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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

英語・公用語

2017-10-11 23:12:26 | 文化
>ユニクロや楽天が英語を公用語とするのは無能な社員を振い落すためだと書いたことがありますが、英語を公用語とすることは日本文化を捨てて英米文化を受け入れる事にもなります。>つまり社長に対してもタメ口が聞けるような社内文化にしなければなりません。>多くの日本企業では大企業であればあるほど社内の上下関係がうるさくなります。

日本社会は、序列関係がはっきりしていて、責任関係がはっきりしていません。この国がひっくり返った時にも、責任者は出ませんでした。

>入社年次でも一年違えば先輩と後輩になりますが、話し方でも気を使わなければなりません。

そうですね。人を見損なってはなりませんね。序列判断は、強迫観念の域にまで達しています。

>(略)
>英語は議論したりするにはいいのでしょうが、議論ばかりで人間関係が成り立つのでしょうか。

議論は、それが必要な時にするものでしょう。例えば、議会とか、会議とか。

>能力があって議論しても相手をコテンパンに叩きのめしては合意できるものも決裂してしまうかもしれません。

完全な理解は、必要ですね。正確性が必要とされる言語を使って伝達される情報は言葉の中で全て提示される。

>逆に含みを持たせた日本語の言い方では、丁寧なのはいいが何が言いたいのか分からない事もあります。

曖昧な言語を使って、重要な情報でも言葉に表現されないことがある。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。

>林氏が指摘しているように英語だと命令口調になるから、「貴様、俺に命令するつもりか」と感情的になってしまい上司もいる事でしょう。

言葉遣い (階称) は、難しいですね。

>日本語だと「こうしたほうがいいかと思いますが」という言い方が多くなりますが、結婚式の司会でも司会者の「したいと思います」という言い方が普通になる。

命令文ではなくて、現在の動作・状態を表す平叙文の形式を採用するのですね。

>このように日本語では言葉づかいで、その人が評価されるし内容よりもどれだけ相手を敬わっているかが問題になる。

人を見損なっては、いけませんね。リーズン (理性・理由・適当) の上下よりも、世俗の上下に心を奪われてしまいますね。

>人に命令を下すのは上司や親などが部下や子に言う時に限られる。

上意下達ですね。だが、上位の者に責任感はない。

>私なども他人にアドバイスをする時でも命令口調で言えば「あいつは生意気だ」という事になります。

’下におれ、下におれ’ の掛け声のように聞こえるのかも知りませんね。

>たとえ内容は的確であっても感情的にシコリを残します。

日本人は、感情の動物ですかね。

>大学などの体育部などでは、一年奴隷、二年人間、三年天皇、4年神様と言われるくらい上下関係が厳しい。

序列観念は強迫観念ですね。

>会社でも似たり寄ったりで、大企業では社長は現人神のような存在だ。

序列作法は、宗教の域に達しているようですね。

>もしこのような社会にアメリカからの帰国子女が入ってきたらどうなるかは火を見るよりも明らかだ。

能力と序列の戦いになりますね。

>学校でも教師と生徒との関係は同じであり日本では学校では絶対的存在だ。

日本人の礼儀作法は、序列差法ですからね。序列なきところに礼儀なし。

>日本全体が、アメリカなどに比べると息苦しいのは敬語や上下関係に厳しいためであり、組織の一員であることはこのような常識をわきまえていなければならない。

そうですね。日本語には階称・言葉遣いがあり、上下の判断ができないと、日本語を自由に話せませんね。

>単に会社内で英語を公用語するのは簡単なようで難しいだろう。

序列メンタリティの日本語脳には、難しいですね。

>議論などでも部下からタメ口で命令口調でされても当たり前と思わなければならない。

横社会 (階級社会) の習慣には、縦社会 (序列社会) の人間はなじめませんね。

>英語には「生意気」という言葉がない。

そういえば、‘恨めしい’ とか、’生意気’ とかは、あまり英米人の口から聞いたことがありませんね。

>議論上で上下関係が存在しないのであれば、能力ある部下が上司を論破することもあるのでしょうが、年功序列と能力社会の違いが言葉となって現れている。

商売でも、序列と能力の戦いになりますね。能力重視の方が勝つでしょう。

>だから英語の公用語化は他の日本企業と摩擦をもたらす原因となるだろう。

そういうこともあるでしょうね。

>たとえば「わが社のプランを受け入れる事が貴社にとってのベストだ」などと言ったら、相手の日本企業はどう思うでしょうか。

日本人にとっては、’上とみるか、下とみるか’ の問題が重要ですからね。

>しかし英語ではこのような言葉遣いが当たり前だ。

彼らは、能力の比較ですからね。



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虫たち

2017-10-11 02:40:17 | 文化

>何が『自然』で『自発』的なのか、それを絶えず感知する能力が日本語には求められている。

意思が無ければ自然で、恣意があれば自発でしょうね。

>その能力とは、決して子供のような『主客合一』でも『自他未分離』の状態でもなく、全体のなかでしっかりと自己を見据えていく『自己意識』である。>よく誤解されていることだが、日本人は『自己意識』が希薄なのではなく、(中略) 『努力して努力して、どこまでも人の手を加えていながら、それでいて、涼しげな顔をして、あたかもそこに無造作に日本庭園があるように見せるところが、日本庭園のすごさなのである』。>それと同じように、日本人の意識は決して『自己意識』が希薄なのではなく、ヨーロッパとは違った自覚的な深い意識のあり方なのである。

そういうことになるかもしれませんね。

>日本人の意識は、あたかも無意識から出たもののようにさりげなく表現される。しかし、だからといって決して無自覚に出されたものでなく、十分に自覚的にそして意識的に出されたものである。>しかも、その出し方があたかも『おのずからそうなったように』、また『人の手が加わってないかのように』出されたものである。

意思のない言動は、自然に見えますね。

>そういう意味は、日本人の意識のあり方はどこまでも意識的なものであり、高度に人為的なものである。>ただその高度さを隠すまでに人為的なものであるため、表面上は『自己意識』が希薄なように見られるだけである。>日本人の無為自然というのはどこまでも人為的なものであり、人の力によって無為自然を作り上げている。そしてそれがさまざまな面で対人関係に生かされたり、芸術的に表現されたりしている。

意思が存在しなければ、人はアニマル同様に、自然に溶け込みますね。

>この『自己意識』はヨーロッパのような『神の視点』から自己を見下ろす自己意識とは違うが、水平的に場の雰囲気を読む『自己意識』として日本人に常に求められているものであり、金谷武洋氏はこの視点を『虫の視点』といっている。

西洋人のような意思のある人たちの生活には、倫理的な上下がありますね。これは。頭の中 (非現実・考えの上) の上下です。
日本人のような意思のない人達の暮らしには、世俗 (現実) の上下による差別がある。

>このような『虫の視点』から場の雰囲気を捉える日本人特有の能力が、だんだんと失われつつある。そのことが、今発生しているさまざまな教育問題の根底にあるのではなかろうか。

虫には責任が有りませんね。

>今行われている『個性化教育』は日本人の自己意識をヨーロッパ的な『神の視点』へと引き上げようにしているが、そのような文化的基盤のない日本で『神の視点』はなかなか育たないばかりか、従来日本人のもっていた『虫の視点』の良さまでもが壊れつつあるように思える。

意思のない人間には、神の視点は理解できませんでしょう。神の良さと虫の良さは、両立可能だと思いますよ。神の良さは、言葉の良さ。虫の良さは、無言の良さでしょう。言葉と無言の区別ははっきりさせておかないと、社会に混乱が起こります。
日本人には意思が無い。意思は時制を未来時制の文章内容であり、日本語文法には時制がありません。ですから、日本人には意思がありませ。あるのは恣意ばかりです。これは、他のアニマルと同じです。
全ての考えは文章になります。文章にならないものは、考えではありません。日本人の想いは文章にならないで、ばらばらな単語のままで存在します。それはそれで、芸術性を発揮します。
日本人の精神活動は、文章・言動に表現されることなく、心から心へと伝えられます。この活動は、正しい考え・正しい理解を目的とした言語学習の道筋を大きく逸脱しています。言語には論理を求め、バラバラな単語を芸術に利用し、両者を完全に分離すれば、教育に混乱はないと思います。

>ヨーロッパの『オーケストラ』の演奏は、一人の指揮者を立てそれに従って全員が演奏するという上からの『神の視点』に近いものだが、 日本の伝統的な『雅楽』の演奏は、全員が横並びで一人の指揮者を立てることもなく、互いが場の雰囲気を読みとりながら、それでいて全体の調和をとるという『虫の視点』に近いものである。

指揮者には演奏に対する責任が有ります。虫たちには責任が無い。虫たちは協同作業に責任者を立てない。この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>今の日本の教育をとりまく状況は、日本の伝統的な『雅楽』奏者が、突然『オーケストラ』の演奏のなかに引きづり込まれて、従来培ってきた雅楽の演奏方法が台なしになってしまっているのと似ている。

伝統的な雅楽の奏者は、いつまでたっても責任ある指揮者にはならないでしょう。いつまでたっても、突然であることに変わりはありませんね。


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