> 「現状に不満があったら、まず現状を変えられるくらい偉くなれ」という言明は人を現状に釘付けにするためのものです。>人を今いる場所に釘付けにして、身動きさせないための「必殺のウェポン」として論争で愛用されている。
そうですね。日本人には現実しかない。だから、’来るべき世界’ (非現実・考え) の内容を持ち出しても乗っては来ませんね。日本人は、現実離れのした話は信じられないのです。
>実に多く人たちが喜々としてその定型句を口にしている。
現実肯定主義者には重宝な言い訳となっていますね。
> こういうのは時代の「空気」を映し出しているんです。>どういう「空気」かというと、「自分に割り振られたポジションにいて、そこから出るな」という圧力です。 >その圧力が大気圧のように日常化している。
そうですね。それは民の身分を固定する方法ですね。ノータリン (脳足りん) の一つ覚えですね。
>日常化しているので、圧力がかかっているということ自体が実感されない。
昔から ‘不自由を常と思えば不足なし’ ですね。
> 共感主義者たちは「和」をうるさく言い立てます。
日本人は議論が下手ですからね。議論に親しみを感じていない。喧嘩する為には議論が必要であるのか、それとも議論をすると喧嘩になるのか。
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
>異論を許さず、逸脱を許さない。>みんな思いを一つにしないといけない、われわれは「絆」で結ばれている「ワンチーム」なんだ、と。>でも、この時に彼らがめざしている「和」なるものは、多様なものがにぎやかに混在して、自由に動き回っているうちに自然に形成される動的な「和」ではありません。
そうですね。個人主義がないですね。考えの内容は個人個人で違っているという意識がない。
>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。
そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。
> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。
そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、面倒なのでしょうね。
>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。
そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。
>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。
そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。
> 共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。
そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。
>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる。
そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。
>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。
わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。
>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。
そうですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。
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