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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

無能者

2017-10-23 22:47:55 | 日本語脳

>自分の胸に手を当てて考えて見ると、どこかで国が助けてくれる、組織が助けてくれるそんな甘えに依存してしまうことがある。

そうですね。日本人には意思が無い。だから、問題解決の方法もない。無為無策でいるので、他力本願・神頼みになりますか。依存心が強い。

>ただ、その状況があると思っていたら変れない、思考停止したまま。

そうですね。思考停止の状態でいますね。

>リンク
>日本人は依存心が強く、生殺与奪の権限を持つ「上の人」が、何もかも「上げ膳・据え膳」で施してくれるものだと思っている。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。日本人は、’上とみるか・下とみるか’ の判断を的確にしないと会話ができません。そして、その想いが序列人間を作ります。その上、意思が無いのですから受動的な人間になりますね。

>だから、「上の人」に従順でさえあれば、あとは「上の人」が何でもやってくれると思っている。

日本人から意思の表明を要求されることはありません。他の者が、忖度 (推察) を使って助けてくれます。ラクチンです。なんとなく、赤ん坊に似たところがあります。

>大多数の凡庸な日本人にとって、「上の人」とは、自身の能力の割にラクで安定したリスクの少ない仕事を与えてくれて、そのワリに能力以上の生活費を支給してくれて、モラルに関する問題さえ起こさなければ、長幼の序に従って年々高い立場と高給を処遇してくれるものだと思っている。>そして、それでも足りない生活費は補助金として賄い、振舞ってくれる。

そうかもしれませんね。一族郎党の助け合いですか。

>社会インフラが足りなければ、いずれ整えてくれるものだと思っている。

他力本願・神頼みですね。’そのうち何とかなるだろう’ ということでしょうか。

>だから、何かを決める時は「上の人」のご意向が起点になり、「上の人」のご意向が無ければ思考停止になる。

上の人のご意向を下々は忖度 (推察) して受けています。

>まるで「上の人」は、神様だ。

序列制度の最上端は神様ですね。現実の世界に住む現人神のようなものに成りますね。

>誰も神様であるとは口にしないが、「上の人」に対してやっている事は神様扱いだ。

日本人の礼儀作法は、序列作法になっていますね。人を見損なってはいけない。序列判断は、日本人の強迫観念にまで高められています。

>だから、「上の人」を盲目的に祭り上げるし、自身の世間に降臨して仕事を共にすることを「天下り」とまで言う。

落下傘部隊の隊員のようなものですね。真価が判明すれば、価値が下がるかもしれません。

>そんな神様が人間臭い行為、特に「人間臭いあやまち」をするのは、神様だと思っているだけに許せない。

頭の中にいる神様ではない。頭の外にいる神様だから、人間臭い。

>日本人にとって、性は「秘め事」であり、不浄な行為であるから、神聖たるべき「上の人」の「性のあやまち」に厳しくなるのは自然なことだ。

畜産業の伝統は我が国の隅々まで行き渡っていませんね。

>私は、こういう矛盾と欺瞞に満ちた日本社会の「お上意識」と「依存心」が大嫌いだ。

上下社会の神頼みですね。世界が小さい。ユニバーサルでもなければ、グローバルでもない。

>そして、カリスマ的リーダーを求める世間の風潮も大嫌いだ。要は、依存心の裏返しである。

日本人には意思が無いので、どうしてもカリスマ的リーダーが欲しい。マッカーサがそれですか。

>自らは主体的に何もしないで指示を待つだけ。

能動的な態度は、難しいですね。もっぱら受け身。待ちの政治ですか。

>下手に本音や立場を表明すると損をする。

本音は恣意で、どんな社会でも受け入れられませんね。立場は党派的で、よそ者・非国民を作ります。

>黙って、オイシイ所だけイタダク事だけを願っている。

処世術ですね。今だけ、金だけ、自分だけですかね。

>「お上」に「強いリーダーシップ」を期待する人々は、自身が思考停止した無能者であることを意思表示するに等しい。

お上にも意思はありません。ですから、先導者にはなれません。
日本人自身は、思考を停止しています。日本語では、自分の考えの内容を時制 (tense) ある文章内容として表現できません。それは、日本語文法に時制というものが無いからです。

>日本には無能者が満ち溢れている。

日本人は、目先・手先を使って、頭を使いません。今、我が国は人手不足に陥っています。ですが、頭脳不足の話は聞いたことがありません。きっと、頭を遊ばせているのでしょうね。


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序列と能天気

2017-10-23 02:21:03 | 政治

>今の学校教育は、奴隷にするための、教育である。

日本人には意思が無い。意思のあるところに方法はあるといわれています。(Where there’s a will, there’s a way.)
方法があれば、責任が果たせます。しかしながら、意思のない人間には責任の遂行は義務だけが残って、無残なものに成ります。そこには、奴隷・牛馬の苦しみがあります。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

>純粋な人間ほど道を踏み外しやすい。

処世術を使わなければ、純粋な人間になれます。ですから、天皇は純粋です。純粋な人間の生活を送るには、身分保障が必要でしょう。
処世術を駆使すれば、今だけ、金だけ、自分だけの庶民生活になります。 ‘不適当はであるが、法律違反とは言えない’ という状態は、秀才の極致でしょうね。道を踏み外したということでしょうか。

>まじめに受験勉強を一生懸命やってきて、大学に入学したら、受験勉強でまじめに勉強してきた事は、何の役にも立たない事に、気がつく。

受験勉強は大学の選抜試験のために用意されたものですから、人間の序列形成以外には役立たないものですね。人間序列は役人の好むところですね。責任感を伴わない序列体制を構築していますから、異常に気持ちが良いのです。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>社会へでたら、大学で勉強した事が、役に立たない。

実社会に出て役立つのは実学 (技術) ですね。大学で学んだ教養 (哲学) は、我が国の社会生活では役立ちませんね。
日本人は無哲学・能天気ですから、大学の教養は使い道がないのです。周りのものから尊敬が得られません。外国の大学で学んでも結果は同じになります。ですから、留学にも若者の人気が無いのです。

>むしろ、障害、弊害になるばかりである。

‘教養が邪魔になる’ のですか。よく聞く話ですね。学内の序列は、実社会で通用しませんからね。それで、生活の調子が狂います。
序列があって、教養が無い。これが日本人社会の特徴でしょう。


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