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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

思想 2/2

2020-03-08 22:10:49 | 社会

(略)
> 『国学と日本浪漫派と京都学派と吉本隆明と』
> 歴史は残酷である。 >その時にどれほど正しく正当に見えていても時間の判定は厳格で少しの誤りも見逃さない。 >200年前の本居宣長の国学だけでなく半世紀前の加藤周一の随筆も思想も良し悪しが全てあからさまになるのですから恐ろしい。

それは時代の進歩というものですからね。人類の進歩ですね。楽しみですね。頭の体操になります。

> 今宣長の『国学』を自分の思想哲学であると主張するものは現実離れした歴史認識の『作る会』系極右学者でも一人もいないし阿呆臭い子供じみたネットウヨにも一人もいないだろう。 >しかし67年以前には逆に日本人の生きた行動指針であり帝国の国家方針だったのである。

世の中の様変わりですね。現実は千変万化します。

> 一時代を築いた国学の延長線上にあったのが、敗戦までの日本浪漫派であり京都学派であるが、その敗戦後の崩壊した延長線上に吉本隆明が孤独なピエロとして存在するから哀れである。 

わが国は、無哲学・能天気の国ですからね。真面目な考えは成り立ちませんね。 ‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

> 日本の知識人においては実生活は、思想とは分離していて上位にあり、危機的な場合には『思想』は実生活に簡単に屈服した。 

日本人の書き物は食べるための手段ですからね。自己の世界観を明示しているというわけではない。
 
>その実生活とは直接には小集団での内側での束縛、間接には、一切の価値に超越し、科学的な分析の対象であることを止めた国家・日本の精神的束縛を内容とするものであった。

実生活は、全て序列メンタリティで統一されていますね。小集団内部での束縛も、国家の精神的な束縛も序列制度にのっとって働いていますね。だから、それ以外の活動が犠牲になっているのです。

>日本で唯一超越的なものは『日本』だったがこれこそ知識人の戦争協力の内側の構造だった。

日本の超国家主義 (国粋主義) は日本人の自己慶賀の仕組みですね。おめでたい話には違いありませんね。
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)  

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、文法における時制の重要性を深く認識することが必要である。次に、我々の意思と世界観を表現する技術を手中に収めなくてはならない。さすれば、我々は相手の意思や世界観にいても焦点を合わせた考え方ができるし、議論も可能になり相互理解を深めることができる。国際的な協力を得て未来社会の建設に邁進し人類社会の発展に貢献することも可能になる。

> ~後略~ >--------------------------------------------------------- >以上です。


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思想 1/2

2020-03-08 12:09:08 | 社会

> 『きけわだつみのこえと近代の超克』
>きけわだつみの声の手記を書いた若年インテリ層が愚かな戦に中での避けがたい死に、何とかして意味を与えようとした時に、より所とせざるをえなかったのは、『大東亜戦争』を賛美し神聖化した日本浪漫派と京都学派である。

それは本当に気の毒なことでしたね。

> 国粋主義者や官立大学の御用学者や翼賛的なジャーナリズムが2・26事件以来のファシズム『新体制』を正当化し、中国侵略戦争と太平洋戦争に理論的支持与えたのは明確であるが、戦場に追い立てられた『きけわわだつみのこえ』の知的な若者層にとって一番深い影響を与えたのは日本浪漫派と京都学派であった。 

それは残念なことでしたね。

> 日本浪漫派は読者の情念に訴え、『近代の超克』『悲願』『慟哭』『憧憬』『勤皇の心』『悠久のロマンチシズム』『民族という血で書かれた歴史の原始に遡る概念』などの小難しい言い回しで何の変哲もない言葉を有難そうにする安直な仕掛け以外には無い。

そうですね。日本人は無思想であり、かつ気分・雰囲気に酔いしれるのですね。玉砕する前に辞世の句を詠むようなものか。

>この日本浪漫派方言のペテンに引っかかった側にも大いに責任があろう。

ペテンには、わが国の文化・伝統に大いに関係していますからね。そうやすやすとは否定できませんね。

> 西田幾太郎の『絶対矛盾の自己同一』で有名な京都学派は外来の論理の何にでも適用出来る便利さを積極的に利用してたちまち『世界史の哲学』『近代の超克』でっち上げたが、これこそ日本の知識人に多かれ少なかれ伴われていた『思想の外来性』を極端に戯画化してみせているものは無い。

あくまでも思想は日本人にとって外来性ですからね。日本人に内在するものは無哲学・能天気 (反思想) でしょう。

>ここでは生活や経験、伝統と完全に遊離した外来思想の持つ特徴が、議論が具体的な現実に触れる時の徹底的に荒唐無稽な出鱈目ぶりと、それとは対照的な論理そのもののもっともらしさに、まったく鮮やかに現れている。 > 体制と権力が議会制民主主義を組織的に破壊していく過程のなかで、『近代の超克』を標榜して日本浪漫派は自由民権以前の世界へ戻ることを夢み、京都学派は西洋で『行き詰まった』議会制民主主義の先に出ることを夢み、つまるところ両者はファシズム権力の正当化に手を貸したのである。

そうですね。

> 本当の思想は体験や生活意識から出発するが、日本浪漫派も京都学派の両者とも外来の先進思想は頭の中だけで『建前』に過ぎなく(生活に浸透していない)て、二つが乖離して対立した場合には必然的に生活意識(その個人が属する小集団の家族的意識)が優先した。

わが国は、建前 (言い訳・口実) と本音 (恣意) の国ですからね。この両者で処世術を成り立たせています。

> 何故なら『思想』の生み出す価値観は、実生活上の便宜、習慣、感情(意識)に由来するので、つまるところ『超越しない。』 >これらの日本人の個人の『意識』は、『思想』を超越しないし、そもそも超越出来ない。 >何故なら日本では(古事記の昔から近代まで)初めから超越的なものは存在していなかった。

そうですね。現実から超越すれば哲学にはならずして、わが国においては空想か妄想になる。日本語には、非現実 (考え) の内容を搭載する構文 (時制のある文章) が存在しないからである。
見ることのできる内容は、’本当’ のことである。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。非現実 (考え) の内容は頭の中にあって見ることができない。だから、これは真実ではない。’嘘’ そのものである。
誰も ’見て来たような嘘を吐く人間’ にはなりたくない。だから、自己の非現実 (考え) の内容を口に出して言わない。これが則ち日本人の思考停止の状態である。これが無哲学・能天気の人間を作り出す機序 (mechanism) である。
現実の内容には正解が一つある。非現実 (考え) の内容には正解が多数ある。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示している。考えの内容は人様々であるから人間には個性が表れる。没個性は要注意である。個人主義が大切である。

> 美的価値観も、『思想』の生み出す価値観も、(否価値観ばかりでなく)科学的真理さえも、普遍的な超越的価値感・真理概念を、日本のいわゆる近代は、生んでいなかった。

そうですね。 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

>したがってこれらの(身についていない)『思想』は、時と場合によっては捨て去るのに未練を無いものだったということである。

そうですね。無哲学・能天気の人間には、思想など身に付くはずもないでしょう。

(略)
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一億総ざんげ

2020-03-08 09:48:11 | 社会
(略)
>『超国家主義と日本の知識人、日本浪漫派と京都学派』
> 日本の凶暴なファシズムと無謀な戦争の積極的な協力者(社会層)とは、小工業主、小地主、学校教員、下級官僚、郵便局長や町内会長、消防団長、僧侶や神官、米穀店や酒屋の店主など、いわゆる中間層であった。

戦争の協力者は中間層であったということですね。

>これ以外の、中間層のもう一方のグループである都市サラリーマン層、文化人やジャーナリスト、教授や弁護士、一部学生などのインテリ層であるが、この層が敗戦後に主張したのが有名な『一億総ざんげ』である。 

一億一心で戦争に励んだ後は、一億総ざんげですね。考えの個人的な違いは無視されていますね。考えそのものが無ければ、個人差も問題にはなりませんね。

> 戦争以前(たぶん、戦争後も)には知識層と一般大衆の精神的なみぞは深い。 >知識人の責任を、1億人に埋没させて考えるのは明らかな誤魔化しである。 

教養のあるなしにかかわらず 『一億総ざんげ』ですね。要するに日本人には教養は実生活に役立たずであるという事か。日本人の誰にも責任は無いという事か。意思のある人には責任がある。誰にも意思はないので誰にも責任がないという事か。 とかくこの世は無責任である。 
意思は未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には未来時制がない。だから、日本語の脳裏には未来時制がなく、日本人には意思がない。意思がなければ方法 (仕方) が無く、責任を持たせるわけにもゆかないか。うやむやか。反省の行われる余地もない。けじめのない社会である。

> 『国民はだまされていた。』とか『国民は何も知らなかった。』は国民の大多数には通用しても知識層には通用しない。 

政治音痴であれば、『騙されていた』、『何も知らなかった』しかないですね。要するに、まともな考えが存在しないという事か。

> 大衆は知ることが出来なかったかもしれないが、知識人は『知ること』が出来た。 >後者の場合本当に何も知らなかったのなら、それは意識的に『知ろうとしなかった。』のである。

薄々知っていたのでしょうね。政治音痴では知識があってもどうにもならない。

> 知ろうと思いさえすれば、満州事変以後のファシズムの暴走と天皇神格化の時代錯誤はわずかばかりの注意力さえあれば誰の目にも明らかであり、それなら知識人の『知らされていなかった。』はまったくの誤魔化しである。 

意思がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。理解がなくて忖度 (推察) がある。現実直視ができなくて空想・妄想が盛んである。

>知識人にとっては知る材料は、見事に、完全に、日常茶飯、目の前に遺憾なく出揃っていた。 >だから『知らされていなかった』は責任逃れの誤魔化しで真実ではない。

そうですね。心ここにあらざれば、視れども見えず。誤魔化さざるを得ませんね。

> 武者小路実篤は敗戦後に『私は騙されていた』といった。 >そうかも知れない。 >しかし同じ情報からでも『だまされなかった』人たちがいた。 

それは個人の知的能力の差でしょうかね。

>「だまされていた」のは、だまされていたいと自ら望んだからである。> 我々の問題は、誰かが『だまされていた』ことでは無くて、日本の知識人がなぜ自らだまされたいと望んだかということ(原因となったA級戦犯の思想や哲学)である。 

それは 『随神の道』だからでしょう。自己の意思を働かせることを拒む日本人固有の性質でしょう。自己の意思が無ければそのようにしかならない。  [ 随神の道 (かむながらのみち): 神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道 ] 
自分の考えの内容に自信がなかったからでしょうね。‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)  だから、無哲学・能天気の性質は恐ろしい。危険を察知しても、それを避けられない。

> 日本の破滅の戦争に誘導した知識人の精神的な本当の主張(戦争責任)とは何か。

それは、’かんながらの道’ ( 随神の道 (かむながらのみち): 神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道 ) でしょうね。

> 戦争反対を主張出来なかったことは、直ちに『戦争賛美しか出来なかった』ことにはならない。 >特別な場合を除けば沈黙することは最後まで出来たのである。

そうですね。 自分に確たる考えがないから、相手に迎合するのでしょうね。  

(略)



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かんながらの道

2020-03-08 04:14:33 | 社会

> 『かんながらの道と古事記』
> 本来キリスト教の一神教世界(西洋思想)はプラトン的な観念論世界であり、そこでは価値や真理とは歴史的に超越的なものとして成立している。 >ところが日本では古事記の昔から日本の精神的構造の中に超越的な動機は含まれていなかった。

そうですね。哲学 (非現実・考え) は超越的ですね。無哲学 (現実) には超越的なものは含まれていない。日本語には、非現実 (考え) の内容を示す構文は存在しない。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

>その後の日本の歴史に外から超越的な儒教や仏教が入ってきたが、日本的な超越的でない『かんながらの道』の伝統を、やはり根本的に変えることは無かった。[随神の道 (かむながらのみち): 神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道] 

そうですね。自分に意思がなければ ‘神慮のまま’ ですね。日本人に意見が無ければ、アメリカ人の言うがままになるということなのかな。
ヒンズー語は印欧語でありその文法には時制がある。仏教の教えには、非現実 (考え) の三世界がある。前世・現世・来世の三世界にはその内容がある。インドでは庶民も瞑想に耽っている姿が多くみられる。そしてその内容を発言する。’あすこの家に今度生まれた赤ん坊は、死んだ我が子の生まれ変わりだ’ などと主張する。

> 逆に儒教や仏教の方がその超越的な本質部分を変えて、物事をありのままにそのまま受け入れるという日本的な『かんながらの道』に変質しているのです。  

そうですね。日本語には時制がない。だから、非現実 (考え) の世界は想定外になっている。日本人には ‘随神の道’ しかない。

>その意味で戦時中の知識人も、はるか昔の『かんながらの道』につながっていて、千年以上も実生活を超越することが出来なかった『思想』や『哲学』『宗教』が、超越性を獲得できないのは当然だった。

そうですね。日本語は、現実の内容しか伝えませんからね。だから、日本人は実生活を超越することはできませんね。これは子供の精神状態と似たようなものです。

> 『国学』において日本を代表するものとしての『かんながらの道』は知識人の戦争協力のみならず、日本の近代思想を内側を解くかぎであり、その意味では本居宣長はその意味では正しかった。

自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。意思の無いところには方法 (仕方) がない。仕方がないから無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。
 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり) 

政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力の正体は、’無哲学・能天気’ ですね。無哲学であっては政治哲学もない。だから、皆が政治音痴になっている。これは決して独裁政権の弾圧によるものではない。政治音痴は日本語社会のあらゆる場所から発現しているのでる。日本人には意思がないから仕方 (方法) がないのである。日本人の戦争協力も近代思想も仕方がないのである。これは随神の道である。


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