>もともと日本語に「リーダー」という言葉はありません。和訳は、先導者、指導者、首領、ドン、などとなりますが、それらの和訳も幕末以降の英語の翻訳語であって、もともとの日本語ではありません。
そうですね。リーダーは指導者です。自己の意思を人々に示して、現実対応を指示する人です。しかしながら、日本人には意思がありませんので、指導者の概念は想定外ということになるでしょう。意思は未来時制の文章内容であります。日本語文法には時制 (tense) というものがありませんから、日本人には意思がありません。
>言い出しっぺは、あくまで言い出しっぺであって、やるのはみんなです。
指導者と指導者以外の人たちは、共に指導者の意思に従うことになります。
>そして、何かの事業を行うときには、必ずそれを許可してくれた人がいるわけです。
責任制度を励行するわけですね。許可する権力の持ち主が必要です。
>その許可してくれた人は、その成功に責任を負っている人です。
そうですね。責任者ですね。
>そして日本的組織においては、その許可してくれた人は、ひとりではなく、多くの場合、かならず複数の意思として、決められています。
それでも、個人個人の意見の違いは存在するでしょう。意見を表現できない日本語を使えば、個人の違いに問題にならないようにも見えますが。
>そうであるならば、その複数者は、その成功に責任を負っているのですから、当然、その人達への報告と合意が必要です。
個人を抹殺させているのですから、個人主義による効果は薄いものですね。
>こういうことに手を抜かず、きちんとそれができること。
個性を伸ばす努力が失われていますね。
>それが、組織でことを行うということなのです。
強力な組織というよりも烏合の衆に近いのではないでしょうか。
>ここに手抜きがあると、たとえ成果が上がったとしても、かならず後に禍根を残す。
この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。日本人には、責任感というものがない。だから、責任ある個人が現れません。責任者を名指しすることも不可能に近いです。
>西洋的組織論では、常にリーダーを求め、そのリーダーに反対する者は、常に敵となります。
第二の意見は、非常に重要ですね。第一の意見が失敗しそうになった時に、第二の意見に切り替えて考え直します。矛盾を含まない考えは、すべて正しい。
>そして対立が生まれ、敵対的関係が生まれます。
日本人の場合は、議論をすれば喧嘩になります。個人主義が無いので、異口同音でないと気がすまない。和をもって貴しとなすと思い込んでいる日本人は、喧嘩好みと間違えられます。
>けれど、すべては神々からの預かり物であるという視点に立てば、合意の形成と、その合意者への報告、責任の分担といった、手順が大切になるわけです。簡単にいえば、故意に意図して組織内に敵をつくるな、ということなのです。
個人の自由を認めれば、個人意見の違いは出てきますね。その違いを保護するのが個人主義です。個人主義を理解すればお互いに意見を尊重することになり、敵を作る環境は解消されることでしょう。
日本人には現実の世界だけが存在します。対立する相手だけが目に見えています。自分たちが努力して協力して到達すべき未来の社会・世界の内容は見ることが出来ません。それは話であり、非現実であり、考えの内容だからであります。
日本人には、世界観がありません。現在・過去・未来の世界の内容を深く考察する為には文章が必要です。世界観は非現実の内容であり、その文章内容を表現する為には、時制を必要とします。時制は、日本語文法に無いので、日本人には、世界観がありません。日本人には、現実離れのした非現実の内容の理解は難しく、現実の対立ばかりが見えています。ですから、 ’和をもって貴しとなす’ と教えを垂れなくてはならないのでしょう。
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