朝夕の寒さが深まってきました。冬鳥も見かけるようになりました。久々のジョウビタキでした。
深夜にけたたましく鳴り響く集団化した暴走バイク、殺人事件まで起きた上層階のピアノ音、防音装置のない部屋での楽器練習、早朝からの建設工事音、飛行場周辺の発着音等、生活環境に深いと思われる騒音は、受ける人にとっては健康被害にも発展する。今回報道された保育所の設置は閑静だった場所に新たな騒音として住民の反対運動が起こっているとの内容である。
少子高齢化で政策として次世代を担う子供の育成場所を増やそうとする反面、反対する住民が生じていることはゆゆしき問題として捉えるか、我慢の範囲と捉えるか、判断に迷う事柄でもある。最終的には裁判となるが、その結果次第では世間に及ぼす影響が大きいことが予測される。
住民との和解が進めばよいのであるが、双方の言い分も聞いてみたい。確かに、音は心地よく感じる場合もあるし、騒音や雑音として感じる場合もある。野中の一軒家では問題がないであろうが、住宅密集地に住民の合意無しに、突然保育施設が建設されるとなると、子育てを終わり、老後の生活場所と定めた世代にとっては迷惑と感じられないこともない。
この問題の裏には、世代間の音に対する感受性の違いもあるのであろう。また子育てということ自体が、昔と変わってきた。核家族の影響も全く無しとは言えず、保育対象が孫であれば、遠隔地に居住していれば、保育期間中にどれ程役に立つのであろうか。夫婦にとっては子供を親に託すわけにも行かず、保育施設に預けることになる。
保育施設についても、子育ての考え方が変わってきたのも事実である。男女間の役割も変わってきた。男女が同等に子育てのための時間を割くまでには至っていないが、子育て期間中であっても夫婦で働くようになれば、乳幼児がいると、保育所等へ預けるニーズは強くなるのは当然といえよう。受け入れ施設においても無償ではないので、ビジネスとして行っていれば、受益者負担となり、ビジネスで近隣住民が迷惑を蒙れば何らかの保証が発生しても不思議ではない。
ここら当たりの話は、表面上の建前論とは一線を画しているが、環境の悪化が騒音被害という、人によって恕限度(人体に害を与えるような条件の限度)が異なる世界を有しているため、精神被害に発展する可能性も大きい。昔のことであるが、バイト先で板金の成形加工をする作業所に外見上は身体障害がないが難聴の作業者が多くいて、障害者雇用の関係で、雇われていたが、騒音のある波長が脳への負担を大きくし、直ぐに辞める事態となっていた。一律に騒音基準を設定するだけではすまされないのであろう。