我が国の国家予算は100兆円規模である。といわれても、庶民感覚を遙かに超える金額である。その価値が分からない。人生の最大の買い物である住宅購入は、土地付きの1戸建て、建坪50坪2階建てを郊外で探すとしたら5000万円ぐらいが相場であろう。丁度、猪瀬前知事が資金供与で鞄に入るか入らないかの問答があった金額である。0が13桁続く金額であり、住居が200万戸建つ金額である。
東京都の年間予算が5~6兆円規模であり、全国都道府県で最高予算額である。この額に比較すると辞職に追い込まれた知事の公私混同とされた金額総額でも500万円程度で、疑惑の対象を含めても、5000万円には届かない。疑惑金額の大小での理由が問題ではないが、都民の90%を超える辞職要求はせこいとされた意味を考えてみた。
せこいとは、世故いの意である。けち、規模が小さい、狭量、度量がないなど会話で使われている。あまり好ましい表現ではなく、相対量として使用され、その立場の人が行うにはふさわしい所作ではないとの意味が含まれている。知事の辞任に追い込んだのは、公的資金を私的に流用したことであり、不誠実な使途明細である。その使途の制限は意外とルーズのようである。政治資金規制法がザル法であるとのそしりは免れないが、知事に限らず、全議員の使途を公開すれば、同様な使途を行っていることは明白であろう。
道義的な責任を求められているが、この定義も曖昧で、具体的な例示がないまま追求の根幹を成した。追求する議員も、火の粉が自らに罹らぬような及び腰は、決定打がないまま、都民の反発を機会として捉え、あってはならない人民裁判化を利用したに過ぎない。
せこさが論点になることは、政治の根本を見失い、直面する政治課題からの攻防がなかったことは惜しまれる。東京都には待機児童の問題、東京五輪誘致に係わる疑惑、一極集中化に伴う様々の問題がある。それらの問題解決の牽引役であったと知事の政治能力についてはほとんど議論の対象とはならなかったのである。政治的手腕を託した都民としては、その能力が発揮されないことへの批判であり評価ではなかったのか。どこかの段階で、マスコミも含め、議論のすり替えがあったといわざるを得ない。
せこさは、逆説として言えば、都民の話題の中心として馴染むからであり、誰にでも容易に話題の中に入れるからで、言うなれば、生活基盤に近いから議論推移を理解しやすい。それは野次馬的でもあり、民度としてみれば好ましいことではなく、高尚な議論とは逆行する世界では無かろうか。