水中の餌を探すマガモ、水流が強く、頭部に当たる水幕の変化を捉えてみました。
喪中の通知については数日前に年賀状の題で触れたところであるが、危惧していたことが事実となってしまった。居間の机の上に置かれた数枚の喪中挨拶状の中に、卒業後も親しく交際があり、北海道在任中には、毎月開催される労使双方が集まる業務推進会議で顔を合わせていた同僚の奥様が差出人である葉書が目に入った。夫である同僚が、今年の2月に他界され、既に9ヶ月も過ぎていて知った次第である。
退職すると、様々な事情によって、所在を掴むのが難しくなる。この間全く情報はなかった。関東周辺に在住している同期の数人は定期的に居酒屋での会合を持っているが、この3ヶ月は都合が付かずに欠席していた。おそらく、その会合で話題に上ったと思われるが、定かではない。近々、忘年会が催されると思うのでそのときには聞いてみたい。
大学校は労働省の所管で、防衛大学校や海上保安大学校などと同じ、文部省管轄外の学校であったが、各学年は100名程度の学生で、専門別に10科あった。各科は10名程度で構成されていたため、全科の学生との科を乗り越えて交際があった。職業訓練指導員の養成が目的で、卒業後は全国に展開していた職業訓練施設へ配属された。強制ではなかったため、民間企業へは約半数が就職していたが、今回通知を貰った同僚は、自分と同じ、職業訓練施設を退職まで勤務したため、北海道で一緒に仕事をしたわけである。
大学校には研究センターが併設されていたため、自分は通算であるが、11年間を勤務した。すれ違いであったが、同僚は大学校で学生課長をされていたことがある。当時職業訓練施設は200箇所を超えていたので、同じ職場で仕事をすることはほとんど無いに等しかったが、彼とは相性が良かったのか、結構行き来があった。函館に勤務していたときには、彼の居住地にある訓練施設から来られた課長と3年間一緒であり、亡くなった彼のことも良く話題に上っていた。
学生時代の同僚が亡くなることは、自分の齢とも同じ訳で、考えさせられる。惜しい人を亡くしてしまうとはもはやこの世では会えない。多くの人に慕われた性格なのであろうか、強く印象に残っている。会えば学生の頃と全くといって変わらない付き合いであったので、ことさら気には留めていなかった。生存中は普通に接していたが、亡くなった事を知ると未だ信じられず、心に風穴があいたようで、何かが満たされない妙な想いである。