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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

養老孟司氏 久石譲氏  

2025-02-06 18:11:59 | 文化

>プレジデントオンライン   >「ものづくり日本」はウソである養老孟司「職人気質の日本人がナマケモノな欧米人に技術力で勝てない理由」   >養老孟司・久石譲によるストーリー・   >8時間・   

>日本人にはどのような特性があるのか。   

>解剖学者の養老孟司さんと作曲家の久石譲さんとの対談を収録した『脳は耳で感動する』(実業之日本社)より、一部を紹介する――。   

>技術者がホンネを言いづらい環境になっている   

>【養老】日本人の変化としてもう一つ感じるのは、技術者がホンネを言いづらい環境になっているのではないかということですね。   

>それを感じたのは10年ほど前、横浜市に建設されたマンションを支える杭が、本来よりも短かかったために、固い地盤に届いていないことがわかったという報道があったんです。   

>つまり耐震性が保証されていなかった。   

>完成したのは2007年なんですが、施工業者は、杭が設計通りにちゃんと地盤に届いているかを確認する義務があるんですが、それをやっていなかった。   

>原因は施工のときに、納期を急いだためだったという話になっていましたが、現場で仕事をする人の立場から考えると、確認作業などに時間がかかって納期がやや遅れぎみになるというのならば想像できるんですよ。   

>ちゃんとやろうとすれば納期は間に合わない場合もありますからね。   

>【久石】納期を間に合わせるために無茶をやってしまったということですね。   

>形だけを整えてしまうというか。   

 

日本人には内容 (考え・哲学) が無いから形式 (現実) に拘りますね。   

 

>【養老】そこが問題なんですよ。   

>そういう仕事をやってしまうとなると、もう終わりだなという気がしますよね。   

 

そうですね。   

 

>【久石】何が変わったのでしょうか?

>言葉が先か、実態が先か   

>【養老】納期とか人間の約束の方が重要になってしまったということですね。   

>現場の職人の考えよりもね。   

 

そうですね。   

 

>最近、ずっと言葉の問題を考えているんです。   

>一言でいえば、「言葉が先か? 実態が先か?」ということ。   

>日本人のいいところは実態を先に置いてきたこと、つまり実態を優先してきたということなんですね。   

>マンションの例でいえば、現場、職人という実態を優先してきたんですね、これまでは。   

>ところがここへ来て、「納期」「約束事」という言葉が人間よりも優先されてきている気がします。   

>日本人がヘタに言葉を優先し始めると、とんでもないことをし始めるので危惧しているんですけどね。   

>戦争中でいえば、「一億玉砕」「本土決戦」みたいなことを言い始めるんですよ。   

>そんなことは無理に決まっているし、言っている人も無理だということがわかっている。   

>なのに突き進んでいく、というようなことになりかねない。   

 

無理が通れば道理がひっこむということですかね。    

 

>いま世界中がそうなってきているんですよね。   

>だから本当は日本がブレーキになってなければいけないんだけど。   

>【久石】面白いですね。   

>「実態が先だ」という態度が変化しているとなると、日本人の文化にもかなり影響を与えますね。   

>「もののあわれ」と思考形態   

>【養老】日本人は物事が起こって言葉が生じてくる傾向が強いと思うんですね。   

>その事例として、日本人は季節が変化して、折に触れて何かを感じる。   

>それを「もののあわれ」だというでしょう。   

>そこから詩や歌が生まれる。   

>日本人はそういうふうに言葉を捉えてきたわけです。   

>三島(由紀夫)のように花鳥風月がない人は、日本人では少数派だと思いますよ。   

>僕は「上」と「下」という言い方をよくするんですが、「上」は言葉(頭)、「下」は実態のことです。   

>つまり、日本人は「下」が「上」に影響を及ぼす。   

>どちらかというと「下」に寄った言葉なんですね。   

 

日本語は写生画の言葉ですね。    

 

>だからたとえばオノマトペが日本語には豊富にありますね。   

>「ニャーニャー」「がやがや」といった擬音語、「つるつる」「じろじろ」といった擬態語。   

>日本人は感覚をオノマトペにするのですが、欧米系の人たちはダメなんですよね、幼児言語だという認識なので。   

>しかし、日本人は「上」にある言葉が、実態である「下」を規定する力が弱い。   

>その典型例が、日本国憲法第9条ですよ。   

>何を書いてあるか、議論さえしない。   

>もちろん研究者やメディアなどといった一部の人たちは議論していますよ。   

>でも国民的な関心になってこないでしょ。   

>憲法9条などは、日本は現状が先にあって言葉ができる国民性だから、「憲法解釈」によって事を進める。   

>“目はこう言ってるけども、口ではこう言ってるよ”みたいなことが出てきてしまうわけですよね。   

>「ものづくりの日本」は本当なのか   

>【久石】いまのお話と関係するかわかりませんが、「ものづくりの日本」などと言われて、日本の職人の腕のよさがクローズアップされることがありますよね。   

>でも日本人が作るものについて気になっていることがあるんです。   

>旧版『耳で考える』でも触れたことですが、(日本の伝統工芸品は別にして)レコーディング機材を例にとれば、イギリス人ってナマケモノのイメージがありつつも、圧倒的に最上級の機材を作っているんです。   

>でも日本製は、それに匹敵するものは作れていなくて、安いものをものすごく精密にこしらえている印象です。   

>飛行機もなかなか完成しないでしょう。   

>ロケットも日本製はなかなか飛ばない。   

>以前先生が、日本語というのはもしかしたら論理的じゃないからかもしれないねという話をされていたんだけれども、それが影響しているのかなと思ったりしています。   

>「イエス」でも「ノー」でもない…   

>【養老】それは、日本人の場合は実態が先行するからです。   

>こうでなければならないという論理が先行すると、それに伴って実態が変更されるわけですよ。   

>日本人はそれをやらないんですよね。  

 

日本人には形式 (現実) があって内容 (非現実) がない。この状態で割り切ることができれば、日本人の生活は円滑に進行する。生まれた時には宮参りをして、結婚式はキリスト教会で行う。葬儀の時は仏式で済ませばよい。   

 

>【久石】それを突き詰めていくと、日本人って何なんだろうという問いに行きつくんだけれども、実態に従順なんですよね、受け入れてしまうから。

 

日本人は現実肯定主義ですね。   

 

>僕自身もこうあらねばならぬと思って多少対応しているのだけれども、振り返るとたいてい受け入れてしまっていて、数時間後か一晩寝た後で“クソッ!”と反省している日々なので。   

>でも、外国の人たちは「イエス」と「ノー」がはっきりしている。   

>しかも反応が早い。   

>いろんな国の人が全部そうであるわけではないけれども、大概の日本人の人は「イエス」と言うのが、感覚的には20パーセント前後なんですよね。   

>「ノー」も20パーセント。   

>残りの60パーセントはどっちでもないんですよね。   

>「いいと思います」とか、いいのか悪いのかどっちなんだという反応をする。   

>日本語というのはほぼそんな感じで表現されます。   

>自分を守るためなんですかね、断言したがらない。   

 

日本人は思考を停止していますからね。断言できない。      

 

>それをずっと繰り返していると、たとえばロケットを作るときに、「これでいいと思います」といった反応ではなかなかうまくいかないかもしれないですよね。   

>現場はやはり「イエス」「ノー」でちゃんと決めていかないとダメだと思うんですよ。   

 

そうですね。   

 

>【養老】いずれまたそのうちとかね。   

>時間的なものでも。   

 

意思を持たない人たちの意図の表し方はまるで他人事である。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)    

 

>パイロットの適性を「人相見」で決めた   

>【養老】もう一つの例を言うとね、日本の戦争末期に、パイロットが足りなくなって、早く養成しなければならないというときがあったんです。   

>パイロットですから、ある程度適性があるだろうと。   

>日本はどうやって適性を調べたかというと、よく当たるといわれる「人相見」を起用したんです。   

>それに対しアメリカは、心理学などの研究にもとづいて、どういう人がパイロットに向いているかを研究した。   

>パイロットは操縦しているときに何を見ているか。   

>パイロットに相応(ふさわ)しい人はどんな特性を持っているか……ということを「研究」したわけです。   

>結局、何を見ているかといえば「キメ」だということがわかるんですね。   

>操縦でいちばん難しいのは着陸らしいんですね。   

>離陸はスピードをだして、操縦桿(かん)を引っ張ればわりと簡単なんだけど、着陸はすごく難しい。   

>地上の一点に降りなければいけないから、スピードを調整する必要があるし、いろいろな条件を最適にしなければならない。   

>そのときにパイロットは何を見ているかというと、滑走路などの「キメ」だという研究があるんです。   

>日本はそうした分析的な研究をしようというふうにはならないで、人相見になってしまう。   

>その差なんです。   

>なぜ日本のGDPは上がらないのか   

>そういう日本人の特性がいい方に出ることもあって、ここ30年、日本のGDPが上がらないでしょ。   

>経済関係の人たちは、日本が経済的に発展していないからだと言います。   

>でも僕の考えは違って、それ以前の「田中角栄による日本列島改造」に代表される成長戦略に国民が嫌気がさしたということだと思っているんです。   

>むやみに国土を掘ったり削ったりするのはもうやめろと。   

>公共事業をやらなくなったので、経済成長が止まったと僕は考えているわけです。   

>象徴的だったのは、2001年に田中康夫さんが長野県知事時代に打ち出した「脱ダム宣言」ですね。   

>こういう態度は非常にローカルですよね。   

>ドイツであれば「緑の党」の主張と重なるんじゃないですか。   

>最近では静岡県知事だった川勝平太さんが、環境保全を理由にリニア中央新幹線の(静岡工区の)着工に待ったをかけていたでしょ。   

>最後は失言などでやめてしまったけれども、あの主張で県政を維持できたのは、県民感情が背景にあったからだと思うんです。   

>つまり論理ではないんですよね。   

>こうした動き・変化をみていると、もうちょっと自分の足元を考えたらどうかなと思うわけですよね。   

>世界的にみても必要な考えだし、事実上日本人がブレーキになっているんだから、それに気づいたほうがいい。   

>こうした考えを広げるようにしてもいいんじゃないか。   

>これがここ数十年の変化ですね。   

---------- 養老 孟司(ようろう・たけし) 解剖学者、東京大学名誉教授 1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。----------

---------- 久石 譲(ひさいし・じょう) 作曲家 現代音楽の作曲家として活動を開始し、音楽大学卒業後ミニマル・ミュージックに興味を持つ。近年はクラシック音楽の指揮者として国内外のオーケストラと共演。ドイツ・グラモフォンからリリースした「A Symphonic Celebration」は米国ビルボード2部門で1位を獲得した。20244月、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団Composer-in-Association就任。254月、日本センチュリー交響楽団音楽監督に就任予定。----------   

 

 

 

 

 

 

 

 

 


制服無償化  

2025-02-06 00:24:25 | 文化

>よろず~ニュース   >堀江貴文氏、制服無償化の動きに「制服をやめるって発想にはならんのかな」 必要の声に「だからどうした」    >よろず~ニュースによるストーリー・   >6時間・   

>実業家の〝ホリエモン〟こと堀江貴文氏が5日、自身のX(旧ツイッター)を更新。   

>中学校の制服無償化の動きに対して、〝そもそも論〟として制服自体を「やめる」動きにならないのかと指摘した。   

 

日本人は没個性 (制服) が好きでしょうね。   

 

>堀江氏は、東京都品川区が2026年度の新入生からを対象に、所得制限を設けず、区立中学校の制服を無償化することが分かったという報道を引用し、「制服をやめるって発想にはならんのかな」とポストした。

 

やめたら良いですね。   

 

>さらに、堀江氏は、Xユーザーからの「制服を止めたら毎日ファッションショーの子供もいればそうでない数着のお子様もいるかと?」という意見に対し、「だからどうした。   

世の中には制服のない学校もたくさんあるだろ。」と反論した。   

>堀江氏の投稿に対し、フォロワーからは「私服は私服で制服よりお金かかるんすよ」「制服着ておけば良いから楽だった」「制服だと見た目、貧富の差が出ませんから制服には賛成です」「制服は高いけど、親としてはありがたい部分もあります」などと〝制服支持派〟からの意見も続いた。   

 

貧富に差が出ないように、子供は制服、大人は人民服というのも一案ですね。   

 

>(よろず~ニュース編集部)   

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

 

 

 

 

 

 


土田淳真氏  

2025-02-05 06:32:21 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン   >「東大合格者数」に踊らされる人が知らない「本当に重要な数字」   >土田淳真によるストーリー・   >23時間・   

>三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。   

>第25回は「東大合格者数」について考える。   

>「合格者数」と「合格率」は異なる   

> 進学実績の低迷に直面する龍山高校では、学校の改革案が議論されている。   

>実権を握る理事長代行・龍野久美子は「国際社会で活躍できる独創性豊かな人材の育成」という理念を掲げるが、桜木建二はこれを一蹴し、難関大学への合格実績のみが全てだと訴えた。   

 

独創性豊かな人材は個性的ですね。個性豊かな人は我が道を行くから難関がない。  

難関大学の合格者は没個性的ですね。個性的な競争であっては不公平だからである。  

没個性的な順位の競争は参入が容易なため序列競いが激しくなるので難関となる。そして個性的な人間は出て来ない。   

 

> つい先日、共通テストが終わったかと思ったら、2月からは首都圏の中学受験が本格化している。   

>今年も受験シーズンがやってきた。   

>「個性を伸ばす教育を」などという文句がうたわれながらも、桜木のセリフの通り毎年の東大合格者数ランキングに注目してしまう人は多いだろう。   

 

個性と没個性は二律背反ですね。   

我が国の教育者は、個性を取るか’ ‘没個性を取るかをはっきりさせた方が良いですね。そうすれば、無駄な争いがなくなります。  

 

>とはいえ、かく言う私も例外ではない。   

> 難関大学への進学実績は、中学受験や高校受験を考える生徒・保護者にとっては一つの大きな基準になる。   

>もちろん、東大合格者数がその学校の実力をある程度反映しているのは間違いない。   

> しかし、発表された数値を額面通り受け取るのは少々危険だ。   

>初歩的な話で恐縮だが、合格者数と合格率は違う。   

> 例えば2024年の東大現役合格実績を見ると、開成高校は117人、聖光学院高校は86人だ。   

>一見すると開成の方が多くの合格者を輩出しているように思える。   

> しかし、合格率で比較すると、聖光学院が開成を上回る。   

>とはいえ、受験する科類によっては合格者数も変化するため、どちらの方が合格実績がいいのかというのは比較しづらい。   

> また、浪人率に関しても触れておかねばならない。   

>都立最難関・日比谷高校では東大合格者に占める現役生の割合は87%であるのに対し、私立の男子御三家の一角・麻布高校では69%である。   

>私の出身校ではなんと東大合格者の約半分が浪人だ。   

 

浪人衆は没個性的ですね。彼らはわが国の期待される人間像に成れるのかしら。   

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。   

 

 

 

 

 


広井良典氏  

2025-02-04 17:22:31 | 文化

>東洋経済オンライン   >「トランプ再び」を機にアメリカ信仰からの脱却を「グローバル化の終わり」の先にある2つの方向   >広井良典の意見・   >14時間・   

>トランプ氏が再びアメリカ合衆国大統領に就任した。   

>この意味とは何か。   

>日本がとるべき対応、そして今後の世界のありようはどうなるのか。   

>『科学と資本主義の未来──〈せめぎ合いの時代〉を超えて』著者の広井良典氏が読み解く。   

()   

>グローバル化の「先」にある2つの道   

>最後に、「グローバリゼーション」というテーマとの関連について述べておこう。   

>ここで私が指摘したいのは、「グローバル化の終わりの始まり」という視点だ。   

>冒頭にもふれたように、トランプ政権は各国に対する関税引き上げや移民規制の強化を掲げ進めつつある。   

>この背後にあるのはもちろん(白人中心の)「アメリカ・ファースト」の理念であり、それ自体は“反グローリズム”的な考えに基づくものと言える。   

>こうした展開を私たちは大きな文脈においてどのように理解すればよいのか。   

>ここで手がかりになるのは、数年前に実施に移されたいわゆる「ブレグジット(Brexit)」、すなわちイギリスのEU離脱をめぐる動きである。  

>そしてここで浮かび上がるのが先ほど指摘した「グローバル化の終わりの始まり」という視点なのだ。   

>あらためて言うまでもなく、私たちが現在言うような意味での「グローバリゼーション」を最初に本格化させたのはイギリスである。   

>つまり同国において16世紀頃から資本主義が勃興する中で、たとえば1600年創設の東インド会社――株式会社の起源ともされる――に象徴されるように、イギリスは国際貿易の拡大を牽引し、さらに産業革命が起こって以降の19世紀には、“世界の工場”と呼ばれた工業生産力とともに植民地支配に乗り出していった。   

>その後の歴史的経緯の詳細は省くが、そうした「グローバリゼーションを始めた国」であるイギリスが、経済の不振や移民問題等の中で、グローバリゼーションに「NO」を発信するに至ったのが「ブレグジット」の基本的な側面と言えるのではないか。   

 

そうですね。   

 

>つまり逆説的にも、グローバリゼーションを最初に唱えた国が、その終わりをも最初に提起したのだ。   

>アメリカのトランプ政権も似た面をもっている。   

20世紀はイギリスに代わってアメリカが世界の経済・政治の中心となり(パクス・アメリカーナ)、強大な軍事力とともに「世界市場」から大きな富を獲得してきた。   

>しかし中国をはじめとする新興国が台頭し、国内経済にも多くの問題が生じ始める中、トランプは政権1期目にもTPP(環太平洋パートナーシップ協定)からの離脱を実行し、今回の関税引き上げや移民規制など、まさに「グローバリゼーション」に背を向ける政策を本格化させている。   

>イギリスを含め、ある意味でこうした政策転換は“都合のよい”自国中心主義であり、グローバリゼーションで“得”をしている間は「自由貿易」を高らかにうたって他国にも求め、やがて他国の経済が発展して自らが“損”をするようになると保護主義的になるという、身勝手な行動という以外ない面をもっているだろう。   

 

それは彼らが良く勉強をした結果でしょう。やってみなければ分からない事でもあったのだ。      

 

>しかし一方、このテーマはもう少し複雑な別の論点を含んでいる。   

>すなわち、以上とは別の意味で「グローバリゼーションの限界」や矛盾がさまざまに見え始めているのが現在の世界であり、今後はむしろ「ローカリゼーション」が重要となり、かつそれが進んでいく時代を迎えているのだ。   

 

そうですね。   

 

>つまり環境問題などへの関心が高まる中で、「地産地消」ということを含め、まずはローカルな地域の中で食糧やエネルギー(再生可能エネルギー)等をできるだけ自給し、かつヒト・モノ・金が地域内で循環するような経済をつくっていくことが、地球資源の有限性やエコロジー的な観点からも望ましいという考え方が広がり始めている。   

 

そうですね。地産地消の考えが浸透していれば福島第一原発のような事故も避けられたでしょうね。      

 

>私が見るところ、こうした方向がかなり浸透しているのはドイツや北欧などの国々であり、これらの地域では「グローバル経済からまず出発してナショナル、ローカルへと降りていく」という具合に考えるのではなく、むしろ「ローカルな地域経済から出発し、ナショナル、グローバルと積み上げていく」という社会の姿が志向され、実現されつつある。   

>ナショナリズムとローカリゼーション   

>したがってやや単純化して対比すると、「グローバル化の終わり」の先の姿には大きく異なる2つの道があるのだ。   

1つは“「強い拡大・成長」志向と一体となったナショナリズム”としてのそれであり、トランプ政権はまさにこれである。   

 

誰であっても成功体験の支配から抜け出すのは難しいですね。   

 

>もう一つはここで述べている「ローカリゼーション」であり、それは上述のように環境ないし持続可能性、コミュニティ、再分配等を重視しつつ、ローカルな経済循環から始めてナショナル、グローバルへと積み上げていくという姿である。   

>こうした方向は、先述の「持続可能な福祉社会(sustainable welfare society)」という社会像とそのままつながるし、私自身はこれからの地球社会の持続可能性や人々の幸福(ウェルビーイング)のためにはこの方向以外ないと考えている。

 

そうですね。我々はつつましく暮らさなければならない。      

 

>まとめよう。   

>本稿ではトランプ政権の意味するものという議論から始め、アメリカ社会の特質と問題性、アメリカとロシアの対立の背景、「グローバル化の終わり」の先にある2つの方向といった話題にそくして私見を述べてきた。   

>トランプ就任を機に私たちが考えていくべきは、「アメリカ信仰」からの脱却そしてここで論じてきたような、これからの地球時代における新たな社会像の構想なのである。   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 


御上先生  

2025-02-03 05:38:35 | 文化

>東洋経済オンライン   >御上先生問う「ディベート」日本で根付かない背景 日本人は議論が苦手?  なかなか浸透しない理由   >西岡壱誠の意見・   >4時間・   

>現在放送中のTBS系ドラマ「日曜劇場『御上先生』」は、文科省官僚の御上孝(松坂桃李)が、私立隣徳学院32組の担任教師になり、令和の18歳と共に日本教育に蔓延る腐った権力へと立ち向かう、という大逆転教育ストーリーです。   

>このドラマでは、実際の教育に関する問題も取り上げています。   

>そこで、短期連載として、ドラマの教育監修も行っている西岡壱誠氏が、実際の教育現場への取材も踏まえて、このドラマから得られる教訓について解説します。   

>第1回:「御上先生」が問う"高学歴勝ち取った"後の人生   

>第2回:「御上先生」伝授"思い出す勉強法"で成績は伸びる   

>日本はなぜディベートが根付かない?   

>『アメリカだと、授業でもなんでも意見を言わされることが多いんだよ。   

>高校生はディベートの授業もあるし』    

>『でも、言いたいことは胸にしまっておかないと、空気が読めないヤツって嫌われる。   

>この国は本音と建前の国なんだって思い知らされて、すごく怖くなった』   

22日に放送された、日曜劇場『御上先生』第3話では、影山優佳演じる倉吉由芽という帰国子女の生徒が、日本の教育とアメリカの教育の違いを指摘して、このように話すシーンがありました。   

>確かにこのセリフのとおり、日本の中学や高校では、意見を求められる授業が少なく、ディベートを行う授業も頻繁にはありません。   

 

そうですね。日本の学校では他人の受け売りとその後追いを学んでいますね。詰め込み主義ですね。      

 

>社会に出てからはきちんと意見を述べることを求められる場合が多く、もっと積極的にディベートやディスカッションの授業を取り入れるべきだ、というのは何十年も前から言われていることですが、学校現場にはなかなか浸透していないのが現状です。   

 

そうですね。日本人は現実肯定主義ですからね。   

 

>今回は、『御上先生』の教育監修で、元岡山大学准教授の中山芳一先生に、なぜ日本ではディベートの授業がなかなか浸透していないのかについて、話を伺いました。   

>――日本ではなぜ、ディベートの授業は浸透していないのでしょうか?   

>学校教育の中にディベートを取り入れるべきだという論調は多いですが、ディベートの授業はなかなか広まっていない現状があります。   

>これは一体どうしてなのでしょうか?   

>実際、ディベートは日本人に向いていないんですよ。   

>なぜなら、日本人は『発言と人格の一体化』ということをしてしまいがちだからです。   

>自分と相手の意見が相反するときに、『自分は相手とは相容れない』と考えてしまう人は多いですよね。   

>人間、どんな主義主張を持っていようが、どんな考え方の人間だろうが、それとは関係なく、仲良くすることができるはずです。   

>むしろ欧米の国々ではそういう考え方が主流ですよね。   

 

個人主義が浸透していますね。   

 

>でも、多くの日本人は、この部分を分離して考えるのが苦手です。   

>ある意味で、人のことを感情的に見てしまう場合が多いのです。   

 

そうですね。日本人は気分、雰囲気、感情ですね。   

 

>本来、意見とはどの立ち位置で発言をしているのかによって変わるものです。   

>親としての立場だとAだけれど、先生としての立場だとB、といった違いがあって然るべきです。   

>しかし日本では、それを許容しない人も多いですよね。   

>ディベートが根付かないのは、むしろ当然かもしれません。   

>学校でディベートを広めるべきではない?   

>――日本ではディベートは浸透しづらいわけですね。   

>ということは、学校ではディベートは広めるべきではないということでしょうか?   

>私は、むしろ逆の見解を持っています。   

>日本人はディベートが苦手だからこそ、日本ではもっとディベートの授業が広まるべきだと思います。   

>教育はそもそも、自分ができないことをできるようにする営みであるべきです。   

>その点で言うならば、日本人は確かにディベートが苦手で、向いていない人が多いのですが、だからこそディベートをもっとしたほうがいいのではないかと。   

>発言と人格は別でいいということを、小さいうちから学ぶ必要があると思います。   

>――そのほかに、日本でディベートが浸透していない理由はどんなものが考えられますか?   

>それはきっと、先生たちの中にある『経験の拘束』のせいなのではないかと、私は考えています。   

>つまり、先生自身が受けてきた教育の記憶が色濃く、先生がこれまで受けてきた教育の経験の中でしか、授業をすることが難しくなっているのではないか、ということです。   

 

出る杭は打たれる’ ‘雉も鳴かずば撃たれまいですね。   

 

>今の日本の多くの先生は、ディベートの授業を受けてきた経験が少ないです。   

>ほぼ皆無と言ってもいいでしょう。   

 

口答えは禁物でしたね。   

 

>そんな先生たちが『ディベートの授業をしよう』と思い立っても、難しさがあるのではないかと思います。   

>これはディベートに限った話ではありませんが、教育において『こういう教育がいいよね』と少し話題になっても、文科省が『こういう教育を広めていくべきだ』と発表したとしても、そうした教育を受けた経験がない現場の先生はそれに対応できず、一過性のブームに終わってしまうという現状があります。   

>経験が悪い意味で連鎖してしまうわけです。   

>そうした意味で、先生たちに求められるのは、『自分が受けた教育を断ち切る教育』かもしれませんね。   

>教育業界には流行り言葉が多い   

>――『一過性のブームに終わってしまう』という点について、もう少し詳しく教えてください。

>教育業界において、『流行り言葉』というものはとても多いです。   

>例えば、『非認知能力』『ウェルビーイング』『個別最適な学び』、最近では『自由進度学習』なども該当します。   

>このように、流行している概念として取り沙汰される言葉はとても多いのです。   

>これらは、言葉としてブームになり、『うちの学校では〇〇学習を取り入れています』などと、多くの場所で使われるわけですが、その一方で、定着はしない。   

>『流行り言葉』になって、やがては廃れていってしまいがちです。   

>――確かに、一過性のブームになる言葉は多い印象がありますね。   

>文部科学省が2014年ごろから提唱した『アクティブラーニング』も同じかもしれません。   

>そう、『アクティブラーニング』も同様ですね。   

>でも、そもそも、『非認知能力』も『アクティブラーニング』も、まったく新しい概念というわけではありません。   

>昔から『数値では測れない人間力の養成は大事』だと言われていて、それに新しい名称として『非認知能力』という言葉を被せただけで、新しい概念ではまったくないんです。   

>アクティブラーニングも同様です。   

>そもそも学びとはアクティブであるべきだし、学習者が主体であるべきですからね。   

>これらの概念は、取り入れられたほうがいい大切な概念です。   

>しかし、多くの教育現場ではそう扱われてはいません。   

>必要だからやっているのではなく、『今流行りだから』という理由でやっています。   

>『なんのためにやっているの?』と聞いたときに答えられない、『なんのために』が抜け落ちて、そうした流行りを実践しているというアピールができることに主眼が置かれてしまっている場合があまりに多い。   

>手段が目的化してしまっているわけです。   

>――『ディベート』も同様だということですね?   

ディベートも、一時期ブームになって、ディベートを取り入れた授業が多くの学校で広まった時期がありました。   

>でも、その多くで手段が目的化してしまっている教育実践だったように感じます。   

>話し合いをさせてみただけで『ディベート』だと言っている、という学校現場も多かったです。   

>これって、おしゃべりと何が違うんですか?というものも多かったんですよね。   

>ディベートとディスカッションは違う   

>――おしゃべりするだけでは、ディベートではないですもんね。   

>そう、まさにそのとおりです。   

>例えば、類似したものとして挙げられるディベートとディスカッションは、本来は明確に区別されたものです。   

>ディベートとは、決められたテーマに対して、『賛成側』『反対側』の役割にあえてわかれて批判的に意見を交わすことです。   

>一方で、ディスカッションは自由に意見を出し合いながら合意形成をしたり、創造的なアイデアを出したりすることが主眼となるため、賛成も反対もありません。   

 

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを示しています。    

 

>私は、この2つの概念を区別して教育実践に取り入れられていた人たちが、果たしてどれくらいいたのか、と考えてしまいます。   

>――一過性のブームとしてではなく、しっかりと理解した上で教育実践活動が行われるようになるべきだ、ということですね。   

 

12歳の国民には無理ですね。    

 

>そうですね。   

>今回のドラマでも1つのテーマになっているように、今現在の学校教育には、矛盾する部分や時代遅れになってしまっている部分が多いと思います。   

>それは、教育を提供している側も、『自分が受けた教育』をモデルケースとしてしまうからです。   

>本当に必要なのは、『自分が受けた教育を断ち切る教育実践』だと思います。   

 

外国人の教師は日本の教育を断ち切りますね。   

 

>今回のドラマが、そのきっかけの1つになればと思いますね。   

 

ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。

日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。 

指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが英米人の子供と違う所である。