>今の大学生は本当に勉強しない。>少し前まで大学生であった自分だからこそ、はっきりと言い切れる。
日本人は、哲学の勉強をする必要がありませんからね。つまり、大人になるための勉強は必要ないわけです。
日本人は、無哲学・能天気であります。このような人達の住む社会においては、考える人を必要としていません。現在、我が国は人手不足に陥っていますが、頭脳不足の話は聞かれません。きっと手足の働きを激しくして、頭脳の働きを補っているのでしょうね。
>暇があれば、サークル活動や趣味や旅行。>大学の授業は片手間でこなしているだけ。
四年間も遊んですごすのですから、サークル活動や趣味や旅行が暇つぶしということになりますね。現実の内容の勉強ばかりでは ’日の下に新しきものなし’ となります。退屈男・退屈女も出てきます。ひと昔前の学生は、ゲバ棒を振るっていました。
>テスト前に、点数を取るための行動しかしない。どっちが、本職なのやら。
我々日本人は、点取り主義の教育を受けてきていますからね。与えられた作業をただこなすだけで、自発性がありません。
>ただ、それが悪いとは思わない。>実際、社会に出てみて、大学の授業などほとんど役に立っていない、もしくは社会にでてから追求すればしまいなことがほとんど。
無哲学・能天気な社会では、大学の授業はほとんど役に立ちませんね。日本人の生活には、哲学は必要ないですからね。哲学の勉強が何の役にも立たない社会に問題がありますね。
>勉強しないことが悪いのではなく、勉強自体がなんの役にも立たないことが問題ではないかと思う。
日本人には、現実の内容は有るが、非現実の内容はない。非現実 (考え) の内容は想定外になっています。自己の考えを説明しようとする者に対しては、’そんなこと言っても駄目だぞ、現実はそうなっていない’ と反論します。ですから、自己の考えを述べようとする者もいなければ、それを求めようとする者もいない。だから、頭脳不足などあろうはずもない。哲学の勉強自体が、何の役にも立ちません。
>大学で勉強した内容を評価する社会に移行していく、または本当に必要なことを大学の教育に取り入れるなどしないと、学生は動かないだろう。
そうですね。
英米人の言語では、考えは必ず文章になる。文章にならなければ、考えではない。
現実の内容だけでは、軽薄・浅薄な人間にとどまります。
大学の勉強は、主として哲学の勉強でしょうね。非現実の内容は考えの体系を形成し、奥深い思慮のある人間を作ります。これは、本当に人間にとって必要なことです。
非現実の内容は、時制のある文章であります。日本語文法には時制 (tense) がありませんので、英語で考え、英語の論文発表をする必要があります。
日本語文法には、時制がありませんので、非現実を表す文章ができません。非現実の想いは、ばらばらな単語のままにとどまり、相手の忖度・推察に期待を寄せています。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語には時制が無いので、日本人には意思が無い。
意思のあるところに方法がある。意思のない日本人には方法がない。だから、理想社会に移行する努力を実行することが出来ない。無為無策でいる。他力本願・神頼みか。
政治家も動かない。教育者も動かない。だから、学生も動かない。
日本の大学教育を改革する必要がありますね。意思のあるところに、その方法は有ります。(Where there’s a will, there’s a way). 我々日本人は、日本語と英語を共に学ぶ必要があります。
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日本人は、哲学の勉強をする必要がありませんからね。つまり、大人になるための勉強は必要ないわけです。
日本人は、無哲学・能天気であります。このような人達の住む社会においては、考える人を必要としていません。現在、我が国は人手不足に陥っていますが、頭脳不足の話は聞かれません。きっと手足の働きを激しくして、頭脳の働きを補っているのでしょうね。
>暇があれば、サークル活動や趣味や旅行。>大学の授業は片手間でこなしているだけ。
四年間も遊んですごすのですから、サークル活動や趣味や旅行が暇つぶしということになりますね。現実の内容の勉強ばかりでは ’日の下に新しきものなし’ となります。退屈男・退屈女も出てきます。ひと昔前の学生は、ゲバ棒を振るっていました。
>テスト前に、点数を取るための行動しかしない。どっちが、本職なのやら。
我々日本人は、点取り主義の教育を受けてきていますからね。与えられた作業をただこなすだけで、自発性がありません。
>ただ、それが悪いとは思わない。>実際、社会に出てみて、大学の授業などほとんど役に立っていない、もしくは社会にでてから追求すればしまいなことがほとんど。
無哲学・能天気な社会では、大学の授業はほとんど役に立ちませんね。日本人の生活には、哲学は必要ないですからね。哲学の勉強が何の役にも立たない社会に問題がありますね。
>勉強しないことが悪いのではなく、勉強自体がなんの役にも立たないことが問題ではないかと思う。
日本人には、現実の内容は有るが、非現実の内容はない。非現実 (考え) の内容は想定外になっています。自己の考えを説明しようとする者に対しては、’そんなこと言っても駄目だぞ、現実はそうなっていない’ と反論します。ですから、自己の考えを述べようとする者もいなければ、それを求めようとする者もいない。だから、頭脳不足などあろうはずもない。哲学の勉強自体が、何の役にも立ちません。
>大学で勉強した内容を評価する社会に移行していく、または本当に必要なことを大学の教育に取り入れるなどしないと、学生は動かないだろう。
そうですね。
英米人の言語では、考えは必ず文章になる。文章にならなければ、考えではない。
現実の内容だけでは、軽薄・浅薄な人間にとどまります。
大学の勉強は、主として哲学の勉強でしょうね。非現実の内容は考えの体系を形成し、奥深い思慮のある人間を作ります。これは、本当に人間にとって必要なことです。
非現実の内容は、時制のある文章であります。日本語文法には時制 (tense) がありませんので、英語で考え、英語の論文発表をする必要があります。
日本語文法には、時制がありませんので、非現実を表す文章ができません。非現実の想いは、ばらばらな単語のままにとどまり、相手の忖度・推察に期待を寄せています。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語には時制が無いので、日本人には意思が無い。
意思のあるところに方法がある。意思のない日本人には方法がない。だから、理想社会に移行する努力を実行することが出来ない。無為無策でいる。他力本願・神頼みか。
政治家も動かない。教育者も動かない。だから、学生も動かない。
日本の大学教育を改革する必要がありますね。意思のあるところに、その方法は有ります。(Where there’s a will, there’s a way). 我々日本人は、日本語と英語を共に学ぶ必要があります。
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