鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

閉店について(3回シリーズその3)

2013年07月24日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 古くはご用聞きと称し、週に何回か注文を受ける店員が来宅したものである。生活用品の大部分はそれで用が足りていた。宅配や、再びご用聞きのシステムを取り入れ始めた店舗が話題に上ってきた。日中、若い世帯では留守をしている家が多いが、いずれかの時間帯には、在宅しているのであるから、注文を聞き取る時間帯は所帯によって変わる。個人情報保護の下、情報を取るには簡単ではないであろうが、これこそ蓄積と信頼獲得無しには展開できない。店舗を開けて昔通りの待ちの姿勢では再興は難しいであろう。

 ピザや寿司店の出前だけではなく、外出が困難な方や料理を作ることが出来ない場合などには、シロウトの戯言であるが、食堂なども変わる必要があろう。欧米で人気のパーティ等出張料理(ケータリング)が好まれる社会が到来するかもしれない。業態をくっつけるハイブリッド型は、仕出し店と介護専門家や栄養士が一緒になって行うサービスなども考えられる。

 自宅の近所にあった小さいながらも生活品を売っていたマーケットが、シャッターが閉められて久しいが、当時人気店であった店舗は隆盛を誇った時代には、客を客として接しない傲慢さが出ていたことが、閉店の一因であった思う。おごれるもの久しからずで、近くに大手のスーパーマーケットが進出すると、便利であったマーケットはスーパーの隆盛とは逆に衰退していった。やはり地域から末永く愛されるためには、それなりの真摯な態度が欠かせない。

 閉店の憂き目にあわない商店街も多い。例えば、東急線沿線の戸越銀座の商店街は住宅や店舗の密集で、大型のスーパーマーケットが進出する設置条件が合わないため、活況を呈している。ここでは住民の総意が結集し、地域の町作りに貢献した好事例である。(このシリーズ最終回です)

閉店について(3回シリーズその2)

2013年07月23日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 何でも100円で商品を販売する100円ショップも大手デパートや商店街の衰退に大いに影響を与えている。果たして100円で利益が出るのであろうか?廉価多売は商売の鉄則でもある。100円ショップを覗くと、驚くことが多い。それはどう見ても100円では作れない商品に遭遇したときである。安いという心理が働き、さほど必要のないものまで購入した経験がある。その結果、数千円の出費となる。多くの消費者が、利用しているが、商品を選ぶ目は、やりくり上手な消費者のバイタリティを感じる。

 安く仕入れる必要から、中には、倒産寸前の生産工場や、在庫を抱え、処分に困っている問屋等の商品を買いたたき、法外な値段で一括買い取りをする専門業者が居るようで、そこを経由した商品が出回る可能性もある。唯安いばかりではない、裏には熾烈な生き残り競争が行われているという。何とも切ない話になったが、100円ショップが流行る背景には、こうしてみると、現実の厳しさが浮き上がってくる。

 中小都市で商店街の活況が消失し、シャッターが閉まり、ゴーストタウン化した店舗の話題はニュースにならないほど多い。商店街近くに大きなスーパーマーケットが出来、客の流れが変わり、客足が極端に遠ざかり、閉店に追い込まれる。価格競争に負けたことによるが、経営者の高齢化による後継者問題、商店街の老朽化による経費負担が増え、アーケードなどの安全性が求められる水準に達せず、耐震化への対策もままならなくなっている。そもそも商店街と称していても、櫛の歯が欠けていくように閉店する店舗が増えれば、商店街の機能を逸し、共倒れとなる。

 扱う商品を変え、繁華街へ店舗を移動すればよいなどと申し上げても、そう容易くできる提案ではない。商売を経験したことがないものが何を言っても意味をなさないが、時代の変化を読むことの大切さは、どのような業種にも当てはまることで、ニーズの変化には敏感でなくてはならない。特に高齢化した地域では、消費者が抱くニーズをどのようにしてくみ取って、商売へ繋げていくかが鍵となる。

 たとえば、郊外の居住地から商店街などの繁華街に行く場合に、足の確保がまず優先される。銀行取引、日用品の買い出し、病院の診察、等高齢者の生活パターンを知って店舗作りを変えていかないとニーズに応えることにはならない。(次回へ続きます)

閉店について(3回シリーズその1)

2013年07月22日 00時00分01秒 | 緑陰随想
閉店について(3回シリーズその1)

 銀座で老舗のデパート、松坂屋が閉店することが決まり、多くのファンの失望した様子をテレビの放映を見て知った。跡地には新たに高層の近代的ビルが建つ予定である。しかし、松坂屋が新装開店するとはいっていないので、再開は不透明である。閉店に伴い、在庫の一掃セールと銘打って、多くの客が殺到し、客の感慨深げな様子は、良くある光景である。誰しも値引きされていることを願い、浅ましい思いもするが、庶民の知恵でもあり、在庫の一掃セール時ぐらいは許されるであろう。
 筆者は、松坂屋とは関係ないので、そういえば銀座にあったぐらいの記憶しかない。閉店の理由は定かではないが、客離れは数年前から、どのデパートでもその傾向があるようだ。

 高級品を売るデパートの運営が厳しくなった理由の一つに、客層が変わり、客層の好みにデパート側がついていけなくなったことが考えられる。どのデパートでも多彩な企画を立て、商戦を盛り上げ、各種のイベントを取り入れているが、どれも一過性に過ぎず、客の移り気にはミスマッチを起こしているようだ。

 インターネットからの通信販売が盛んになり、商品の選択・価格にも不自由を感じなくなり、決済も簡単で信頼性も高い。早い注文で翌日配達してくれるショップも多い。在庫を抱え込むことは、売り場面積を確保し、店員の配置も増大化する。一方、ネットショップは売り場面積を持たず、取り扱う商品は膨大である。インターネットショップで成功したアマゾンドットコムや各業界のネットショップの盛況ぶりは、時代にあった販売の方法でもある。

 このインターネット通販はおそらくデパートの売り上げの何倍もの利益を上げていることであろう。自宅に居ながらにして、便利さを享受できるシステムは、今後も拡大する傾向にあるが、新規参入のショップのなかには、注文した商品が広告と異なり、まがい物をつかまされる、入金後連絡がとれない等不安材料が全くないわけではない。購入・販売に従事する双方の信頼関係を深め、再発の防止や適切なガイドラインが求められる。(次回へ続きます)

スパイスの世界21 ディル(2回シリーズその2)

2013年07月21日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 自宅で犬を飼っているが、散歩の途中で、食する雑草は、胸焼けや下痢に効果があるようだ。生まれたばかりの子犬をもらってきたので、親から学ぶことがないままの状態ではあったのであるが、ちゃんと知っているのはどうしてであろうか、DNAに記憶されているとしか考えられない。

 現在でもアマゾンの奥地に居住する部族が呪術などに使う植物を分析すると、特定な薬効成分を発見することもあるそうである。医薬品メーカーが未開地で植物採集をするということが示しているとおり、未だに発見されていない薬効成分を持つ植物があり、人工的には作れない薬効の不思議さを感じる。植物の薬効成分は全てが解明されたわけではなく、新たな香辛料が発見されることは否定できない。

 香辛料ではないが、コカインの例がある。南米のインカ文明では、頭蓋骨の変形や、手術の後がある頭蓋骨が発見されている。麻酔薬のない時代に手術の苦しみにどのようにして耐えたのか、コカの葉が麻酔効果を持つことを知っていたようだ。近代になって米国で、この成分をコカコーラと命名した飲料に製品化されたという話は有名である。発売当初はコカの木に含まれるコカインが含まれており、しばらくして、強い麻酔効果と習慣性があるため使用を禁止された。現在ではコカインの変わりにカフェインが入っているようだ。
 当時の麻酔効果がどれだけあるのかは知る由もないが、多くの愛飲家がいて、好まれる原因は、瓶の形ばかりでなく、コカコーラの味に含まれるカフェインの薬効からくるのかもしれない。

 今後も新たな香辛料が発見され、特定の病に効くと分かれば、人類への貢献は計り知れない。広い意味で香辛料は、食欲を増進させるとともに、生活を豊かにするばかりではなく、食材の長期保存のための抗酸化作用や抗菌防腐作用、独特な動物臭を消す賦香作用、矯臭効果、この他に媚薬効果、鎮静作用、着色効果、麻酔効果等様々な効用を持つ。香辛料が貿易品であり、大航海時代が偶然に生まれたわけではない。香辛料の入手が生活を向上させ、香辛料文化を醸成し、東西での物流を促進したことは間違いない。(このシリーズ最終回です)

スパイスの世界21 ディル(2回シリーズその1)

2013年07月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 【ディル】和名はいのんど。桔梗類せり科の一年草。種子と茎を使用する。葉はアスパラガスやツクシのような互生する裂開した柔らかな葉である。キャラウエーに似た芳香を持つ。刺激性のある香りで、辛みもある。スープやサラダにも使うが、ピクルス(キュウリの酢漬け)には欠くことが出来ない。ピクルスに使うキュウリは我が国の細長いものではなく人差し指ぐらいの太ったキュウリである。このピクルスはスライスして、ハンバーガーやサンドイッチに入っていることもある。カレーライスの漬け物として出された記憶もある。

 新宿の中村屋はチキンカレーで有名であるが、本来は中華料理が専門で、月餅や中華まんじゅうも売られている。インドから政治亡命したビハーリーボース(チャンドラボースと同時代の反英独立運動革命家)を、かくまってくれたお礼に、初代の社長にインド料理のレシピを教えたそうである。現在は改装中であるため食品売り場は閉鎖しているが、レストラン(フルーツの高野ビル最上階)は開店しており、チキンカレーを注文すると、キュウリのピクルスを出してくれる。また1階の食品売り場でも自家製のピクルスを売っているが、ここも残念ながら閉店中である。
 原産は西南アジアから中央アジアで、ヨーロッパ、北アフリカ、アジアで栽培されている。語源は北欧スカンジナビア語で、癒すという意味である。消化器官の鎮静効果があるといわれている。5000年前のエジプトの廃墟からも出土した記録があり大変古くから利用された薬草である。

 香辛料は現在でも漢方薬に用いられているものも多くあるが、古代から植物が持つ成分が特定の病に効果があると知ることは、部族の長の役割であった。シャーマンや呪術師が民を治めるため、病を治す力を持つ大事な要素でもあった。世襲でシャーマンが存在したことは、医師のいない時代にはその代わりを果たしたことが伺える。文字のない時代には、親から子へ、生育地に行って実物を見せ、どのように使うかの実演による伝達があったようで、部族によっては約2000種の薬草を知っていたそうである。想像するに、動物が特定の草や木を食するのを見て、学んだのかもしれない。この中には現在我々が使っている香辛料の多くが含まれていたと思える。(次回へ続きます)

一時停止について(2回シリーズその2)

2013年07月19日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 徐行とは直ちに車を停止できる速度での運行をいうが、多くの車では一時停止と徐行とが区別できるような走行をしていないことが多い。特に優先道路にはいるためのT字路では、必ず一時停止の標識と路上には停止線が引かれている。ここでは車の先端が停止線に掛からないように車体が止まることが求められている。停止線の位置は道路の幅員や環境によって異なる。一方通行では、車の進入はないが、自転車や歩行者がやってくる。

 しかし、多くの車は、減速して徐行の状態のまま、一時停止をせずに走行している。なぜ徐行ですませるのかといえば、おそらく運転者は軽くブレーキを踏んで、車が停止したと思っているからに他ならない。また後続車も、確実に一時停止した前方の車に対し、大いに間違っているのであるが、早く進めといわんばかりにクラクションを鳴らすこともある。どの車であっても360度遮蔽物のない車はない。人間の目は首を回すことをしないで360度は見えない。そこに死角が発生する。事故を起こす原因の一つが死角である。

 窓ガラスを保持するピラー(柱)によって遮蔽された歩行者を発見しても、スピードが出ていれば歩行者との接触は避けられない。
 一時停止の停止線手前で停止した後は、ゆっくりと左右の安全を確認しながら車を進めることを習慣づけることが必要である。

 一時停止は、設置路面に対し車輪が止まることで、車外から目視し、停止が確実に行われたことである。つまり、ミクロ的に見れば、走行は連続した停止が継続することなので、一瞬であるが車は停止したといえないこともない。車輪が路面に数秒間とどまり、それが目視できる状況が停止である。一時停止の状態は、エンジンの動力を強制的にブレークペダルによって、車輪を止めており、エンジンが止まるわけではない。車輪を止めているブレーキシューは油圧でブレーキペダルに繋がっており、ブレーキペダルを踏んでいた足をペダルから離せば、車輪がブレーキシューから開放され、走行することになる。従って一時停止の場所ではブレーキをしっかり踏み込み、確実に車輪を停止することが肝要である。
(このシリーズ最終回です)

一時停止について(2回シリーズその1)

2013年07月18日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 道路交通法でいう一時停止は、用語の使い方として間違っているように思う。乗り合いバスの止まる場所(バス停車場)を略してバス停と呼んでいる。車を止めることは停車である。停止場とはいわない。

 停止とは稼働している機械等が電源等のエネルギーの供給を断つことによって、機械の機能を止める意味に使われる。印刷物では、出版や発行をやめることに使い、幅広い意味で、途中で止まることに使われる。取引停止や活動停止などの用法がある。一時停止は正しくは一時停車なのではないのか。道路標識には駐停車禁止という標識がある。この意味は駐車も停車もしてはいけないという意味で、駐車は運転者が乗っていない車で、長時間一定の場所にとどまっている車の状態であり、停車は車に運転者が乗っていないが、僅かの時間止めることで、直ちに移動が可能な状態である。人の乗り降りや5分以内で荷物の積み卸しを行う停車は駐車ではない。(安全運転教本冊子)
 運転者が運転席に乗っていれば一時停止というのか? 停車については、各駅停車、一時停車、臨時停車、非常停車、急停車、停車時間等の用法がある。安全運転教本では5分間以内を停車とし、停止線で車を止めることは停車といわずに一時停止といっており、駐車と停車の説明はあるが、一時停止と一時停車の区分はなく、詳細な解説もない。推察するところ違和感は残るが、一時停止は時間的には秒単位の短い時間車を止めることに使っているようだ。一時停車も短い時間であれば一時停止といわずに、一時停車でよいと思われるが、よく分からない。一時停止と一時停車はどこがどのように異なるのか、明確な見解をだしてほしい。

 自動車を運転していると道路が交差する箇所やT字路、三叉路、四叉炉路、五叉路等になっている場所を通行することになる。交差点の信号がある場所では信号の指示に従えばよいのであるが、信号がない場所での出会い頭に衝突事故を起こすなどの危険性が待ち受けている。自動車同士ばかりではなく、自転車やバイク、通行人等との接触事故は大事故に至らなくても発生するリスクが高い。自動車やバイクでは道路交通法によって規制されたルールを運転者は知っているが、歩行者や自転車運転では殆どの方は詳細なルールを守らないし、ルールを理解していない。自動車が止まってくれると思っているようにしか見えない道路の渡り方をする。突然に物陰から道路に飛び出た場合には、自動車が直ぐには止まることが出来ない。事故を起こせば自動車の運転者に前方不注意の安全運転義務違反が罰則として適応される。(次回へ続きます)

差別と平等(4回シリーズその4)

2013年07月17日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 現職の時、事業内援助課へ配属され、対外的な委託訓練を担当していた。昭和40年代後半であったが、主な業務は公共職業安定所(ハローワーク)と共同した同和対策の一環で、普通自動車運転科や大型自動車運転科を地域の自動車運転教習所を委託訓練施設とした対外業務の職業訓練担当であった。対象訓練生は職安の受講指示に基づき、一定期間で、無料で運転免許を取得できる制度であったため、多くの受講者が訓練を受けていた。現在では暫定期間(時限立法)があった同和対策基本法が期間満了となったため、この訓練制度は消滅している。

 職員を対象とした人権に関する研究会に数度出席した。
 このときの講師からいわれたことを今でも思い出す。病気の人間に対し、3本ある牛乳をどのように分けるのがよいのかの問いに対し、その答えは健康な人間と半分に分けることが平等ではなく、3本の牛乳を全て病人に与えるのが平等であるとのことであった。なぜなら健康な人間は牛乳を飲む必要がないからである。異論があることは承知で申し上げたが、相手の事情や状況を判断することによって、平等の意味も異なるという教訓である。

 我が国には拭いきれない不平等な人権問題を抱えており、解消までには長い時間と適切な支援が必要である。その発生には歴史的な政策が絡み、憲法で規定されている平等という基本的な人権が踏みにじられた辛い過去を背負っている。
 
 差別と平等とはとのテーマではあったが、テーマが大きすぎ、結論を出すに至っていない。今後も私的な経験から論を進めたいと思っている。(このシリーズ最終回です)