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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

事大主義 3/3

2020-10-21 22:52:15 | 文化

 

> 武道は四十五年修業していて、自分の道場を持って、数百人の門人を育ててきましたけれど、武道の専門家と名乗るのは今でも恥ずかしい。 >教育は三十五年それを職業にしてきましたけれど、教育学や教育方法の専門家ではありません。 >「教壇に立ったことがある」というだけです。 >映画は若い頃から年間二〇〇本くらいのペースで見てますし、映画についての本も何冊か書きましたけれど、昔から映画の筋も俳優名も観たら忘れてしまう。 > 能楽はそろそろ稽古を始めて二十五年になりますけれど、ただの旦那芸です。 >どの領域でも僕は「専門家」とは言えません。 >でも、半可通の半ちく野郎ですが、何も知らないわけじゃない。 

 

そうですね。  

 

>ちょっとは齧(かじ)ったことがあるので、その領域がどういうものか、「本物」がどれくらい凄いかは骨身に沁みて知っています。 >自分にはとてもできないということはわかる。 

 

あなたは何でもわかるようですね。  

 

>◆半素人

> 僕の学問だって、こう言ってよければ「旦那芸」です。>でも、どの分野についても、その道の「玄人」がどれくらい凄いのか、それを見て足が震えるくらいのことはできます。>そこがまるっきりと素人とは違います。

 

そうですね。   

 

>自分が齧ってみたことがあるだけに、それぞれの専門家がどれくらい立派な仕事をしているのか、それを達成するためにどれくらいの時間と手間をかけたのかがわかる。 >そういう半素人です。  

 

分かりました。あなたは専門家のよき理解者ですね。

 

>でも、そういう半素人にも存在理由はあると思うのです。

 

ありますね。そして、その報酬も得られていますね。     

 

>専門家と素人を「つなぐ」という役割です。

 

そうですね。あなたは個人を評価する人ですね。

 

>僕の仕事は『私家版・ユダヤ文化論』も『寝ながら学べる構造主義』も『レヴィナスと愛の現象学』も『若者よマルクスを読もう』(これは石川康宏さんとの共著)も『能楽は楽しい』(これは観世流宗家との共著)も、どれも専門家と素人をつなぐための仕事です。

>◆思考

>どの分野においても、僕は専門家ではないけれど、専門家の仕事を読者に噛み砕いてお伝えすることはできる。 >そうやって底辺を広げることはできる。 >底辺が広がらないと高度は得られないと思うからです。 >でも、そういう仕事は「専門家のもの」としては認知されない。  

 

そうですね。解説者は専門家ではありせんからね。相撲取りと相撲解説者は同じではありませんね。個人的な見解は、それが受け売りでなければ価値がありますね。        

 

>そして、たまに「専門領域でもないことについて中途半端に口出しをするな」と叱られる。>でも、それが僕には納得できないんです。 

 

そうですね。理不尽ですね。何を言おうがあなたの自由ですね。臆することなくあなたは発言すべきですね。相手は、縄張りを主張するよりもあなたの論旨に批判を加えるべきですね。         

 

> 僕のような半素人が一知半解の言説を述べたとしても、そこにいくばくかの掬(きく)すべき知見が含まれていることもある(かも知れない)。>それがおもしろいと思う人は読めばいいし、読むに値しないと思う人は読まなければいい。>それでいいじゃないですか。

 

本当にそうですね。

 

>「掬すべき知見が含まれているかどうか」は先方が判断することであって、僕が決めることじゃない。 >ましてや、僕に向かって「決められた場所から出るな」と言われてもおいそれと肯(うべな)うわけには参りません。 

 

そうですね。 ‘不自由を常と思えば不足なし’ という世界に慣らされてはいけませんね。人類進歩のコースを逆走することになります。  

 

>◆パターン

>繰り返し言うように、僕は決められた場所から出て、好きなところをふらふら歩き回ることで食ってきたわけで、「やめろ」というのなら休業補償して欲しい。  

 

そうですね。あなたに向かって ‘やめろ’ とは誰も言えませんね。   

 

(略)

 

 

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事大主義 2/3

2020-10-21 21:25:57 | 文化

 

>◆専門家

>その定型句がなぜか二十一世紀に入ってから、また復活してきた。 >気がつけば、頻繁にそう言われるようになった。 >それは単純に日本人が貧乏になったからだと僕は思います。 

 

我々は環境に合わせて態度を大きくしたり小さくしたりしていますね。   

 

> 少し前に僕の友人の若手の研究者が同世代の学者たちと歓談した時に、談たまたま僕のことに及んだことがあったそうです。 >するとたいへん僕は評判が悪かった。 >どこがダメなのと僕の友人が興味にかられて訊いてみたら「専門以外のことについて口を出すから」だというお答えだったそうです。

 

専門バカ’ というのもいますけれどもね。   

 

> 学者は自分がきちんとアカデミックな訓練を受けた守備範囲から出るべきではない。 

 

原著論文を書くということになれば、守備範囲を換えることは苦労しますけれどもね。書いた内容を見ればその成果は分かりますね。査読者からコメントがあります。     

 

>フランス文学者ならそれだけをやっていればいい。 >それ以外のことについては素人なんだから、口を噤んで専門家に任せるべきだ、と。 >なるほどと思いました。 >時代は変わったなあ、と。 

 

日本人は、思考を停止している。だから、多数の受け売りばかりの人が大勢存在する。ならば、その受け売りの首尾範囲を定めようとする動きもあるでしょうね。  

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)  

 

>②へ 

>361114 日本習合論②  >匿名希望      20/10/20 AM01 【印刷用へ】 

>「批判したければ、批判される対象と同じレベルにまで行け。」「権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ」。>一見、このもっともらしい論理が詭弁であることに気付けるだろうか。 

 

相手はあらかじめ個人の考えに枠を掛けて、自由な討論を封じる手立てに出ていますね。物事の理解を妨げる方向に出ようとしていますね。思考停止をしている人たちの縄張り設定の企みですかね。理不尽で危険な人物ですね。   

‘理屈なら子供にでもわかる’ と言いつつ、大人が何か別に難しいことでもあるかのように思案顔をしている。子供に理屈がわかるのであれば、子供に矛盾もわかるはずである。正しい考えもわかるはずである。考えの理解には老若男女・文化・理科の区別も必要ない。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。考えは、人それぞれである。だから、正解は一つではない。幾らでもある。自由な考えを妨げて、相手は一体何を得ようとしているのか。 

 

>リンクより

>◆追求

>でも、そんなこと言われも困るんですよ。 >僕は「専門以外のことについて口を出す」ことで飯を食ってきたわけですから。 

 

そうですね。何も遠慮することはありませんね。言論の自由は保障されていますね。    

 

>フランスの哲学や文学についてはいくつか論文も書きましたけれど、興味はそこにはとどまらない。 >ついあちこちに食指が動く。>武道論も、教育論も、映画論も、身体論も、マンガ論も、能楽論も、自分の興味の赴くままに、書きました。>でも、どれも専門領域というわけではありません。

 

あなたの才能は多彩ですね。何を書いても正しい考えであれば問題はありませんね。   

 

 

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事大主義 1/3

2020-10-21 21:03:21 | 文化

 

>361113 日本習合論①  >匿名希望      20/10/20 AM00 【印刷用へ】 

>共感主義が蔓延している。 >このもっともらしい「共感」の空気の根底には、思考停止を「是」とする調教された意志が潜んでいる。

 

そうですね。  

 

>リンクより

>世を覆っている共感主義の基本にあるのは先ほど来僕が指摘している「多数派は正しい」という信憑です。 

 

個人主義がないのですから、個人判断以外を基準にとる必要がありますね。すると、共感主義になる。 共感は、個人の枠を脱していますね。  


>
多数派に属していないということは「変なこと」を考えたり、しているからであって、それは多数派に合わせて矯正しなければならない。 

 

それは個人撲滅作戦ですね。   

 

>そういうふうに考える人がたくさんいる。 >若い人にも多く見かけます。 >でもね、そういうのを「事大主義」と言うのです。 

 

そうですね。’寄らば大樹の陰’・’長い物には巻かれろ’ ですね。  

 

>◆長いものには巻かれろ

> あるインタビューで「じだいしゅぎ」と言ったら文字起こし原稿には「時代主義」と書かれていました。 >なるほど、「時代の趨勢(すうせい)に逆らわない」から「時代主義」なのか。 >インタビュアーは若い人でした。 >熟語は知らないけれど、造語能力はあるなあと思いました。 

 

そうですね。新感覚ですね。  

 

>でも、「じだい主義」の「じだい」は時代じゃなくて事大です。 >「大(だい)に事(つか)える」。 >弱い者が強い者の言いなりになって身の安全を図ることです。 >「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」と同じ意味です。 >マジョリティというのは「大」「大樹」「長いもの」のことです。 >多数派の言うことはその正否を問わずにただ従う。 >それが身の安全である。 >それが当今の作法ですけれど、もちろん今に始まったことじゃありません。 >「事大」の出典は『孟子』ですから、それくらい昔からそういう生き方は存在していた。 

 

日本人も韓国人も事大主義ですね。中国人の政策は、それとは違うようですね。  

 

>◆事実や追求と無縁の和

>そういう生き方もたしかに一種のリアリズムではありますけれども、それにしてもマジョリティであるかマイノリティであるかは、それぞれが主張していることの真偽正否とは関係ありません。  

 

そうですね。  

 

>たしかに、「和を乱さない」ということは集団を安定的に維持するためには必要なことです。 >でも、ものには程度というものがある。 >日本の場合は、その度が過ぎます。 > 僕が「和」をあまり好まないのは、「和」を過剰に求める人は、集団の他のメンバーに向かって「そこを動くな」「変わるな」と命ずるようになるからです。 

 

御法度の政治ですね。   

 

>自由に運動しようとするもの、昨日までとは違うふるまいをしようとする人間が出てくると、たしかに集団は管理しにくくなります。 >だから「和を尊ぶ」人たちは、基礎的なマナーとして「身の程を知れ」「おのれの分際をわきまえろ」「身の丈に合った生き方を知ろ」という定型句をうるさく口にするようになる。 

 

日本人は思考を停止していますから、現状と違った内容が出たら対応のしようもない。現実離れした内容は信じられない人たちばかりである。日本人は心底から現実肯定主義ですね。

 

>◆身の程

>こういう言葉は僕の子どもの頃まではよく使われました(僕もよくそう言って叱られました)。>でも、ある時期から言われなくなった。>1960年代からあとはほとんど耳にすることがなかった。>むしろ「身の程を知らず」「分をわきまえず」「身の丈を超える」生き方こそが奨励された。> 高度成長期というのはまさにそういう時代でした。 

 

あの時は日本人の気が大きくなりまたね。気分・雰囲気の問題ですね。     

 

>人々は「身のほどを知らない欲望」に駆動されて、「おのれの分際をわきまえず」に枠を踏み外し、「身の丈に合わない」大きな仕事を引き受けた。 >国に勢いがある時というのはそういうものです。 

 

かつての大日本帝国のようなものですかね。  

 

> 「早めに自分のキャラを設定して、自分のタコツボを見つけてそこに一度まり込んだら、そこから出るな」というようなことを僕は若い時には誰からも言われたことがありません。 >たまにそれに類することを言う人がいても、鼻先でせせら笑って済ませることができた。 >だって、こちらは現に「身の程を知らないふるまい」をしていて、それでちゃんと飯を食っていたわけですから。 

 

それは現実肯定主義ですね。  

 

 

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