gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

内山節氏 2/2 

2020-10-30 15:53:51 | 文化

 

>  ソーシャル・ビジネスを志す人たちがふえてきたのも、そういうことだろう。 >自分のやりたいビジネスをする。 >それが社会を良くすることに役立っている。>そういうビジネスのかたちが、いまでは多くの場所で広がっている。

 

自分の扱っている商品が売れると、その利益の一部が貧しい人の所に届くといったようなシステムですね。  

 

>■支え合える社会をつくろうという活動

>  ところでこの共同体の精神と一体化するかたちで展開したのが、日本における大乗仏教だった。>大乗仏教は、自分が修行をし、悟りを開くことが、すべての人々の解放につながるという考え方を基礎にしている。  

 

そうですね。  

 

>自分だけが悟りを開き解放されて菩薩になっていくことを目指す小乗仏教を批判した大乗仏教は、自分の修行とすべての人々の解放が一体的なものであることを説こうとした。 

 

小乗仏教には世界観があるのではないでしょうか。 大乗仏教には世界観がない。  

 

>  それは共同体の精神の調和したのである。

 

大乗仏教は輪廻からの苦しみを無視することに成功した。 それは、特亜三国の民衆に世界観がないからである。言語に文法上の時制がないからである。  

 

>人々のために滅私奉公するわけでもない。>自分の自発的な行為が他者のためにもなることを人々は願いつづけた。 

 

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)     

日本人には意思がない。受動ばかりで能動がないので、事は始まりませんね。

 

>  日本のボランティアの基盤には、こういう共同体の精神があるのだと思う。 

 

これは、猿山のサルが自分の群れを守るのと同じですね。   

 

>それは絶対神をもたない社会が生みだした精神でもあり、自律的な共同体がつくりだした精神でもあった。  

 

サルにも神様は無いようですね。  

 

>  森林ボランティアも同じなのだと思う。>それぞれは自分のやりたいことをしている。>ところが自分たちの活動が、森のためにも、さらには社会のためにも役立っていると感じている。>このふたつが矛盾なく調和しているからこそ、森林ボランティアの活動は終わることなく継続してきた。 

 

めでたし、めでたし’ ですね。半ば本能的な活動ですね。    

 

>  明治以降の日本は、国家のために生きることが人々のためにもなるという擬制を強制した。

 

そうですね。政府は日本人の序列メンタリティを利用した労働の奨励をましたね。自己の属する序列社会の繁栄は、自己そのものの繁栄とみなすということですね。    

 

>その反動して、戦後の社会はひたすら自分の利益になる生き方を追求するようになった。 

 

滅私奉公の後は、我利我利亡者の繁栄ですね。   

 

>だがそのどちらにも問題があることが明らかになってきたのである。 

 

そうですね。どちらも無哲学・能天気の禍によるものですね。どちらにも行き着く先に目的の場所がない。     

 

>国家に滅私奉公するような生き方は自分を圧迫するだけでなく、人々をも圧迫する。 

 

玉砕に続く玉砕の戦法では、戦争目的は達成されませんね。わが国の政治に責任のある指導者は不在でしたね。     

 

>しかもその結末は戦争による社会の崩壊だった。 

 

そうですね。この国がひっくり返った時にも責任者は出ませんでしたね。日本人には意思がいので責任感というものがない。とかくこの世は無責任。        

 

>そしていま私たちは、戦後的、利己的な生き方がつくりだした社会の結末を処理しなければいけない時点に立たされている。 

 

我利我利亡者ばかり世界は長続きしませんね。自業自得ですね。まいた種は刈り取らなくてはならない。         

 

>  いわば近代日本のふたつの失敗をへて、私たちは無意識のうちに、日本の共同体から生まれた基層的な精神を回復しはじめたのである。  

 

基層的とはどういう意味ですかね。経験的なという意味ですかね。深刻な反省がないと歴史は繰り返しますね。     

 

>それがときにボランティア的な活動として現れ、ときにソーシャル・ビジネスとして現れている。  

 

日本人は寄付の嫌いな国民であると言われていますね。我々の遠い未来の行き着く先が我々自身に見えていないのではないでしょうか。    

 

>さらにはコミュニティづくりとか、支え合える社会をつくろうとういうさまざまな活動を生みだしている。  

 

日本人には世界観がない。我々の行き着く先が見えていない。だから、行き当たりばったりになりがちですね。   

 

>  そういう時代のなかでの森林ボランティアの活動。>今年はもう少しそのことを意識しながら歩んでいこうと思う。

 

人間はお互いに助け合って生きて行くものでしょうね。ご成功を祈ります。

 

 

 

.

 

 

 


内山節氏 1/2 

2020-10-30 15:21:31 | 文化

 

>361370 『私たちは無意識のうちに、 日本の共同体から生まれた基層的な精神を回復しはじめた』

>山本紀克 ( 31 会社員 )  20/10/30 AM00 【印刷用へ】 

>内山節『私たちは無意識のうちに、 日本の共同体から生まれた基層的な精神を回復しはじめた』リンクより引用です。

>----------------------------------

>■自分のやりたいことが、みんなのためにもなる

> 森林ボランティアの活動は、日本の森に活力を取り戻す活動としてはじまった。

 

林業は採算に合わなくなりましたね。   

 

>もちろん市民のできることには限界がある。>それでも可能なところから手入れをして森の活力を取り戻すだけでなく、私たちもまた森とともに生きる活力を取り戻していく。 

 

ゆとりの生活ですね。  

 

>そのためには安定した林業労働や経営ができる社会をつくりだすことも必要だったし、木材加工や建築の問題も含めて、山の木を循環的に利用していく社会をつくることも課題だった。 > (略)

>  ところでボランティア的活動について考えてみると、世界的にはそれを神への奉仕としてとらえる傾向が強かった。 

 

神様がボランティア的活動を望んでいるのですね。   

 

>他者を助けることが神の意思にもかない、そういう活動のできることが、神に選ばれた人の証拠でもあるというとらえ方が、ボランティア活動を生みだしたひとつの基盤であった。 

 

神様が一人なら、その意思も一つですね。   

 

>  ところがこの発想は、日本の大多数の人たちには通用しない。 >なぜなら伝統的な日本には絶対神は存在せず、唯一の神との関係で自己をとらえる精神は定着していないからである。

 

無哲学・能天気な人々には自己の ‘あるべき姿’ の世界は存在しませんね。自己のあるべき神も存在しませんね。      

 

>だが日本の社会は、昔から、ボランティア社会としての一面をもっていた。  

 

日本人には意思がない。日本人が行動を開始するのは、事の次第・成り行きによる。そこにはリーズン (理性・理由・適当) が存在しない。だから日本人のリーズナブルな答えは期待できない。説明責任が取れない。   

 

>ごく当たり前のことのように、人々は助け合いながら暮らしていた。

 

そうですね。生物が群れをなして暮らすのと同じですね。  

 

>とすると、この精神はどこから生まれていたのだろうか。>  それは共同体がつくりだした精神だったといってもよい。 

 

半ば生物の持っている本能的なものでしょうね。   

 

>日本の共同体の構造は、中世期、つまり鎌倉時代から戦国時代にかけてと、近世期の江戸時代とでは大きく異なる。 >中世は農民が武装し農民武士団を形成した時代で、一族郎党が管理するかたちで農村は運営されていた。 >ところが江戸時代になると兵農分離がすすめられ、武士は城下町に移動する。 

 

武士は町で藩士になったのですね。  

 

>その結果武士のいない村、役所のない村が生まれ、村の運営は惣村自治に任されるようになった。 

 

武士は村では郷士になりましたね。  

 

>中世共同体もひとつの自律的共同体のかたちではあったが、江戸時代になるとそれとは違う自律的共同体のかたちがつくられたのである。 >  こうして、村は自分たちでつくっていく共同体になった。 

 

人別帳もできて村は序列社会の単位になりましたね。

 

>もちろん共同体の人々も、一人一人は自分のやりたいこともあるし、それぞれ行為がある。 

 

しかし、’不自由を常と思えば不足なし’ ですね。   

 

>その自分の行いが、共同体のみんなのためにもなることを、人々は願うようになった。 

 

人の振り見て我がふり直せ。出る杭は打たれる。    

 

>その精神はいまでも残っていて、だから私たちは自分の利益だけを考える人に出会うと親しみを感じないし、ときに軽蔑さえしている。 

 

そうですね。金銭は手段にはなるが、目的にはならない。だから、守銭奴は尊敬が得られない。いつまでたっても目的達成には至らないからである。      

 

>  といってもそれは、みんなのために自分は我慢するとか、やりたいことを放棄するということではない。 >自分のやりたいことが、みんなのためにもなるということである。 

 

建前 (言い訳・口実・言い逃れ) と本音 (私意・我儘・身勝手) の世の中ですね。   

 

>そういう行為のあり方をみつけだすと、いまでも多くの人たちは精神的な安定感を獲得する。 

 

二宮金次郎のような人のことですね。 

 

 

.