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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

下とみられた

2018-11-27 02:50:36 | 教育


>西洋的統制と日本的統制
>施:教育史学者の江森一郎氏に『体罰の社会史』という本がありますが、それによると日本では昭和の初めごろ、軍事教練が学校に入ってくるまで体罰は決して一般的ではなかったそうです。>武士でも子どもを殴ったりはしなかったんです。

武道の稽古だけで十分でしたね。

>逆に西洋の小学校では、昔から教室の後ろにムチが置いてあった。

西洋では、小学生には調教が必要であると考えられていたのですね。小学生は、まだアニマルの段階ですね。

>なぜ日本では体罰なしで40人学級がうまく運営できるのか。>実は小学校の先生は生徒との間に心理的絆や一体感を最初にうまく作り、子どもたちが信頼を裏切るような行為をすると、その絆を切ってしまうぞ、と暗黙裡に半ば脅してやめさせているんです。

‘非国民’ とか ‘外人’ 呼ばわりされる時の恐ろしさですね。’村八分’では、ついてゆくしかない。

>たとえば、子どもたちがあまりにもいうことを聞かないとき、教師がよく使う手は、子どもたちに「もういい、勝手にしなさい」と言って職員室に引き上げてしまうというものです。>そうなると子どもたちは、徐々に不安になり、シュンとなって、「皆で先生に謝りに行こうよ」ということになる。

わかりやすいですね。理屈ではない。

>中野:天の岩戸だ。

昔からある話ですね。

>施:心理的な絆を先に作り、言うことを聞かないとその絆が損なわれますよと暗黙裡に語り、子どもを統制しようとするこのような手法は、日本ではよく見られます。

なあなあ主義 (なれ合い) ですね。

>どの世代の人にもそういう経験がある。

他に方法はありませんね。

>たとえば親は好き嫌いをする子に野菜を食べさせるために、「じゃあもう食べなくいい」とお皿を引き上げてしまう。>これも心理的絆を切るという脅しなんですね。

もたれあいの精神ですね。

>企業でも昭和の時代には「ノミニケーション」などといって、新人が来たらまず飲みに行き、先に親密な関係性を作ってから指導するというやり方をしてきた。>ただそういう手法は欧米人には理解しにくい。

なれ合いの手法ですね。

>「伝統的な技芸だ」とアメリカから来た教育学者が感心していました。

何事も伝統ですね。逸脱は許されていない。

>西洋の場合、法律や規則を作って外面的に統制するけれども、日本の場合は集団の和を大切にすることを教え、共感力を利用して内面的に統制しようとする。

法律や規則は考え (非現実) ですから、これは内面ですね。集団の和 (現実) は見ることができるから、これは外面でしょう。

>文化によって統制の手段が違うんです。>だから日本の教育においては「人の気持ちがわかるようになる」という共感能力、感情移入能力の獲得が第一の目標になっています。

そうですね。日本人の場合は、忖度 (推察) の活用ですね。

>中野:おっしゃるとおり、日本では人に共感する能力が高いことが、人格的に成長している証しとなっている。

高文脈文化 (high-context cultures) のメンタリティですね。世界における孤児になるのかな。

>その意味では日本的見方からすれば、日本人はほかの外国人より人として高い位置にあるはずなんですよね。

日本人は、’下とみられた’ ということですね。

>それなのに「日本人は遅れている。個が確立されていない」となぜ自分たちから言うのか、不思議ですね。

日本人は、自分の文化を卑下しているのでしょうかね。


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バカの壁

2018-11-24 10:35:56 | 教育


>人間には「バカの壁」がある、と指摘したのは、養老孟司氏だ。>あいつは俺より分かっていない、俺の方がずっと物事を深く考えている、と思うと、相手の知力や能力をバカにしたくなる。

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い) というものがあって、序列 (順位) の判断なしでは過ごせませんからね。何しろわが国は序列社会ですから、天下の秀才が沢山います。

>すると、相手のやることなすこと話すこと、全部愚かしいものに見えて、聞くに値しないとみなしてしまい、相手から学ばなくなってしまう、という症状を表す言葉だ。

そうですね。日本人には、何事にも序列 (順位) の判断が先行しますね。

>こうした「バカの壁」は、社会のいたるところに発生している。

‘上とみるか・下とみるか’ の判定にこだわる序列の社会においては、バカの壁は国中のいたるところに発生していますね。

>もちろん、ビジネスの世界でも。>そして、「バカの壁」ができると、ビジネスでは致命的だ。>なにせ、人の話を聞かなくなってしまうわけだから。

なにしろ日本人の話は曖昧ですから、聞き手は忖度 (推察) を活用することが多いですね。忖度は、聞き手の勝手な解釈ですから、話し手には何の責任もありません。それで、対話は成り立ちません。とかく、この世は無責任。

>自分がバカにした人の意見は、たまによい意見だと思っても「たまたまだ」「誰かに入れ知恵されたんだろう」などと、バカにする理由を探すばかりで、まともに聞こうとしなくなる。

そうですね。思考停止と受け売りの多い社会になっていますね。

>けれど、これは大変もったいないことのように思う。>どんな人の、どんな言葉にも、新しいアイデアのヒントが秘められているかもしれないからだ

そうですね。新しいアイディアのヒントは、考える人のものですからね。思考停止では、どうにもなりませんね。日本語は、写生画 (現実) のための言語ですからね。考え (非現実) を文章にすることが難しい。

>○ 人気を集めたソクラテスの姿勢
>ソクラテスは、そういう意味では、歴史上に卓抜した存在のように思える。>この人には「バカの壁」が一切なかったように思われるからだ。

考える人には、バカな壁は不要ですね。

(略)
>その中に「メノン」というものがあり、なかなか興味深いシーンが描かれている。>数学の素養のないソクラテスが、これまた数学の知識がない人間に質問を重ねるうちに、それまで誰も発見したことがなかった図形の定理を見つけ出した、というエピソードだ。

それは、ハッピーな生活ですね。

>果たしてこれは実際にあったことなのか、プラトンの創作によるものなのか、はっきりしない。>しかし、ソクラテスが自分の得意技として考えていた技術を見事に表現した場面となっている。>ソクラテスの得意技、それは「産婆術」だ。

そうですね。産婆術は有名ですね。

>○ ソクラテスの「訊く」方法
>産婆術とは、文字通り読めば、赤ちゃんの出産を助ける助産師(産婆)の技術ということになる。>ソクラテスは、無知な者同士が語り合う中で新しい知を産みだす技術のことを産婆術と呼び、自分はそれが得意だと自認していた。

そうですね。

>では産婆術とは、どんなものだったのだろう? >端的に言えば、「訊く」ことだった。>「へえ、それはどういうこと?」「こういう面白い話があるんだけど、それと組み合わせて考えたらどうなるだろう?」と、質問を重ね、相手の思考を刺激し、発言を促す。>「聞く」とせずに「訊く」としたのは、相手の話をただ受け身で聞いているだけではなく、新しい情報を加えながら、質問を重ね、次から次へと思考の幅を広げながら話を聞く形だからだ。

訊問のことですね。

>このソクラテスの産婆術は、実は現代に蘇っている。>「コーチング」と名を変えて。>Yes/Noで答えるしかない質問ではなく、5W1H(What/Who/Where/When/Why/How)と呼ばれる「開かれた質問」(どう答えるかは、相手次第に任される)をすることで、会話を途切れさせず、次々と話題を展伸し、思考を深める技術だ。>カウンセリングでも「傾聴」が重視されている。>しかし傾聴するにも、ただ黙っているだけでは相手も話しにくい。>話すきっかけを与えるためにも、「訊く」ことが大切だ。

訊問が大切ですね。

>ソクラテスは、若い人と話すときには知恵の泉をどんどん発掘し、対話を楽しんだが、「俺は天才だ」という人と対話すると、不思議な現象が起こった。>天才たちはみな、怒り出したのだ。>原因は「天才」たちの知ったかぶりにあった。>プロタゴラスやゴルギアスといった、当代随一の天才と呼ばれた人たちは、ソクラテスから質問を受けると「ああそれはね、こういうことだよ」と、博識なところを見せつけた。

記憶力・暗記力の威力ですね。

>しかしソクラテスが質問を重ねると、さっきといまの発言の間に矛盾があることが浮き彫りになり、最後には「実は、その件はあまり知らないのだ」と白状する羽目となった。

矛盾のない文章は、すべて正しい考えを示している。矛盾のある文章であっても、その矛盾を取り除けば正しい考えとなる。

>天才たちを次々と論破したこの様子に衝撃を受けた人たちが、のちに「弁証法」としかつめらしい名前を付け、ソクラテスの偉大さをたたえたのだけれど、私には、ソクラテスの真の偉大さはそこにはないように思う。>ソクラテスは、誰からも「知」を吸収しようとした。>ソクラテスはおそらく、プロタゴラスやゴルギアスからも学びたかったのではないか。

知の吸収は、大切ですね。哲学博士への道ですね。

>しかし「天才」たちが勝手に「バカの壁」を設け、知ったかぶりをしたがために、自滅しただけのことなのだ。

自分が知らないということを知っているだけでも、’大したもの’ でしょうけどね。

>ソクラテスは若者に話すときと同様、「訊く」ようにしただけだ。>若い人には「産婆術」として働き、新しい知の発見につながる技術が、自分は天才で他はバカ、と思っている人に対しては「弁証法」と呼ばれて、知ったかぶりであることを明らかにしてしまう技術になるのだから、興味深い。

産婆術は弁証法ですね。弁証法は、現代の学校教育の内容になっていますね。

>○「バカの壁」を乗り越える
>「バカの壁」を取り払った人の話をしてみよう。板画家として世界的に名高い棟方志功氏は、若いころ、大変傲慢で、自分を天才と考え、他の人の芸術をこき下ろすこともたびたびだったという。>しかしそのことで、棟方氏は自ら「バカの壁」を作っていたともいえる。

そうですか。棟方氏は、’お山の大将’ だったのですね。

>しかし転機が訪れる。>柳宗悦氏との出会いだ。>柳氏は、無学な農家、庶民が作った民芸品の美しさを「発見」した人だ。>芸術に何の知識もない人たちが作り出した、素朴な美の存在に気付いた棟方氏は衝撃を受けた。>以後、棟方氏は、どんな人からも教えを乞うようになったという。

学問は言語の産物ですね。だが、造形美術 (民芸品) は非言語の産物ですね。両者は領域を異にしていますから、造形美術に無学は関係ないですね。

>どんな人の片言隻句からもヒントを得、学ぶことができることを知ったからだ。>哲学は、向こうの言葉でフィロソフィア(フィロ=愛、ソフィア=知)と呼ばれる。>愛知県みたいな言葉だが、本来なら「愛知」と訳されて当然の言葉だ。

そうですね。’哲学’ にも ‘哲人’ にも関係のないわが国民に、’哲学’ の訳語を持ち込んだ人がいて、我々の頭の調子をくるわせてしまいましたね。’愛知’ が訳語なら、迷いも少なくて済んでいたでしょうにね。

>ソクラテスはまさに「愛知」の人であり、バカの壁を一切設けなかった。>柳宗悦氏に出会ってからの棟方志功氏も、「愛知」の人になったと言える。>バカの壁を自ら設けず、ありとあらゆる人から、芸術のためのヒントを得ようとしていたのだから。

それは、幸いなことでしたね。

>あなたは「知を愛している」だろうか?

私よりも子供の方が知を愛していますね。いつも、’どうして・どうして’ と尋ねて来ますね。

>もしそうなら、バカの壁を設けるのはもったいない。>自分の方が優れているといって優越感を感じようとするのは、バカの壁を建設し始めた証拠だ。

そうですね。バカは禁句ですね。超国家主義・国粋主義に酔いしれる人たちも危ないですね。’上とみるか・下とみるか’ のメンタリティ (考え方) では、バカの壁は避けと通れませんね。

>それよりは、「この人は、私にはない、何を持っているのだろう?」と興味を持ち、自分にないものを引き出すために「訊く」ようにしてみてはどうだろう。

それは良い方法ですね。

>あなた自身が知の誕生を支える産婆になるのだ。>ソクラテスは、「バカの壁」を設けず、知恵をどん欲に吸収するというロールモデルを見事に体現した人物だ。

彼は先進技術の模範になる人ですね。

>コーチング技術の発見(産婆術の再発見)が行われたことで、改めてソクラテスの偉大さが再認識されつつあるように思う。

彼は、昔から有名な人でしたからね。

>新しい事業を起こしたい、新しい発想の商品を生み出したいという人は、ソクラテスを見習い、バカの壁を設けず、あらゆる人から「訊く」ことで知を生み出す産婆術をマスターしていただきたい。

それが良いですね。事業発展への道になりますね。

>そうすれば、ビジネスの世界はもっとワクワクするような現場に変わるだろう。

そうなると良いですね。何しろ日本人の場合は、もっぱら思考停止と暗記力ですからね。暗記力は、受け売りのために利用されていますね。ですから、個人の確立には程遠いですね。

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職業教育

2018-11-03 11:09:34 | 教育


>●その授業、ホントに価値ある
>就活に時間をとられると、学生が大学からいなくなります。

そうですね。大学は就活生の発進基地になっていますね。

>自分たちの食い扶持である「授業」の存在価値、もっと言えば自分たちの存在価値が怪しくなるわけですから、当然ながら大騒ぎします。>しかし彼らは、自分たちが提供している授業が学生の期待に応えていないことを考慮していません。

学生の期待は、授業内容ではありませんね。大卒というレッテルですね。そのレッテルを得るために四年間をキャンパスで遊んで暮らしています。

>大学の授業にたくさんの学びとそれに伴う成長があれば、学生はこぞって授業を受けに行くでしょう。

そうですね。無哲学・能天気の環境では、学生の大学での成長はありませんね。

>なにがしかの成長を果たせるなら、結果的に就活で内定に至ることは決して難しくないからです。
> ~中略~
>●大学が行わない職業教育は「就活」が担っている
>成長を伴う学びが少ない大学の授業に比べると、就職活動そのものが学生に成長をもたらす効果は大きいといえます。

職業教育は、専門学校で受けられますね。実学 (技術) は専門学校で、哲学 (虚学?) は大学で受けられます。実学で現実の内容を学び、哲学で非現実の内容を学びます。

>新入社員に話を聞くと「今思えば、就活が一番成長した実感がある」と答える学生は少なくありません。

実社会にある実学が日本人を成長させるのですね。

>私は就活に時間と労力を注ぐことが、職業観の醸成を図るうえでも必要だと考えています。

そうでしょうね。非現実の内容は、現実離れがした内容になるので、日本人には信じることが難しいです。

>私自身もそうだったのですが、ほとんどの学生は就職活動を通じて、初めて真剣に「どんな働き方をしたいのか?」「どんな仕事をしたいのか?」などと社会との関わり方を考え始めるのではないでしょうか。

我々は、考える人になる必要がありますね。

>そして「社会にはどんな仕事があるのだろうか?」と調べ始め、最初は有名企業を受けながらも徐々に様々な企業の存在を知り、社会の仕組みを知っていくのです。

わかりやすい社会学ですね。

>このプロセスそのものが、いまの大学生にとっては一番の職業教育になっていると私は思っています。

実学の内容は、見ればわかりますからね。哲学の内容は、見ることができない。理解しなければわからない。

>大学の出口を「就職」とすれば、本来ならこれらの教育も大学の役割なのかもしれませんが、大学はこういった役割を果たせていません。

そうですね。大学は、哲学 (非現実) の教育機関ですから、実学 (現実) の教育機関にはなりませんね。

>正直なところ、採用の仕事をしていて「この大学は学生の教育を本当にしっかりやっているなぁ」と思ったことが一度もないのです。

無哲学・能天気の日本社会では、大学教育はり立たないでしょう。

>●希望の仕事に就くために中退して中途採用を受ける人も
>大学があろうとなかろうと、立派な学生はいます。>彼ら彼女らの学びの深さ、考える力の豊かさに接すると「20歳そこそこの年齢で、本当に素晴らしいなぁ」と感服します。>しかし彼らが有する能力のうち、大学のカリキュラムによって培われたものと言えるものは、残念ながらあまりに少ないのです。

考え (非現実) の内容は、見ることができない。日本語で自己の考えを述べることは、見てきたような嘘をつくことになる。これは、日本語文法に時制 (tense) というものがないためです。時制があれば、非現実の三世界 (過去・現在・未来) は文章内容になります。考え (非現実) の内容は、脳裏に記憶としてとどめ置かれます。この種の日本人の嘘は、西洋人の学問になっています。この事実は、日本人の想像を絶するところです。

>偶然素晴らしい教員に出会い、開花する学生もいるでしょうが、それも大学教育のおかげというより一人の優秀な教育者の個人技に過ぎません。>大学がその個人技を活かせればいいのですが、少なくとも私はそういう取組みを聞いたことがありません。

個人的な接触は、英米系の大学でなされることですね。

>大学が教育機関として機能しなければ、大学を卒業することすら意味がなくなってきます。

日本の大学は、日本人の序列メンタリティを充足するために運営されています。そうした意味では、今でも機能しています。学卒のレッテルは、足の裏についた飯粒のようなものか。取らずにはいられない。

>実際、希望の仕事に就くために4年生でありながら航空会社の中途採用の選考を受け、中途退学で働き始めた人もいるくらいです。>卒業証書は、活躍する社会人の証明書ではありません。

大学卒のレッテルも、万能ではなくなったようですね。

>むしろ、一日も早く仕事を覚えることの方が明らかに有意義です。

大学にいても、他にすることもないですからね。

>今後も大学が教育機関として存在価値を示せずにいれば、このような形の採用も珍しくなくなるのかもしれません。

そうですね。大学という名前の専門学校になるのか。こうした羊頭狗肉はどこまでも日本人に必要なのか。



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学歴

2018-08-20 05:27:00 | 教育



>学歴が色濃く残っている国。

>私は普段塾で働いています。>アルバイト時代を含めると14年塾講師をしています。>そこでいつも疑問に感じるのが学歴を気にする保護者が多いという事。>昔に比べると減ったかな?とは感じますが、気にする保護者がまだ残っている。

学歴への関心は、消えることはないでしょう。日本人の精神そのものですから。

>実際、私は大卒ですが、決していい大学とは言えません。>しかも大学時代はあまり勉強もせず、アルバイト・クラブばっかりをしており、大学も留年をしています。>5年目のときには卒業に必要な単位の半分しかもらえず、卒業見込みももらえていない状態・・・ >そういった状態なので、就職活動のときは「卒業見込み」と履歴書に書けない状態でした。

あなたは、情けない状態でしたね。

>ただ何か就活の時に苦労したかというと全くでした。>むしろクラブを頑張った経験等のほうを評価してもらった記憶があります。>そして大学5年目のときに就職先も見つかり、必死に勉強を頑張り大学を卒業することができました。

良かったですね。

>そこから10年以上(転職あり)働いていますが、何か留年したことや、学歴で苦労したかというと全くです。>大学は出ていますが、今の会社では学歴はないほうです。>ただそこに対して突込みが入ったり、大学名を聞かれたことは皆無です。

あなたの学歴に関する問題は何もないのですね。

>そのことを考えると本当に大学に行くのが正しい選択なのか?なぜ保護者はそこまで学歴を気にするのか?と常に疑問に感じます。

我々の人間序列に関する想いは、強迫観念になる程度ですからね。

>私の周りはそこまで学歴が変わらない人が多々いますが、普通に生活をしています。

その強迫観念の程度は、グルーブによっていろいろと違うのかもしれませんけれどもね。学歴が、役に立つ・立たないという実利の次元ではなく、もっと我々に対する精神的なものですね。

>むしろ結婚もして家も買って・・・裕福な生活を送っているものも多くいます。

学歴は、個人の経済状態を保証するものではありませんね。

>逆に学歴があって仕事ができないな・・・と思う人もいますし、(もちろんその逆もありますが・・・)>その人に聞くと逆に学歴があるがために苦労をしているという話も聞くぐらいです。>学歴があるがために「知識しかないんじゃないの?」「人の気持ちが本当に分かるの?」などを思われると言っています。

精神的な悩みはいろいろですね。

>他にもネットで見ていても「学歴が必要」という意見が出てきたりもしますが、多くの意見が「学歴があって困ることはない」「あるにこしたことはない」など多く、具体的な内容があるものは少ないです。

そうですね。具体的な内容はないでしょう。ほとんど、精神的なものですね。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断は、日本語会話に必要です。これを無視すれば、日本語は上達しません。外国人の日本語学習者にも難しいようです。

‘人を見損なってはいけない’ という想いは、日本語の脳裏で脅迫観念の域まで高められています。ですから、世俗的序列の順位はぜひ頭に入れておく必要があります。日本人の礼儀作法は、序列作法に基づいています。世俗的な序列を心得ていなければ、礼儀正しい日本人になることもできません。序列なきところに礼儀なしです。

>また企業によっては履歴書に学歴を書く欄がなかったり、エイベックスは志一括採用という採用方法を取っており、新卒採用を中止。誰でも応募可能な状態になったりもしています。

採用方法をどのように変えても、我々の日本語に基づく判断は変えられませんね。

>時代は学歴不問の傾向に確実に変わっていっています。

英米流の高等教育は、我々日本人にぜひとも必要ですね。そうでなければ、人間は無哲学・能天気になります。

>当たり前の話だが、学歴で仕事をするわけではないのです。

教養 (哲学) のない人が、高度な職業人になることは危険です。彼には、話が通じないからです。周囲の人の理解も得られずただ独断専行する人は危険です。

>就職してからは人間性・コミュニケーション能力・スキルが必要なのです。

そうですね。同感いたします。

>その当たり前のことに気付いてほしいと思う日々です。

日本語の階称 (言葉遣い) に問題があります。階称は、我々の序列社会の成因です。序列競争の弊害の元になっています。このことに気づいてほしいですね。
英語には、階称がありません。我々は、日本語と英語の両言語を学んで、階称のない言語での考え方を学ぶ必要があるのではないでしょうか。さすれば、我々の学問が序列形成による弊害により侵されていることが、理解できます。この努力が、わが国の進歩の糸口になることに疑いがありません。



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無理して頑張る

2018-07-23 18:00:57 | 教育



>>努力という言葉には、無理して頑張る、我慢して為すというイメージが一緒に含まれています。

そうですね。外国人も日本人を見ると ‘頑張って’ と言って冷やかします。

>>必要なのは、努力することではなく、没頭できる何かを見つけること。>>そして追求し続けること。(335177)

そうですね。何かに没頭できると良いですね。

>「努力する」や「頑張る」という言葉を美徳化し、「できない」言い訳を自ら与えていませんか? >努力する、頑張るという言葉に隠れた欺瞞を指摘した記事を紹介します。 >以下、頑張り過ぎるという欺瞞より(リンク)
>* * * * *
>さて、私はどちらか言うと、すぐに手を抜きたがるほうで、手を抜くことによって失敗し、「ああ、あのとき、もっとちゃんとしておけば良かった」という後悔を繰り返すタイプなので、その点、注意する必要があるのですが、私とは反対に、常に無理をして頑張る人がいます。

そうですね。’努力の人’ というのがいますね。

>そんな人たちは、無理をして無理をして頑張って頑張って、頑張り過ぎて、そして、体調を崩したり気力が続かなかったりして、「やっぱり私はダメなんだ」と自分を責め、罪悪感に苛まれています。

そうですね。満身創痍では、見るも無残ですね。

>一生懸命頑張った結果体調を崩したり気力が続かなかったりしただけなのに、自分を責めるのはおかしなことですが、これが、こういう人たちの失敗のパターンなのです。>つまり、無理をして頑張る人は、無理をして頑張ることによって体調を崩すなどして続かくなり、そのことで「自分はやっぱりダメなんだ」と責める口実を、自分自身に与えているのです。

そうですね。同感です。本人には、口実が必要なのですね。

>要するに、続けられないような無理な頑張りをすることによって失敗するというパターンを繰り返しているのです。

無理をしては、いけませんね。

>こういう人たちは、「自分はいくら頑張っても認めてもらえない」と思い込んでいます。>そのために、無理をして無理をして頑張り過ぎて続けられなくなり、「やっぱり自分はダメなんだ」ということを証明しようとしているのです。

ダメな証明に力を入れるのは、精神的によくないですね。何か言いつけられた義務から逃れられるのですかね。

>そもそも、人が頑張るのは、自らを成長させるためであって、周囲の人たちに自らの頑張りを認めてもらうためではありません。

そうですね。周囲の人たちへの見栄と外聞に生きていては、どうしようもないですね。

>そして、頑張るとは、そのとき自分のできることに自分のできる範囲で力を尽くすことを言うのであって、決して無理をすることではありません。>自分のできること以上に無理をしても、決して続けることはできないでしょう。

そうですね。’最善を尽くせ’ ですね。それで、おわりです。

>自分のやっていることの矛盾に気づくことができれば、今の生き辛さから抜け出すきっかけを見つけることができるのです。

そうですね。 自分の頭を使うことが大切ですね。さすれば、矛盾にも気が付いて窮地からの脱出も可能でしょう。
しかしながら日本人には意思がない。意思は文章内容になるので意味がある。だから、意思の内容に関する議論ができる。無意味なことは、やめさせることが可能である。
日本人には意思はないが恣意がある。恣意 (私意・わがまま・身勝手) は文章にならないので、意味がない。だから、議論ができない。やめさせることは、ほとんどできない。日本人は、恣意を鍛えて意地・根性・大和魂などとする。これらの思い込みは、曲げてはならない信念のようなものである。非理性の励みを極力徹底すれば、南の島に雪が降る。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

> 以上、引用終わり


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