>現行教育最大の弊害は、主体性を喪失させることによって多くの人格破綻者と精神異常者を生み出していることである。> 個人主義をベースにした民主主義社会において、主体性を喪失することは、致命的なことである。
そうですね。個人が確立していなければ、民主主義は衆愚政治になりますね。
>個人主義社会では、自分の意志で、物事を判断していかなければ、生きていくことはできない。
日本人には、意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがないので、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。意思が無くては、意思決定はできない。物事を判断することは出来ない。生きてゆくことは難しい。
>ところが、主体性を喪失する事は、自分ではなにも判断できなくなることを意味する。>自分で決めなければならないのに、自分ではなにも決められない。>このような状況は、大変なストレスを生み出す。
そうですね。肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、意思というものを認められない社会の責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
>解消のしようがないストレスは、やがて人格を破綻させ、精神に異常をきたす。>子供達から、自信をなくさせ、自分の未来や可能性を信じられなくしてしまう。>これは、子供達から、夢を奪い取ることを意味する。>何よりも恐ろしい弊害は、教育によって、子供達が、何も信じられなくなることだ。>信じることすら、できなくなることだ。
そうですね。江戸時代の矛盾に戻るようなものですね。
(略)
>何を信じ、どう生きたらいいのかを教えず、しかも、民主主義社会で生きていくために最低限必要な知識や礼儀、技術も与えないまま、子供達を社会へ放り出しているのである。>これは、泳げない者を、浮き輪も与えないで、大海原に放り出すのに匹敵する。>それが現行の教育である。
序列社会に子供たちを送り出すためにも、処世術を授ける教育が必要ということですか。
>さらに、教育の現場も主体も分裂していて、その間には何の脈絡もない。>子供達は、家庭と学校、一般社会、そして、仲間の社会、それぞれに、価値観、行動規範を使い分けなければならない。
日本社会に一貫した序列秩序を確立する必要があるということですか。
>これでは、アイデンティティ(自己の同一性)は保てない。
日本の社会は序列社会である。だから、日本人は時と所によって、自分の態度を大きくしたり小さくしたりしなくてはならない。だから、自己同一性は保てない。つかみどころのない人間となる。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあって、’上と見るか・下と見るか’ の判断なしでは、正しい日本語を話すことできない。礼儀作法も、序列作法を骨子としているので、世俗の上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることは難しい。
>その結果が、自己の喪失である。>自己を喪失すれば自律的意志を維持することはできない。>行き着くところ、人格の破綻、人格の分裂である。
そうですね。つかみどころのない人間となります。
>問題は、現実の中にある。>我々は生きていく上で、まず一番に、その問題を見つけだすことが、求められる。
>そして、答えは、本来、結果が出す。>だとしたら、学問で大切なのは、問題を設定することであって、必ずしも答えを出すことではない。
考える人には、現実直視が必要ですね。問題があれば、考えることになる。
>学校や子供達の生活の場は、非日常的な空間である。>ところが、子供達にとって学校やテレビ、ゲームに取り囲まれた生活の場が現実なのである。>この様に、子供達の生活している空間と現実との乖離は、子供達から、非日常的空間と現実と区別する正常な感覚を奪い取ってしまう。>そして、非日常的な空間を現実と子供達に錯覚させ、現実を受け入れられなくしてしまう。>その結果、子供は、現実から分離され、非現実的、非日常的世界へ隔離されてしまうのである。>この様にして、学校やメディアは、無自覚に現実離れした人格を、作り出してしまっている。
学校は、子供たちの非日常的な ‘真空地帯’ の様なものですね。
>最も最低なのは、偏差値によって、すべても学童の序列を決めてしまっていることである。>偏差値によって、全人格を、決めつけとしまうような事は、即刻やめることだ。
そうですね。
>評価すべき事も曖昧な上、評価する基準や、方法も確立していない。>それでありながら、序列だけが、明確に決められてしまう。
序列メンタリティを満足させるのですね。世俗の上下は、日本人にとって大切な知識と考えているからでしょう。
>それによって、人生の進路まで決められてしまう。>これは、非道だ。>人倫の道にもとる。>人間として許されざる事だ。>何を、根拠にして、人に序列をつけるのか。
各人の人生は、個人個人で決めるものですね。日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから、日本人には、序列メンタリティが避けられませんね。序列昇進の楽しみがあるのですね。
>偏差値主義こそ、最も忌むべき差別思想である。>偏差値は、我が国の教育制度の非人間性を象徴している。
人間序列の公平さを期するには、同次元でなくてはなりませんね。それで、この同次元の序列争いが没個性的な励みを助長する原因になっています。反個人主義の輩を育てる温床になっているのでしょう。
(略)
>受験勉強期間というのは、人間の成長にとって大切な年代である。
思春期は人間の成長にとって大切な時期ですね。
(略)
そうですね。個人が確立していなければ、民主主義は衆愚政治になりますね。
>個人主義社会では、自分の意志で、物事を判断していかなければ、生きていくことはできない。
日本人には、意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがないので、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。意思が無くては、意思決定はできない。物事を判断することは出来ない。生きてゆくことは難しい。
>ところが、主体性を喪失する事は、自分ではなにも判断できなくなることを意味する。>自分で決めなければならないのに、自分ではなにも決められない。>このような状況は、大変なストレスを生み出す。
そうですね。肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、意思というものを認められない社会の責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
>解消のしようがないストレスは、やがて人格を破綻させ、精神に異常をきたす。>子供達から、自信をなくさせ、自分の未来や可能性を信じられなくしてしまう。>これは、子供達から、夢を奪い取ることを意味する。>何よりも恐ろしい弊害は、教育によって、子供達が、何も信じられなくなることだ。>信じることすら、できなくなることだ。
そうですね。江戸時代の矛盾に戻るようなものですね。
(略)
>何を信じ、どう生きたらいいのかを教えず、しかも、民主主義社会で生きていくために最低限必要な知識や礼儀、技術も与えないまま、子供達を社会へ放り出しているのである。>これは、泳げない者を、浮き輪も与えないで、大海原に放り出すのに匹敵する。>それが現行の教育である。
序列社会に子供たちを送り出すためにも、処世術を授ける教育が必要ということですか。
>さらに、教育の現場も主体も分裂していて、その間には何の脈絡もない。>子供達は、家庭と学校、一般社会、そして、仲間の社会、それぞれに、価値観、行動規範を使い分けなければならない。
日本社会に一貫した序列秩序を確立する必要があるということですか。
>これでは、アイデンティティ(自己の同一性)は保てない。
日本の社会は序列社会である。だから、日本人は時と所によって、自分の態度を大きくしたり小さくしたりしなくてはならない。だから、自己同一性は保てない。つかみどころのない人間となる。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあって、’上と見るか・下と見るか’ の判断なしでは、正しい日本語を話すことできない。礼儀作法も、序列作法を骨子としているので、世俗の上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることは難しい。
>その結果が、自己の喪失である。>自己を喪失すれば自律的意志を維持することはできない。>行き着くところ、人格の破綻、人格の分裂である。
そうですね。つかみどころのない人間となります。
>問題は、現実の中にある。>我々は生きていく上で、まず一番に、その問題を見つけだすことが、求められる。
>そして、答えは、本来、結果が出す。>だとしたら、学問で大切なのは、問題を設定することであって、必ずしも答えを出すことではない。
考える人には、現実直視が必要ですね。問題があれば、考えることになる。
>学校や子供達の生活の場は、非日常的な空間である。>ところが、子供達にとって学校やテレビ、ゲームに取り囲まれた生活の場が現実なのである。>この様に、子供達の生活している空間と現実との乖離は、子供達から、非日常的空間と現実と区別する正常な感覚を奪い取ってしまう。>そして、非日常的な空間を現実と子供達に錯覚させ、現実を受け入れられなくしてしまう。>その結果、子供は、現実から分離され、非現実的、非日常的世界へ隔離されてしまうのである。>この様にして、学校やメディアは、無自覚に現実離れした人格を、作り出してしまっている。
学校は、子供たちの非日常的な ‘真空地帯’ の様なものですね。
>最も最低なのは、偏差値によって、すべても学童の序列を決めてしまっていることである。>偏差値によって、全人格を、決めつけとしまうような事は、即刻やめることだ。
そうですね。
>評価すべき事も曖昧な上、評価する基準や、方法も確立していない。>それでありながら、序列だけが、明確に決められてしまう。
序列メンタリティを満足させるのですね。世俗の上下は、日本人にとって大切な知識と考えているからでしょう。
>それによって、人生の進路まで決められてしまう。>これは、非道だ。>人倫の道にもとる。>人間として許されざる事だ。>何を、根拠にして、人に序列をつけるのか。
各人の人生は、個人個人で決めるものですね。日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから、日本人には、序列メンタリティが避けられませんね。序列昇進の楽しみがあるのですね。
>偏差値主義こそ、最も忌むべき差別思想である。>偏差値は、我が国の教育制度の非人間性を象徴している。
人間序列の公平さを期するには、同次元でなくてはなりませんね。それで、この同次元の序列争いが没個性的な励みを助長する原因になっています。反個人主義の輩を育てる温床になっているのでしょう。
(略)
>受験勉強期間というのは、人間の成長にとって大切な年代である。
思春期は人間の成長にとって大切な時期ですね。
(略)
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