最初に読み終わったのは半年前の2012/9/15(読書メーターの記録による)。読み直したのは今年の正月。
これまでブログエントリーにしなかったのは、ちゃんと読めたかどうか不安だったせいだ。しかし、今回、本屋大賞も取り逃がしたこともあり、感想書きに挑戦してみることにした。
まず、この小説が伊藤計劃のものか、円城塔のものかというと、円城塔のものだと思った。それは、いきなり始まる登場人物たちの蒟蒻問答のあたりに顕著に出ていると思う。問答の内容は伊藤計劃由来のものかもしれないが、その書き方は明らかに円城塔。しかし、文章も伊藤計劃そのものと読む読者も多いようなので、二人の合作として成功しているのだろう。
エピローグで、屍者であるフライデーがワトソン博士に対する想いを語るシーンは円城塔の伊藤計劃への想いと重なり、とても感動的だ。この小説そのものが、亡き伊藤計劃の想いを受け止め、円城塔が自動記録者として書きとめたものと見るのは自然なことだろう。
そして、この物語すべてが、円城塔による伊藤計劃論なのだと言えるだろう。
ふたりの係わり合いに関する感傷的な感想はこの程度にして……。
この小説でもっとも興味深かったのは“情報”に関する言及だった。実体化する情報。言葉を解釈する言葉。書があることは著者を必要としない。このあたりの記述には「うぉー」と叫び声を上げざるを得なかった。
人間の意識は人間という種が固有に持つものではない。それは細菌によって親から子へ垂直感染する疫病のようなものだ。それを細菌と呼ぶのに抵抗があるならば、「X」とでもなんでも呼べばいい。意識に対するこの解釈は、たしかに伊藤計劃っぽい。
Xの実体は青い結晶として描写され、そこから(19世紀当時にやっと発見された)細菌ではなく、(その当時には発見されていなかった)ウィルスであるとの仮説(読み方)が割と一般的なようだ。
しかし、自分は先の“情報”に関する言及や、最後のロンドン塔崩壊のエピソードから考えて、これこそ結晶化した“情報”なのではないかと考える。すなわち、言葉を解釈する言葉。それが意識であると。
死者を屍者に変える霊素も、いわばプログラムであり、“情報”に過ぎない。その延長線上に人間の意識というものがあるという考え方は、別に違和感も無いだろう。そして、それが垂直“感染”するのも、まったく自然だ。
いや、工学的なアナロジーを自然といってしまうのは皮肉だけれど……。
そして、“ザ・ワン”の正体。
ザ・ワンはフランケンシュタイン博士が作った最初の屍者である。はずなのだが、読み直すとこれが怪しい。そもそも、作中においても、メアリ・シェリーが書いたのは事実をもとにしたフィクションであり、どこまで事実に基づいているのかわからない。そもそも、フランケンシュタイン博士はザ・ワンを屍者として作り上げたのではなく、ザ・ワンから屍者を作り上げたのではないか。
では、ザ・ワンはどこから来たのか。それはもう明らかだろう。彼こそ、本当にアダムだったのだ。彼をアダムと呼ぶのは、比喩的な意味ではなく、事実だったのではないか。そして、彼がアダムであるという理由は、生物学的な意味ではなく、それこそ情報的な意味、すなわち、彼がすべての人間の“意識”の祖であったのではないか。
ザ・ワンの言動や行動理由がいまひとつわからない部分があったのだけれど、そう考えた方がいろいろつじつまが合うような気がする。
屍者は低賃金労働者のアナロジーであり、すなわち、移民者や下層民のアナロジーである。また、屍者は産業革命における機械のアナロジーであり、計算機のアナロジーであり、すなわち、“情報”のアナロジーである。
そういった形で、いくつものアナロジーが埋め込まれ、いろいろな読み方ができる物語であるが、意識を持たない労働者としての屍者と、感染する病に過ぎない意識とによって、読者の根源的価値観を揺さぶる。これはそういう物語である。