>西洋的統制と日本的統制
>施:教育史学者の江森一郎氏に『体罰の社会史』という本がありますが、それによると日本では昭和の初めごろ、軍事教練が学校に入ってくるまで体罰は決して一般的ではなかったそうです。>武士でも子どもを殴ったりはしなかったんです。
武道の稽古だけで十分でしたね。
>逆に西洋の小学校では、昔から教室の後ろにムチが置いてあった。
西洋では、小学生には調教が必要であると考えられていたのですね。小学生は、まだアニマルの段階ですね。
>なぜ日本では体罰なしで40人学級がうまく運営できるのか。>実は小学校の先生は生徒との間に心理的絆や一体感を最初にうまく作り、子どもたちが信頼を裏切るような行為をすると、その絆を切ってしまうぞ、と暗黙裡に半ば脅してやめさせているんです。
‘非国民’ とか ‘外人’ 呼ばわりされる時の恐ろしさですね。’村八分’では、ついてゆくしかない。
>たとえば、子どもたちがあまりにもいうことを聞かないとき、教師がよく使う手は、子どもたちに「もういい、勝手にしなさい」と言って職員室に引き上げてしまうというものです。>そうなると子どもたちは、徐々に不安になり、シュンとなって、「皆で先生に謝りに行こうよ」ということになる。
わかりやすいですね。理屈ではない。
>中野:天の岩戸だ。
昔からある話ですね。
>施:心理的な絆を先に作り、言うことを聞かないとその絆が損なわれますよと暗黙裡に語り、子どもを統制しようとするこのような手法は、日本ではよく見られます。
なあなあ主義 (なれ合い) ですね。
>どの世代の人にもそういう経験がある。
他に方法はありませんね。
>たとえば親は好き嫌いをする子に野菜を食べさせるために、「じゃあもう食べなくいい」とお皿を引き上げてしまう。>これも心理的絆を切るという脅しなんですね。
もたれあいの精神ですね。
>企業でも昭和の時代には「ノミニケーション」などといって、新人が来たらまず飲みに行き、先に親密な関係性を作ってから指導するというやり方をしてきた。>ただそういう手法は欧米人には理解しにくい。
なれ合いの手法ですね。
>「伝統的な技芸だ」とアメリカから来た教育学者が感心していました。
何事も伝統ですね。逸脱は許されていない。
>西洋の場合、法律や規則を作って外面的に統制するけれども、日本の場合は集団の和を大切にすることを教え、共感力を利用して内面的に統制しようとする。
法律や規則は考え (非現実) ですから、これは内面ですね。集団の和 (現実) は見ることができるから、これは外面でしょう。
>文化によって統制の手段が違うんです。>だから日本の教育においては「人の気持ちがわかるようになる」という共感能力、感情移入能力の獲得が第一の目標になっています。
そうですね。日本人の場合は、忖度 (推察) の活用ですね。
>中野:おっしゃるとおり、日本では人に共感する能力が高いことが、人格的に成長している証しとなっている。
高文脈文化 (high-context cultures) のメンタリティですね。世界における孤児になるのかな。
>その意味では日本的見方からすれば、日本人はほかの外国人より人として高い位置にあるはずなんですよね。
日本人は、’下とみられた’ ということですね。
>それなのに「日本人は遅れている。個が確立されていない」となぜ自分たちから言うのか、不思議ですね。
日本人は、自分の文化を卑下しているのでしょうかね。
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