「美の壺:昭和レトロの家」 NHK
昭和レトロの家というと、芋太郎の両親たちの世代が自分の家を
持ち出した頃のマイホームであろうか。
実は、芋太郎の子供心に、目標となる家があった。
前にも話しているが、友人の家。
それは、洋風の玄関と左脇にこじんまりした洋室・洋館が建ち、
家族が暮らす右脇から奥は、和のつくりであった。
洋室は友人の父親の書斎兼応接間であった。
大きな部屋ではなかったが、多くの書物と重厚な雰囲気が魅力的
であり、小さな子供には、異国情緒のある部屋であった。
今でこそ映画で見かける欧米書斎のミニチュアのような部屋
であった。
僕も、大人になったら、このような部屋を所有する。
これが少年芋太郎の小さな夢であった。
いまだ実現してはいないものの、書物の数と大きな机は実現して
いる。
後は、落ち着いた環境を手に入れたい。
定年前には落ち着きたいものだ。
さて、話題は、昭和レトロの家に戻る壺を番組に沿ってご紹介
いたします。
<美の壺1:新しい住み方が間取りを変えた>
昭和30年生まれ以前の方は子供の頃の思い出は、続き部屋では
なかろうか。
今でも地方の農家に行くと観られる。
芋太郎の生家も立派とはいえないが、やはり玄関から和室(広い)が
2間続き、縁側と奥廊下がありました。
同時に玄関から右にはお勝手(これまたかなり広い空間)とお風呂場
土間がありました。
さらに、後年増築し、玄関前の座敷から奥へ2間増えました。
昭和の家の前までは、座敷を通り、次の座敷へ移動することが当たり前。
しかも、客間と家族の暮らす生活空間は別である事が常でした。
昭和の家は、欧米の個人主義の息吹を模写し、サラリーマンが新に家を
取得した時代です。
それは、従来の家から異なる中廊下(現在は主流)をハブに配置し、
どの部屋にも移動できる空間の創設でした。
生活空間に対する考え方の基本理念が変わり、お客様中心の生活空間から
家族中心の生活空間に変わり、家とその居住性を楽しむように、
時代は変化しました。
しかも、当時は、和の建物に、洋館と呼べるような洋室を継ぎ足し、
なんともいえぬ異国情調を醸し出しました。
<美の壺2:異国の装いで世界に一つだけの家>
昭和レトロの家として、番組では大正時代から昭和初期に流行りだした
異国情調ある建材類を紹介します。
結露ガラスや木製の出窓。
まさに、芋太郎が友人宅でみた家そのものです。
ウォールナットであったか、マホガニーであったか覚えていない。
いや、わからなかった。
少年時代の小さな洋館と呼べる洋室。
そして、和の建築も和洋混合の内外装。
切妻にスレート屋根とか、洗い出しの外壁で趣を出します。
当時の大工さんが見様見真似で洋と和を折衷し、腕前を披露しました。
明治の建築が国家の建物であるならば、大正から昭和初期の建物は
個人の建物に文明開化の足音が響きます。
以前紹介した前川國男邸もその一つ。
ル・コルビジェの教えを学び、民間の建築デザインを示した。
(参考)
http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=4f942164e950e4f49cf409373e9abc7c
<美の壺3:実験住宅に和モダンの極致あり>
前川に代表される昭和初期の建築家は、国家から個人の住宅建築への
流れを示し、自らの住まいで新しい実験を行う。
戦争の日々であった当時の時代であるが、彼は現代マンションの原型
とも言える間取りを実現している。
詳細は、上記リンクでお読みください。
文明開花の歩みは、明治の国家的建築から始まり、昭和初期の個人住宅で
完成して行く。
芋太郎があこがれた書斎のある洋館も、このころから出来上がっていた。
そう、友人の父は○銀の関係者でありました。
当時としてはハイカラ層であった。
あの友人と何十年来会っていない。
いまどうしているだろうか。
無論、あこがれた家は建て直しされたようです。(残念)
根無し草のように転勤を繰り返した芋太郎。
早く落ち着きたいと考えるこの頃である。(年かな?)
昭和レトロの家というと、芋太郎の両親たちの世代が自分の家を
持ち出した頃のマイホームであろうか。
実は、芋太郎の子供心に、目標となる家があった。
前にも話しているが、友人の家。
それは、洋風の玄関と左脇にこじんまりした洋室・洋館が建ち、
家族が暮らす右脇から奥は、和のつくりであった。
洋室は友人の父親の書斎兼応接間であった。
大きな部屋ではなかったが、多くの書物と重厚な雰囲気が魅力的
であり、小さな子供には、異国情緒のある部屋であった。
今でこそ映画で見かける欧米書斎のミニチュアのような部屋
であった。
僕も、大人になったら、このような部屋を所有する。
これが少年芋太郎の小さな夢であった。
いまだ実現してはいないものの、書物の数と大きな机は実現して
いる。
後は、落ち着いた環境を手に入れたい。
定年前には落ち着きたいものだ。
さて、話題は、昭和レトロの家に戻る壺を番組に沿ってご紹介
いたします。
<美の壺1:新しい住み方が間取りを変えた>
昭和30年生まれ以前の方は子供の頃の思い出は、続き部屋では
なかろうか。
今でも地方の農家に行くと観られる。
芋太郎の生家も立派とはいえないが、やはり玄関から和室(広い)が
2間続き、縁側と奥廊下がありました。
同時に玄関から右にはお勝手(これまたかなり広い空間)とお風呂場
土間がありました。
さらに、後年増築し、玄関前の座敷から奥へ2間増えました。
昭和の家の前までは、座敷を通り、次の座敷へ移動することが当たり前。
しかも、客間と家族の暮らす生活空間は別である事が常でした。
昭和の家は、欧米の個人主義の息吹を模写し、サラリーマンが新に家を
取得した時代です。
それは、従来の家から異なる中廊下(現在は主流)をハブに配置し、
どの部屋にも移動できる空間の創設でした。
生活空間に対する考え方の基本理念が変わり、お客様中心の生活空間から
家族中心の生活空間に変わり、家とその居住性を楽しむように、
時代は変化しました。
しかも、当時は、和の建物に、洋館と呼べるような洋室を継ぎ足し、
なんともいえぬ異国情調を醸し出しました。
<美の壺2:異国の装いで世界に一つだけの家>
昭和レトロの家として、番組では大正時代から昭和初期に流行りだした
異国情調ある建材類を紹介します。
結露ガラスや木製の出窓。
まさに、芋太郎が友人宅でみた家そのものです。
ウォールナットであったか、マホガニーであったか覚えていない。
いや、わからなかった。
少年時代の小さな洋館と呼べる洋室。
そして、和の建築も和洋混合の内外装。
切妻にスレート屋根とか、洗い出しの外壁で趣を出します。
当時の大工さんが見様見真似で洋と和を折衷し、腕前を披露しました。
明治の建築が国家の建物であるならば、大正から昭和初期の建物は
個人の建物に文明開化の足音が響きます。
以前紹介した前川國男邸もその一つ。
ル・コルビジェの教えを学び、民間の建築デザインを示した。
(参考)
http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=4f942164e950e4f49cf409373e9abc7c
<美の壺3:実験住宅に和モダンの極致あり>
前川に代表される昭和初期の建築家は、国家から個人の住宅建築への
流れを示し、自らの住まいで新しい実験を行う。
戦争の日々であった当時の時代であるが、彼は現代マンションの原型
とも言える間取りを実現している。
詳細は、上記リンクでお読みください。
文明開花の歩みは、明治の国家的建築から始まり、昭和初期の個人住宅で
完成して行く。
芋太郎があこがれた書斎のある洋館も、このころから出来上がっていた。
そう、友人の父は○銀の関係者でありました。
当時としてはハイカラ層であった。
あの友人と何十年来会っていない。
いまどうしているだろうか。
無論、あこがれた家は建て直しされたようです。(残念)
根無し草のように転勤を繰り返した芋太郎。
早く落ち着きたいと考えるこの頃である。(年かな?)
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