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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

国家神道  

2025-02-15 10:56:35 | 文化

>現代ビジネス   >「国家神道」は本当に「戦前のイデオロギー」だったのか…意外と知られていない「驚きの真実」   >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者) によストーリー・   >3時間・   

(略)   

>国家神道の「間違ったイメージ」   

>ここで大切なのは、このような「祖先より代々」という物語はけっして政府や軍部から強制されただけではなかったことだ。   

 

そうですね。民族の歴史そのものですね。      

 

>戦前の神道はしばしば国家神道と呼ばれる。   

>そのことばには、あたかも政府が神社を管理して、国民を教化・煽動するプロパガンダをほしいままにしていたというイメージがこびりついている。   

>だが、最近ではそのイメージは一面的だったと指摘されるようになってきている。   

>というのも、「惟神(かんながら)の大道」ともいわれた神道の国教化は早くに断念され(神社神道は国家に特別扱いされる代わりに、ほかの宗教の「信教の自由」に抵触しないように「宗教ではなく国民的な道徳・倫理」とされた)、その後の神道行政もけっして一貫性をもっていなかったからだ。   

 

神道は魂の救済を必要とする人々の助けにはなりませんでしたね。尤も日本人には病める魂の持ち主は居ないでしょうからね。      

 

>神社を監督する官庁は明治時代だけで、神祇官、神祇省、教部省、内務省社寺局、内務省神社局と目まぐるしく変化した。   

>そのうち、神社のみを管轄した官庁は初期の神祇官、神祇省のみ。   

1872(明治5)年に設置された教部省は仏教などの宗教と抱き合わせであり、それ以降は内務省の一部局扱いだった。   

1900(明治33)年に設置された内務省神社局は神社のみを管轄する部局だったものの、省内では三流局扱いされた。   

>「国家の宗祀」とされた神社も十分な公的支援を受けておらず、官費の支給は不十分で、神職も明治なかばまでにはほとんど官吏ではなくなってしまった。   

>とくに府県社以下の諸社にたいしては、国家の保護はほとんどなきに等しい状態だった。   

>「下からの参加」としてのプロパガンダ   

>そもそも国家神道ということばも、戦前ほとんど使われていなかった。   

>これは、大東亜戦争の敗戦後、GHQが発した神道指令によって広まったものだった。   

>とはいえ、それは神話の影響力が小さかったことを意味しない。   

>当時の休日が、宮中祭祀と分かちがたく結びついていただけではない。   

>これまでみてきたように、神功皇后をうたった軍歌やヤマトタケルとの比較は、民間から率先して出されてきた。   

>プロパガンダの研究でも、「上からの統制」だけではなく「下からの参加」にも注目しなければならないといわれている。   

 

そうですね。日本人は上からも下からも序列により統制されていますね。礼儀は序列作法から成り立っていて、日本人はお互いに礼儀正しい人間であることを要求されている。     

序列は日本語文法の階称 (hierarchy) により成り立っている。   

だから日本人は日本語を獲得した時から、序列メンタリティを持っていると考えられている。   

 

>プロパガンダは、民衆を教化・煽動したい政府や軍部が発するだけでは十分な効果を発揮できない。   

>かならずそこに便乗する企業や、軍国美談を消費しようとする民衆の自発性を必要とする。   

>いいかえれば、プロパガンダは足し算ではなく掛け算であって、ひとびとがもともともっている欲望を倍加させることはできても、火のないところに煙を立てることはむずかしい。   

 

そうですね。日本政府のプロパガンダは日本語の文法に即していますね。そうでなければ現実界では効果がない。   

 

>神話についても同じことが言えるのではないか。   

>政府、軍部、企業、民衆。   

>さまざまなプレイヤーが複雑に絡み合いながら、神話が進んで消費され、ときに国威発揚や戦意高揚に結びついてきた。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それがむやみに価値あるものと思い込みます。   

 

>ゆえにこそ、警戒すべきなのである。   

 

そうですね。日本人はさしずめ序列バカでしょうね。リーズン (理性・理由・適当) が見捨てられている。      

 

>本書でカルチャーのひとつとして軍歌を盛んに引用した理由もここにある。   

(略)   

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 


誤読社会  

2025-02-14 17:37:06 | 文化

>東洋経済オンライン   >ひろゆき「日本語が読めない日本人が多すぎる」フジテレビ斎藤知事問題「誤読社会」の副産物   >ひろゆきの意見・   >7時間・   

>突然ですが、あなたは教科書を読めますか?   

>教科書くらいは読めるに決まっているだろうという人が大半ではないでしょうか。   

>でも実は、多くの日本人が、教科書さえきちんと読めていない。   

>そんな衝撃の結果が、50万人以上が受検したリーディングスキルテストの結果から見えてきました。   

30万部超のベストセラーとなった『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の待望の続編となる『シン読解力』では、シン読解力(教科書を正確に読み解く力)と学力やビジネスとの関係を明らかにします。   

>教科書を読めないということは、新聞や社内資料、ウェブ記事などを正確に読む力も心許ないということ。   

>「日本人の貧困なシン読解力が、ネット社会だからこそ浮き彫りになった」と指摘するひろゆき氏に、日本人のシン読解力について聞きました。   

>実は日本語が読めていない日本人   

Xやヤフーコメントを見ていると「誰が見ても誤読しているけど、本人は気づいていないんだな」という人を結構見かけます。   

>誤読を指摘する人よりも、誤読をしている集団のほうが多くて、みんなで誤読をし続ける、みたいな感じです。   

>自分の日本語能力を客観視したことって、ないですよね。   

>日本人同士では、「あなた、話すのが下手だね」とは言うけれど、「日本語が下手だね」とはあまり言いませんよね。   

>「日本語が下手」というのがどういうことなのかを客観的に示すことができないと、ただ相手の悪口を言っているだけにも聞こえてしまいます。   

>本書の中で、タレントの武田鉄矢さんが、日本語の文章を読み違えたのにそれを認められなかったという例が出てきます。   

>自分は日本語がうまいと思っているけれど、実は日本語が下手な日本人は多い。   

>一般の人の「シン読解力」のレベルは実はそんなに高くないんですよね。   

>小学校低学年レベルでも理解できる文章を書かないと、誤読されてしまい、本質とは違うところで、面倒なことになるという状態だと思います。   

>この記事にも、最初に「シン読解力」の問題を掲載して、「これを迷わず解けた人は、読まなくてもいいです」と書いてもいいかもしれない(笑)。   

>解けない人が結構多いと思うんですよね。   

>文法の細かい部分を理解していない人が多いんだと思います。   

>口頭で会話している場合は、引っかかる点があると、相手が表情に出すので、それを見て補足したり、相手のレベルに合わせて言い直したりすることをやります。   

>でも、SNSの世界になって、リアルなコミュニケーションのように相手の表情や反応を見ながら言葉を修正できない状態だと、誤読したままになってしまいます。   

>そして、相手の誤読が、文法理解の能力が欠落しているからだということに気づかないまま、「たまたまミスしたんだね」「この分野に関してわかっていないよね」というふうに誤解しているんだと思います。   

>誤読のフジテレビ問題と斎藤知事問題   

>そもそもちゃんと理解する気がない、という問題もある気がします。   

>例えば、中居正広さんの女性トラブル問題は、フジテレビの社員が関与していたとされていたものが、実は、中居さんが女性に対して「2人だけどうちに来る?」と聞いて、女性が中居さんの家に行ったという話が出ていますよね。   

>だとすれば、2人きりの家に自分から行ったという見方もでき、必ずしも「フジテレビ社員の斡旋」とは関係ないんじゃねっていうのが僕の理解なんですけど、日本中なぜか「社員が斡旋した」と騒いでいるんですよね。   

>兵庫県の斎藤知事のパワハラで職員が自殺したとされる問題においても、はっきりとしてなくて、グレーな部分が多いということですよね。   

>もちろん、私には事のすべてはわかりませんが、みんな、ちゃんと文章を読んで理解しようという気がなかったり、イメージだけで騒いでいるのではないでしょうか。   

>強者によるパワハラ、セクハラというのはイメージしやすいので、そんなイメージに合う誰かの話を鵜呑みにしてそのまま拡散する。   

>そういう伝言ゲームをずっとやっているような気がします。   

>これに対し、「シン読解力」があって、ちゃんと情報を理解することができている人は、「2次情報だけだと情報が足りない」という結論になると思います。

>「〇〇だと言われている」「〇〇だと●●さんが言っている」という文章には、誰かがそう言っているというだけで、「事実」は書かれていません。   

>でも、日本の人たちは、事実がわからないのに、「●●さんが言っているから、これは事実だ」と勝手に決めてしまうところがあります。   

 

そうですね。日本語は写生画の言葉ですからね。内容は皆が事実の描写だと信じていますね。      

 

>フジテレビの問題も、当事者である中居さんも被害女性も、なにも言っていないので、「事実は不明である」としか言いようがないんですよね。   

>いま日本は、誤読の上に生まれたイメージ形成で、あらゆることが決まってしまう社会です。   

>その原因のひとつとして、学校で「シン読解力」を教えてこなかったことがあるように思います。   

>間違うような書き方をしたほうが悪いのか   

>社会全体として「シン読解力」が上がれば、誤解と間違いが減るので、変ないさかいは減ると思います。   

>ネットでは、「間違うような書き方・言い方をしたお前が悪い」という言い分をよく見ますけど、それって「間違える、頭の悪い側」を肯定する論理なんですよね。     

 

そうですね。文法に従った解釈が正しいですね。間違える人は幾らでもいますね。   

 

>小学校や中学校ならそれでいいと思いますけど、ビジネスの世界では、間違えた側は、損して終わりです。   

>契約書を誤読して、すべて取られてしまった。   

>でも「契約書にこう書いてありますよね」となれば、裁判所で「間違えるような書き方をしたほうが悪い」といくら訴えても、認めてもらえません。   

 

忖度 (推測) の世界は裁判所では通じませんね。忖度は自分勝手な解釈ですからね。      

 

SNSによって、世の中に「シン読解力」の低い人がこれだけいるんだということがわかったのは、現状把握という意味では、すごくいいことだと思います。   

>あとは、それをどう減らしていくかですね。   

 

そうですね。   

 

>日本語は、単語の量が圧倒的に多くて、言語としての難易度が高いので、より「シン読解力」不足になりがちなのかなと思います。   

>カタカナ語のような新しい単語がバンバン入ってきますよね。   

>フランスは、基本的に外来語を入れないので、単語の量が少ないんです。   

>だから、日本語よりは誤解は少ないと思います。   

>日本人の場合は、新しいカタカナ語がわかっていないと、馬鹿だと思われるというのもあって、聞き流してしまうということもあり得ると思います。   

>僕が見ている限り、アメリカ人は誤解が少ないと思います。   

>トランプ大統領がそうですけど、「文法をシンプルに話すのが正しい」という価値観が強い民族だからです。   

>日本人も、みんなトランプ大統領のように、わかりやすくストレートに話せばいいと思います。   

>婉曲的な表現を多用するから誤解が生まれやすいわけです。   

 

そうですね。日本人の社会は忖度の社会ですからね。   

 

>ある意味、トランプ大統領のやっていることは、みんなの誤解を減らし、わかりやすくするという意味では、正しい方向に向かっているのかもしれませんね。   

>「理解できない説明」では支持されない   

>日本では、国民民主党が「減税」、立憲民主党が「給付付き税額控除」と言いました。   

>この2つは、本質的には同じです。   

>減税は、みんなの税を減らすことですが、立憲の場合は、確定申告の時に、所得控除という形で納税額を減らして、低所得者には補助金を出すことで、結果として可処分所得を増やすという方法です。   

>「減税」なら意味がわかるけど、「給付付き税額控除」と言われて仕組みを説明されても、ほとんどの人が理解できないと思います。   

>家計への影響においては同じことを伝えているのに、評価が分かれてしまう。   

>「どちらが正しいか」ではなく、まずは、理解できる言葉で、理解できる説明をしないといけないよねという話です。   

>わかりやすいという意味では、国民民主党は、トランプ的な手法を取ったとも言えます。   

 

そうですね。   

 

>やっぱり、わかるから支持するということだと思うんです。   

>何を言っているのかわからないことに対しては、賛成もできませんから。   

 

そうですね。   

 

(略)   

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明がうやむやにはならない。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。     

「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO)   

日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。  

日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。  

 

 

 

 


対米包囲網  

2025-02-10 17:29:03 | 文化

>集英社オンライン   >アメリカは世界最強の国なのに「対米包囲網」が敷かれないのはなぜかじつは中国やロシアほどは他国に恐れられていない本当の理由   >2時間・   

>世界最強の国アメリカ。   

>しかし不思議なことに、世界の国々は中国やロシアを警戒するほどには、アメリカを恐れていない。   

>実際「対中包囲網」という言葉はよく聞くが、「対米包囲網」という言葉はあまり聞かない。   

>この「謎」を解く鍵は、国際政治における「安全保障のジレンマ」という考え方にある。   

>地政学動画で平均150万回再生を記録する社會部部長が、不変の地政学の法則を解説した『あの国の本当の思惑を見抜く地政学』(サンマーク出版)より一部抜粋、再構成してお届けする。   

>勢力均衡論最大の謎、アメリカ   

>勢力均衡論は、国際政治を説明する上で説得力のある理論です。   

>実際に、16世紀以降スペイン、フランス、ドイツ、ロシア(ソ連)などが圧倒的な勢力を持って台頭したものの、周辺国が対抗連合を組んで覇権の阻止にすべて成功しました。   

>ところが、現代の世界ではこれに矛盾するように見える現象が発生しています。   

>それは、アメリカに立ち向かう対抗連合が存在しないことです。   

>冷戦が終わってから、アメリカは「唯一の超大国」として絶大な勢力を誇っています。   

>それにもかかわらず、世界には複数の国が協力してアメリカを抑えようとする動きが見られません。   

>もちろん、アメリカに反抗する国々は存在します。   

>イラン、北朝鮮、ロシア、そして中国はその最たる例でしょう。   

>しかし、それでも「連合」は欠如しています。   

 

権威主義国は連合しないでしょうね。   

 

>つまり、どの国も部分的な協力はしつつも、基本的には個別に行動しており、対抗連合と呼べるほどの団結はしていないのです。   

>これに加えて不思議なことがあります。   

>それは、中国やロシアへの対抗連合は形成されていることです。   

 

中国やロシアは恐ろしいですからね。   

 

>「対米包囲網」という言葉はあまり聞きませんが、「対中包囲網」という言葉はよく聞きます。   

 

中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 () う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。経文など漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

・・・・・

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北狄 (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。   

 

>勢力均衡論に基づけば、潜在覇権国(将来的にすべての国を支配する勢力を持つ覇権国になるかもしれないほど強い国)の定義に当てはまるのはアメリカであるはずです。   

>アメリカをこのまま放置していれば、やがて覇権国になって世界を征服してしまいます。   

>本来であれば、世界中の国がこれを恐れるはずです。   

>しかし、多くの国はアメリカを抑え込もうとするどころか、むしろ協力しています。  

 

そうですね。   

 

>一見これは、勢力均衡論に矛盾しているように思えます。   

>ただ、依然として勢力均衡論は間違っていません。   

>なぜなら、間違っているのは「アメリカが潜在覇権国である」という前提だからです。   

>要するにアメリカは「潜在覇権国」と呼べるほど強い国ではないということです。   

 

アングロサクソンの国には外国から大量の難民が押し寄せる。   

アングロサクソンの政治家は外国人からも信頼されているからであろう。   

難民の生活には家族の命がかかっている。だから難民は伊達や酔狂では行動できない。命を懸けて越境を試みている。     

彼等の間のアメリカにおける生活の正しい口コミ情報が広がっていて難民の行動に自信を与えている。       

アングロサクソンの政治は外国人にも受け入れられる内容である。だから彼らの政治には人徳があると言える。   

そして対米包囲網はできない。   

 

()  

 

 

 

 

 

 


山本一太氏  

2025-02-09 18:24:26 | 文化

>朝日新聞   >群馬知事「一太さん」と呼んで県庁内、役職名でなく「さん」付けを   >朝日新聞社によるストーリー・   >6時間   

> 群馬県の山本一太知事は6日の定例会見で、県庁内を「フラットな組織にする」一環だとして、知事以下、部長や課長といった役職名ではなく、「さん」づけで呼ぶ運用を始めると発表した。   

 

そうですね。日本人の社会は序列社会ですからね。改革運動ですね。      

 

>ただ、山本知事自身は「『一太さん』と呼んで」と話しており、ファーストネームを推奨するという。   

> 県によると、24日の政策会議でDXや行革についての成果や課題が話題になった。   

>山本知事は「組織の風通しをよくするには、形から入るのが大事」として、上司や部下は関係なく、呼称については「さん」を使うように周知していくという。   

>強制するものではなく、あくまでも要請という。   

 

「さん」を趣味の問題とするのですかね。   

 

> 山本知事は「呼びかけ方で心の壁が取り払われる。   

>県庁全体で『さん』づけで呼ぶ文化にしたい」と意識改革に期待をよせる。   

>一方、自身がファーストネームにこだわる理由については「『山本さん』では、よそよそしい」と説明した。   

 

気分・雰囲気・感情の問題ですかね。それは歌詠みの世界ですね。   

 

> 栃木県では20234月から「さん」呼びを推奨している。   

3カ月の試行期間で評判がよく、実施したという。   

>担当課は「TPOにあわせていて、いまでは『さん付け』をつかう人が多い。  

>ただ、名前が出てこない場合は役職名が便利なようです」としている。   

>(高木智子)   

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


木下倫太朗氏  

2025-02-08 04:37:51 | 文化

>産経新聞   >日本政府の「賠償責任」を強調した被団協演説 ノーベル賞取材で聞いたオスロ市民リアル評   >6時間・   

>核廃絶運動を続けてきた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が2024年のノーベル平和賞を受賞した。   

>昨年12月、ノルウェー・オスロで行われた授賞式を取材したが、日本との温度差を感じる場面も少なくなかった。   

>今年で戦後80年。   

>被爆の実相を知る世代は減り、だからこそ語り継ぐ意義は大きくなっているが、現地で感じたのは発信の難しさだった。   

>「受賞者?知らない」   

>昨年128日正午過ぎ、オスロ空港着。   

>関西国際空港からイスタンブールを経由し約21時間の長旅だった。   

>空港ターミナルを出て、電車のホームへ。   

>北欧の風は刺すように冷たい。   

>日照時間が短く、午後3時ごろには日が暮れる。   

>車窓から見える白い大地はもう薄暗くなっていた。   

>約30分でオスロ中央駅に。   

>被団協の代表団らが宿泊するグランドホテルに向かった。   

>ホテル前から王宮までは約350メートルの一本道。   

>霜が降り、凍った石畳の道の両端に「ノーベル平和賞」「オスロピースデイズ」と英語で書かれたのぼりが掲げられていた。   

>王宮から西に約600メートル進んだ先にあるノーベル研究所では、日本被団協のアルファベット表記に、折り鶴が描かれた垂れ幕も目にした。   

>街全体でノーベルウィークをもり立てているようにも思えた。    

>翌日、「街の声」を取りにいった。   

>まず会社員の40代女性に尋ねてみると…。   

>「今年の平和賞受賞者? 知らない」   

>記者「日本被団協なんですが」   

>「何の団体?」   

>ほか10人ほどに声をかけたが、正答はゼロ。   

>ヒロシマ、ナガサキの被爆者らが核なき世界に向けて活動してきたことが認められたのだと伝えると「それは素晴らしい。   

>核はなくなってほしい」と返ってきたが、どこかありきたりな感想に聞こえてしまった。   

>翌日の授賞式会場となるオスロ市庁舎前には、日本のメディア関係者が大勢いた。   

>「カメラマンがたくさん来ているが、何かあるのか?」と現地の20代男性に逆に声をかけられた。   

>原稿になかったアドリブ   

>現地時間1210日午後1時から始まった授賞式。   

>荘厳なファンファーレが響く中、被団協代表委員の3人やノルウェー国王が登場した。   

>ノーベル賞委員会のフリードネス委員長が授賞理由などを述べたのち、受賞者スピーチが始まった。   

>「もう一度繰り返します。   

>原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたいと思います」   

>約20分に及ぶ演説の中で一度だけ、原稿になかった言葉がアドリブで付け加えられた。   

>演台に立った日本被団協の田中熙巳代表委員(92)は帰国後、報道陣に真意を問われると「国民は国の政策を我慢しなくてはいけないという状況があると、感覚的に思っている。   

>それは民主主義ではないということを強調したくて、ああいう言葉になった」と説明した。   

>オスロ市民はこの演説をどう受け止めたのか。   

>式典の夜、市内で行われたたいまつパレードに参加した団体職員のクラウス・ラーグネターさん(58)は、田中さんが自らの被爆体験を語った場面を引き合いに「二度と同じ被害者を出してはいけない。   

>核の悲惨さが分かるスピーチだった」と話した。   

>一方で日本政府の賠償責任に触れたことについて感想を聞くと「複雑なことなので、あまりよく分からなかった」と率直に語った。   

>戦争損害と受忍論   

>戦争損害を巡っては、最高裁大法廷が昭和43年に国民の補償請求権を否定。   

>「戦争中から戦後占領時代にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあっては、国民のすべてが、多かれ少なかれ、その生命、身体、財産の犠牲をたえ忍ぶべく余儀なくされていたのであって、これらの犠牲は、いずれも、戦争犠牲または戦争損害として、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであり…これに対する補償は、憲法の全く予想しないところというべきである」と判示し、補償の要否を立法府の裁量に委ねている。   

>さらに当時の厚生大臣の委嘱を受けた原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)は同55年、最高裁判決を踏まえ、被爆者対策の基本理念として「法律論として、開戦、講和というような、いわゆる政治行為(統治行為)について、国の不法行為責任など法律上の責任を追及し、その法律的救済を求める途は開かれていない」と言及している。   

>被団協はこれまで、最高裁のいわゆる「戦争被害受忍論」や基本懇の意見を繰り返し批判。   

 

米大統領トルーマンは、極め付きの反日、侮日主義者で、原爆投下については、「獣を扱うには、獣にふさわしい方法でやった」と、日本人を獣扱いしていたと言われています。 

‘あいつ [J. ロバート オッペンハイマー] の手が血塗られているだって? 冗談じゃない。あいつには私の手についている血の半分もついていないさ。泣き言を言うなんて、けしからん。’ (ハリー・トルーマン大統領)     

オッペンハイマーは原爆の父であり、トルーマンは原爆投下の張本人である。彼らには加害者意識があり、罪の意識もある。彼らのお陰で多くの日本人が一億総玉砕を免れた。

 

>死没者補償を含めた「原爆被害者援護法」の制定を基本要求として掲げ、活動の中心に置いてきた。   

>法制定により、国民に戦争損害を「受忍」させないことが、再び被爆者をつくらない前提になるというポリシーだ。   

 

「アメリカがあのタイミングで原爆投下して、どれだけ破壊力があるかを世界中に知らしめられたことで、冷戦中の核兵器使用が防がれた。世界の滅亡を避けられたじゃないか。大体、日本は被害者なのか。  

ユダヤ人大虐殺をしたドイツと連盟を組んで、他のアジアの国にもひどいことをしたじゃないか。それでいて第二次世界大戦といったら原爆投下の被害ばかり語るのっておかしくない?  そもそも戦争中っていろんな国がめちゃくちゃひどいことをしたわけだから、日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしいと思う」 (あるアメリカの学生  

 

>その意味で、田中さんのアドリブは積年の悲願の表出として理解はできる。   

>だが昨今の核兵器を巡る国際情勢は、民主主義を理念としない国による現実的な使用の危険性が日増しに高まっているような危機的状況だ。   

>そうした現状において、日本政府の「非民主性」を海外に向けて強調したことが、どれだけ響いただろう。   

 

意思がなければどうなるか。受動があって能動がない。だから、被害者意識があって加害者意識がない。罪の意識もない。これはアニマルも同じである。罪の意識のある人たちにとって、罪を知らない人たち立ち上がりは恐ろしい。

‘罪悪感を国民に植え付けるプログラム’ (WGIP: War Guilt Information Program とは、大東亜戦争後の昭和20(1945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画ですが見事に失敗しました。カエルの面に水でした。わが国からは戦争犯罪人は一人も出していません。意思の無い人間に罪の存在を理解させるのは難しいからです。従ってわが国の全ての宗教は罪と離れたところに存在します。罪の意識に苛まれる病める魂の持ち主を救済する必要がないからです。    

 

>いてつくオスロの街を歩きながら、そんなことを考えた。   

>(木下倫太朗)