>田野健 HP ( 58 設計業 ) 19/05/04 PM08 【印刷用へ】 >内田樹氏と池上六郎氏の対談集「身体の言い分」という著書の中に言葉に関して書かれている部分があったので紹介したい。>内田先生が語られている言葉の本質の部分。
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> コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。
お言葉ですが、話が ‘ぶれる’ のは良くないでしょう。
>「互いの声が届く」ということです。
言語は思考と伝達の道具ですから、お互いに声が届く必要はありますね。
>でもこういうことって、なかなか理解してくれる人がいないんですよ。
そうでしょうね。首尾一貫を否定したのでは、私にも理解できませんね。
>むしろそれとは反対に、どんな場面でも、同じ顔、同じ声で押し通すことがよいことであるという考え方の方が、今ではコミュニケーションについては支配的なイデオロギーですよね。>どんな局面でも、どんな相手でも、つねに「自分らしさ」を貫き通せ、と。
そうですね。人格変化を起こすのは困りものですね。’ジーキル博士とハイド氏’ であっては困ります。
>親に対しても教師に対しても目上の人間に対しても庇護しなければいけない人間に対しても、同じメッセージを同じ言葉使いで語り続けろ、と。
そうですね。日本人には難しい会話法ですね。だが、欧米人には一般的ですね。
日本語には階称 (言葉遣い) というものがあります。これは、’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断なしでは、日常会話にも差支えが出るほど重要な判断です。また、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗的な上下判断が疎かであっては、礼儀正しい日本人にもなれません。日本人社会においては、序列なきところに礼儀なしです。
>そういうことを言う人がいるんですよね。>知識人たちの中にも。
そうですね。これは欧米流の話し方ですね。国際的な話し方ということもできるでしょう。
> (中略)
> 今の若い人たちが、単一の「自分らしさ」をあらゆる場で押し出すというのは、谷川俊太郎的にいうと「うるさい」ということですね。
‘うるさい’ は、お互い様ですね。人間に個性は必要ですね。没個性は、アニマルと同じ状態でしょう。
>そのうるささ、その不愉快さというのは「礼儀正しくない」とか「敬意がない」というようなレベルのことではなくて、「私が語る」ということそのものの不快さなんです。
自己がない人間では困りますね。人間に、自己主張・自己実現は必要ですね。それが不愉快であると主張する人は前途多難ではないでしょうか。
> 言葉というのは、本来「わたし以外のだれか」が「わたし」の口を通して語るのを「わたし」が聴く、という屈折した経験なわけですよね。
そうは思いませんね。屈折は良くないですね。単純が良いですね。
>自分の言いたいことがあらかじめあって、それを告知するわけじゃない。
発言には、自己主張を伝達するという意思の存在が必要ですね。意思のあるところに方法 (仕方) があります。Where there’s a will, there’s a way.
>今自分が何を話しているのか、これから何を話すのかを自分は「知らない」。
それは問題ですね。自分が話す内容は、あらかじめ吟味しておくべきですね。そうでなければ、話者はつかみどころのない人間になりますね。
>だから自分の声に耳を傾ける・・・・というかたちで言葉に対する最初の「敬意」は生まれるんです。
敬意は人格に基づくものではないですか。
>そうやって自分自身の口から出てくる言葉の「静けさ」を聴く修練を積むわけですよね。
それは、気分・雰囲気の問題ですね。思考でもなく伝達でもないでしょう。
> だれが語るのであれ、「わたしではないだれか」が語る言葉は深い響きを帯び、「わたし」が語るときに「うるさい」ものになる。
お互いに私自身が語る内容でなければ、対話・議論はできませんね。実りある議論にはならないでしょう。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
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