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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

社会科学音痴  

2022-12-17 14:48:39 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン   >名著から考える「日本人と軍国主義」   >小室直樹 の意見 - 7 時間前   

>1976年の初版版発刊以来、日本社会学の教科書として多くの読者に愛されていた小室直樹氏による『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』が2022年に新装版として復刊された。   

>社会学者・宮台真司氏「先進国唯一の経済停滞や、コロナ禍の無策や、統一教会と政治の癒着など、数多の惨状を目撃した我々は、今こそ本書を読むべきだ。   

>半世紀前に「理由」が書かれているからだ。」と絶賛されている。   

>40年以上前に世に送り出された書籍にもかかわらず、今でも色褪せることのない1冊は、現代にも通じる日本社会の問題を指摘しており、まさに予言の書となっている。   

>『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』では、社会学者・橋爪大三郎氏による解説に加え、1982年に発刊された【増補版】に掲載された「私の新戦争論」も収録されている。   

>本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、一部編集をして掲載しています。   

>日本人の社会科学オンチ   

> 戦後日本人の思考様式の基礎をなしている神話の論理構造は次のようなものであると思われる。   

>すなわち、①戦前は軍国主義であった、②軍国主義は正しくない、③ゆえに、われわれは破局を迎えた。   

>そして、①現在(1976年時点)は軍国主義ではない、②ゆえに、現在は正しい、③したがって、現在軍国主義のような破局を迎えることはありえない。   

>そして、この場合、「軍国主義」の対蹠物として「デモクラシー」がくるのである。   

> しかし、いまやこの神話の効力が失われつつある。   

>その理由は、このような看板の塗り替えを行っても、日本人の行動様式、思考様式の基本型は変わっておらず、構造的に同型であるからである。   

 

そうですね。    

 

>したがって、戦前軍国主義によって破局を迎えたとすれば、現在といえども、その危険性は去っていないのである。   

 

そういうことになりますね。    

 

> 一般に、戦前は軍国主義であった、といわれる。   

>はたしてそうであろうか。   

>そのまえに、まず「軍国主義とは何か」という問題が起こるが、これについてはまだ学問的に確定された定義はない。   

>しかし、ごく常識的に考えて、軍国主義とは、国家の機能をあげて軍事目的に奉仕せしめようとする主義のことである、と考えれば、戦前の日本は、アメリカやドイツやソ連などに比べて、はるかに軍国主義的ではなかったのである。   

> 第二次世界大戦は総力戦である、といわれた。   

>いかにもそのとおりであって、ひとたび大戦が生起するや、アメリカにおいては、物理学者や数学者はいうまでもなく、天文学者、心理学者から人類学者まで動員されて戦争目的に奉仕した。   

>その結果、原爆やレーダーが開発されたのであったが、副産物として、後に学際的研究として社会科学に一種の革命を起こすことになる行動科学まで生まれた。   

>このように、国家の機能をあげて軍国目的に奉仕せしめることこそ、真の意味における軍国主義ではないであろうか。   

 

そうですね。   

 

> このようなことは、戦前の日本においては思いも及ばなかった。   

>自然科学の組織化が思うにまかせぬために、レーダーをはじめとする各種新兵器の開発に遅れをとり、このことが日本の大きな敗因の一つとなったことは、いまや周知であるが、所与の目的のための社会科学の組織化となると、日本の戦争指導者の夢想もなしえないことであった。   

>その結果、彼らは、現実の社会現象を科学的に分析してこれを合目的的に制御する能力を全く喪失し、新しい流動的な局面に接すると、右往左往するのみであって、策の出るところを知らなかった。   

 

日本人には新しい流動的な局面は苦手ですね。対処するために必要な意思というものを日本人は持っていないから。    

 

> 社会科学の貧困をもたらした文化的背景として、日本人の思考における非科学性がある。   

 

日本人は現実を直視しても、その内容に個人的な理由 (非現実) 付けができない。日本人は個人の意見は通らないと思い込んでいる。         

 

>ここに、非科学性とは、社会現象を科学的に思考する論理的能力の欠如をいう。   

 

自然現象にも社会現象にも科学には個人的な理由付けが必要ですね。     

 

>すなわち日本人は、最も有能で一見論理的能力を身につけたようにみえる人びとであっても、その思考様式は、たかだか技術的レヴェルにとどまり、全体的コンテクストにおける波及を考慮しつつ、社会現象を制御の対象として分析する能力を欠如している。   

 

日本人は理論的な理由付けができないので他人の受け売りをしていますね。    

わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。

我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。

わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気を伝えることにより満足している。 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。だからその内容は文法に従って理解できる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。おかげさまでわが国は、漫画アニメの大国になりました。  

体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  

日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。     

つかみどころのない人間の批判は愚痴・わがままとなり、議論は単なる言い争いに終始する。’和を以て貴しとなす’ の教えと事なかれ主義の圧力により人類の進歩は期待できない。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)     

 

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野村香英氏  

2022-12-17 10:31:12 | 文化

>「うまくやろう」「ちゃんとしよう」よりも、もっと大切なこと。   > 2021610 /  2022616   

>こんばんは、心理カウンセラーの野村香英です。   

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>「今を楽しもう」とする心がけって大事    

>私もこのブログですが、「うまく書かなきゃ」と思っている時ほど、書けません()  

>何かを説明するときなんかも、「ちゃんと伝えなきゃ」と思っている時ほど、こんがらがって何言ってるかわからなくなります。   

>それぐらい、「ちゃんとしなきゃ」「うまくやらなきゃ」って、自分のエネルギーも自信さえも簡単に奪っていくのです。   

>仕事でも恋愛でも生き方でも、「ちゃんとしなきゃ」「うまくやらなきゃ」よりも、「今を楽しもう」っていう心がけが、結果的に一番良い方向へと流してくれます。   

>いつも応援していますね。   

 

自分の好きなことをしている人は苦労を苦労とも思わないようですね。過酷な境遇にも耐えることができる。これは私の好きなことだからといっている。   

自分のしたくない仕事をさせられている人は、どんなに優遇されていても疲れがとれない。仕事をする前から疲れていて生活がつまらない。   

だから自分の好きなことをして人生を過ごすに越したことはない。疲れを疲れとも思わず仕事に熱中するから能率が上がる。       

 

 

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閉ざされた社会  

2022-12-17 00:42:07 | 文化

>東洋経済オンライン   >日本の「学歴」では世界で勝ち抜けない根本要因 他の先進国と比べて日本は閉ざされた社会だ   >苅谷 剛彦 - 19 分前   

>高学歴化する日本社会。   

>国内の優秀層が増える一方で、大学や企業は、海外のエリート層の獲得に苦慮しています。   

 

天下の秀才ばかりが多く存在していては船山に登るですね。    

 

>さらには日本の学歴そのものも、世界では通用しなくなっています。   

 

価値のない学歴は真の学歴ではありませんね。   

 

>その根本的な原因には、日本が「閉ざされた市場」であると、イギリス・オックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏は語ります。   

 

そうですね。日本は言語的に閉ざされた社会ですね。    

 

>新著『思考停止社会ニッポン』を一部抜粋・再構成し、その背景を解説します。   

>国境や言語、日本的慣行の壁に守られた人的資本市場は、他の先進国と比べれば相対的にグローバルには閉じてきた。   

>大学入学市場と新卒労働市場への参入者はほとんど日本人に限られる。  

 

そうですね。日本の国は序列社会でできていますからね。    

 

>留学生が増えたと言っても、まだまだ欧米の大学に比べれば桁違いである。    

>グローバルなレベルで優秀な学生を引きつけることにも成功しているとは言えない。   

 

言語障壁が主な障壁でしようね。    

 

>しかも、多くの日本の大学では「留学生枠」が設定され、日本人の入学希望者とは別枠で入学者の選別が行われる。   

 

序列社会においては、外人は常に別枠ですね。    

 

>そのような枠を設けない(つまりは自国民と同じレベルでの競争を前提とする)「ワールドクラス」の大学との違いである。   

 

自己の序列の内外を区別するメンタリティによる災いですね。   

 

>大学では価格競争が生じていない   

>さらには、この国内の閉ざされた大学入学市場では、価格競争(授業料の多寡)さえほとんど生じていない(国公立と私立との違い、私立大医学部のような例外はあるが)。   

 

そうですかね。横並びの風潮がありますね。人の振り見て我がふり直せですかね。      

 

>グローバルな大学入学市場とはその点でも大きくかけ離れている。   

 

我が国の常識は世界の非常識。   

 

>ハーバード大学やオックスフォード大学の年間授業料は300万~500万円(ただし為替の変動による)である。   

>競争相手と見なされる大学の授業料を見ながら「価格」が設定されている。   

>それに比べ、日本の私立大学が100万円前後、国公立大学はそのおよそ半分。   

>数倍の違いである(ちなみにオックスフォード大学は私立ではなく国立だ)。   

 

そうでしょうね。高等教育には金がかかりますからね。   

 

>国公立大学間、私立大学間の価格競争はほとんど生じない。   

>グローバルな入学者市場から見れば、「お手頃な」価格である。   

>それでもそれが競争力につながるわけではない。   

 

そうですね。当方は 安かろう、悪かろうですか。   

 

>教育の質と価格をめぐる(英語圏に有利な、それゆえ不平等な)交換と競争の結果といえる。   

>これに大学の外部資金獲得市場での競争力の違いを考慮に入れれば、さらに桁違いの収入差になり、それが市場における交渉力の差につながる。   

>その結果、日本の大学入学市場の閉鎖性や相対的な劣位は変更が難しいものとなる。   

 

当方は国際競争の蚊帳の外ですかね。   

 

>注意してほしいのは、このような市場の閉鎖性がすでにコロナ禍以前に形成され維持されてきたことである。   

 

そうですね。わが国は昔から閉鎖的でしたね。外来語もかな文字表現になって外国人には通じない。       

 

>この閉じた入学市場では、いわゆる受験「競争」がどれほど激しくても、入試での成功と交換されるのは、質の高い教育とは限らない。   

 

競争の内容が目的ではなく、序列の形成が目的ですからね。    

 

>国内でのみ通用する大学の威信や地位(ステータス)といったシンボリックな財(象徴財)が主な交換財だ。   

 

そうですね。国内では難関出身者が幅をきかせていますね。    

 

>偏差値の高い大学が、イコール教育の質の高い大学とは言えないことが、その何よりの証拠である。   

 

残念な証拠ですね。   

 

>日本の大学の威信は、国境を越えればほとんどグローバルな交渉力を持たない。   

 

井の中の蛙大海を知らずの状態ですね。   

 

>日本の偏差値トップ大学のグローバルランキングにそれが表れている。  

 

日本人は大学のランキングを偏差値で測ろうとしていますからね。いつまでたっても学術的な水準に到達しませんね。       

 

>ランキングを決める基準自体が、英語圏の大学に有利にできていることも、市場での交渉力の劣位のひとつの指標である。   

 

学術に対する価値判断の違いが問題ですね。    

 

>受験市場で競われるのは、いかに入学試験で高得点を取れるかに限定される。   

>そこで発揮され測定され順位づけられる能力やスキルの中身も、閉じた市場の中でのみ価値を持つものに留まる。   

 

そうですね。我が国は序列社会ですからね。順位は相撲番付表のような太い黒枠内の出来事ですね。広い世界には出られない。           

 

>グローバルな労働市場では通用しない    

>たとえば、グローバルに通用するインターナショナルバカロレア(IB)で問われる能力やスキルとの違いを考えてみればよい。   

>日本の大学入試で問われる知識や能力は、内容の点でも言語の点でも、グローバル市場では交換される価値をほとんど持たない。   

>一度それをグローバルな指標(たとえばIB)に転換しない限りは。   

>大学入学市場で獲得できるこの象徴財(大学の知名度や威信)は、たしかに日本での卒業後の就職市場では有利に働くだろう。   

 

そうですね。わが国の序列社会では難関出身者が幅をきかせていますね。    

 

>だから受験競争も生じるのだが、この象徴財はグローバルな労働市場では通用しない。   

 

そうですね。日本人の人間序列 (価値観) は国際社会では通用しませんね。天皇制の序列のようなものか。       

 

>日本の就職市場自体も海外にはほとんど閉ざされていると言ってよい。   

>外国人の雇用と言っても、日本に留学した留学生から優れた人材を採用するに留まる。   

>海外から高度人材を引きつけることはできていない。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>つまり、グローバルな労働市場にまでウィングを広げてはいないということだ(あっても海外に留学した日本人や、日本語のできる日本学の卒業生に限られる)。   

>しかも日本の新卒就職市場は、初任給に大きな違いを持たない。   

>むしろ、将来の安定性と入社後の昇進=地位をめぐる(男性に優位な)競争への参入権を獲得する競争と交換の場と見たほうがよい。   

 

日本人は現実の変化に対応するよりも安定を好みますね。それは日本人には意思がないからです。変化に対応する意気込みがない。       

過去の内容は変えることができないが、未来の内容は変えることができる。その為には未来の内容を自己の意思として示すことが必要である。しかし、無為無策でその日暮らしをしている人には望み無しである。

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文の内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がないので仕方なく無為無策でいる。それで、おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら 我々は '指示待ち人間' として育成されたようです。このやりかたで成功すると、他人の受け売りと後追いの専門家になりますね。我が道を行く人にはなりませんね。しかし、未来を先取りしない人は他人を唱道する人にはなれませんね。   

 

>キャリアの早い段階から新入社員に能力発揮の機会を提供することを交換財とするわけでもない。   

>開かれた市場のような、キャリアアップの一環として転職を前提とする市場ではないからだ。  

 

転職は安定の逆の状態ですからね。無意思の人間は嫌いますね。       

 

>こうした「閉ざされた」市場での競争と交換の結果は、開かれた市場の理念型が示すような人的資本の価値を高める循環を生みにくい。   

>その理由は、第1に、市場への参入が閉ざされていることにある。   

>参入者が日本語のできるほぼ同世代の若者に限られているということだ。   

>2に、その副産物として、市場での交換の対象が大学や企業の「格」といった象徴財になるからでもある。   

>経済的報酬も付随するが、非正規雇用との大きな格差を除き、その差は大きくない(ただし企業規模やジェンダーによる差は存在する)。   

>そして、この「格」という象徴材も国内で通用する価値に留まる。   

 

そうですね。日本人は身分格式の価値観からは逃れられないですね。    

 

>内部昇進が成功者のメインキャリアに   

>新卒就職市場で勝ち抜き「正社員」になった後の内部労働市場では、競争と交換の対価は地位をめぐる昇進の機会となる。   

>それにともなう能力発揮の機会の獲得も、年数をかけて行われ、その間、組織への忠誠や同調が求められる。   

 

かつての侍のようなものですね。    

 

>外部からの参入者が競争を脅かすことも、大きな報酬格差が生じることもほとんどない。   

>時間をかけた内部昇進が成功者のメインキャリアとなるということだ。   

 

そうですね。お変わりのないことが何よりなことですね。      

 

>ここまで挙げた市場は、いずれも年齢主義の影響を強く受け、個人にとっての競争相手は「同期」となる。   

 

そうですね。同次元でなければ序列の争いも正確・正当なものにはなりませんからね。        

 

>社会学の準拠集団論を適用すれば、比較の対象は閉ざされた市場に参入できる、年齢的にも同質な集団ということだ。   

>つまり国内でも年齢によって閉ざされているということだ。  

 

そうですね。相手の年齢が分からないと口が利きにくいですね。     

 

>大企業の幹部の多くが同質的な(男性中心の)集団となるのも、このような閉ざされた人的資本市場の結果に他ならない。  

 

同次元序列の生み出す没個性ですね。    

 

>それは、主要な経済団体の幹部の顔ぶれを見れば明らかである。   

>いずれも内部昇進の結果である。   

>これらは同質性を高める選抜が行われた結果だが、こうした市場では異質性は排除され、同質的な集団内での「差異」が問われることとなる。    

 

そうですね。どんぐりの背比べですね。       

 

>同質的な集団内部での差異だけに、それは微小で微妙なものになる。   

>突出した差異は、「異質」として排除されかねない。   

 

そうですね。没個性の性格が何よりの武器になりますね。    

 

>しかも授業料・奨学金、賃金・報酬をめぐる価格競争が生じる市場とは異なり、この市場での交換レートは準拠集団内部での相対的なポジションで決まる。   

>主な対価は人びとの満足感・優越意識となる(ただし、経済面では非正規雇用との間には大きな断絶があり、企業規模による格差も存在する)。    

 

気分・雰囲気の問題ですね。    

 

>給与や賞与といった経済的な報酬の違いさえ、象徴財に変換される程度の差に留まる(1)。   

>しかもこの象徴財は貨幣のような連続量ではなく、与えられた枠(入学者定員、新規採用枠)に入れるか否かで相対的なポジションが決まる「カテゴリー」だ。   

>企業の業績に即応して増えるものではない。   

>こうした仕組みは日本人には馴染んでいても、海外からの「高度人材」には通用しにくい。  

 

歌詠みのようなものでしょうね。    

 

>そのことが、優れた海外の人材を引きつけることに失敗する一因にもなっている。   

>その結果、市場の閉鎖性・同質性がいっそう強まることとなる。   

 

閉鎖性・同質性がわが国の異質性を示していますね。    

 

>戦後は「閉じた市場」での競争が功を奏した   

>すでに述べたように、閉じた市場における競争と交換は、開かれた市場モデルのような質を高める循環とはなりにくい。   

>人的資本の「質」と相関する賃金や能力発揮の機会のような絶対的な価値の増大・獲得競争にも向かわない。   

>そこに向かうには、リスク覚悟でこのメインルートからスピンアウトするしかない。   

>起業や、芸術・芸能・スポーツといった「プロ」の世界だ。   

>突出した差異が問われる競争の世界である。   

>かつて戦後の高度成長時代には、このような閉じた市場での競争が功を奏したと言ってよいだろう。   

>1ドル360円という円安もあり、当時の先進国との国際比較で見ればはるかに低賃金(低い労働コスト)で、質の高い工業製品を生産することによって、製品自体のグローバル市場における競争力が優位なポジションを占めることができたからだ。   

>比較的教育レベルの高い国民(とりわけ若者)を、その人的資本に比して国際比較的に低い賃金で雇用できたことも、その時代の有利さにつながったのだろう。   

>国内での人的資本をめぐる閉じた競争も、製造業における生産性を高めることに貢献した。   

>グローバルな競争が、工業製品を通じて行われていた時代の恩恵である。   

>日本の相対的優位性が、国境内部の人的資本の高さによって得られた工業化の時代である。   

 

そうですね。   

 

>いや、その閉じた市場の中で発達した、「日本的経営」が日本の競争力の源となったと主張する論者もいる(2)。   

>就職市場も企業内部の昇進市場も、そこで指摘された特徴に重なる。   

>おそらく1980年代までの「戦後経済」の姿でもある。   

 

もう戦後経済は終わりましたね。    

 

>閉鎖性がますます目立つように   

>しかし、日本の優位性はさまざまな要因によって喪失していった。   

>それを論じるのはこの記事の目的を超えるが、しばしば指摘されるのは、グローバル化のさらなる展開、アジア諸国のキャッチアップ、製造業から第3次産業中心の産業構造の変化や、日本の「成熟社会」化、技術革新力の枯渇、バブル経済破綻後のデフレマインドの蔓延等々である。   

>その原因の特定はここではできないが、少なくとも、それ以前に通用していた工業製品を通じたグローバル市場での日本の優位性が損なわれるにつれ、人的資本のグローバルな市場から日本が遠ざかっていたことが、今度はマイナスの方向に働くようになったのだろう。   

 

そうですね。わが国には人的資源のグローバル化が必要ですね。    

 

>そして、その閉鎖性がますます目立つようになった。   

>1 労働経済学者の尾高煌之助は、「日本的」労使関係の特徴のひとつとして、「企業への貢献に対して、報酬そのものよりも威信(prestige)の配分で報い、それによって勤労意欲をかきたてようとする社内競争と昇進の制度」を挙げている(尾高煌之助「『日本的』労使関係」、岡崎哲二・奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、1993年、147頁)。   

>2 たとえば、JC・アベグレン『日本の経営から何を学ぶか』(占部都美・森義昭監訳、ダイヤモンド社、1974年)、エズラ・ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(広中和歌子・木本彰子訳、TBSブリタニカ、1979年)など。   

 

 

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