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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

評価と大数の法則その2

2016年06月15日 00時00分01秒 | 提言

 一方、災害支援や、格差社会を是正する動きは全くないとはいえないが、たまたま起きた震災被害者と向き合い状況で表面化する。格差社会が居心地が悪いと思う人々によって、知識偏重の弊害が至る所で噴出し、居心地が悪いとの認識が広まっているのも事実である。

 

 人間は平等という建前と、格差社会の共存とが難しいと感じている。そこに至らなくても賃金格差や、待遇の改善が話題となってきているが、根本的な幼児期から成人に至るまでの20数年間付き合うことになる成績万能主義に対してはなぜか寛容であり、そのことの弊害を口にはしない。

 

 自分は矛盾と思うのであるが、矛盾どころか間違った評価を継続してきた社会の悪弊を取り除く必要性は喫緊の課題である。そのことを成し得なかった人間社会の限界を感じている。記憶力だけが万能な人物評価になりえないことは承知していても、安易な点数主義によって繰り返し行われている記憶力試験制度はもうその機能は終わったとの認識を持つべきであろう。

 

 早急にその改善を行うべきであり、多面評価なしでは人物評価も難しい。少なくても記憶力だけでは世の中渡っていけないし、これ以上、若者の自殺を防ぐ意味においても学歴偏重を崩壊させなければならない。

 

 記憶力は、とどのつまり、その正確性と再現性についてはその座をコンピュータに譲っている。コンピュータのメモリと演算装置の向上によって、もはや、人間の持つ能力を遥かに越えている。寧ろ、人間に必要な能力は、コンピュータが持つ能力に対抗するのではなく、コンピュータが苦手とする創造性や工夫といった分野なのである。更には人間関係や社会性といった機械では、現在でも、評価不可能である世界が求められているのであって、判断力や洞察力などの人間が得意とする分野の評価制度を確立すべきであろう。記憶力ではない世界の評価制度を向上・発展すべきである。

 

 疑問に感じる関連項目として、試験制度によって、教えた内容を指導側が評価するための手段である試験制度が、なにゆえに学生の評価だけで終わってきたのかを解決のないままに過ごしてきた。本来、試験や評価は生徒や学生だけのものではなく、これを通じて、教授陣が個別な指導方法や内容の参考にする改善を行うこと(チェック)であることが認識されていないように感じている。

 

 評価を学生側に与えるだけでは評価の意味を半分しか行っていない。できるところとできないところ、解っていることと解らないところを明らかにし、できないことをできるようにし、解らないところを解るようにして教えることが抜けているのである。これをせずに終了させたのでは教育の手抜きといわれても仕方がない。この重要な点を見過ごす理由は何であろうか、欧米の教育は、できるまで、解るまで卒業させないという。何も一斉に卒業をさせる必要がないのである。我が国も根本的欠陥であることは間違いない事柄である。(このシリーズ最終回です)