美の巨人たち:国宝 松林図屏風 (長谷川 等伯)
東京国立博物館に所蔵される国宝松林図屏風の鑑賞ポイントを本番組風に
解説していただいた。
面白い説明は、なんとも新たな干渉方法を提案していただいたようだ。
この国宝松林図屏風は、長谷川等伯によるものとされる。
墨絵の世界、松林と余白だけの不思議な世界である。
それでいて何ともいえない、ピリットした空気が立ち込める
不思議な絵であるという程度の記憶しかなかった。
私は、この松林図(実物はみたことながない)を書物で見たときの印象が
上記のようなものであった。長谷川等伯といえば、京都の智積院を
訪れた折、その息子の襖絵とともに、拝見した。
狩野派ぶりの見事なものであった。
その等伯がかく、墨絵。
では、しっかりと、番組での解説を紐解きましょう。
長谷川等伯は、能登七尾の生まれであり、幼い頃より松林と海をみて育つ。
武家の家であったが、商家に用紙に入り、若い頃より仏像や肖像画を
描いていた。
そんな等伯が父母の死を境に、32歳で故郷を捨て、家族全員で京都に
移動した。
当時京都では、絢爛豪華な狩野派の絵画が絶頂を極めていた。狩野永徳は
室町時代から連綿と続く、画風の集大成とも言える頂上に立っていた。
しかし、時代は等伯に味方した。
千利休との出会いは、わびさびを重視する千利休の境地こと、等伯が
狩野派と対立する世界に導いたといえる。
絢爛豪華な狩野派より、等伯の画風が利休好みであり、利休の後ろ盾を
得て、頭角をあらわす。
永徳の死後、秀吉の喚起を受けた利休の切腹にて、絵画の世界にも、
なにやらきな臭いものが漂い始めていた。
そのような環境下で長谷川等伯は都一の絵師と評されるようになり、
息子長谷川久蔵とともに、智積院の襖絵を描いた。
番組では、智積院の襖絵完成後、九死した久蔵の死を狩野派による
暗殺と断定している。
時の権力者の死による栄枯盛衰と権謀術数の世界であろう。
ないとは言い切れない。
独り息子を無くした等伯は同時に画風の継承者も失ってしまった。
これは、父として、画人として、最大のピンチ。
いや、一代限りの彗星のごとき煌きしか与えられない現実に
大きな嘆きと怒りが内在したのではなかろうかと芋太郎は推察する。
その心の襞が今日の一枚に発露しているのではなかろうか。
さて、番組ではさらに進んで、松林図の余白である、紙に注目した。
実は、この左右対の屏風は、微妙に、張り合わせがずれている。
むろん、ずらす事により生まれた余白の効果的配置を計算に入れた
構図である。
等伯亡き後、下書きとして描かれていた松林図を屏風という
最適のキャンパスに移築した人物がいる。
むろん、この人物を推定することは出来ない。
しかし、この人物がいて、初めて、国宝松林図屏風は生まれたとも言える。
狩野派が日本画團から葬り去ろうとした等伯の絵。
これをこの人物の密かな、的確な行為により構成に送り出した。
恐らく、構成に等伯の美を継承させることが目的であったのだろう。
等伯の絵を埋もれさせたくないという一心で。
芋太郎は、想像するのであるが、おそらく狩野派の誰かであろうと。
相当の画才と英断がなければ、出来ない行為である。
大勢に逆らう事を選択できる人物であり、当時に自らも相当の画才を
もち、等伯の真意を推察できる人物。
このような条件を持てる人物はそういない。
話は、松林図にもどろう。
松林は近くで見ると、相当に荒々しい。
まるで、嘆きと怒りを絵筆に載せたように。
それでいて、遠くから見る松林は、ひっそりとたたずみ、山頂からの
霊気を感じさせ、松林の生命力を感じさせる。
番組では、物の哀れと諸行無常をいう表現で解説していた。
おそらく、この絵一枚に長谷川 等伯の心の全てを乗せたのでは
なかろうか。
荒々しさと生命の力。
故郷を共に出た家族の哀れな顛末と等伯の置かれた世界は、
まさにこの松林ではなかろうか。
松林そのものが等伯であり、久蔵であり、家族ではなかろうか。
そして、取り囲む冷気全体が等伯の置かれた孤独の世界ではなかろうか。
故郷の源風景に寄せた思いと心の世界。
見るものに、感動を与える、絵の余韻こそが、人を動かし、
松林図屏風を完成させたのではなかろうか。
死してなお、語りかけた等伯の凄さを感じる。
人の素晴らしさを祝いたい。
東京国立博物館へ
京都国立博物館へ
東京国立博物館に所蔵される国宝松林図屏風の鑑賞ポイントを本番組風に
解説していただいた。
面白い説明は、なんとも新たな干渉方法を提案していただいたようだ。
この国宝松林図屏風は、長谷川等伯によるものとされる。
墨絵の世界、松林と余白だけの不思議な世界である。
それでいて何ともいえない、ピリットした空気が立ち込める
不思議な絵であるという程度の記憶しかなかった。
私は、この松林図(実物はみたことながない)を書物で見たときの印象が
上記のようなものであった。長谷川等伯といえば、京都の智積院を
訪れた折、その息子の襖絵とともに、拝見した。
狩野派ぶりの見事なものであった。
その等伯がかく、墨絵。
では、しっかりと、番組での解説を紐解きましょう。
長谷川等伯は、能登七尾の生まれであり、幼い頃より松林と海をみて育つ。
武家の家であったが、商家に用紙に入り、若い頃より仏像や肖像画を
描いていた。
そんな等伯が父母の死を境に、32歳で故郷を捨て、家族全員で京都に
移動した。
当時京都では、絢爛豪華な狩野派の絵画が絶頂を極めていた。狩野永徳は
室町時代から連綿と続く、画風の集大成とも言える頂上に立っていた。
しかし、時代は等伯に味方した。
千利休との出会いは、わびさびを重視する千利休の境地こと、等伯が
狩野派と対立する世界に導いたといえる。
絢爛豪華な狩野派より、等伯の画風が利休好みであり、利休の後ろ盾を
得て、頭角をあらわす。
永徳の死後、秀吉の喚起を受けた利休の切腹にて、絵画の世界にも、
なにやらきな臭いものが漂い始めていた。
そのような環境下で長谷川等伯は都一の絵師と評されるようになり、
息子長谷川久蔵とともに、智積院の襖絵を描いた。
番組では、智積院の襖絵完成後、九死した久蔵の死を狩野派による
暗殺と断定している。
時の権力者の死による栄枯盛衰と権謀術数の世界であろう。
ないとは言い切れない。
独り息子を無くした等伯は同時に画風の継承者も失ってしまった。
これは、父として、画人として、最大のピンチ。
いや、一代限りの彗星のごとき煌きしか与えられない現実に
大きな嘆きと怒りが内在したのではなかろうかと芋太郎は推察する。
その心の襞が今日の一枚に発露しているのではなかろうか。
さて、番組ではさらに進んで、松林図の余白である、紙に注目した。
実は、この左右対の屏風は、微妙に、張り合わせがずれている。
むろん、ずらす事により生まれた余白の効果的配置を計算に入れた
構図である。
等伯亡き後、下書きとして描かれていた松林図を屏風という
最適のキャンパスに移築した人物がいる。
むろん、この人物を推定することは出来ない。
しかし、この人物がいて、初めて、国宝松林図屏風は生まれたとも言える。
狩野派が日本画團から葬り去ろうとした等伯の絵。
これをこの人物の密かな、的確な行為により構成に送り出した。
恐らく、構成に等伯の美を継承させることが目的であったのだろう。
等伯の絵を埋もれさせたくないという一心で。
芋太郎は、想像するのであるが、おそらく狩野派の誰かであろうと。
相当の画才と英断がなければ、出来ない行為である。
大勢に逆らう事を選択できる人物であり、当時に自らも相当の画才を
もち、等伯の真意を推察できる人物。
このような条件を持てる人物はそういない。
話は、松林図にもどろう。
松林は近くで見ると、相当に荒々しい。
まるで、嘆きと怒りを絵筆に載せたように。
それでいて、遠くから見る松林は、ひっそりとたたずみ、山頂からの
霊気を感じさせ、松林の生命力を感じさせる。
番組では、物の哀れと諸行無常をいう表現で解説していた。
おそらく、この絵一枚に長谷川 等伯の心の全てを乗せたのでは
なかろうか。
荒々しさと生命の力。
故郷を共に出た家族の哀れな顛末と等伯の置かれた世界は、
まさにこの松林ではなかろうか。
松林そのものが等伯であり、久蔵であり、家族ではなかろうか。
そして、取り囲む冷気全体が等伯の置かれた孤独の世界ではなかろうか。
故郷の源風景に寄せた思いと心の世界。
見るものに、感動を与える、絵の余韻こそが、人を動かし、
松林図屏風を完成させたのではなかろうか。
死してなお、語りかけた等伯の凄さを感じる。
人の素晴らしさを祝いたい。
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