器=核実験=核物質というイメージができ、「死の灰」の神話が一人歩きしてしまったのだ。この事件をヒントにして、核実験による突然変異で生まれた怪獣として活躍したのがゴジラである。

 もちろん核兵器の破壊力はきわめて大きく、核軍縮は必要である。核実験も、最近は地上では禁止されている。しかし放射線のリスクは、当時考えられていたほど大きくないことがわかってきたのだ。原爆投下後に広島市や長崎市に入った人も大量の「死の灰」を浴びたが、彼らの平均寿命は全国平均より長い。

 数千ミリシーベルトの放射性物質を浴びた第五福竜丸の乗組員の健康被害がこの程度なのだから、1ミリシーベルト程度の除染に巨額の予算をかけるよりも、被災者を帰宅させて生活を正常化したほうがいい。被爆国として世界に影響力をもつ日本から、正しい情報を発信することが、歴史に対する日本人の使命だろう。



「下関条約120周年 国民の集い」は盛況

2015年04月22日 | 歴史
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成27年(2015)4月22日(水曜日)通算第4522号
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「下関条約120周年 国民の集い」に愛国者つどう
雨にもかかわらず超満員の会場は「歴史戦」の熱気につつまれた


「下関条約120周年 国民の集い」 に愛国者つどう
 四月十七日の「下関条約一二〇周年 日清戦争勝利 国民の集い」はあいにくの雨模様で出足が心配されたが、会場はほぼ満員となり、盛況でした。

会は国歌斉唱、加瀬英明さんの開会の辞に始まり、中村彰彦、渡邊惣樹両氏の記念講演、そのあと女性軍からは宮脇淳子、河添恵子さんらが駆けつけ、さらには遠方から梅原克彦(前仙台市長)と石平さん、つづいて高山正之、藤岡信勝、西村幸祐、黄文雄、室谷克実、水島総の各氏らが登壇しました。このほか所用のため、西村真吾さん、頭山興助さんが中座され、また小堀桂一郎先生は急用のため欠席でした。
時間切れとなって壇上に昇る時間が割愛となった先生方も大勢いらっしゃいました。
 (会の模様は下記サイトでスライドがあります)
http://www.jpmuseum.com/shimonoseki_120/

 第二弾は9月5日、ポーツマス条約110周年です
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 九月五日は歴史戦の第二弾「ポースマス条約 110周年、日露戦争を考える国民の集い」を開催します。
 概要は下記の通りです。
         記
 とき      9月5日(土曜日)午後二時(一時半開場)
 ところ     星陵会館 大ホール
 記念講演(敬称略、順不同)
 「日露戦争の歴史的意義を問う」      前防衛大学教授  平間洋一
   「歴史は英雄達がつくる」         拓殖大学客員教授 藤岡信勝
   「満州蒙古とは何だったのか」        近現代史研究家 宮脇淳子
 発言(登壇予定)「司馬遼太郎の虚説を衝く」(福井雄三)
「現代ロシアはどうなっているのか」(馬渕睦夫)
加瀬英明、水島総、高山正之ほか
             (スケジュールは予告なく変更されることがあります)

 (下関条約120周年国民のつどい事務局より)なお、支援金をおおくりいただいた皆様には冊子とともに決算報告を五月中旬までにお手元にお送りします。まだ精算がおわらないので、発送が遅れておりますが、五月15日ごろをメドにしております。
     □○ □▽ ◇○ ◇○  □▽○ ○○○



シナ人気質

2015年04月21日 | 歴史
シナは人類四大文明発祥の地、四千年の歴史を持つ国と習った。
あの偉人孔子様の国。シナ人は何人も孔子様の教訓を学んでいるというイメージがある。
が、それは清の時代まで。共産党がこの国を支配してから国柄は変わってしまった。
「地獄の沙汰もカネ次第」現代のシナ人は現世もあの世も徹底しているらしい。
~誰よりも中国を知る男が、日本人のために伝える中国人考~
メルマガ:石平(せきへい)のチャイナウォッチ 2015年4月17日 20:54:39JST
http://www.seki-hei.com

金、外車、豪邸、愛人…先祖への供物に映る中国人の価値観 「腐敗は永遠に不滅…」

今月5日は中国の清明節である。
古くからの祭日で先祖の墓参りをする日だ。
「文革」の時代、それは「封建的迷信」として禁じられていたが、 今や「民族の伝統」として復活し盛んになっている。

日本の場合、お盆などで先祖の墓参りをするときは 花を持っていくのが普通だが、中国では事情が違う。
銅銭をかたどった紙の「冥銭(めいせん)」を 先祖の墓に持ってゆき、燃やすという昔からの習わしがある。
先祖があの世でお金に困らないための供えだ。
今は冥銭もかなり進化して、 額面の高い「人民元」や「米ドル」の市販品が主流となっている。

今年の清明節、「人民元百億元」の冥銭があちこちで「発行」され、 「9800億元」のモノまで出回っている。
日本円にして約19兆円の額面だが、 それを「額面通り」に受け取れれば、 ご先祖様(さま)は一気に冥府一の大金持ちとなろう。

こうした巨額の冥銭に負けないように、 「冥府専用のクレジットカード」を作って販売する業者もある。
利用金額無制限のゴールデンカードで、 先祖はそれを手に入れれば、
冥府での「大富豪生活」を永遠に楽しめるわけだ。

冥府での「良い生活」に必要な「贅沢(ぜいたく)品」を 供え物として持っていく人も多い。もちろん全ては紙の作り物であるが、 最新鋭のiPhoneから運転手付きの外車(模型)まで何でもある。
美女の紙人形の背中に「愛人」と書いて先祖に供える人もいる。
その際、先祖への心遣いから精力剤の「引換券」を添えるのは普通である。
高級別荘の紙模型も供え物として大人気である。
大抵はプール付きの豪邸で、中には男女の使用人や 愛人の「第2号、第3号」の紙人形がきちんと備えられている。
先祖は別荘の中で「酒池肉林」の生活を楽しめる。

このように墓参りをする今の中国人たちは、 花の一束で先祖への気持ちを伝えればよいとは考えていない。
ご先祖様を喜ばせるためには、お金はもちろんのこと、 高級外車も豪邸の別荘も美女の愛人も必要だと彼らが思っている。

もちろんそれは、墓参りをする人々自身の欲望の反映であり、 現世における彼ら自身の価値観の投影でもある。
生きている人たちはお金や高級外車、美女の愛人、 豪邸の別荘を何よりも欲しがっているからこそ、 それらのモノに最高の価値があると思っているからこそ、 先祖への感謝の気持ちを込めてこのような供えをしているのであろう。

赤裸々な欲望を満足させるモノに最高の価値がある。
これは今の中国人の「普遍的な価値観」なのである。

人々は先祖に前述のような供え物を捧(ささ)げるのに もう一つの思惑がある。先祖に「大富豪の生活」を提供する見返りとして、 今度は自分たちも先祖からのご加護でこ のような生活ができるようになるのを願っているのである。

その際、人々と先祖との関係は、お金と高価な贅沢品を介した 一種の「賄賂の収受」と化している。この世で大富豪となるためには、 まず党と政府の幹部に賄賂を贈って 彼らから金もうけのチャンスを与えてもらうのと同じように、 ご先祖様にお金と別荘と美女をちゃんと供えれば、 それらのモノはいずれか自分たちの手に入ってくるのではないか、 という期待が人々の心にあるのである。

そういう意味では、「腐敗」というのは そもそも現代中国人の価値観の一部であり、 中国流の即物的な実利主義精神に深く根ざしているものである。
党と政府の幹部における腐敗の蔓延(まんえん)は、 このような文化的背景があってのことであろう。

従って習近平政権が腐敗の撲滅にいくら力を入れても、 腐敗は撲滅されることはまずない。
中国人の精神と文化を変えない限り、腐敗は「永遠不滅」なのである。
( 石 平 )

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成27年(2015)4月21日(火曜日)通算第4521号
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◆書評 ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆ 

中国のもっとも重要な伝統は科挙を産んだ宗族制度だった
宗廟も廃墟となる懼れ、人々は本気で宗教心をすてた。ならば行き着く先は?

石平『中国人はなぜ「お金」しか信じないのか』(KKベストセラーズ)

 いきなり文化的本質論の議論となる。
 石平氏は本書のなかで、まずこう言う。
 「王朝の交代、血で血をあらう動乱を何度も繰り返してきた中国には、真の意味での『国家』は存在しなかった。そんな中国において数千年間、人々の思考、行動原理を支えてきたのが、『家族中心主義』であり、『宗族社会』だった」
 典型は中国版「平家物語」で落ち武者たちは福建省と広東省の境にある山奧へ流れ着き、地付きの人からは「客家」とよばれた。
楕円形の巨大な土楼を築き、中庭に田畑を耕し、山羊や豚を飼った。家族は宗族を単位にまとまって自給自足の暮らしを続けた。
 評者(宮崎)は、福州から夜汽車にのって龍岩というへんぴなところへ行き、タクシーを雇って土楼群を見に行ったことがあるが、いまやすっかり観光地(世界遺産)、入場料金が3000円ほど徴収される。
客家ほどではなくとも、一族が集団で暮らし、墓地を同じ場所とする。これが「宗廟」である。
宗族制度とは、一族の中に優秀な子どもがいれば、皆で金を出し合って学校へ送り出し、科挙の試験をうけさせ、一族の名誉とした。科挙選抜の原動力となり、科挙を引退すると「郷神」とよばれ、その土地の統治者でもあった。

こうした中国古来の伝統が崩れた。
 破壊したのは毛沢東の共産主義で「革命」と称して、農村へ行くと地主と郷神を人民裁判にかけて処刑した。これで農村に知識人は不在となった。
家族主義を壊したのは密告制度だった。
 改革開放以後は「お金」が宗教となる。ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれ、ペルシア、アゼルバイジャン、インドの奥地にいまも残る。イランにはヤスドという街に、まだ火の消えない神殿がある。この土着的な宗教の上に、イスラム教が流れ込んで、イランはシーア派となり、インドも世俗イスラムとはやや趣がことなるイスラム、それは日本にしても土着の自然信仰の伝統が築かれたあとに仏教が入ってきた。オリジナルの仏教と日本のそれは大きく異なり、原理原点的な仏教は大英博物館にある。
 仏教発祥の地はインドだが、いまのインドには影も形も残っていない。
 釈迦のうまれたルンビニはネパールに残るが、イスラム教徒のメッカ巡礼のような、仏教徒が必ず訪れる場所とはなっていない。

 ▼道教はどこへ行ったのか?

 共産革命前まで、中国の伝統的な宗教は儒教ではなく道教である。道教が尊んだ価値は家族第一主義、よそ者は信じないが血縁で結ばれた、血の絆は固く、だからこそ宗族による宗族だけの宗家信仰が蔓延していた。この伝統が墓地の設計思想に受けつがれ、宗族がまとめて祀られる宗廟があちこちに出来る。
 広州市のど真ん中にある「陳家書院」は有名な観光地だが、あれは陳一族の宗廟である。この宗廟が常識とされ、華南ではどこにでもあった。
 広州の南、番寓にはいまも「留耕堂」という有名な宗廟があるが、タクシーを雇って行ってみると、建物だけのこり、清の時代の戦争の英雄だった韓氏(のちに何氏と改名)の宗廟としての機能は失われていた。ちょっと評者はショックを受け、そのことで石さんと話し合ったことがある。

雲南省の山奥、ミャンマーとの国境付近の集落にも十数もの宗廟があった。
 数年前、広州市郊外の開平市から江門市にかけての郊外(市内からバスで一時間)、赤土欠(チーカン)村を訪ねたことがある(「土」と「欠」で一文字、カンと発音)。
西洋の御殿のような白亜のお屋敷がごろごろと建った場所で異様な光景を観た。結婚式が洋装で、缶がガラガラ鳴らずリムジンで街を行進する。
この村には苦力貿易で米国へ渡り、成功した故郷に錦をかざった在米華僑が金にあかせて洋館をたてあい、それが文化遺産となって世界の観光客が絶えない所だが、ここでも宗廟をまつる習慣が失われていた。

 『宗族』は家族主義、親戚尊重という血のコネクションが希釈化し、『宗廟』への信仰心が薄れた、最大の理由が共産革命による伝導破壊、家族制度は密告のよって破壊され、つぎに宗廟への価値喪失は海外華僑の三世、四世、五世がアメリカ的価値観を身につけ、中国語をまったく喋ろうともせず、中国を汚いと観ていることにより宗族の絆が完全に壊されたからなのである。

  そして宗族信仰がこわれ、何も文化的歴史的伝統が残らない中国で新しい宗教とは、他人も家族も信じない、強いて信仰の対象があるとすれば、カネになった。
銅銭の巨大なオブジェが中国の津々浦々の地方都市へ行くと歩行者天国に飾られ、シンガポールのチャイナタウンへ行くと世界最古の石銭が飾られている。世界どこでも、中国人の信仰の対象が何であるかをしることができる。
拝金主義の中国は人間がさもしくなり、その精神は枯れ、寂寥たる曠野となって、この行き着く先は世界の破壊であろうか。

 ともかく石平さんの新刊を読んで副次的に連想したのは、こうした拝金主義の中国がAIIBを設立するなどと言っても、銀行の基盤は「信用」であり、その見えない価値観をいかにして、かれらは作りだし、その信用のネットワークを構築し、銀行業務を拡大できるのだろうかという疑問に包まれた。
 いろいろと考えさせられる本である。



日清戦争勝利120周年

2015年04月15日 | 歴史
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成27年(2015)4月15日(水曜日)号外
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いよいよ明後日!
歴史戦に愛国者が結集する時が来ました

日清戦争勝利120周年を記念して
「下関条約120周年 日清戦争を考える国民の集い」


 4月17日は「下関条約」から120周年。日清戦争勝利の日です。中国と韓国によって、「歴史戦」が仕掛けられ、日本は猛烈に貶められています。
1995年4月17日、下関において伊藤博文、李鴻章は日清戦争終結の条約を結び、賠償金ならびに台湾割譲を獲得しました。しかし朝鮮半島をめぐる戦雲はおさまることなく、十年後には日露戦争へと拡大し、ポーツマス条約へといたります。

この日清・日露戦争が世界史的に果たした意義は大きく、アジア諸国の覚醒があり、やがてインド独立運動などへ結びつくのですが、現代日本では爾後の「大東亜戦争は日本の侵略戦争だった」などとする自虐史観が依然としてまかり通っています。
GHQ史観の押しつけや戦前の図書焚書などにより国民は洗脳されたまま。まして「反日」を掲げる中国と韓国は、改竄した政治的プロパガンダをつづけ、日本を貶める「歴史戦」を世界的規模で展開しています。いつまで、この状態に日本は甘んじているのでしょうか。

心ある国民はたちあがらなければなりません。
わたしたちは4月17日という意義深い記念日に一同に参集し、自虐史観をただし、正しい歴史観をもって、よこしまな反日キャンペーンを展開する勢力に言論戦を挑みます。有志あいつどって呼びかけをおこない下記の要領で国民集会を開催する運びとなりましたので万障繰り合わせの上、ご出席願いたいと思います。


代表呼びかけ人 加瀬英明、黄文雄、石平、高山正之、西尾幹二、水島総、宮崎正弘


とき   四月十七日 午后六時(五時半開場。八時半閉会)
ところ  星陵会館二階ホール
     http://www.seiryokai.org/kaikan/map.html
資料代  千円 
記念講演  「日清戦争における武士の情けーー 伊東祐亨と立見尚文」
直木賞作家 中村彰彦
      「アメリカ外交からみた日清戦争―― 列強の外交・舞台裏の真実」
カナダ在住作家 渡邊惣樹
発言予定  梅原克彦、河添恵子、小堀桂一郎、石平、西村幸祐、西村真悟
藤岡信勝、平間洋一、藤井厳喜、宮脇淳子、宮崎正弘ほか
主催    「下関条約120年、日清戦争の意義を問う国民のつどい」実行委員会
共催    「国防問題研究会」(玉川博己 代表幹事)
 「頑張れ日本! 全国行動委員会」(水島総 幹事長)
後援    士気の集い、呉竹会、正論の会、史実を世界に発信する会、国民新聞社
      日本・李登輝友の会、日本文化チャンネル桜、新しい歴史教科書をつくる会

 どなたでも予約なしでご参加いただけます!

<呼びかけ人>(敬称略、五十音順。「代表呼びかけ人」と重複しません)
阿羅健一、井尻千男、伊藤哲夫、井上和彦、入江隆則、植田剛彦、潮 匡人
梅原克彦、江崎道朗、呉 善花、大高未貴、大原康男、岡田英弘、小田村四郎
小山和伸、鍛冶俊樹、葛城奈海、加藤康男、川口マーン惠美、河添恵子、川村純彦
北村良和、日下公人、工藤美代子、小堀桂一郎、酒井信彦、佐藤 守、澤 英武
新保裕司、杉原誠四郎、杉原志啓、関岡英之、高池勝彦、田久保忠衛、田中英道、堤堯
頭山興助、富岡幸一郎、中村彰彦、中村信一郎、永山英樹、西村幸祐、西村真悟
坂東忠信、樋泉克夫、平間洋一、福井雄三、福田 逸、藤井厳喜、藤岡信勝
ペマ・ギャルポ、馬渕睦夫、三浦小太郎、宮脇淳子、三輪和雄、村松英子、室谷克実
茂木弘道、山口洋一、山田恵久、屋山太郎、柚原正敬、渡部昇一、渡邊惣樹
 (平成二十七年四月十三日現在)


 << 当日のプログラム >>
 総合司会 佐波優子
十八時00分  国歌「君が代」斉唱  開会の辞 加瀬英明
十八時一〇分  記念講演
 「日清戦争における武士の情けーー 伊東祐亨と立見尚文」
直木賞作家 中村彰彦
十八時五〇分 「アメリカ外交からみた日清戦争――列強の外交・舞台裏の真実」
カナダ在住作家 渡邊惣樹
十九時三〇分  呼びかけ人からの発言(予定)梅原克彦、河添恵子、宮脇淳子
小堀桂一郎、石 平、西村幸祐、西村真悟、藤岡信勝、平間洋一
藤井厳喜、高山正之、室谷克実、樋泉克夫、宮崎正弘他
(時間の関係で割愛される場合もあります)
二十時十五分  閉会の辞  水島総
         「海ゆかば」斉唱
           (プログラムは予告なく変更されることがあります)

 この告示の転送歓迎です。メール、ツィッター、フェイスブックなどで御発信下さい。
転載も大歓迎です。
   ○○◎□ ◎□ ◎◇◇○
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なお当日は記念講演の渡部先生と中村先生の当該書籍の頒布ならびにサイン会も予定
 開会は1730です。開演は1800 終演は2030の予定です
 当日は平日に付き、終了後の懇親会は有りません



加瀬英明氏「一般宮中参賀と日本」

2015年01月09日 | 歴史
■「加瀬英明のコラム」メールマガジン 2015/01/08
http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi

一般宮中参賀と日本

 今年も1月2日に、皇居に8万1千人の善男善女が参賀に訪れて、万歳を唱えた。日の丸の小旗の波が、美しかった。
天皇陛下のお姿は、いつ拝しても神々しい。

 世界に多くの国々があるが、日本だけが125代にわたる御皇室を、戴いている。御皇室こそが、日本を日本たらしめている。
 どうして、日本が開闢(かいびゃく)して以来、天皇がもっとも崇められるべき人である「すめらみこと」として、尊ばれてきたのだろうか?

 神道は万物に神霊が宿っているとする、精霊信仰である。
   世界の先進国のなかで、日本においてだけ、精霊信仰がいだかれている。御皇室と神道は同じ源(みなもと)から、発している。
 日本人は太古の昔から直感によって、万物に神霊が宿っていると、信じてきた。日本人は全宇宙が神聖だと、直感したのだった。

 ところが、長いあいだにわたって、神道には名前がなかった。神道という言葉が日本語に加わったのはかなり最近のことで、日本の2番目に古い歴史書である『日本書紀』(西暦720年)のなかに、はじめて現われる。
 神道は日本が生まれた時から存在してきたが、仏教が伝来すると、仏教と区別するために、「神道」と名づけられた。
仏教とともに、日本に中国大陸から、論理的な考えかたが入ってきた。
 神道は直感によっているから、知性を働かせる論理と、無縁である。そのために神道には、仏教や、大陸から伝わった儒教と違って、今日にいたるまで、教典が存在していない。
 仏教と儒教は、日本が発展するのに当たって、大きく役立ってきた。仏教と神道は争うことなく、互に学びあって混った。

 中国やヨーロッパや中東では、論理が直感を圧倒するようになったのに、日本では神道が今日まで力をまったく失わなかった。
 中国やヨーロッパや中東では、論理や、詭弁による争いが絶えることなく、論理を用いて組み立てられた善と悪を振りかざして、権力を争奪して、王朝が頻繁に交替した。

 日本人は直感を大切にしてきたから、論理によって支配されることがなかった。日本では人が身勝手に決めることができる善悪ではなく、何が清らかで美しいか、何が穢(きたな)くて汚れているかという感性を、尺度としてきた。
 日本では天照大御神が最高神だが、中国の天帝や、ユダヤ、キリスト、イスラム教の最高神と異って、宇宙を創造した万能で、絶対的な権力を握っている至高神ではない。

 日本最古の歴史書である『古事記(ふることぶみ)』(西暦712年)によれば、神々によらずに、宇宙は自らの力で、自成して誕生した。

 中国は、今日でも階級社会である。ヨーロッパにも、厳然とした社会的な差別がある。アメリカでは黒人に対する差別が行われて、大きな社会問題となっている。

 それに対して、日本は平等な社会であってきた。神々も、地上に生きている人も、同じように「みこと」とされている。

 新しい年が明けると、皇居において天皇陛下が主催される、歌会始(うたかいはじめ)が厳(おごそ)かに催される。
毎年、その前の年に御題が発表されて、全国から和歌が公募され、入選者は社会的地位や、職業の貴賤を問わずに、皇居に招かれて、両陛下や御皇族の前で入選歌が披露(ひろう)される。
 どの歌も、平和を願う祈りである。
 歌会始の歴史は、古いものだ。中世の中国やヨーロッパでは、ありえないことである。
 今年の御題は、「本」だった。

山歩きをしていると山頂に神社や祠があり、熊野古道に至っては王子巡りだ。
山麓の神社には巨木にしめ縄が張ってあり、峠や田圃の畦には道祖神やお地蔵さんがあって花が供えられ、赤いよだれかけがしてある。
高いところまでよくこんな重い石を運んだものと昔の人の篤い信仰に心をうたれる。
「日本人は太古の昔から直感によって、万物に神霊が宿っていると、信じてきた。日本人は全宇宙が神聖だと、直感したのだった。」と氏は書いておられる。
教義もなにも知らないが、神社の境内に入ると何となくありがたく頭を垂れる。
幼子には「さぁ、まんまんちゃんにアンしとき」と教え、自分もそう教えられたように気がする。

先般フランスでテロがあって出版社の社員が殺された。移民の多いヨーロッパでは異文化の軋轢が嵩じてきた。
古代からあるイスラムとキリスト教の宗教戦争の一面もある。
日本では幸い穏やかな宗教観でこんな激しい諍いはないのが有り難い。

三が日過ぎて早々、寒いのにご苦労さんと思うが某宗教の勧誘が回ってきた。
日本には強いて言えば全宇宙教がある、この上に何が必要だろうか・・・