>[道徳教育について、児童・生徒を評価することの危うさ 洗脳教育は始まっている]
>現在、小学校には道徳の時間がありますが正式な教科ではありません。>これを中央教育審議会は下村博文文科相に対し、正式教科にするよう答申しました。>文科省のホームページにはまだ掲載されていないようです。
国の恥ですね。自らの無哲学・能天気を自分自身で証明しているようなものですね。
>道徳についても、点数化はできないものの記述式の評価を与えるとしています。>道徳について評価を与えるということは、一定の価値観を植え付けることにつながっていきます。
国定の価値観を植え付ける企画ですね。皇民化教育の様なものかな。’歴史は繰り返す’ ということでしょう。
>人類普遍の価値観であれば、「一定の価値観」の押し付けということにはならないとしても、しかし、本来は、その人類普遍の価値観をどうやって実感させ、血肉となるのかということこそ目標となのですから、本来的に評価に馴染むのかという問題があります。
日本人は、自分で考える力がありません。ですから、「一定の価値観」の押し付ける洗脳教育が必要になります。昔から、弟子は師に教えを乞うておりました。
>「命を大切にしましょう。」などと言ってみても暗記学習ではないのです。
お題目の暗唱になるのでしょう。
>それ以上に危ういのが「愛国教育」です。愛国教育こそ下劣なものはありません。愛国という場合には、ほぼ例外なく「愛国」=現体制なのです。
どんな国でも為政者は現体制をこよなく愛しています。’愛国’ は、為政者にとって都合の良い言葉です。
>体制を批判する言動を行うと、ネットウヨクたちが、「反日」とか「韓国に帰れ」とか騒ぐのと同じレベルです。
日本人には、他者がいない。だから、’自分さえ良ければ’ であります。
>文科省のホームページに道徳の教科書が掲載されています。>愛国なる言葉は、小学校高学年から出てきます。>これをどのように評価しようというのでしょうか。「愛国」などというものは極めて抽象的な概念です。そして感情に訴えるということに大きな特徴があります。そこに理屈は存在せず、考えさせずというものが「愛国」の正体であり、本来的に道徳などで扱うのは間違いです。
同感です。どのような体制の国であっても、愛国は重宝な国の宝です。
>このような特定の価値観は人類普遍の価値観とは言えませんし、それを国家が主導して行うこと自体、国民の思想統制に結びつくものです。>本来的に「愛国」について国民がどう思おうとも自由であり、それが憲法が保障する思想良心の自由です。
そうですね。個人の感情に立ち入って、これを義務化する所に問題がありますね。
>この意味では「愛国」などというものは義務でも何でもありません。憲法上は国籍離脱の自由も保障されています。
勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ(ヘルマン・ゲーリング)。
>ちなみに私にも「愛国心」はありますよ。平和国家日本が極右勢力安倍自民党などの米国様々の売国奴に汚されていく現状には、怒りが込み上げてきます。
日本人の言語に対する精進の仕方は、’正しい考え、正しい理解’ の常道から大きく逸脱しています。相手の挙動をみて忖度 (推察) を働かせる。その物腰が売国奴になる。アニマルのようなものか。
>(途中略)
>小学校高学年の道徳教科書には「郷土や国を愛する心」の項目の中に剣道についても出てきます。>第1次安倍政権のとき、武道が必修化されました。まさに精神主義的なものを植え付けるためのものということがよくわかります。
日本人には世界観がありません。だから、ただ目先手先のことに神経を集中させている。これが、日本人の伝統的な修業の中に入っています。
>怪我とかいう危険性の問題ではなく、本来的にこのような武道を必修として強制していくこと自体が問題なのです。>「武道必修化は愚策そのもの」
同感です。
>このような道徳教育と相まって自衛隊の海外派兵、集団的自衛権の行使による戦闘地域への派兵があることを忘れてはなりません。
この道はいつか来た道。ああそうだよ。
>既に児童・生徒に対する洗脳教育は始まっているのです。
日本人には、昔から洗脳教育しかない。それは、自分自身で考える力が無いからです。無哲学・能天気の民であるのは、おそらく曖昧な言語である日本語のせいでしょう。
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>現在、小学校には道徳の時間がありますが正式な教科ではありません。>これを中央教育審議会は下村博文文科相に対し、正式教科にするよう答申しました。>文科省のホームページにはまだ掲載されていないようです。
国の恥ですね。自らの無哲学・能天気を自分自身で証明しているようなものですね。
>道徳についても、点数化はできないものの記述式の評価を与えるとしています。>道徳について評価を与えるということは、一定の価値観を植え付けることにつながっていきます。
国定の価値観を植え付ける企画ですね。皇民化教育の様なものかな。’歴史は繰り返す’ ということでしょう。
>人類普遍の価値観であれば、「一定の価値観」の押し付けということにはならないとしても、しかし、本来は、その人類普遍の価値観をどうやって実感させ、血肉となるのかということこそ目標となのですから、本来的に評価に馴染むのかという問題があります。
日本人は、自分で考える力がありません。ですから、「一定の価値観」の押し付ける洗脳教育が必要になります。昔から、弟子は師に教えを乞うておりました。
>「命を大切にしましょう。」などと言ってみても暗記学習ではないのです。
お題目の暗唱になるのでしょう。
>それ以上に危ういのが「愛国教育」です。愛国教育こそ下劣なものはありません。愛国という場合には、ほぼ例外なく「愛国」=現体制なのです。
どんな国でも為政者は現体制をこよなく愛しています。’愛国’ は、為政者にとって都合の良い言葉です。
>体制を批判する言動を行うと、ネットウヨクたちが、「反日」とか「韓国に帰れ」とか騒ぐのと同じレベルです。
日本人には、他者がいない。だから、’自分さえ良ければ’ であります。
>文科省のホームページに道徳の教科書が掲載されています。>愛国なる言葉は、小学校高学年から出てきます。>これをどのように評価しようというのでしょうか。「愛国」などというものは極めて抽象的な概念です。そして感情に訴えるということに大きな特徴があります。そこに理屈は存在せず、考えさせずというものが「愛国」の正体であり、本来的に道徳などで扱うのは間違いです。
同感です。どのような体制の国であっても、愛国は重宝な国の宝です。
>このような特定の価値観は人類普遍の価値観とは言えませんし、それを国家が主導して行うこと自体、国民の思想統制に結びつくものです。>本来的に「愛国」について国民がどう思おうとも自由であり、それが憲法が保障する思想良心の自由です。
そうですね。個人の感情に立ち入って、これを義務化する所に問題がありますね。
>この意味では「愛国」などというものは義務でも何でもありません。憲法上は国籍離脱の自由も保障されています。
勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ(ヘルマン・ゲーリング)。
>ちなみに私にも「愛国心」はありますよ。平和国家日本が極右勢力安倍自民党などの米国様々の売国奴に汚されていく現状には、怒りが込み上げてきます。
日本人の言語に対する精進の仕方は、’正しい考え、正しい理解’ の常道から大きく逸脱しています。相手の挙動をみて忖度 (推察) を働かせる。その物腰が売国奴になる。アニマルのようなものか。
>(途中略)
>小学校高学年の道徳教科書には「郷土や国を愛する心」の項目の中に剣道についても出てきます。>第1次安倍政権のとき、武道が必修化されました。まさに精神主義的なものを植え付けるためのものということがよくわかります。
日本人には世界観がありません。だから、ただ目先手先のことに神経を集中させている。これが、日本人の伝統的な修業の中に入っています。
>怪我とかいう危険性の問題ではなく、本来的にこのような武道を必修として強制していくこと自体が問題なのです。>「武道必修化は愚策そのもの」
同感です。
>このような道徳教育と相まって自衛隊の海外派兵、集団的自衛権の行使による戦闘地域への派兵があることを忘れてはなりません。
この道はいつか来た道。ああそうだよ。
>既に児童・生徒に対する洗脳教育は始まっているのです。
日本人には、昔から洗脳教育しかない。それは、自分自身で考える力が無いからです。無哲学・能天気の民であるのは、おそらく曖昧な言語である日本語のせいでしょう。
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