『インセプション』 - goo 映画
(C)2010 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
他人の夢の中に入って何かするという話は、小説ではディックやら夢枕獏やら宮部みゆきやらが手垢のつくくらいにやり尽くしている感があるが、ここまで綺麗に映画化したものは、これまでに無かったのではないだろうか。
「ポスト・マトリックス」といわれるのもむべなるかな。これは巨大ロボットものがマジンガーZ⇒ガンダム⇒エヴァンゲリオンというかたちで時代を塗り替えていったように、マトリックス系の人工現実ものを一変させる力を持つ映画だといっても過言ではないが過言かもしれない(笑)
今生きている世界が本当の現実では無いという意識は、厨ニ病的見地からも、希望は戦争的見地からも、あまりにも甘美で誘惑度が高い。それに対し、エヴァ(旧劇場版)がヲタクの姿をスクリーンへ映し出すことによって夢から醒めろと諭したように、インセプションは観客を現実の世界へキックアウトする。それでいながら、この世界が現実ではないかもしれないというミームはしっかりと脳髄の奥深くに植え込まれ(inceptionされ)ているのだ。
以下、果てしなくネタバレ……
アクションシーンを多用しながらも、夢の中で繰り広げられるのは、父親との和解であり、妻との思い出の昇華である。くしくも、劇中で誰かが言っていたように、まるでなにかのセラピーであるかのようだ。
しかし、これがおぞましさを残すのは、すべてが夢の中での出来事であるがゆえに、偽者であり、いかさまであるということだ。
ロバートが金庫の中から取り出した風車はコブのチームによって作られた小道具であり、父親は用意周到に設計された影でしかない。このため、ロバートは父と和解したという夢を見ただけに過ぎず、実際に和解できたわけではない。ともあれ、ロバートの精神にとって、この和解の夢は救いであったに違いない。
しかし、コブの場合はどうだろう。彼は妻の亡霊を振り切り、現実に帰還することができたのだろうか。いや、やはり、セラピーとしての夢を見せられただけに過ぎないのだろうか。現実に帰還したという夢を。だとすれば、誰に……。
ラストシーンでコブがたどり着いた家(ホーム)は現実なのか、まだ夢の中なのかで、観客は答えの無い議論を続ける。これはそのような意図を持って作られた映画だ。しかし、待って欲しい。コブの他にも目覚めたのかどうかが議論されるべき登場人物がいる。渡辺謙演じるサイトーだ。
この映画は、故・野田昌弘(だと思ったけど)が言う「大嘘は吐いても小嘘は吐くな」というSF的なモラルに沿って作られている。共通の夢を見させる機械と、それによる夢へのダイブという大嘘な設定を軸に、夢見る機械の特性や限界を観客に提示し、それを忠実に守る。小嘘を吐かずに細かい整合性を守ることにより、荒唐無稽な大嘘に現実感を与えているのだ。ノーラン監督ができるだけ小嘘を吐かず、演出よりも整合性を取ったのだとみなした場合、サイトーの加齢の理由を考えることが重要なキーポイントになるだろう。
サイトーとコブの年齢差はどのようにして生まれたのか。これは夢の世界の特性を考えた場合、サイトーの方が下層に潜ってしまったということを示すとしか考えられない。
ロバートが潜り、コブとアリアドネが追いかけた夢の世界は、本当の意味でのリンボではなく、あくまで第4層だったのではなかろうかと思える。サイトーはさらにそこを越えてリンボに落ちた。
この差は何か。それは映画の中で何度も言われている。
夢の中で死ねば、その上層の夢(第0層であれば現実)の中で覚醒することになる。このとき、上層の身体が鎮静剤で深く眠らされていたり、あるいは死んでいたりすると、覚醒することがかなわずに、どこでもない場所=リンボへとらわれてしまう。
ロバートは第3層で死に掛け、第4層へと潜ったが、ここはまだリンボではない。なぜなら、ロバートは第3層で生き返ることにより、目覚めることができたからだ。
すなわち、リンボとは、「行ってしまった場所」ではなく「帰れなくなった場所」を示すものだという解釈をしてみる。そして、本当に帰れなくなったのは誰か。もちろんサイトーである。
コブは仲間意識からなのか、自分の犯罪記録を消してもらうためか、サイトーを追って潜っていった。しかし、サイトーはこのとき、下層での時間の流れが速いために老人になってしまっている。
コブと再開した、サイトーはコブの拳銃で自殺するわけだが、そもそもどうしてサイトー自身が目覚めるためにもっと早くに自殺しなかったのかという疑問がある。これはサイトーが自分の第3層での死を知っていたため、自殺しても戻れないことを知っていた(知っていると思っていた)ためではないか。
それでは、コブはともかく、サイトーはどうやって現実まで戻ってきたのか。それまでに劇中で説明された制限事項を信じるならば、第3層で死んだサイトーは、第3層で目覚めることができないために、それより上の層まで戻ることはできないはずだ。
そして、もうひとつ。リンボ(第5層?)でサイトーが拳銃を持ったとき、“あの音楽”は鳴っていたのか?
キックに合わせて死ななければ、第0層まで一気に覚醒することはできず、覚醒が遅れれば第3層の病院爆破、第2層のエレベータ爆破、第1層のバン沈没に巻き込まれて身体が死ぬことにより覚醒ができなくなるはずではないか。
もちろん、第5層まで潜ることにより、時間の流れが速くなり、大きな違いはなくなっているのかもしれないが、それにしてもサイトーがあそこまで老化する時間である。30年や40年はたっているのだろう。
以上のようなもろもろを考えた場合、サイトーは“夢見る機械”の仕組みとしては帰還できなかったと考える方がリーズナブルである。もちろん、最後に奇跡が起きた、もしくは、経験者であるコブは、リンボからの帰還方法を知っていたという解釈もありうるが、そこはオッカムの剃刀が容赦なく削り落とす。
そして、第0層。飛行機の中で目覚めたサイトーのうつろな目。ラストシーンで回り続けるコマ。
コブもリンボに囚われ、現実に戻れていない。あの世界でのサイトーは「影」でしかない。いや、あの仲間たち全てが「影」なのかもしれない。
ロバートの物語、コブとモルの物語、そして、ラストシーンのコマの回り方を見る限り、一見してハッピーエンドに見えるのは確かだ。二人の魂は救われ、現実に戻ってくることができた。しかし、それならば、なぜサイトーのエピソードがついて回るのか。なぜ、冒頭のシーンにサイトーとの再開が描かれるのか。それこそが、物語全体を解釈する鍵なのだ。というのが、インセプションされちゃった男の独白。
(C)2010 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
他人の夢の中に入って何かするという話は、小説ではディックやら夢枕獏やら宮部みゆきやらが手垢のつくくらいにやり尽くしている感があるが、ここまで綺麗に映画化したものは、これまでに無かったのではないだろうか。
「ポスト・マトリックス」といわれるのもむべなるかな。これは巨大ロボットものがマジンガーZ⇒ガンダム⇒エヴァンゲリオンというかたちで時代を塗り替えていったように、マトリックス系の人工現実ものを一変させる力を持つ映画だといっても過言ではないが過言かもしれない(笑)
今生きている世界が本当の現実では無いという意識は、厨ニ病的見地からも、希望は戦争的見地からも、あまりにも甘美で誘惑度が高い。それに対し、エヴァ(旧劇場版)がヲタクの姿をスクリーンへ映し出すことによって夢から醒めろと諭したように、インセプションは観客を現実の世界へキックアウトする。それでいながら、この世界が現実ではないかもしれないというミームはしっかりと脳髄の奥深くに植え込まれ(inceptionされ)ているのだ。
以下、果てしなくネタバレ……
アクションシーンを多用しながらも、夢の中で繰り広げられるのは、父親との和解であり、妻との思い出の昇華である。くしくも、劇中で誰かが言っていたように、まるでなにかのセラピーであるかのようだ。
しかし、これがおぞましさを残すのは、すべてが夢の中での出来事であるがゆえに、偽者であり、いかさまであるということだ。
ロバートが金庫の中から取り出した風車はコブのチームによって作られた小道具であり、父親は用意周到に設計された影でしかない。このため、ロバートは父と和解したという夢を見ただけに過ぎず、実際に和解できたわけではない。ともあれ、ロバートの精神にとって、この和解の夢は救いであったに違いない。
しかし、コブの場合はどうだろう。彼は妻の亡霊を振り切り、現実に帰還することができたのだろうか。いや、やはり、セラピーとしての夢を見せられただけに過ぎないのだろうか。現実に帰還したという夢を。だとすれば、誰に……。
ラストシーンでコブがたどり着いた家(ホーム)は現実なのか、まだ夢の中なのかで、観客は答えの無い議論を続ける。これはそのような意図を持って作られた映画だ。しかし、待って欲しい。コブの他にも目覚めたのかどうかが議論されるべき登場人物がいる。渡辺謙演じるサイトーだ。
この映画は、故・野田昌弘(だと思ったけど)が言う「大嘘は吐いても小嘘は吐くな」というSF的なモラルに沿って作られている。共通の夢を見させる機械と、それによる夢へのダイブという大嘘な設定を軸に、夢見る機械の特性や限界を観客に提示し、それを忠実に守る。小嘘を吐かずに細かい整合性を守ることにより、荒唐無稽な大嘘に現実感を与えているのだ。ノーラン監督ができるだけ小嘘を吐かず、演出よりも整合性を取ったのだとみなした場合、サイトーの加齢の理由を考えることが重要なキーポイントになるだろう。
サイトーとコブの年齢差はどのようにして生まれたのか。これは夢の世界の特性を考えた場合、サイトーの方が下層に潜ってしまったということを示すとしか考えられない。
ロバートが潜り、コブとアリアドネが追いかけた夢の世界は、本当の意味でのリンボではなく、あくまで第4層だったのではなかろうかと思える。サイトーはさらにそこを越えてリンボに落ちた。
この差は何か。それは映画の中で何度も言われている。
夢の中で死ねば、その上層の夢(第0層であれば現実)の中で覚醒することになる。このとき、上層の身体が鎮静剤で深く眠らされていたり、あるいは死んでいたりすると、覚醒することがかなわずに、どこでもない場所=リンボへとらわれてしまう。
ロバートは第3層で死に掛け、第4層へと潜ったが、ここはまだリンボではない。なぜなら、ロバートは第3層で生き返ることにより、目覚めることができたからだ。
すなわち、リンボとは、「行ってしまった場所」ではなく「帰れなくなった場所」を示すものだという解釈をしてみる。そして、本当に帰れなくなったのは誰か。もちろんサイトーである。
コブは仲間意識からなのか、自分の犯罪記録を消してもらうためか、サイトーを追って潜っていった。しかし、サイトーはこのとき、下層での時間の流れが速いために老人になってしまっている。
コブと再開した、サイトーはコブの拳銃で自殺するわけだが、そもそもどうしてサイトー自身が目覚めるためにもっと早くに自殺しなかったのかという疑問がある。これはサイトーが自分の第3層での死を知っていたため、自殺しても戻れないことを知っていた(知っていると思っていた)ためではないか。
それでは、コブはともかく、サイトーはどうやって現実まで戻ってきたのか。それまでに劇中で説明された制限事項を信じるならば、第3層で死んだサイトーは、第3層で目覚めることができないために、それより上の層まで戻ることはできないはずだ。
そして、もうひとつ。リンボ(第5層?)でサイトーが拳銃を持ったとき、“あの音楽”は鳴っていたのか?
キックに合わせて死ななければ、第0層まで一気に覚醒することはできず、覚醒が遅れれば第3層の病院爆破、第2層のエレベータ爆破、第1層のバン沈没に巻き込まれて身体が死ぬことにより覚醒ができなくなるはずではないか。
もちろん、第5層まで潜ることにより、時間の流れが速くなり、大きな違いはなくなっているのかもしれないが、それにしてもサイトーがあそこまで老化する時間である。30年や40年はたっているのだろう。
以上のようなもろもろを考えた場合、サイトーは“夢見る機械”の仕組みとしては帰還できなかったと考える方がリーズナブルである。もちろん、最後に奇跡が起きた、もしくは、経験者であるコブは、リンボからの帰還方法を知っていたという解釈もありうるが、そこはオッカムの剃刀が容赦なく削り落とす。
そして、第0層。飛行機の中で目覚めたサイトーのうつろな目。ラストシーンで回り続けるコマ。
コブもリンボに囚われ、現実に戻れていない。あの世界でのサイトーは「影」でしかない。いや、あの仲間たち全てが「影」なのかもしれない。
ロバートの物語、コブとモルの物語、そして、ラストシーンのコマの回り方を見る限り、一見してハッピーエンドに見えるのは確かだ。二人の魂は救われ、現実に戻ってくることができた。しかし、それならば、なぜサイトーのエピソードがついて回るのか。なぜ、冒頭のシーンにサイトーとの再開が描かれるのか。それこそが、物語全体を解釈する鍵なのだ。というのが、インセプションされちゃった男の独白。