>岡田正彦 Masahiko Okada, MD, PhD >新潟大学名誉教授(医学博士)
>令和4年1月10日改訂>連絡先 >携帯 090-8257-9756 >ファックス 03-3898-5001 >メール masahiko602@gmail.com >(お便りが多く、ご返事に1週間ほどかかっています。 >docomoやezwebへの返信がエラー になり戻ってきています) >先週1週間の総アクセス回数 14,914
>(2022.1.3) >NEW!
(略)
>(4) 地方紙が伝えた真実とは? > 読者から貴重な情報をお知らせいただきました。 >2021年12月29日付けの北陸中日新聞に、『コロナワクチン接種 13日後死亡』という見出しのついた大きな記事が掲載されたという話題です。 >大勢の方々に読んでいただきたい内容なのですが、残念ながらデジタル版の記事は見当たりません。
副作用というのか、目的の作用以外の作用により命を落とす不幸な人もいますね。
>72歳の女性が2回目のワクチン接種後、脳出血で亡くなり、診断書に血小板減少症の文字が記載されていたという情報とともに、「健康だったのに」との、ご家族の悲痛な思いが綴られた記事でした。 >このような主旨の記事が新聞に掲載されたのは、おそらく全国で初めてではないでしょうか。
戦争で戦死者が出るようなものでしょうね。
>NHKスペシャル『原爆初動調査 隠された真実』で、「無知学」という言葉を知りました。 >番組の内容は、広島、長崎に原爆を投下した直後に米軍が行った調査がテーマで、爆発による直接の被害ではなく、残留放射線が健康に及ぼす影響を調べたものでした。 >調査の結果、深刻な影響が出ていることがわかり、報告書を司令官に提出したところ、「なかったことにせよ」との命令が下されたのです。 >残留放射線による健康被害が知られてしまうと、国際社会から非難を受け、米国の核開発にブレーキがかかってしまうからという理由でした。
それは核開発を進めようとしている人たちの利益を守ることですね。その方針が時の政治家の政治目的でしょう。彼らは何も真理の探究を行っているわけではありませんからね。
>米国の歴史学者によると、これこそ無知学の典型例なのだそうです。 >つまり、利益を享受する一部の人たちにだけが有利となるような、偽りのデータや情報を流布させたり、隠ぺいしたりした国家規模の事件だったからです。
それは政治家の仕事でしょうね。いかにして民の力を自己の政治哲学に利用するかでしょう。世の中を平らかに保つことが彼らの目的ですからね。ただ、彼らの努力が真理の探究につながらないところが玉に瑕ですね。
>残留放射線という言葉を「ワクチンの副作用」に置き換えれば、いま起こっていることとまったく同じ出来事です。
そうですね。ワクチンの開発を進めようとしている人たちの利益を守ることですね。それが時の政治家の政治目的ですね。世の中を平らかに保つことが彼らの目的ですね。ただ、彼らの努力が真理の探究につながらないところが玉に瑕ですね。
>無知学の対象とさせないため、改めてジャーナリズムの奮起を期待するものです。
そうですね。だが、我が国のジャーナリズムには奮起は無理でしょうね。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>*脚注
> 無知学 (agnotology)とは、"how we know" to ask: why don't we know what we don't know?(われわれが知らないことを、なぜ知らないのか、極めていくこと)とされている。
無知学は政治家の努力の内容を知ること主ですかね。すなわち、’嘘も方便’ ということわざの事例を調べることですかね。
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